TLSにおけるエピソード至上主義

0 はじめに

 本稿は、トゥルーラブ・ストーリーの一連のシリーズ、すなわち、無印TLS、TLS−R、TLS2、TLS3、TLS−Sについて、主に萌えを喚起するシステムのデザインの観点から考察を加えるものである。ただし、無印TLSとTLS−Rの異同については本稿では扱わない。基本的に、公式の決定版であるTLS−Rに準拠して論じる。とくに断りなくTLSと表記した場合、TLS−Rを指す、と解していただきたい。また、以下、上記作品についてのネタバレが含まれるので、注意されたい。

1 ギャルゲーを批評するということ

 本題に入る前に、そもそもギャルゲーやエロゲーを批評するとはいかなることか、を考察しておこう。
 注意すべきは、ギャルゲーの評価基準は他のゲームとはまったく異なる、ということである。普通のゲームは、やっている最中に楽しいかどうかが評価の基準になる。しかし、ギャルゲーは異なる。よいギャルゲーかどうかは、やり終わったあとにどれだけ妄想が溢れるかによって決まるのである。ギャルゲーは、やり終わったあとの萌えで評価される。プレイ中の楽しさは、少なくともオタク的なギャルゲー評価においては本質的ではない。
 我々の以下の批評も、常に、エンディングを見たあとにどれだけ萌えるか、という観点から行われる。このあたり、拙論「オタク道」の「妄想以外のオタク的行為」の議論も参照されたい。

2 萌えの喚起機制

 萌えが喚起される機制はどのようなものか。確認しておこう。
 拙論「萌えの主観説」で指摘した我々の大原則は、萌えはエピソード単位で喚起されるというものである。
 そもそも、萌えが喚起される過程は、以下のようになっていると思われる。
 第一に、オリジナルの作品から、あるキャラについて、いくつかの萌えるエピソードが与えられる。
 第二に、そのエピソードから、キャラ立て読解が行われる。すなわち、そのキャラがどのような属性なのかが妄想される。キャラ立て読解については拙論「オタク道」の「妄想とはなにか」を参照されたい。
 第三に、キャラ立て読解に基づいて、オリジナルにはない脳内エピソードが妄想される。
 このような妄想過程が引き起こすのが、萌えの快楽である。このとき、作品に要求されるのは、とにかく萌えるエピソードを積み重ねる、ということ以外にはない。あとはオタクの側の妄想がすべてを行う。こういうわけで、萌えはエピソード単位で喚起される、ということになるわけだ。個別のエピソードの良さがすべて。諸エピソードを貫くストーリーの良さは二次的な重要性しかもたないのである。

3 ノベル形式の位置づけ

 ところで、現代ギャルゲー、とくにエロゲーの基本形は、ノベルである。ノベルはストーリー性を盛り込むのに適した形態であろう。しかし、私見では、ノベル形態が採用される最大の理由は、簡単につくれる、という経済性である。泣きや燃えなどを追及するのでなければ、ノベル形態を採用する必然性は他にはないと思われる。
 もう少し強く言えば、ストーリー性は、不要なだけではない。妄想に手間をとらせる場合がある。拙論「オタク道」の「オタク的物語とはなにか」で指摘した、連作可能性という論点を想起されたい。オリジナルの物語のストーリー性が強すぎると、そこに脳内妄想を挟み込む余地が少なくなってしまう。そうなると、エンディング後に妄想を差し挟むか、状況設定から妄想し直すかしなければならなくなる。妄想に一手間余計にかかることになるのだ。多くのストーリー重視のノベルゲーが、トゥルーエンドとハッピーエンドの二本立てになっているのは、ここに理由をもつ。ストーリー性を極限まで追求したトゥルーエンドは、オタクの妄想をかなり難しくする。自由な妄想の範囲が制限されているわけだから。そこで、ストーリー性の縛りを緩めたハッピーエンドを他に用意し、エピソード単位での萌え読解について、便宜を図っているわけだ。

4 TLS・・・エピソード至上主義

 萌えにはストーリーは不要である。萌えエピソードだけあればよい。
 そして、無印TLS&TLS−R(以下TLSに統一)は、まさにそのようなシステムデザインになっている。なかよし度あこがれ度に対応した緩い秩序はあるが、TLSのエピソード、すなわちイベントは基本的に個々独立のものである。下校会話の個々の会話についても、同じことが言えるだろう。推奨される順番はあるが、基本的には、どの話題をいつ選んでもかまわない。会話の一つ一つが独立の小さな萌えエピソードとして解釈できる。
 TLSにストーリーやドラマはない。ただ知り合って、学校で何回か会って、一緒に帰って、遊びに行って、彼氏彼女になりました。これだけである。とくに脈絡のあるわけでもない日常のエピソードの積み重ねだけ。そして、これがまさに萌えを喚起する方向性として、正解なのである。
 TLSは、徹底して独立した萌えエピソードの集積体なのである。
 ただし、エピソードがあまりにも雑多でバラバラでありすぎても、収拾がつかなくなってしまうだろう。ストーリー性とまではいかなくても、全体にまとまりをつけてくれる、アクセントとしてのエピソードが欲しいところだ。
 TLSにおいて、この役割を担っているのが、転校エンディングである。これまで積み重ねてきた様々なエピソードが、転校という一点ただそれだけにおいて収束する。転校以外にエピソードをまとめる軸はない。必要ないから。萌えの観点からして、非常に簡潔かつ合理的な構成と言えよう。

5 TLS2・・・イベントのチェーン化

 こういうわけで、私はTLS2で導入された特定キャラについてのエピソードの完全チェーン化は、端的に改悪である、と考える。ストーリーを語りたければノベルをつくればよいのだ。先に確認したように、TLSのシステムは、エピソードを畳み掛ける手法でこそ、そのポテンシャルを最大限に発揮する。ここに無理矢理ストーリーを捻じ込もうとすると、破綻が起きる。
 TLSおよびTLS2のシステムは、エピソードの取り逃がしが発生しやすいものである。TLSの場合、萌えエピソードは相互に独立であるから、これはあまり問題にならない。発生しないエピソードがあってもよいのだから。しかし、TLS2のチェーンは、当然のことながら取り逃がしを許さない。そのため、どうもプレイが窮屈になる。そのうえ、下校会話が曲者で、下校時のエンカウントのランダム性が障害となる。中里佳織および瑞木あゆみ攻略を想起されたい。ただ運が悪かったために攻略難航、という事態が多々起こってしまう。
 もちろん、攻略が難しいということそのものは悪いことでもなんでもない。しかし、それがゲームとしての面白さにあまり寄与しないままに、萌えの喚起にマイナスの影響を与えてしまうというのは、やはりまずい。
 ストーリー性を盛り込むこと自体も悪いわけではない。エピソード至上主義に基づくTLSのシステムとの相性の問題である。エピソードさらに、至上主義とストーリーの語り、この水と油の二契機の統合には、もう少し何かの工夫が必要だったのではないか。
 ただし、先にも述べたが、ギャルゲーは、やっている最中の楽しさではなく、やり終わったあとの妄想で評価されるべきだ。セーブ&ロードの繰り替えしを要求するTLS2のゲームとしての出来には疑問符がつく。しかし、ギャルゲーとしての評価はそれでも一定の高さを保つ。萌えるんだから仕方ない、というわけだ。

6 TLS3・・・リアリズムの敗北

 TLS3は端的に言って散漫である。新規に導入した要素が、ことごとく的を外した結果である。
 萌えはエピソード単位で喚起される。ということならば、萌えを強めるためには、エピソードを緊密に畳み掛けることが有効であろう。TLSおよびTLS2は、ゲーム内の時間を一ヶ月たらずに限定することにより、これを行っているわけだ。ところが、TLS3はゲーム内時間を一年に大幅拡大してしまった。これがどうにもエピソードがスカスカであるとの印象を与えてしまう。そのうえ、TLS3は、エピソードの連鎖の最後を締めるべき転校エンディングも放棄してしまった。これもまた、散漫な印象を加速する。
 萌えのためには、エピソードを畳み掛けねばならない。そのためには、リアルさを犠牲にしてもかまわない。転校する一ヶ月の間にテストと体育祭と誕生日がある、というのは、変といえば変だ。しかし、それでいいのだ。萌えるかどうかが重要なのだから。TLS3は、一年間の中学生活をリアルに描こうとするあまり、萌えを犠牲にしてしまったようだ。
 TLS3の場合、TLS2とは異なり、システム面での欠陥が萌えに影響を及ぼすまでに至っていると思われる。

7 TLS−S・・・原点回帰の兆候

 そして、現在のシリーズ最新作、TLS−S(以下サマデと略記)である。
 TLS3での迷走が嘘のように、原点回帰が行われ、エピソード至上主義が高いレベルで貫かれている。
 今日の目標システム、話題レベルアップシステム、終わらない夏設定等々、大幅な改訂がなされてはいるが、エピソード至上主義の原則が崩れていないので、まったく違和感がない。とくに、終わらない夏設定は面白い。TLS2で指摘したイベントのチェーン化とランダム性の二律背反を解決するために、時間の観念を廃棄してしまったわけだ。力技だ。萌えのためにはリアリズムなど不要という、TLS3が忘れていた思想がここにある。
 しかし、サマデにも欠点がある。エピソード至上主義を採用したにもかかわらず、どこかドラマ性への色気を消しきれなかったところがあり、それが失敗しているのだ。それは、システムというよりもシナリオに現れている。複数のシナリオが、オチをクライマックスのイベントでヒロインに長台詞で説明させてしまっているのだ。終わらない夏設定の導入に伴い、転校エンディングを捨てたため、何かまとめのアクセントエピソードが必要になったという事情は理解する。しかし、やり方が稚拙にすぎはしないか。他にどうにかならなかったのだろうか。まあ、本稿はシステム面からの考察が目的なので、この論点は指摘するだけにとどめておく。

8 おわりに・・・TLS4という未来へ

 以上、トゥルーラブストーリーの一連のシリーズを、エピソード至上主義という切り口から解析してきた。
 TLSシリーズの評価としてはとくに新規なところはないが、エピソード至上主義という切り口による整理の有効性を感じていただければ幸いである。
 萌えを追求する、ということは、まともな物語の作法からを外れることを、少なくとも、それを無視することを意味する。ストーリーの起承転結など気にするな。インパクトのあるエピソードを串団子のように並べ立て畳み掛けろ。諸エピソード間に繋がりなど不要。最後にいかにもエンディングらしいエピソードを付け加えれば、それでいい。あとはオタクの側の妄想がなんとかする。というより、オタクの側の妄想の余地がなければ駄目なのである。
 語り残したことはない。あとはただただTLS4、TLS4を待ち望むだけである。サマデはあくまでサマデ。4のための布石。それも松田浩二でいつか4をつくってほしいのだが。高山箕犀も悪くはない。というか、松田絵のなんともいえない助平さを受け継いでいて大変によいのだが…こういうのは年寄りの愚痴になってしまうのだろうか。

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