さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
本稿は、オタクの道を示すものである。
注意してもらいたいのは、オタク論ではない、ということだ。近年、オタクについて語った論考をしばしば目にする。しかし、それらのどれもが、以下のような間違いを犯している。まったくダメなのだ。
それを踏まえての、オタク道である。
オタク論をやりたがる連中には、そもそもオタクの才能がない場合が多い。なぜか「オタク」という語に魅力を感じ、オタクを論じるが、その多くは、オタクを外側から観察した、いかにも的外れなオタク論評に終わる。まるでフジヤマ、ハラキリ、ゲイシャの日本人論である。
では、なぜ、オタク論をやりたがる、ということと、オタクの才能がない、ということが連動するのだろうか。
オタクを論じる、ということは、すなわち、現実に生息している人間のタイプについて語る、ということだ。つまり、オタク論をやる連中とは、現実世界についておしゃべりするのが大好きな人間なのだ。
これはまったくもってオタク的でない態度である。
後に論じるが、オタクがすべきことは妄想であって、現実を論じることではない。オタク論をやりたがる、という時点で、オタクとしてはかなりダメなのである。そんな奴らの書くオタク論が、説得力をもつはずもない。
しかし、なぜオタクのことをよく知りもしないのに、オタクについて語ろうとするのだろうか。
多くのオタク論は、現代社会や現代文化についての駄法螺で終わる。どうやら、連中の目的は、オタクというより、オタクをつうじて社会や文化について何か偉そうなことを言う点にあるようだ。
これは、逆に、それらのオタク論が、オタクについて論じたものとして不十分であることを意味する。
社会や文化全般について当てはまることを、ただオタクに適用しているだけで、オタク固有の論理をあまり汲み取ることができていないものが多いのだ。知っている人にはウンザリの現代思想の教科書的内容を、ただちょっと言葉をオタク的(と論者が信じている)用語に置き換えて、あたかも何か論じているかのように出してこられても、どうしようもない。話が大きすぎて、ハアそうですかと言うしかない。
水ぶくれした話ではなく、ただ単純にオタクについて論じればいいのに、なぜかそれができないのである。
こう考えてくると、疑問が湧く。本当は社会や文化について論じたいのなら、端的に論じればいい。なぜ、オタクなどを媒介にしなければならないのか。連中は、オタクが現代の象徴になっているかのように語るが、こんな明らかに間違った話を本気で信じているとも思えない。
この疑問は、オタク論者たちの好む理論を眺めてみると、氷解する。ポストモダンやら精神分析やら、一昔前に流行して今やほとんど見捨てられた理論の出来の悪いダイジェスト版ばかりなのだ。
はっきりいって、連中の振りかざしている理論のほとんどは、まともな学術の場では方法論として通用しない。
どちらかといえば、その理論の正当性や有効性を問い直すことが求められる(学者先生の飯の種になる)類のものであって、無批判に乗っかって、なにかを語ってよいものではないのだ。
社会や文化について論じたいと思っても、学問的には通用しない。そこで、奴らはオタクなど、きちんとした学者がいない領域を選んでそこに寄生し、時代遅れの言説を再生産しつづけるわけだ。
ダメなものが多いオタク論のなかにも、なるほどと思わせる分析がたまにある。しかし、多くの場合、その分析は、珍妙な現代思想用語で語られてしまう。かなり不幸なことだ。しかしこれも自業自得だろう。
しょうもない理論で論じられるオタクのほうこそ、いい迷惑なのである。1
オタク論について批判した。
では、我々がこれから展開する、オタク道とは何か。
端的に言うと、こうだ。オタクについて論じるのではなく、理想のオタクについて論じるもの、これがオタク道である。
オタクが、自己のオタク的営みを反省し、より高いオタクを目指そうとしたとき、自ずとオタクという存在について思考することになる。これは、先に批判したような、外的な視点からするオタク論とは異なる。オタクがどうあるか、ではなく、どうあるべきか、を内在的な視点から追究する考察、これがオタク道なのである。2
私なりの、オタクの、オタクによる、オタクのためのオタク道を展開することが、本稿の課題である。
オタクという言葉は複雑な歴史的経緯をもつ。そのため、日常における用法はきわめて多義的であり、ここから出発しても生産的な作業は望めない。我々はオタク概念を事象にそくして新しく規定しなおすことから出発しなければならない。
まず、定義をしてしまおう。
オタクとは、オタク的な行為をすることができる人間である。すなわち、オタクの本質は、オタク的な行為を知ることにより明らかになる。
オタク的な行為とは何か。オタク的な行為とは、物語内のキャラクターについて妄想することである。
結論。オタクとは妄想することができる人間である。
何をやってはいけないか、というと、扱う作品のほうからオタクを定義する、ということである。漫画を読むとオタク、アニメを見るとオタク、というおなじみの図式だ。これではまったく駄目である。オタクは、オタクという存在者の能力の側から捉えねばならない。
オタクの向かうキャラクターは、物語内のものである。すなわち、オタク的能力は、物語を媒介として、間接的にキャラクターに向かう。
それにたいして、物語を介さずに直接に愛好するモノに向かうのは、マニアである。マニアであることは、オタクであることと両立する。多くのオタクは、同時にマニアでもある。そこで、オタクとマニアは混同され易い。
しかし、マニアとオタクは全く別の属性である。オタクの扱うキャラクターは、基本的に物語のなかに存在する。一方、マニアの対象は常に客観的に実在するモノである。
具体例を挙げよう。我々の定義に即すならば、厳密な意味では、鉄道マニアは存在しても、鉄道オタクは存在しない。パソコンマニアは存在しても、パソコンオタクは存在しない。なぜか。鉄道もパソコンも実在するモノだからだ。実在するモノに執着するのは、マニアであってオタクではない。一般に流通している「オタク」という言葉は、粗雑に使われすぎているのだ。
ここから更に、重要な認識が導き出される。漫画オタクもアニメオタクも存在しないのである。ある特定のジャンルに執着するのは、マニア的な態度であり、オタク的な態度とは区別しなければならない。オタクは同時にマニアである場合が多いことは確かだ。各々がもつマニア性の影響で、具体的なオタクはそれぞれの得意分野をもつであろう。しかし、本質的にはオタクはジャンル横断的な存在なのである。
繰り返そう。オタクは、実在するモノやジャンルではなく、物語のなかのキャラクターを取り扱うものである。
岡田斗司夫は、オタクを「粋の眼」「匠の眼」「通の眼」という三つの眼という観点から定義した。3この定義は誤っていると私は考える。
上記の三つの眼をもつためには、そのジャンルにマニア的に精通しなければならない。岡田の定義は、結局のところ、オタクを知的なウンチクを語る存在として把握するものだ。ウンチクを語るためには、ジャンルに通じねばならない。しかし、当然のことながら、あるジャンルに精通するためには一定の努力が必要である。このことから、一人の人間は、そうそう多くのジャンルについて三つの眼をもつことはできない、ということが帰結する。少なくとも、ジャンルごとに眼の利き具合は変わってきてしまうだろう。この定義は、結局のところ、オタクをマニアックな批評家として捉えるものである。
しかし、ここには難点がある。
岡田の定義は現代のオタクの能力に適合しないのだ。オタクであれば、漫画、アニメ、ノベル、ゲーム、どれでもひととおりこなせる。このとき注意すべきは、漫画をオタク的に読む能力やアニメをオタク的に見る能力が、正確に連動して発達していくということだ。オタク的能力は他ジャンルに転用可能である。いや、そもそもオタク的能力は本質的にジャンルに囚われていないのである。岡田の定義では、ここを説明しきれないと思われる。岡田もたしかにオタクのクロスオーバー性を指摘してはいる。しかし、なぜクロスオーバー性がオタクの本質をなすのか、について十全な説明を与ええていない。岡田はやはり、オタクではなく、複数ジャンルに精通するマニア、を定義してしまっているのだ。4
我々の定義に立ち戻ろう。
着目すべきは、オタク的な行為の定義においては、物語の形式に言及がなされていない、という点である。
すなわち、オタクは、漫画、アニメ、特撮、ノベル、ゲーム、その他あらゆるジャンルを、それがキャラクターを含んだ物語である限り、横断的に妄想することができるのだ。
どういうことか。オタクの本質は、物語のキャラクターへと向かう態度のありかた、つまりは、妄想することにあるのだ。どんなジャンルの物語であれ、物語であるかぎり、オタク的に扱うことができる。すなわち、妄想することができる。そして、妄想の際、物語の表現形態の違いはたいして問題にならないのだ。妄想するためには、端的にキャラクターを把握すれば足りる。表現のジャンルは無視しうるのだ。
繰り返そう。オタクは、それが扱うジャンルによって定義されるのではない。具体的に言えば、漫画を読むからオタク、アニメを見るからオタクなのではない。オタク的なジャンルなるものが先行して存在し、それを扱うもの、好むものがオタクだ、と考えてはならない。オタク的なジャンルなど存在しない。漫画オタクもアニメオタクも存在しないのである。例えばアニメオタクとは、アニメマニアを兼ねるオタクの略称と考えるべきである。オタクはただ一種類のみ存在する。物語内のキャラクターについて妄想する人間がそれなのだ。5
オタクとは妄想する存在である。しかし、妄想とは何かを明らかにしなければ、何も述べたことにならない。
オタク的な遊び方とは、物語内のキャラクターについて妄想することである。この根本命題を解説していく。
物語とは何か。これについては、先に述べたとおりである。漫画、アニメ、特撮、ノベル、ゲーム、その他あらゆるジャンルについて、それを広く物語と呼んでいる。
物語の範囲は広い。物語は普通は虚構であるが、実際の歴史なり出来事なりを物語として見る場合にも、オタク的能力は発揮されうる。オタクにとって、戦車とMSとの区別はたいして意味をもたない。どちらも戦争の物語のなかのメカとして見ることができるから。更には、人間の歴史だけでなく、自然史でもよい。例えば、古代の絶滅生物の場合である。オタクにとって、アノマロカリスとギャオスとの区別もたいして意味をもたない。どちらも我々の生物の了解を逸脱した珍奇な怪物なのだ。また、物語ということで、一貫したストーリーを考えなくてもよい。統一性をもたないエピソードの集積でもかまわない。
物語内のキャラクターとは何か。これも、何でもよい。典型的なものを挙げれば、美少女、ヒーロー、メカに怪獣ということになろうか。これらのあるものについて、「燃え」や「萌え」といった特殊な規定をすることがあるが、すべて広義の妄想の分枝であって、そのうちに回収可能であると考える。6
他にも例はあろうが、本稿ではとくに支障のないかぎり、キャラクター一般として議論を進める。
では、妄想とは何か。
これは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすることである。
これが妄想である。
妄想を可能にするためには、特殊な、つまりはオタク的な物語の読み方が必要となる。それを、本稿ではキャラ立て読解と呼ぶ。これは私の造語である。
普通の人間は、物語を次のように読む。まず、物語がある。そして、そこにキャラクターがいる。しかし、このような読み方をしては、妄想は不可能である。妄想するためには、先の順序を逆転させなければならない。つまり、オタクは、まずキャラクターがいて、そのキャラクターについて物語が展開されているという読解をする。オリジナルの物語から、キャラを無理やり抜き出してしまうのだ。これにより、物語のあらゆる場面が、あるキャラクターはかくかくの場面ではしかじかに行為する、という、キャラクターについての情報を与えるものとして読まれることになる。
この段階を踏むと、この娘はこんな性格だ、このメカはこんな性能だ、というような、キャラクターの属性について語ることができるようになる。オリジナルの物語が、そっくりそのままキャラクターの属性に組み込まれる。これでキャラ立て読解が完遂される。ここではじめて、ある物語内に登場したキャラクターは、オリジナルの物語を離れ、別の物語すなわち妄想の内にも登場することが可能になる。つまり、ストーリーを追って物語を楽しんでいるだけでは、オタクではない。キャラクターについての情報を集めようとして物語に向かう態度、これが必要となる。
これが、キャラ立て読解である。
定義を再確認しよう。妄想とは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすることである。
オリジナルの物語のシーンを反芻しているだけでは、妄想にはならない。新しい場面ないし状況を自ら創出し、そこにキャラクターを置きいれねばならない。そして、まさにそのキャラクターがするであろう振る舞いのシミュレーションを試みること、これが妄想である。
多くの妄想はラヴかバトル、実質はエロかヴァイオレンスを巡って展開する。例えばギャルゲーをやる。エンディングを見て満足するのは、ただの人。オタクは、エンディング後の爛れた愛の生活を妄想する。例えばロボットアニメを見る。今日の戦いに満足するのは、ただの人。オタクは隠されたスペックを推測し、もしコレがアレと戦ったらどちらが勝つか、と描かれざる戦いを妄想するのである。
これらの延長線上に、同人二次創作があることは見易いだろう。注意すべきは、二次創作であって考証ではないという点である。もちろん具体的な行為には、両契機が混在している場合もあろう。よい妄想には一定の考証が必要だから。しかし、原理的には、オタクは二次創作、マニアは考証、と区別できると思われる。
二次創作に言及したが、当然のことながら、実際に作品をつくるかどうかは問題ではない。脳に妄想汁が充満するかどうか、これがオタクと一般人を区別する基準なのである。グツグツのオタクは、何か物語を受け取っているときには、常に既に妄想パワーを発動させている。一般人と同じ作品を鑑賞させてみたまえ。一般人は「あのシーンよかったね」と語るだろう。一方で、オタクは「〜たんハァハァ」とキャラクターについてまず叫ぶだろう。妄想の内でもう脱がしているのだ。
漫画を読むこと、アニメを見ること、ゲームをやることは、誰にでもできる。しかし、そこから一歩進み、その物語のキャラクターを使って別の物語を脳内で展開しはじめた瞬間、人はオタクになるのだ。
ここで、オタク的に評価される物語とはいかなるものか、を論じる。先に指摘したように、オタク的なジャンルなどは存在しない。しかし、だからといって、物語ならば何でも楽しく妄想できるわけではない。では、物語について、オタク的に評価できるか否か、ということは、どう決まってくるのだろうか。
端的に、こうなる。キャラクターが立っていない物語は駄目なのである。
単純な話だ。妄想はキャラクターを扱う。そうだとするならば、物語内に愛好するキャラクターを見出すこと、これが第一歩である。これなくして、妄想はない。愛されるキャラクターを与えられないということは、妄想すべきキャラクターを与えられないということだ。このような物語は、オタクの観点からは端的に無価値なものとなる。
妄想するキャラクターを見い出すためには、そもそも、物語がそのキャラクターを立体的に描き出していなければならない。すなわち、キャラクターが立っていなければならない。キャラクターが立っていなければ、好きになるも嫌いになるもない。一人のオタクに「うわ、もう、このキャラクター怖くて嫌っ」と言わせるようなキャラクターは、別のオタクに高い評価をもらう可能性がある。立っていること、これが最低条件である。キャラクターの見えない物語は、オタク的には根本的に駄目な作品ということになる。
では、キャラクターさえ立っていれば、オタク的にはそれでよいのだろうか。そうなのである。例えば、ストーリーのよさ、絵のよさ等々は、本質的ではないのだ。もちろん、一般的に、ストーリーがよければ、絵がよければ、キャラクターはより立つことになるだろう。しかし、キャラクターの立ちという観点から切り離された場合には、これらはオタク的には無意味なのだ。いくらストーリーがよくとも、いくら絵が綺麗であっても、キャラクターが立っていなければオタクの関心を引くことはできない。キャラクターの立ちこそが、オタク的な観点からする唯一の評価軸なのである。7
もう一つの条件は、連作可能性である。これも私の造語である。
与えられた物語が、その物語の内部だけで完結してしまっていた場合、当然、更にそこに妄想を展開する余地はなくなる。オリジナルの物語は、同一キャラクターが登場する別の物語の妄想可能性を排除するものであってはならないのだ。
例えば、あるキャラクターが物語のストーリーとキャラクターがあまりにも密接に関係している場合には、妄想の余地はなくなってしまう。これは、先に指摘した、ストーリーがよくてもオタク的には扱い難い作品がある、という事態にも対応する。SFの古典的な名作をいくつか思い浮かべてもらいたい。どんなに魅力的なキャラクターが登場していたとしても、それについて二次創作する気がおこらない作品があるだろう。このストーリーあってのこのキャラクター、という場合だ。このような作品については、考証はできても妄想はできないのである。ちなみに、ここでの考証と妄想という対比に、マニアと狭義のオタクとの対比が重なることは先にも述べた。ともあれ、このように、いくらキャラクターが立っていたとしても、妄想することが難しい物語が存在する。
妄想を可能にする物語のこの特徴を、連作可能性と呼ぶことができよう。あるオリジナルの物語があったとして、それについて同一キャラクターが登場する続編ないしは外伝をつくる可能性が開かれていなければならないのだ。そうでなければ、妄想することがそもそも不可能になってしまう。連作可能性があるからこそ、そこに妄想を割り込ませる余地が生まれるのだ。
連作可能性という概念の射程は広い。オタクにまつわる謎のいくつかに、一定の見通しを与えることができる。ここでは一点のみ指摘しておく。
なぜ、今この時代に、妄想する存在、オタクが誕生したのだろうか。以下のように考えられる。
オタクの誕生は、連載漫画および連続テレビドラマなどの、まさに連作として発表される物語の誕生と軌を一にしているのではないか。毎週もしくは毎月同一キャラクターによる物語が連作されていく、という形式には、オタクの側の妄想が非常に差し挟みやすいと思われる。それらの連作形態で発表されていく作品を苗床にして、オタクの妄想は進化していったのではないだろうか。あくまで仮説であるが。
これまで、妄想という観点から、オタクについて語ってきた。
妄想できない者は、オタクではないのである。
しかし、オタクが常に妄想を語っているのか、というと、そうでもない。妄想以外のオタク的な行為を、以下、いくつか検討する。
第一に、属性についての語りについて考察する。
「眼鏡」「委員長」「妹」等々、オタクはキャラクターの属性についてよく語る。妄想は、基本的に個別のキャラクターについて語ることである。属性は、複数のキャラクターが共有しうるものだから、これは妄想ではない。
まず注意すべきは、属性は、あくまで妄想のための道具であるということだ。
妄想するためには、キャラ立て読解を行わなければならない。このとき、まずキャラクターを大まかなかたちで分類しておくことが、妄想の効率のよい展開を助ける。このときに、属性が手掛かりになる。これは眼鏡キャラ、あれは委員長キャラ、というように。
しかし、ここで注意すべきは、属性は大まかな分類しか与ええない、ということだ。妄想をきちんと行うためには、属性を超えて、個別のキャラクターの細かい魅力のありようまでを把握することが必要となる。アレもコレも同じ眼鏡っ娘、という分類しかできない輩が、優れたオタクであるはずがない。あの眼鏡っ娘とこの眼鏡っ娘の間の微妙な差異を感じとることができなければ、オタクではないのだ。
このように、属性は、第一義的には妄想のための便利な道具にすぎない。
属性の分析を使いこなせることは、事実上オタクの基本技能である。しかし、これを過大評価してはならない。属性について語る、ということは、いわば野球におけるキャッチボールのようなものである。実戦ではない。やはり、個別のキャラクターについての妄想こそが、オタクにとっての本業なのだ。魅力的なキャラクターは、属性だけでは語り尽くせないし、また、属性だけで終わってしまうようなキャラクターは、駄キャラクターなのである。
オタクは批評を行う。ただし、ここで再度注意したいのは、オタクにとっては、あくまで妄想が本業であり、批評は余技にすぎないということである。
オタクはよく作品の批評を行っている。しかし、それは以下の二つの理由によるものだ。
第一の理由。多くのオタクは、同時にマニアである。マニアは批評する存在である。つまり、オタクがマニアとして批評を行う、という場合がある。
第二の理由。端的に、妄想したくなるような作品が少ないのである。本当は妄想したいのだ。しかし、妄想すべき作品があまりないのだ。そこで、オタクは余ってしまった労力を、駄作に文句を垂れることに費やす。これが、オタクが批評する存在だ、という錯覚を生む。時にみせる妄想の語りこそ、オタクの本質なのだが。
オタク的な批評がもしあるとすれば、それは、次のただ一つの観点のみに基づくものでなければならない。すなわち、「こうすればもっと妄想が膨らむ」、「こうすればもっとキャラクターが立つ」、これのみである。この観点のみからしか、オタク的批評はありえない。ストーリーが荒唐無稽であろうと陳腐であろうと、それがキャラクターの立ちに積極的に寄与していれば、それでよい。作品の欠陥は、それが妄想を侵害しなければ、無視される。 すべてが妄想の観点から評価されるのだ。オタクにとって、妄想は批評に先行しているのである。それ以外の批評は、マニアとして行うものであって、オタクとは原理的には無関係なのである。
この論点についてはもういいだろう。本稿の主な力点は、オタクとマニアを徹底的に区別するところに存する。
ただし、だからといって、オタクは知識が浅くてもよい、ということではない。ここは強調しておきたい。豊かな妄想を展開するには、それなりの勉強と訓練が必要である。勉強しないオタクは、浅薄な妄想で満足してしまう。そうなると、悪貨は良貨を駆逐するがゆえに、駄作が蔓延してしまう。これでは困る。オタクは勉強しなければならない。そして、オタクとしての訓練の途上で、マニアとしてのレベルは自然に上がっていくと思われる。
オタクとマニアは論理的には区別できるが、実際上は区別できない、とまとめられよう。
これまで論じてきたように、オタクとは妄想する存在である。キャラクターについて、「好きだあ」と言うだけでは駄目だ。これはオタクではない。トレカを買いフィギュアを買い販促ポスターと等身大ポップをパクっても、そのキャラクターについて妄想することのできない人間は、オタクではない。
オタクを消費者の観点から捉えてはならないのだ。
消費だけして妄想しない人間が、オタクの周囲に多く生息している。これは半端なオタクモドキであって、未だ本当の意味でのオタクであるとは言えない。半端モノは萌え系の領域に多い。じっくり妄想することをせず、お手軽に萌えと抜きを消費しようとする輩が、駄作の培養地になっている。こう考えると、半端オタクは、オタクの敵ですらある。強調しよう。消費するだけではなく、妄想しなければ、オタクではない。
オタクを消費や経済の観点から把握しようとする試みは、確実に失敗する。いわゆるオタク的なジャンルが市場として成立するのは、実際は、オタク予備軍や半端オタク、子供や勘違いした一般人など、オタク以外の人間をも巻き込んだ経済活動によってである。消費や経済の観点からだけでは、オタクの本質を捉えることはできない。
オタク的能力そのものには作家性が欠如している。オタクは、キャラクターを産出することがない。何か物語を与えられてはじめて、その物語内のキャラクターについて妄想を行うのであり、出発点たるオリジナルの物語は、オタク的能力の外から与えられなければならないのだ。
オタクは、外から与えられたキャラクターを受け取って、より面白い方向に転がすことはできる。しかし、魅力的なキャラクターそのものを産み出すことはできないのである。オタク的能力のみに優ったオタクがそのまま作家になると、お約束しか出てこない。二次創作にしかならないのだ。それでは、別のオタクにとって妄想のしがいのある作品は生まれてこないだろう。創作者には、何らかの意味でオタクを超えることが要求される。
これは、オタクであることが創作能力を阻害する、ということを意味しない。単純に、オタクであるだけでは駄目だ、というだけである。逆に、オタク的な感受性をもたない創作者には、オタクにとって興味深い作品を創ることは難しいであろう。
この論点はちょっと強調して繰り返しておきたい。
オタクがするのはあくまで二次創作であり、一次創作ではない。一次創作と二次創作の区別は明確にすべきである。オタクが評価する作品(一次創作)には、二次創作のように過去の作品の引用やらが組み込まれているものが多い。しかし、二次創作と異なり、一次創作が一次創作として面白くあるためには、やはり作家性が必要である。つまり、一次創作としての面白さと、二次創作としての面白さは別物なのだ。なんでそんな当たり前のことを、と思われるかもしれない。しかし、オタク論の領域では、この辺をごちゃごちゃにした議論が多いのだ。
繰り返し論じたように、オタクは批評家ではない。もちろん批評することもある。しかし、その批評がオタク的であるためには、妄想の観点が不可欠なのだ。本来の意味での批評は、そのジャンルに精通したマニアの仕事なのである。
例えば、物語のストーリーについていくら熱く語っても、オタクではない。いわんや物語の背後の思想や歴史的位置づけなどにいくら空語を費やそうとも、オタクにはほど遠い。作画のテクニックや演出の細かい差異について語ることも、実は本質的ではない。これらは、中途半端なサブカル連中が容易に嵌まり込む落とし穴である。アニメを批評したから、漫画を批評したからオタク? とんでもない。いくら批評しても、いくらウンチクを垂れても、そこに妄想がなければオタクではない。せいぜいマニアである。勉強すればマニアのふりはできる。しかし、オタクは妄想の実践においてのみ成立する。オタクを騙ることはできないのだ。
オタクがオタクであるために、譲ってはならないものがある。最後にこれを論じよう。
オタクは妄想する。そのためには、妄想の自由な領域を確保することが必要であろう。
あらゆる現実から、妄想の領域を切断しなければならない。
まず、常識的通念から妄想を切断せねばならない。燃えにしろ萌えにしろ、バカの域にまで達したものを、あえて、よし、とする態度が必要である。 さらには、道徳からも切断せねばならない。バカ、下品、不道徳をその身に引き受ける覚悟なしに、高い燃えや萌えは得られない。ケレン味、ハッタリ、嘘デタラメ、掟破りに大暴走、これらに支えられて、キャラは光り輝く。常識も道徳も完全に無視して妄想しなければならないのだ。おりこうさんだと思われたい人、上品だと思われたい人、自分を守りたい人は、優れたオタクにはなれない。
しかし、これは妄想を現実のように扱う、ということではない。そうではなく、妄想を、妄想だからこそ、妄想のままに愛するということなのだ。
多くの駄目なオタク論は、オタクの妄想を、オタクの現実の欲望と取り違える、という誤りを犯している。とくに、セクシュアリティ(エロと言えばいいものを、お上品なヤツらはこういう語を好むのだ)に関して、そういった方向でのごく浅薄な分析がなされることが多い。これは問題外の誤りである。
オタクは妄想を妄想として追求する。妄想だからこそ、好きなのだ。それがどうして今さら現実と妄想を混同しようか。オタクに罪があるとすれば、それは、徹底的に現実と妄想を混同しないことにある。すなわち、オタクは虚構のなかの理想や理念を実現させようとは絶対にしないのだ。物語のなかの理想を何か現実の世界に反映させよう、というのは、オタクではない道徳的な一般人の発想である。奴らは実生活に役立てる、という観点からしか物語を読めない。ビジネスマンが徳川家康を読むアレである。オタクには寓話の余地はない。オタクはそのような腑抜けた思想はもたない。
オタクは平気で正義と愛と勇気を妄想の内で謳い上げる。その一方で、平気で殺戮と暴力と悪の限りを妄想の内で繰り広げる。では、現実にオタクは何をするのか。オタクであるかぎりでは、何もしないのである。ただ、妄想のみを行うのである。無害にして無益。これがオタクである。
オタクとは、善悪の彼岸に立ち、ただただ妄想の快楽のみを追求するゲームのプレイヤーなのである。8
こういうわけで、オタクは徹底的に妄想が行為へ与える影響を統御する。妄想を妄想として好むオタクは、もっとも妄想に流されることの少ない存在なのだ。これを、醒めている、と表現することもできよう。オタクがそれだけでは創作者たりえないことも、ここに由来する。オタクは創作者に要求される狂気からも縁遠いのだ。
端的に言えば、こうなる。オタクは、醒めつつ軽やかに妄想する。
オタク的な遊び方とは、物語におけるキャラについて妄想することである。しかし、ただ妄想すればいいというものではない。オタクであるならば、より優れた妄想を追求しなければならない。そして、優れた妄想とは、当人にとってだけではなく、他のオタクにとっても面白いものに他ならない。
すなわち、より優れた妄想を追求するためには、他のオタクとの対話という契機が必須である。オタクは、自分の妄想に引きこもってはならない。それではただのイタい奴にすぎない。これはオタクではない。
オタクの妄想は、他のオタクたちにとっても、共有可能なものでなければならないのである。
この「妄想しつつも対話する」という態度は、先に指摘した「醒めつつ妄想する」という態度と、同じ事態の両面をなしている。醒めていなければ、妄想について対話などできないであろう。
さて、では、対話をすることによって、なにが獲得されるのか。個々人の妄想力、そしてオタク文化全体が、対話のうちでより洗練されていくと考えられる。キャラクターの理解や、属性の内実、燃えるお約束の型などについて、より深い理解が成立し、浸透し、より濃い妄想が展開されるようになるのだ。9
もちろん、日々の生活は忙しい。語り合う余力など正直あまりない。しかし、少なくとも、刃は常に砥いでいなければならない。事あらばすぐに自分の妄想を引き抜いて戦える、という覚悟こそ、オタクのもつべきものである。
繰り返そう。オタクは、妄想をつうじて対話する。
オタクについて、最後に指摘すべきは、このことである。真のオタクはオタクであることについて決して誇らない。
オタクではない人間には、諸々のセンスが決定的に欠如している。彼女らや彼らは、物語を使って、現実に囚われることなく、醒めつつ軽やかに遊ぶことができない。そして、オタクは根本的なところでそのような人間について、ダメだ、と思っている。オタクは、オタク的でない諸価値に拘る態度を蔑視するだろう。
しかしながら、オタクは、オタクであることについてすら醒めていなければならない。オタクであることも普通にダメなことなのである。オタクであることに過剰な意味を求めるべきではない。巷に蔓延る知性の欠けたオタク論などに惑わされ、この事実を見失った途端、例えば大衆文化やら日本経済の担い手やらを自称した途端、オタクは決定的に堕落する。それはまさに、自己の価値についての妄想物語を現実と混同するという、オタクとしてあるまじき態度なのである。
他者はダメであると思い、かつ同時に自らもダメであることを認め、そのことを自虐的に嘲笑いつつ、徹底的にダメでありつづける。しかしもちろん、自虐ごっこに耽溺することもない。過剰な偽悪趣味もまた、オタクの価値についての誇大妄想の転倒形態でしかない。醒めつつ淡々と自虐しなければならない。
このような境地こそが、一人の趣味人としてのオタクのあるべき姿ではないか。
はたして人はこのような茨の道を歩むことに耐えうるのだろうか、オタクであることはその困難に比するほどの実りを与えてくれるのだろか。それには、かつて一人のオタクが語った言葉を借りて、こう答える他あるまい。
「人はオタクになるのではない。オタクとして生まれるのだ。」10