大人漢燃え小説版

 私はかつて「なぜ子ども向けなのか」において「子ども向け」であることと「燃え」の連関を指摘しておいた。
 しかし、そこでも書いておいたが、別に「燃え」は子ども向け作品においてしか成立しえないわけではない。
 「子どもにゃわからん燃え」ももちろんあるわけだ。

 じゃあ「大人漢燃え」とはたとえばどんなものなのよ、と問われれば、私は次のように答える。
 「無意味なことを無意味だとわかっていてもやる」、これだ。
 これが「大人漢燃え」の核心の一つなのではないか。

 ベタで申し訳ない。
 レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を思い出してもらいたい。
 自ら命を絶った友人の遺書の一節にこう書いてあった。
 「…こんどコーヒーをわかしたら、ぼくに一杯ついで、バーボンを入れ、タバコに火をつけて、カップのそばにおいてくれたまえ。それから、すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを。では、さよなら。」
 そして、だ。
 それを読んだフィリップ・マーロウは、なんの意味もないのに、そのとおりにするのだよ。
 二つのカップにコーヒーを入れて、一方にだけバーボンを加え、タバコに火をつけてカップの脇に置くのよ。そして、タバコの火が消えて、コーヒーが冷めたら、そのまま捨てるのよ。
 無意味きわまりない行為である。しかし、それをわかっていながらやるのだ、マーロウは。あまりにも有名なシーンなので言うのも恥ずかしいのだが、私はここが大好きでねえ。まさに「無意味なことを無意味だとわかっていてもやる」姿に痺れてしまうのだ。

 では、どうして無意味なことをするのか。そう問われたらどう答えるのか。一つの答えをみてみよう。

 さらにベタで申し訳ない。
 ジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』を思い出してもらいたい。
 クルト・シュタイナが、リーアム・デヴリンが行おうとする作戦は、最初から無駄、無意味だとわかっているものなのよ。
 でも、彼らはそれに命を賭けるのだ。
 「それなら、なぜ行くのだ?」と問われてシュタイナが返す答えが、「なんとしても、それ以外の途をとることができないからだ」。
 理由になっていない。でもね、そこでどうしても魂が震えてしまうのだ。
 そして、リタァ・ノイマンとともに、読者である我々もシュタイナに言いたくなってしまう。
 「あなたの部下であったことは、無上の光栄です」とね。

 シュタイナの言葉だけではわかりにくいので、もう一つ答えの例を挙げてみよう。

 またまたベタで申し訳ない。
 ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』を思い出してもらいたい。
 状況は異なるのだが、やはり、どうしてそうしたのか、という問いにたいしてルイス・ケインの与える答えはこうだ。
 「…おれが別の人間だったら、もっといい方法を思いついたかもしれん。しかし、これがおれのやり方なんだ」。
 先のシュタイナの言葉と突き合わせてみよう。無意味かもしれないが、そうするしかない。それ以外の途はない。なぜなら、それが「おれのやり方」だから。こうなる。

 つまり、こういうことなのだ。
 「自らの生き様を誇りをもって貫く」ことの「燃え」は「子ども向け」にもある。しかし、「子ども向け」は普通、「自らの生き様を誇りをもって貫く」ことが「勝利」を導く、という構図をとる。
 これはこれで悪くない。だが、誤解を招きやすいこともたしかだ。「自らの生き様を誇りをもって貫く」ことが「勝利」のための手段として解されてしまう危険性があるのだ。そうではないだろう。「勝利」に結びつくからそうするわけではない。「自らの生き様を誇りをもって貫く」ことは、結果のいかんにかかわらず、それだけで燃えるものなのだ。
 「大人漢燃え」が「無意味なことを無意味だとわかっていてもやる」さまを描くのは、ここを強調するためではないか。

 これまたベタで申し訳ない。
 アリステア・マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』のラストのラストを思い出してもらいたい。
 グジャグジャに大破した瀕死のユリシーズ号が、ターナー副長の指揮下、圧倒的な敵に最後の突撃をする、あのシーンだ。
 そこで、だ。ユリシーズ号が巨大な旗をひらくのだ。戦闘旗を。
 なんの意味もないのに。

 「戦闘旗だ」オーがつぶやいた。「ビル・ターナーが戦闘旗をひらいたか」彼はあきれたようにかぶりをふった。「いまあんなのんびりしたことを――ま、ターナーでなきゃやらんことだ。きみは、彼とは懇意だったのか」
 ニコルスは無言でうなずいた。
 「おれもだ」とだけ、オーはいった。「おれもきみも、運のいい男だ」

 「無意味なことを無意味だとわかっていてもやる」誇り高き男を友とすることができた。だから、「おれもきみも、運のいい男だ」。
 何度読み返しても鳥肌が立つ。
 これなんだよ。これが「大人漢燃え」なんだよ。

 「無意味なことを無意味だとわかっていてもやる」。
 無意味さのなかで自分の生き様を貫くわけさ。
 それが自分の生き方だから、別の生き方を知らないから、誇りをもってそうするのだ。
 そして、私が思うに、すべてが無意味だとわかってしまっても己を貫けるからこそ、タフであるのに限りなく優しくなれるのだ。

 最後もベタで申し訳ない。
 ジェイムズ・クラムリーの『酔いどれの誇り』のラストの一言、「そしてビールを飲み、彼女を許した」を思い出してもらいたい。
 裏切られ、ボロボロに傷ついても、それでも、それでも許すのだ。
 それが自分のやり方だから。
 酔いどれて読み直すとここもまた沁みるんだよなあ。

 これらは、「子ども向け」にはない、子どもにゃわからない「燃え」のあり方だと思うのだが、どうだろうか。

 引用はすべて下記の翻訳によった。
レイモンド・チャンドラー、『長いお別れ』、清水俊二訳、ハヤカワ文庫、1976年。
ジャック・ヒギンズ、『鷲は舞い降りた』、菊地光訳、ハヤカワ文庫、1981年。
ギャビン・ライアル、『深夜プラス1』、菊地光訳、ハヤカワ文庫、1976年。
アリステア・マクリーン、『女王陛下のユリシーズ号』、村上博基訳、ハヤカワ文庫、1972年。
ジェイムズ・クラムリー、『酔いどれの誇り』、小鷹信光訳、ハヤカワ文庫、1992年。

 O谷くん、ベロベロに酔っ払って君と交わしたハードボイルド論がたいへん刺激になりました、ありがとう。

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