私家版属性事典

 キャラクターを構成する属性について、メモ程度のコメントをつけて並べています。つまりはコラム以前の雑記、ネタ帳のようなものです。基本的に緩いノリで書いているので、概念の精確な定義、作品の詳細情報等にかんしては、目の前の箱で別に検索してください。

事典項目

 更新記録:「蛇女属性」を追加。(2013.03.04.)

(あ行)

行き遅れ属性

 結婚したいと思っていながら結婚できていない一定年齢以上の女性がもつ属性である。属性なので、本人には結婚したいという意志がないのに周囲から行き遅れ的に思われている、という場合は含めないほうがいいだろう。この属性は、描きかたに「結婚とは普通こういうものだ」あるいは「結婚とはこうあるべきだ」という先入観が透けて見えるのが面白い。それも、ヴァリエーションに乏しく、ジャンルによってだいたいイメージが決まってしまうのが、社会心理学的な興味をそそる。たとえば、ライトノベルにおける行き遅れ属性と、普通の(つまり非萌え系の)四コマ漫画における行き遅れ属性と、レディースコミックにおける行き遅れ属性とでは、まったく中身も描きかたも異なっている。たぶん、対象となる受け手層の一般的な意識に合わせているのだろう。ラノベで行き遅れ属性が成立する年齢が低めになってしまうのは、中高生の多くが「そのくらいになったら結婚していないとおかしい」となんとなく考えているからである。属性が子ども目線に合わせてチューニングされているというわけだ。

糸目っ娘属性

 糸目は基本的には細い目の漫画的表現の一つである。しかし、それだけではない。細い目の漫画的表現が、笑顔の漫画的表現と似ているために、糸目っ娘には「細い目の娘」というだけでなく「いつもニコニコしている娘」という含みがしばしば付帯するのである。
 そういった含みも込みで、私は糸目少女が好きである。メディアとか佐々木樹々とか古囃独楽とか香坂麻衣子とか轟八千代とか速水先輩とか相沢千鶴とか。クリクリした目玉のキャラクターが多くなる漫画やアニメにおいて、他のキャラと並べて違和感がないように糸目っ娘を可愛くデザインする、というのはそれなりにコストがかかるのか、そんなに登場しないし、登場してもせいぜい一作品に一人。わりとレアなので、出てくるとそれだけでちょっと嬉しい。ついでに言えば、糸目くんもそれなりに好きだ。糸目っ娘も糸目くんもほとんど主役を張らせてはもらえないが、一部の好事家にはこよなく愛されているのである。糸目主人公というと藤井八雲くらいだろうか。登場作品はあまりにもグダったこともあり、途中で挫折したが。

妹属性

 妹萌えがわかるようになった。この年齢になって、また一つよりダメな方向へ進化してしまった。よくある話だが、リアルで実妹もちであった私は、長らく妹萌えを頭で理解はできても体で実感できない状態でいた。ところが、最近ふと気づくと、我ら兄妹も年をとって、ウチの妹もオネエチャンからオバチャンになってきているわけよ。そのため、リアル妹とヴァーチャル妹がメリハリっと区別できるようになったようだ。これで条件が揃ったところで、西尾維新の『偽物語』が最後のトリガーになって、完全に覚醒しました。素直な妹も悪くはないが、ちょっと「可愛くねえ」感のある妹が私の好みである。ただし、一般的なツンデレの枠内に納まってしまうような妹キャラはよくない。妹のツンは「妹ならではのツン」であるべきで、一般的な「ツン」の一例であってはならない。近親ならではの甘えに寄りかかった未熟なツンこそ、妹には相応しいのではないか。

妹分属性

 妹分属性、というものがある。妹分属性は、妹属性とはもちろん違うし、後輩属性とも義妹属性とも違う。あくまで妹分。つまり、相手との関係性を認知したうえで、妹的な振る舞いを自ら選択する、ということである。『Yes! プリキュア5』および『Go Go!』の春日野うららのあの感じを思いうかべていただきたい。うらら、一人っ子であるが、母親と死別しているうえに芸能界で揉まれているわけで、本来かなり大人びた娘である。しかし、ナッツハウスにおいては彼女は「妹分」というポジションに居心地よさそうに嵌り込んで、そこからほとんど出てこない。ここでは自分は妹分でいいんだ、と甘えきって、素よりもぐっと幼くなってしまっているのである。このあたりの描き方が、この作品は絶妙に上手い。属性といっても単純なものではない。このように、他のキャラとの関係性によってはじめて引き出されるような属性もあるのだ。ついでに言えば、同位の友だちと認知しているシロップにたいしてはときに大人っぽさが素な感じで出てくるところが、これまた可愛らしいのである。

大人の腰つき属性

 黒田bb『Aチャンネル』、三上小又『ゆゆ式』、原悠衣『きんいろモザイク』、と並べてみよう。これらは私が手元に並べて疲れたときにダラダラ読んでいる、現時点で最先端の萌え四コマである。どれも学校が舞台になっているのだが、最近私が気になっているのは、高校生の女の子と女性の先生との体型の描き分けである。やはりポイントは下半身だと思うのだ。たとえばこれらの作品には、鬼頭先生、松本先生、烏丸先生と各々三人の巨乳女教師が登場するのであるが、スタイルのいい高校生やスレンダーな大人もいるわけで、おっぱいで大人らしさが出る、と一般化するわけにはいかない。というわけで、注目すべきは下半身、ということになる。腰まわりやら太腿やらふくらはぎやらといったあたりのラインに、高校生くらいの小娘と二十歳を過ぎた大人との違いをきっちり出すこと、これが求められるのである。チマチマしたコマ割りの関係上、キャラの下半身までしっかりと描かれることが少ない四コマではあるが、さすが人気作、どの作品もそれなりにここを押さえているのが興味深い。まず、松本先生と烏丸先生の腰のあたりのラインが実によい感じであることには誰しもが気づくであろう。鬼頭先生は白衣で腰まわりが見えにくいが、『Aチャンネル』にかんしては、お子ちゃま的なやせっぽちであるところのトオルと、スレンダーな大人であるところの鎌手先生との、腰から足にかけての感じの違いのほうに着目すべきなのかもしれない。こういった腰つきの問題にかんしては、これからもちょっと注意していきたいと思う。

(か行)

巨乳属性

 最近はっきりと自覚した。私は大きいおっぱいがすごく好きだ。こんな単純な嗜好をなぜこれまで自覚できなかったのか。それは以下の理由による。
 貧乳属性をもつキャラクターにはしばしば貧乳ゆえの劣等感が付属している。問題は、劣等感属性もまた私の好みだということだ。それゆえ、貧乳キャラについても劣等感属性を媒介にして私は魅力を感じてしまうことが多かったのだ。これが正しい自己認識を妨げていた。
 宣言しよう。純粋におっぱいだけを考慮すれば、私は巨乳派である。『らき☆すた』はみゆきさん、『ストライクウィッチーズ』はシャーリー、こういった嗜好の傾向性はおっぱい属性に基づいていたのだ。不人気好きというわけではないのだ。

隅っ娘属性

 くまっこ。目にくまがある女の子が可愛い。目のくまは、陰気、不健康、邪悪とかいったネガティヴさの象徴なのだが、上手くすると、それが目に強い魅力を与えてくれるから不思議だ。押切蓮介『でろでろ』の須藤みちことか、玉置勉強『ねくろまねすく』のノラとか。上手く描く人少ないなあ。あとは『おじゃる丸』のうすいさちよも好きだ。

小娘属性

 キャラクター相互の関係性に依存する属性に最近の私の関心は向かっている。これもその一つである。
 いわゆる処女厨にたいする可能な批判として、お前たちは相手役の設定を考えていない、というものがある。ヒロインの相手役がアントニオ・バンデラスとかニコラス・ケイジとかジェイソン・ステイサムだったと想定してみたまえ。処女属性キャラではなんかいろいろと無理が出る。たとえば、そんなキャラ造形では、ヒロイン未満の小娘としてしか認知されなくなってしまうだろう。このように、文脈によっては処女属性が場違いになることもあるので、無条件の価値を処女属性に与える態度には無理があるのではないか。このようにもっていくわけだ。
 この論理が説得力をもつかどうかについては、問わないことにする。正直なところ、あまりなさそうである。というわけで、ここでは、上の議論の途中で登場した「小娘属性」について注目してみたい。
 処女属性は基本的に小娘属性を含意するが、逆は真ではない。それは、小娘属性が他のキャラとの関係性に依存して成立することがあるからである。相手方の存在感が凄いと、かなり強力なキャラ造形をしても、小娘属性がついてしまう。ここが興味深い。ムチムチプリンでバインバインでクソビッチなオネエチャンでも、『シン・シティ』のブルース・ウィリスとか『マチェーテ』のダニー・トレホとかいった、ガチのジジイヒーローと組ませたら小娘扱いされてしまう、ということだ。こういった感じで、物語の文脈のなかで関係性によって小娘属性が付与されていく展開は、端から子どもっぽいキャラがそのまま小娘扱いされる場合よりも、ダイナミックで面白いと私は思っているのである。
 ジェンダーをひっくり返した「ボウヤ属性」にもほぼ同様のことが当てはまるだろう。

(さ行)

ジャージっ娘属性

 ジャージは可愛いと思うのだよね。最近のわかりやすいジャージっ娘というと、『ペルソナ4』とか『荒川アンダーザブリッジ』とかになるのだろうか。
 ジャージっ娘属性にかんしては、そのバリエーションを整理する必要があるだろう。身なりを気にしないがゆえのジャージ、スポーティさの象徴としてのジャージ、学校指定の芋臭いジャージ、ヤンキー属性からのジャージ、カジュアルファッションからのジャージ、このあたりには差異があるはずなのだが、その差異がジャージっ娘属性キャラの具体的なありかたにどのように反映されるのか、きちんと研究しなければなるまい。
 ところで、基本的にジャージっ娘属性はティーンキャラ限定に語られるものである。お姉さまがたとか奥様がたとかのジャージ姿については、また別の分析が必要となる。ある年代を超えると、ジャージからファッションとしての要素がスパッと抜けるので、ジャージ属性が少々別の意味をまとうようになるのである。コスプレ的な含みが出たり、スポーティさに特化したり、妙なエロさをまとったり、といったふうに。奥様方の運動会、という言葉にグッとくる感性を備えた紳士ならわかってくれるだろう。

昭和の女属性

 1954年の第一作『ゴジラ』に見られる昭和の女の描きかたについて、前々から思うところがあった。昭和の「女性の描きかた」ということでもあり、「昭和の女性」の描きかたということでもある。
 語の流れを確認しておこう。ヒロイン山根恵美子が芹沢博士にオキシジェン・デストロイヤーの秘密をただひとり明かされる。研究は未完成であり、現段階で公表されれば必ず兵器として利用される、それゆえ絶対にこの秘密を口外してはならない、と念を押す芹沢。しかし恵美子は、ゴジラの圧倒的な暴威の前に、ついに恋人の尾形秀人にゴジラ抹殺の可能性をもつ研究の存在を告白してしまう。そして、尾形と恵美子は連れだって、オキシジェン・デストロイヤーの封印を解くよう、芹沢の説得に向かう。
 あまりにも有名な『ゴジラ』の物語の一部である。
 さて、私はこの展開のところにくると、いつもぼんやりとした違和感を抱いてしまう。恵美子はなぜ芹沢を裏切って尾形に秘密を告げ、芹沢にたいする説得の主役を尾形に委ねてしまうのだろうか。まずは、自分ひとりで芹沢のところへ行って、自分で説得することもできたはずなのだ。ところが、恵美子はこの可能性を思い浮かべることすらしないのである。
 たぶん、昭和29年の日本におけるヒロインキャラには、そういった選択肢は端から許されていなかった、ということなのだろう。この手の清純系お嬢さんが成人男性の意志を説得して変えたりできる、ということを、当時の人々はリアリティをもって思い描くことができなかったのである。このあたり、時代を感じさせてくれて、興味深い。

女帝属性

 アニメ版『氷菓』は、最終話での入須冬実の出番をなかなかに上手い具合に強調したのではないか。折木奉太郎との短い会話がよい効果を挙げている。この系統の属性の描きかたのツボをよく押さえていると評価したい。
 入須冬実が折木奉太郎と交わす会話であるが、なんというか、少々芝居がかっていて微妙に浮いてしまっている。これは、なにかを狙ってのものではなく、たんに人気キャラを推そうと台詞を捻じこんだゆえの不自然さであると推測される。しかし、これが予期しない効果を生んだ。あの台詞に、「ちょっと準備してきた感じ」がついたのである。これが予想外の効果を発揮した。
 キレキレの女帝キャラと他者に認知され、自分でもそれを受け入れて格好つけて通しているくせに、入須冬実、「愚者のエンドロール」のラストで、折木奉太郎に嫌われたことにごくごく普通に凹んでしまっている。さらに、折木姉にがつんと意地悪をされたこともあったのだろう、どうやら彼女はけっこう本気で傷ついてしまったようなのだ。しかし、入須冬実はめげなかった。今度折木と話す機会があったら、なんとかして自分のしたことをフォローしよう、切れた人間関係をもう一度編みなおそう、と、いろいろと考えたのだ。しかし、これが難しい。いまさら謝罪もおかしいし、なにもなかったように話しかけても避けられそうだ。どうにかさりげなく「嫌いにならないで」というメッセージを送れないか。いろいろと台詞を練って、じっと機会を待って数ヵ月、やっと、ここだ、今だ、というタイミングで折木に言うことができたのが、あの言葉なのである。だから、「ちょっと準備してきた感じ」がするのである。
 これで彼女のキャラにいい感じに中身が詰まった。入須冬実の女帝属性の根っコには、他人に嫌われたことに悩んで、その悩みになんとか自分で立ち向かおうと奮闘する、どこにでもいそうな高校生の心情がしっかりと存しているのだ。なんとも可愛いではないか。これがキャラが立つということなのだ。これをもって、アニメ版の入須冬実は、売れ線要素を組み合わせたラノベチックアニメチックな萌えキャラから、真の意味で愛されうるキャラに進化脱皮した、と私は見ている。女帝でしかない女帝などに魅力はない。女帝を超える含みをもってこその女帝なのである。八割がた妄想なのであるが、私にとってはこれが真実である。

(た行)

中学生属性

(1) 中学生には独特の可愛いさがあるのではないか。椎名高志『絶対可憐チルドレン』が中学生編に入ったあたりから、これを考えてきた。で、『Darker Than Black』二期の蘇芳パブリチェンコと『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の比良坂綾奈あたりを眺めていて、ピン、となにかがキた。
 中学生には、それほど親しくない段階で、お腹が酷く空いているところにご飯やら甘味やらを食べさせてあげるのがいいのではないか。そして、それをテーブルの向かいからコーヒーでも飲みながらチラチラと観察するのである。これがもっともよく中学生を愛でることができるように思う。小学生では駄目だ。普通にご飯に夢中になってしまうから。高校生でも駄目だ。いくらお腹が空いていても、こちらの目を忘れることはないだろうから。中学生だけが、最初は警戒しているんだけれども、食べ始めたら夢中になってしまってガツガツとなり、そして、お腹がくちくなったところでハッと我に返ってこちらの視線に気づいて、「しまった」という感じで警戒モードにまた入る、というような一連の仕草を実現できるのである。
 これは可愛い。いわゆるボーイッシュとは違う、まだ大人になりきっていないという意味での少年っぽさ、小動物っぽさの残り具合、これがミソである。こういった可愛さは中学生のみが実現できるものである。たしかに中学生だけでなく、路上生活が長い疲れきったオッサンに飯を奢っても同様の振る舞いをすると思うが、あまり可愛くはないからな。設定上中学生であるかどうかではなく、以上のような可愛さを実現できる含みがあるかどうか、私にとっての中学生属性のミソはそこにある。
 たまにはキモチワルイ方向にアクセルを思い切り踏み込んでみるのも面白いかもしれないと思って踏み込んでみたら、大惨事になってしまった感があるな。

(2) 中学生と高校生の微妙な属性の論理の違いに興味がある。気にならない人は気にならないのかもしれないが、私の場合、この違いを上手く描いていない作品には、どこかに違和感が残ってしまうのである。中学生ってもっと馬鹿だろう、とか、高校生にしてはこれは幼なすぎやしないか、とかいった感じだ。もちろんこれは現実的な描写をしろ、ということではない。かつて論じた組織依存系属性と同様に、ここでの中学生属性あるいは高校生属性もまた、現実を反映しているというよりは、オタク系作品における描写の歴史的蓄積を反映したものであろうからだ。(「組織依存系属性の論理」参照。)
 ただし、すぐに話をひっくり返すようでアレだが、歴史的蓄積ということを言うと、中学生は昔からちょっと賢さ割増で描かれてきたように思われる。それが両属性の差異が微妙になっている原因のひとつであろう。では、なぜ賢さが割り増されるのか。すぐに思いついた理由は以下の二つだ。
 理由そのいち。あまりに理性を欠いてしまっていると、キャラクターとして成立しにくいから。虚構の娯楽作品においては、中学生ばかりか小学生でさえ、きちんとした動機と計画性をもって振る舞わざるをえない。シートン動物記など、動物までもが理性をもって意識的に行動している。そうしないと、ドラマが成立しないからだ。現実の馬鹿な子どもは、半分本能で動いているのだが、そういったキャラを描いても文字どおりの意味でお話にならないのである。
 理由そのに。想定される受け手に中学生も入っているから。中学生を一般的に低く見積もるような娯楽作品は、たとえそれが現実を反映したものであっても、中学生を不愉快にするであろう。お客さんを不愉快にさせてもいいことはなにもない。
 他方で、高校生のほうは、純情イメージを強めようとするあまり、ときに幼さ割増で描かれたりする。かくして、両属性の差異は微妙なものになりがちなのである。

(な行)

(は行)

病弱属性

 病弱属性の中核は時代によって変遷していると思われる。
 儚げな美少女とか線の細い美青年とかが高原とか海辺とかのサナトリウムで療養していたとすると、原因は「肺病」というのがひと昔前までのお約束であった。この肺病のイメージこそが、古典的病弱属性を中核で支えていたと思われる。これより軽いと喜劇になるし、これより重いと悲劇になる。心置きなく萌えられるのがちょうどこれくらい、というわけだ。
 現代的病弱属性の中核をなすのは、「心臓病」である。こちらの場合は、「療養」ではなく「手術」がドラマの鍵になってくる。身体的な儚さよりも、手術に向かう精神的な不安感のほうが、病弱属性の萌えどころになるわけだ。その他にもいろいろなイメージに伴われている病気はあるが、妙な偏見を呼んでしまうような場合もあるので、挙げないでおく。
 人間が人間であるかぎり病弱属性そのものがなくなることはないだろうが、これから先、医学の進歩とともに、その内実がさらに変化していくことは予想できる。

不美人属性

  いわゆる萌え系の漫画やアニメのキャラクターは基本的に可愛く描かれるものである。現実であれば不美人的な要素に数えられかねない属性でも、ある種の可愛さの表現として練り上げられていたりする。癖っ毛、太眉、八重歯、糸目、そばかすなどの属性を考えられたい。
 逆に問題含みであるのが不美人である。可愛いキャラと不美人キャラを両方きちんと並べて描くことは、思ったよりも難しい。キャラ造形の基本が可愛いものであるため、不美人を不美人として描こうとしたときには、露骨なまでに造作を崩したり、絵柄そのものから変えたりしなければならない場合が多いのである。そうなると、不美人描写はギャグの雰囲気をどうしても伴ってしまう。これは表現上の深刻な不自由であろう。
 また、不美人さを表現するための属性が、過剰な否定的意味を負ってしまう、ということもある。
 わかりやすいので、顎しゃくれ属性を例にとろう。現実においては、いささか顎がしゃくれていても、まあ綺麗な人だよね、とされる場合は少なくない。しかし、漫画などの場合は異なる。基本的に可愛いキャラを描く人が、顎がしゃくれているキャラを描いた場合、それは、キャラの顎がしゃくれている、というよりは、意図的に絵柄そのものを崩した、と認知されてしまいかねない。そうなると、そのキャラは、描き手が意図したよりも不美人として受け取られてしまうのである。これまた表現上の不自由である。
 まとめよう。非礼を承知で言えば、世の人々はたいていそれなりに不美人である。そういった「日常的な不美人さ」あるいは「凡庸な不美人さ」を表現できなければ、不美人を描いたことにならないのであるが、オタクジャンルではそれが意外に難しいのである。

蛇女属性 追加

 私は獣耳属性や獣人属性にたいする嗜好をそれほどもっていない。なにかピンときたのがあったかなあ、と記憶を探っていて思い出したのが、中島らもの短編集『白いメリーさん』所収の「クロウリング・キング・スネイク」であった。蛇女ものの作品である。
 主人公の少女の姉が突然蛇女になってしまった。父親によれば、どうやら一族の女性のみに伝わる蛇の呪いのせいらしい。自分もいつか蛇女になってしまうのか、と狼狽する主人公にたいして、姉は言う。蛇女になってしまったのだから、ヘヴィ・メタルをやろうと思う、と。
 たんなる駄洒落かよ、と思いきや、なんだかんだあってのラストのライヴシーンが実にいい。ネタバレは避けるが、ガツンとくる感じにロックしている。素晴らしい姉ものであり、蛇女ものであり、音楽ものであると私は思う。そういえば、これを読んだ当時はわからなかったのであるが、「Crawling King Snake」とは、The Doorsがカヴァーしているあの曲のことなのであるな。そうか、アレのメタルアレンジだったのか。

方言属性

 関東圏で生まれ育ったこともあり、私は方言にきわめて弱い。方言で愛を囁かれたりすると、もうイチコロである。誰とは言わないが関西弁で眼鏡の魔女っ娘ヒロインが人気なかったりすると、あんまり思い入れなくても自分が否定されたようで哀しかったりする。
 ところで、アニメなどで方言が語られると、ネイティヴの声優が声を当てているにもかかわらず、「それは違う、正確ではない」という人が必ずでてくる。これはたぶん、自分の慣れ親しんだ方言こそが典型的なのだ、という錯覚によるものなのだろう。たまに、もう少し方言(たとえば関西弁とか)の細かい差異に繊細であればもっと萌えられたのでは、と思ったりもするが、こういうのを見かけると、逆に、ある程度判別能力が粗雑だからこそ萌えられているのかもしれない、とも思う。

ポニーテール属性

 キャラクターの絵は正面から描かれることが多い。これはポニーテールという髪型にとっては困ったことである。正面からはテール部分が見えないのだから。ツインテールが隆盛を見た理由のひとつには、二次元で描かれることに親和的な髪型だったから、ということもあるのだろう。そういったわけで、ポニーテール表現は、巨大なリボンを伴ったり、微妙にサイドに位置をずらしたり、といった具合の独特の変化を余儀なくされた。とくに興味深いのは「正面から見える位置へのテールのズレ」という現象である。アレはたとえばサイドテールと名のつくような別種の髪型なのだろうか。それとも、本当は後頭部にあるはずのテールが表現の都合上で正面から見えるように描かれているだけ、つまり、普通のポニーテールがキュビズム的に描かれている、と解すべきものなのだろうか。このあたり、興味深い。『ラブプラス』みたいに3Dだとこういった問題は出ないか、というとそうでもないようで、やはり高嶺愛花のポニテはリボン大きめ、結い位置高めなのである。
 私自身はこの髪型にあまり執着はないのだが、仲間うちに一人狂信的なポニテ者がいて、ちょっと前にそいつと酒飲んでいるときに思いついた話である。そういえば奴も『ラブプラス』買ったようだから、今度話を聞いてみなければ。

(ま行)

メイド属性

 「ご主人さま」は駄目だ。「旦那さま」じゃなきゃ。「ご主人さま」と「メイド」は、それで関係が完結してしまい、すぐにメイドプレイに堕落する。ところが、「旦那さま」には、「旦那さま」とは別に「奥さま」と「お嬢さま」と「お坊ちゃま」がいるという含みがある。メイドを「人」が雇っているんじゃなくて「家」が雇っている、これがいいのだ。身分の壁がグンと高くなった感じがするでしょ。それでもって、上流階級のお屋敷の暗闇で夜毎行われるネットリした背徳的で淫靡なアレがナニするなかに巻き込まれてこそのメイドである…というのは趣味に走りすぎか。最後は館が猛火に包まれて崩壊するの。脳が昭和官能小説だ。

(や行)

(ら行)

リアリスト属性

 そもそも現実離れしていることが多いオタク系作品においてリアリストを描くことは難しい。戯画化されたリアリストは、ある意味でリアリスティックではなくなってしまうからだ。地に足のついたしかたで上手に描かれているリアリストとして、私は、『Yes! プリキュア5』および『Go Go!』の夏木りんを挙げたい。
 一般に、自分のいちばんやりたいことを目指すことは尊いことだ、と思われている。とくに若い人にとって夢を諦めないことは大切ですよ、ということになっている。虚構の作品においても、この価値観は揺るがない。いや、虚構の作品においてこそ、強調されると言うべきか。それが子ども向け番組であればなおさらだ。そして、まさにそうであるがゆえに、「自分の一番目の夢を諦めて二番目の夢を目指している」ようなキャラクターは、独特の味のある雰囲気を身にまとう。
 さて、夏木りんなのだが、この娘、あれだけ運動できるような描写があるのに、スポーツ関係で将来なにかしたい、という夢はない様子である。このあたりが、お嬢様学校のサンクルミエールでは無敵クラスの運動能力であっても、一歩その枠を出たらそれほどでもない、と、自分の実力を冷静に見極めてしまっているように私には読める。たんに宝飾デザイナー業のほうにより興味があるだけ、という読みは、素直であるが浅い。彼女の進路選択の裏には、かなりシビアな現実感覚があるのだ。ここに、夏木りんの地に足のついたリアリスト属性を読みとり、それが彼女の魅力の核を構成している、と解するのが私の立場である。だからこそ、彼女はあれほどまでに夢原のぞみに惹かれるのだ。

(わ行)

(その他)

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