萌えの主観説

はじめに

 拙論「オタク道」において、我々はオタクを妄想という観点から考察した。
 その際、我々は、妄想の具体的内実については深く立ち入ることを避けた。オタクについて大きな見取り図を描くことが目的であったからだ。しかし、今やオタク的活動の規定について、より精緻に理論を構築すべき段に至った。
 まず、萌えについて暫定的な考察を行うことにする。
 議論が抽象的になりすぎることを避けるため、いくつか具体的な作品にも言及したが、その際ネタバレは極力抑えた。しかし、一応注意を喚起しておく。また、成人向け作品も扱ったので、これにも注意されたい。

萌えの定義

 妄想の定義を確認しよう。妄想とは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすることである。詳細は拙論「オタク道」における「2 妄想とは何か」を参照されたい。
 さて、この妄想の展開を、動因たる欲望の種別に応じて二つに区別できる。一つは、バトルやヴァイオレンス関連の欲望を主に原動力とするもの。もう一つは、ラヴやエロ関連の欲望を主に原動力とするもの。前者の論理が「燃え」であり、後者の論理が「萌え」である。
 すなわち、萌えとは、ラヴやエロ関連の欲望を原動力とする妄想行為を規定する論理、ということになる。
 ここで強調しておきたいのは、萌えにはキャラ立て読解が先行する、という規定、また、萌えはつねに妄想行為に伴うものである、という規定である。多くの萌えの定義の試みが失敗するのは、妄想という契機に気づいていないからだ。萌えは妄想の一展開としてのみ、十全な理解を得る。
 一部の論者たちは、原動力の契機にだけ目を奪われて、萌えをたんなる愛情や欲望の表現の一形態と捉える。これはまったくの誤りである。「Xに萌える」ということは「Xを愛する」や「Xを欲望する」とは根本的に異なる事柄なのだ。繰り返そう。妄想への配視なくして、萌えは理解できない。

萌えの主観説

 以上の定義は一見抽象的なもののように思える。しかし、この段階で、既に我々は重要な洞察を確保している。それは以下のことである。
 萌えとは、オタクが行う能動的行為である。作品ないしキャラクターのもつ性質ではない。ソレに萌えるオタクの存在なくして、萌えキャラ、萌え作品などは存在しない。逆に言えば、どのような造形のキャラ、どのようなジャンルの作品であろうと、そこに萌えるオタクがある限り、萌えは成立する。
 萌えは主観的なものである。客観的な萌えなど存在しないのだ。
 ところが、である。現在、この基本原理が見失われている。萌えの現場では、萌えキャラ、萌えアニメなどという表現が多用されている。このような表現は、あたかもキャラや作品そのものに萌えという規定が客観的に属しているかのようであり、誤解を招きやすい不適切なものなのである。
 もちろん、作品について萌え読みをしやすいかどうかを語ることはできるし、キャラについて萌え妄想をしやすいかどうかを語ることもできる。「オタク道」で挙げた「キャラの立ち」や「連作可能性」などは、ここにかかわる要素である。
 しかし、強調したいのは、あくまでこれは萌え読みの「しやすさ」でしかない、ということだ。たんなる読解様式との親和性から、「こうしか読めない」「こう読むべきだ」といった客観的な規定や規範は導けない。そもそも、どの作品を萌えで読もうが、オタクの自由である。さらに、萌えを最終的に決定するのは、作品のもつ親和性ではなく、オタクの側の読解力や属性の嗜好であることにも注意すべきだ。
 やはり、萌えは主観的である、ということは揺らがない。
 こういう次第で、作品やキャラの歴史から萌えを位置づけようとする試みも、必ず失敗する。よくある「最初の萌えキャラはなにか」などという問いには意味はない。歴史的な問いを立てるのであれば、「人が最初にキャラに萌えたのはいつか」と問わねばならない。
 上手くない比喩だが、「写真の被写体とはなにか」を問うときには、「人が写真を撮るのはいつか」を考えねばならないのと同じことだ。「被写体である」という性質を備えたモノやヒトを探す馬鹿はいない。被写体であることは対象の客観的な規定ではないからだ。同様に、「萌える」という性質も作品やキャラの客観的な規定ではないわけだ。

萌え力の貧困

 では、なぜこのような不適切な表現が流通してしまったのか。
 これは、端的にオタクの側の能力の貧困化を示唆するものである。
 萌えとは本来、主観的かつ能動的なものである。これは、何に萌えを見出し、何に見出さないかが、そのオタクの個性と能力を示すということを意味する。
 作品について、自分なりの角度から自分なりの萌えキャラを読み取り、それを説得的に他者にたいして語ることのできること、これこそ、オタクのスキルとセンスの発揮のしどころである。
 しかし、現代の未熟なオタクたちは、萌えキャラ、萌え作品として与えられたものに、予定調和のように萌え、萌えと繰り返すばかり。あたかも客観的に萌えなるモノがそこにあるかのように、受動的に消費を行うだけ。そこにオタクとしての誇りなど微塵も感じられない。
 これは本来の萌えではない。
 萌えはクリエイターの論理ではなく、オタクの論理である。オタクは、萌えの主導権を自らの手に取り戻さなければならない。
 また、逆に、クリエイターは萌えの論理を理解すべきであるが、それに媚びてはならない。萌えを狙うにしても、既存の文法を踏まえつつも、それを微妙にずらし差延を生じさせるような仕方で狙わねばならない。オタクをお手軽に萌えさせることのみを目的とした作品は、高い確率でオタク的に駄作となる。ラヴやエロの妄想を安易に誘うだけの作品は、結局のところ、優れたオタクの高度な妄想を喚起することはできないからだ。
 このように、萌えの主観説は現状に対する批判の根拠を与えるものでもある。

萌えは批評のための概念ではない

 そもそもオタクにとって作品の批評はその営みの本質をなすものではない。このことは「オタク道」の「4 妄想以外のオタク的行為」においてすでに論じておいた。もちろん萌えについてもこれは当てはまる。
 萌えの主観説によれば、萌えは、あくまで作品内のキャラクターを素材としてオタクが妄想することにより、成立する。
 このとき、作品やキャラを、質のよい妄想を展開させやすいかどうか、という観点から評価することは可能である。しかし、これが作品の評価基準としては非常に限定された観点であることは明らかだ。後に述べるように、萌え妄想のためは、ストーリーやプロットの良さは大して重要ではない。エピソードの質の良さのみが重要である。それゆえ、萌えだけから批評を行っても、作品そのものについて適切な評価をすることはできない。
 しかし、このことが萌え概念の欠陥を意味するものではないことは強調しておかねばならない。
 萌えはそもそも批評のための道具ではない。オタクの妄想の論理である。そして、妄想と批評はまったく別の営みである。萌えだけから作品を批評するのは、ハサミで釘を打つような愚かな行為である。さらに、萌えが批評にあまり有効ではないからといって萌えを攻撃するのは、ハサミで釘が打てないからといってハサミの存在意義を否定するのと同じくらい的外れである。
 萌えは、あくまで妄想という営みにおいて機能する概念なのである。

萌え妄想におけるエピソード中心主義

 萌えは、オタクの主観的な営みである。この基本テーゼは揺るがない。しかし、このことは、萌えの論理は作品ではなくオタクの営みにそくして分析されねばならない、ということを意味するのであって、萌えの論理が解析不能という帰結を導くものではない。
 萌えについては、以下の特徴が指摘しうる。すなわち、萌え妄想はエピソード単位で喚起されるのである。
 ある作品について、その全体を貫く大きな物語の流れを、さしあたりストーリーと定義しておこう。エピソードは、そのストーリーを構成する、より短い出来事についての記述としておく。
 萌えが喚起されるためには、当該のキャラについて、適切な萌えエピソードが与えられていればよい。ストーリーはどうでもよいのである。ストーリーがどんなものであれ、細かいエピソードが萌えるものであれば、キャラ萌えは成立するのである。萌えを成立させるためのオタクの読解行為がストーリーを重視しないからだ。
 これは、燃えとの対比を考えると理解しやすい。燃えは、エピソード単位では生じない。いくら個別の場面でカッコよくても、全体のストーリーにおいてヘタレであれば、そのキャラには燃えはない。ところが、萌えについては論理が異なる。萌え妄想は、大きな物語とは無関係に、個別の場面だけに即して展開可能なのである。このことは、萌えはまったり展開や串団子展開とも親和性をもつ、ということを示唆する。
 思いつくままに具体例を挙げてみよう。
 あずまきよひこ『あずまんが大王』、氷川へきる『ぱにぽに』、小林尽『School Rumble』と並べてみよう。海藍『トリコロ』でもよい。どれも一定レベルの萌え喚起力をもつ作品である。ここで、これらの作品すべてが強いストーリー連関をもたない複数のエピソードを積み重ねる、という構成を採用していることに着目されたい。これといったストーリーなどはない。しかし、それでいいのだ、萌えには不要だから。エピソードが適切でさえあれば、萌えには十分である。あとはまったり散漫とエピソードを緩く繋いでいけばよいのである。ここから、萌えとマターリ感は相性がいいことが理解できるだろう。
 こういうわけで、かなり芸風の異なる諸作品が、萌え喚起機制の観点から統一的に解釈されるわけだ。
 また、最近のエロゲーでは『姉、ちゃんとしようよっ!』などがよい例となる。この作品が萌えについて一定の成功を収めたのは、柊一家の日常エピソードを細々積み重ねることにより、キャラを立てていったゆえである。一方、シナリオはかなり粗のあるものであった。しかし、この欠陥が萌えを阻害することはなかったことに注目したい。ここにも、萌えはエピソード単位で喚起される、という理論の支持根拠を読み取ることができる。
 このように、萌えの観点からは、作品はエピソード単位で妄想の対象となる。これをオタク能力の角度から述べ直せば、萌えオタクには、エピソード単位での妄想能力しか要求されない、ということになる。
 他方、燃えオタクに要求される妄想能力は、これとは異なる。既述のように、燃えには大きくストーリー全体を把握することが必要だからだ。燃えも萌えも同じ妄想の論理であるが、差異を孕むわけだ。概括するならば、部分へ部分へと妄想する萌えに対して、部分へと向かいつつ全体を忘れず妄想する燃え、と言えようか。ただし、別にどちらが優れているというわけではない。たんに異なる文法をもつというだけだ。
 繰り返しておこう。萌えは、エピソード単位で喚起される。そして、これが作品の構成やオタクの能力にまで反映されることがあるのだ。

まとめ

 以上、萌えの論理について検討した。
 昨今、酷く凡庸な欲望を垂れ流すだけの作品や、そのキャラクターについて、萌え、という語を使用する場合が非常に多い。何度も強調したように、これはまったくの誤りである。
 優れた萌えは、オタクの優れた妄想なくして生じない。そして、優れた萌え作品とは、その優れた妄想を喚起する力をもつ作品のことを指す。お約束は、踏まえた上で破るためにある。手垢のついた記号的な欲望など、萌えには程遠いのだ。
 オタクであるかぎり、ラヴやエロの欲望には正直であるべきだ。しかし、その欲望にただ流されるだけでは、二次元を消費するだけの普通のダメ人間で終わる。オタクという選ばれしダメ人間であるためには、欲望を妄想へと主体的に練り上げる営みが必要とされるのである。

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