萌え語りの論理と倫理

はじめに

 本稿のそもそものテーマは、アニメ版『極上生徒会』の魅力について語ることにあった。しかし、結局のところ、「オタク道」における私の見解を具体化しつつ、「オタクはどのように作品に向かうべきか」を考え直す、という作業が長くなって、一本の独立した論考になってしまった。
 どうにも不出来な『極上』を肯定的に語るという難題のためには、原理的な立場に一度立ち戻って考え直す必要があった、ということでもある。

批評するな、妄想せよ

 「オタク道」における私の立場は、「オタクは批評をするな、妄想をせよ」という主張に尽きる。
 これは、「オタクは、作品について語るのではなく、キャラについて語れ」ということである。
 基本的に、批評とは、ある作品について語るものである。しかし、それは私の定義するオタクのやるべきことではない。オタクは、キャラについて妄想し、キャラについて愛を語るべきなのだ。
 注意していただきたいのだが、別にアニメ批評やゲーム批評が不毛な営みだと主張しているわけではない。興味深い仕事もあることは認める。やりたい人はやってくれてかまわない。そもそも、このサイトで私が書いているテキストはからして批評よりのものが多い。しかし、批評でオタクの語りの本質がすべて説明された、と考えるのは勘違いである。私の考えでは、妄想にこそ注目すべきなのだ。

オタクは批評を超越する

 一般にヌルい子たちは「叩き」を好むものである。「叩き」は批評の劣化形態と捉えられなくもない営みであるが、まああまり論じるに値しないと思われるので、無視する。
 ここでは、オタクがマトモな作品批評をする意味について考えてみる。
 たとえば『極上生徒会』の作品としての出来はあまりよくない。声優陣は豪華で安定しているが、シナリオも演出も作画も駄目な回が多い。それは誰でもわかることであり、私も同意する。
 ただ、ここでけっして採るべきではない態度があることに注意しなければならない。「だからこの作品は見ても無駄」という結論に飛びつくべきではないのである。
 批評の観点からのみ作品を評価すると、結局のところ、オタク以外に見せても恥ずかしくないもののみが高評価を得ることになりがちである。それはすなわち、アニメ批評であれば、宮崎駿とか押井守とかいった名前を出していって語るとか、『クレヨンしんちゃん』映画版をキモチワルイくらいに褒めちぎるとかいうことになりがち、ということである。
 しかし、それはなにか違う、と私は思うのであるよ。明らかにオタクの実際の営みにそくしていない。「宮崎や押井は凄い」系の言説は、安易な「叩き」と異なり、理屈はとおっている。というより、端的に正しい。しかし、それをことさらに言い立てる行為に、私はどうにも違和感を覚えるのだ。それは結局、芸術や映画の批評みたいなものを「正しい」「立派な」「教養ある」アニメの語り方の範型と考える、鹿鳴館根性ではないのか。(まあ宮崎や押井の語り方にもいろいろあるわけで一概には言えないが。)そんなに批評家を気どった語り方とは素晴らしいものなのか。世間様に賢いと思われることがそんなに大事なのか。
 オタクならではのオタクにしかわからない面白さを嗅ぎ分けて語ってこそのオタクではないのか。
 そして、私の考えでは、それはやはり、キャラに着目することによってのみ達成されるのである。キャラ萌えもしくはキャラ燃えといった、妄想の原理に基づいて作品から快楽を引き出す営み、ここに定位してオタクは語るべきなのだ。
 もちろん、批評もきちんとできなければならない。作品として優れているかどうかを見る目も必要だ。それは強調してもしきれない。
 これを認めたうえで、私はあえて言いたい。それはたんなる出発点にすぎない。そのうえで愛のつまった妄想を語り始めることにより、人はオタクとなるのだ、と。まったく作品について批評や解釈ができず萌え萌え言うだけのオタクは駄目だ。ヌルい。しかし、作品について賢しげに語るばかりで妄想のない批評家もお呼びではないのである。

萌えをどのように語りあうか

 キャラについての妄想をこそ語れ、という主張を提示した。では、それはどのような形でなされるのか。オタクであれば呼吸するようにやっているはずのことであるが、改めて反省して整理してみたい。『極上生徒会』が出発点なので、「萌え」に絞って考える。これは、「オタク道補論・妄想の二つの原理」で述べたように、「燃え」が不可避的に批評の契機を必要としてしまうことにもよる。
 「萌えの主観説」で述べたように、萌えとは主観的なものである。それはすなわち、萌える萌えないといった話は、作品についての評価というよりは、オタク当人の嗜好の表明と解すべきだ、ということである。
 ただし、ここで注意すべきは、主観的な嗜好の表明ということが、合理性の審級のもとでの論争の不可能性を意味しない、ということである。萌えについての論争は以下のようなかたちを採る。
 批評において「この作品はよくできている」と言う場合には、「いや違う、それは駄作だ」と反論することに意味がある。批評は作品について語るものだからだ。
 しかし、萌えの主張において「この作品は萌える」と言う人に、「いや違う、それは萌えない」と反論しても意味はない。「君は萌えていなくても、私は萌えているのだ」と返されたら終わってしまう。これは不毛だ。
 そうではない。萌えの主張に反駁する場合は、「君の萌えは浅薄だ」とか「君の萌えはセンスが悪い」とかいった語法を使わねばならないのである。
 萌えの対象となっている作品そのものではなく、萌えを感じるオタクのあり方が論争の主題になるのだ。
 これは、別の角度から言えば、萌えの語りは「作品の萌えポイントの分析」と「自らの萌えの嗜好の分析」の二つから構成されねばならない、ということである。どちらが欠けても、独りよがりな萌えの告白で終わってしまう。二つをきちんと語ることで、主観的でありながら他人と語り合うことが有意味であるような萌えトークが成立するのではないか。

キャラ立て読解における寛容の原理

 さて、こんどは、萌えを語る際の作品の読み方について、より具体的に考えてみたい。
 私が思うに、萌え妄想においては「なるべく寛容に作品を解釈する」という読み方が好ましい。
 妄想と批評は異なるのであるから、キャラに萌えるかどうかと作品が優れているかどうかは別だ、と述べた。しかしながら、普通考えれば、駄目な作品は萌えないものである。ところが、オタクはそこに萌えを見出してしまうのだ。ここには、オタク独特の作品の読み方の作法があると思われる。
 多くのオタクは、物語から萌えるエピソードだけを取り出し、萌えないエピソードについてはなかったことにする、という読み方をしているのではないか。なるべく寛容に、いいとこどりで作品を読んであげるわけだ。そして、失敗した部分には目をつぶるのである。
 私がここで見習うべきだと思うのは、たとえば『サクラ大戦』シリーズ愛好者の方々である。このシリーズ、毎回毎回「『サクラ大戦3』にみる自分で言っちゃあおしまいよ理論」で指摘したような過ちを性懲りもなく繰り返している。たとえば最新作の『サクラV』を不寛容に、つまりは精確に読むならば、そこに魅力的なキャラなぞは一人たりとも存在しないとさえ言えるのだ。
 しかし、『サクラ大戦』愛好者には、そこで踏ん張って、意識的にか無意識的にか、とことん寛容な読み方をすることができる人が多い。たまにあるよくできたエピソードを拾い集め、それを好意的に好意的に解釈し、「実際には描けていないんだけれども、こう描きたかったんであろうキャラの姿」を魅力的に妄想し、萌えることができている。
 『サクラ大戦』にかぎらず、「作品の出来としては平均的、もしくは平均以下であるが、キャラ萌えはある」とオタクが言う場合には、だいたいこのような寛容な読み方を行っているのではないか。
 もちろんこれは批評としては失格の態度である。作品を正しく読んでいないわけだから。しかし、妄想は批評ではないのだから、それで非難するのはお門違いというものである。あえて寛容な解釈をして凡作駄作すら楽しめる、というのは、オタクの重要な能力なのだ。さらに、好意的な解釈が上手い人の妄想は、他のオタクにとってもたいへんに楽しいものになりうる。
 もちろん、逆に言えば、寛容な読みに基づく妄想で楽しめたからといって、作品が優れていることにはならない。そこを取り違えると、イタい信者ができあがる。また、妄想のみで語ることは、才能がない制作者、手抜きの制作者を甘やかすことにもなってしまうだろう。駄目な作品は駄目、と批評の現場で言っておくことも大事なのは、言うまでもない。
 さらに、忍耐の許容量には個人差があるわけで、具体的なところで判断が異なることももちろんある。たとえば私にとって『サクラ大戦』シリーズはかなり寛容さの限度を超えかけている。その他諸々の萌え狙い駄作アニメや漫画なんかは、私にとってはもうまったく耐えられない。ただ、もしかしたらその駄作を楽しめるオタクもいるかもしれない。そして、それはそのオタクがヌルいからではなく、寛容に解釈する度量が私より広いからかもしれないのだ。私が萌え狙い駄作一般を蛇蝎の如く嫌いつつも、あまり実例を挙げないのは、この個人差を考慮してのことである。
 まとめよう。一般論としては、やはり寛容に読んで萌えを楽しむ、という態度ができない人間はオタクとしては今ひとつ、と言えるのではないか。毒舌や辛口などの態度は偉そうに見えるが、実はオタクとしては未熟さの表れであったりもするのである。

おわりに

 ここまで理論武装しておけば、これからは安んじて駄目アニメや駄目漫画や駄目ゲームに萌え萌え言うことができるだろう。
 胸をはって凡作駄作にどっぷり浸かって非生産的な萌えトークを垂れ流す下品な人生を送ろうではないか。それがオタクである。そして、それはとても楽しいものなのだ。

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