さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
拙論「現代眼鏡っ娘考」にて、ただ眼鏡をかけている、ということだけからキャラに安易な性格づけをすることを批判した。
そうはいっても、一般に眼鏡が似合う女の子のタイプ、というものがあるのではないか。西川魯介いわく、眼鏡は「かける人間の内面のさらなる延長」でなければならない。(*1)泰斗、西川魯介の眼鏡についての主張は無視しえない。そうとなれば、眼鏡っ娘に共通する内面について語ることができることになる。
つまり、安易なキャラづけを否定しつつ、眼鏡っ娘ならではの魅力を語ることが求められている。これを試みたい。
まず、問おう。眼鏡が、かける人間の内面のさらなる延長であるとしよう。では、眼鏡を生み出す内面とは、いかなるものなのだろうか。顔にかけられた眼鏡のほかに、眼鏡っ娘に要求される内面性とはなんなのだろうか。
眼鏡は、その眼鏡っ娘の内面を象徴していなければならない。眼鏡は、顔にだけでなく、心にもかけられていなければならないのだ。では、心に眼鏡をかけている、とはいかなることか。
キーワードは、屈折である。
度の入った眼鏡のレンズは屈折する。
眼鏡っ娘は、度の入ったレンズ越しに世界を眺める。
つまり、普通の人たちとはちょっと違った仕方で世界を眺めている。
眼鏡っ娘は、総じてちょっとズレた女の子なのだ。
世間一般の常識とやらにそのまま乗っかっているようでは眼鏡っ娘失格なのである。
屈折は、他人が眼鏡っ娘を眺めるときにも生じる。
眼鏡っ娘の瞳は、他人からはレンズを介してしか覗けない。
眼鏡っ娘には眼鏡の奥に隠された本当のキモチがあるのだ。
どこか素直でなかったり、どこか影をもっていたり。これがなければ、眼鏡っ娘としては一流ではない。
そして、屈折は、眼鏡っ娘が自分自身を眺めるときにも生じる。
眼鏡っ娘は、自分自身をレンズを介してしか見ることができない。
これは、眼鏡っ娘は自分の魅力に自分で気づくことができないということを意味する。
自分は好かれて当然だ、愛されて当然だ、と思っている場合には、眼鏡っ娘の魅力は大きく損なわれる。
ある種の眼鏡っ娘にとって、眼鏡とは、以上のような内面の屈折の表れなのである。
眼鏡っ娘は、屈折を眼鏡のレンズとともにもっている。
そして、眼鏡っ娘萌えとは、このような屈折を含めて眼鏡っ娘を愛するということなのだ。
もちろん、屈折以外にも眼鏡っ娘に適した内面的魅力は考えられよう。その可能性は閉じてはならない。しかし、屈折をもった女の子に眼鏡が実によく似合うこと、これもまた一つの真実なのだ。
註*1 西川魯介、『屈折リーベ』、白泉社、2001年、91頁。