「泣き」要素はオタクにとって本質をなすか

0 はじめに

 「泣き」要素はオタクにとって本質をなすか。これが我々の問題である。
 そして、結論を先取するならば、答えは否、ということになる。
 オタクと「泣き」は本質的な連関をもたないのである。

1 オタク論のコンテクスト

 なぜこのような議論をするのか。オタクを論じるに、「泣き」、とりわけエロゲーの「泣き」をもってする風潮が存するように思われるからだ。これは誤りである。批判しなければならない。
 具体的な論者の名前を挙げるのは避けるが、そもそも、現在流通しているオタク論には、多くの偏向が見られるように思われる。我々は、これまでにもいくつかの論点に即して、偏向したオタク論を批判しておいた。
 第一に、オタクを「萌え」という契機のみに着目して論じるのは、誤りである。「オタク道補論・妄想の二つの原理」などで論じたが、オタクは妄想を本質とし、萌えは、その具体的一展開として理解されねばならない。妄想には、他にも燃えなどの展開があり、これを無視し、萌えのみからオタクを語ることはできないのである。
 第二に、萌えは、「萌え作品」ではなく、「萌え行為」に即して分析されねばならない。これについては、「萌えの主観説」でとくに論じた。アニメやらゲームやら漫画やら、特定のジャンルの特定の作品を挙げて、「萌え」を、さらにはオタクを論じることはできない。「萌え」は作品の客観的な性格づけではなく、オタクの主観的な態度のあり方を表現する概念なのである。
 第三に、エロゲーを典型的なオタク的ジャンルと見做し、ここから論を立てることの危険性についても、「エロゲーは本当にオタク文化なのか」で指摘しておいた。
 さて、本稿で試みる、「泣き」重視の風潮にたいする批判も、これらの作業に連なるものである。

2 「泣き」は妄想の論理ではない

 オタクと「泣き」は本質的な連関をもたない。理由は簡単である。
 「オタク道」において、我々はオタクを妄想という観点から把握した。妄想とは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすること、としておいた。
 すなわち、オタク的な物語の読み方は、本質的に、物語内のキャラクターに向かうものである。そして、別稿で既に論じたように、「萌え」や「燃え」は、まさにそのような論理に則ったものであった。
 しかし。「泣き」はそうではない。
 「泣き」の論理を妄想の観点から説明することはできないのである。
 これは、「泣き」が特殊であることを意味しない。逆である。物語に泣くためには、物語のストーリーを単純に読むことができれば、それでよい。妄想という、特殊オタク的な物語へのアプローチを行う必要がないのである。「萌え」や「燃え」はオタクでなければ理解しえない。しかし、「泣き」の論理は、ごく普通の人間が日常的に行っている物語読解の手法でしかないのだ。
 「泣き」はオタク固有の論理に基づくものではないのである。

3 オタク固有の「泣き」はあるのか

 ちょっと反省してみればわかることだが、一般人が見る映画やドラマ、ベストセラーな小説についても、「泣けます」「泣けました」という言説は氾濫しているわけで。「泣き」がオタク固有の論理であるはずもないのだ。
 ではなぜ、オタクの領域において、「泣き」の契機が重要であるように見えるのか。理由は以下の四つほど考えられる。
 第一に、オタクも人の子、一般人と同じく泣ける物語が好きだから。
 第二に、オタク的ジャンル、とりわけエロゲーは、そこそこ先鋭な作品を受け入れる受容性をもつ領域である。そこでは、一般人がギャーギャー騒ぐ低レベルな「泣き」作品よりも、数段優れた「泣き」作品が出現しうる。で、実際に出現している。ここから、オタクが「泣き」に本質的に優れている、という仮象が生じる。
 第三に、「泣き」と「萌え」ないし「燃え」は、理論上は区別すべきだが、実際は連関しうる。ストーリーが泣けるほどよければ、キャラは立つであろうから。これも「泣き」がオタク固有の論理であるかのような錯覚を生む。
 第四に、泣ける作品は、オタクでない素人に紹介しやすい。一般人にロボットアニメの燃えを理解してもらうのは難しい。萌えるココロもなかなか理解されない。ネタとしか思ってもらえない。しかし、「これは泣けるよ」という説明は、なんとなく通じるような気がするのだ。それゆえ、オタクが素人にオタク的作品の代表として紹介するものには、「泣き」系統が多くなる。これまた、オタクは「泣き」を重視する、という仮象を生む。実は、事情はまったく逆で、まさに「泣き」がオタク固有の論理ではないからこそ、そうなっているのだが。
 このように、「泣き」はオタクと素人との共通項として考えられるべきものであり、決してオタク固有の論理に基づくものではないのである。「泣き」がオタクに特徴的であるように見えるのは、ただの錯覚か勉強不足の結果にすぎない。

4 おわりに

 オタクジャンルに、とりわけエロゲーに、泣ける作品がいくつかあり、高く評価されている。しかし、このことは、「泣き」がオタクの本質をなすことを全く意味しない。泣きゲーを並べてオタクを論じる作業には、何ら正当性も生産性もない、と私は考える。
 泣きゲーだけでオタクを論じようとしても、ライジンオーのBOXを抱きしめたときの、スパイダーマン(レオパルドンのでてくるやつ)のDVD化に狂喜乱舞するときのオタクの存在様態には、決して届くことはないだろう。そんな偏向したオタク論なぞ、めいわくだー、と言いたくもなるわけさ。

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