『To Heart 2』についての覚書

0 はじめに

 『To Heart 2』、なかなかに楽しめました。傑作名作とまではいかないが、有名タイトルの続編を名乗るだけあって、真面目につくったギャルゲーを久しぶりにやったという気にさせてくれた。
 さて、よい作品というものは、萌えて心地よいのはもちろんであるが、しばしばオタクに反省や思索のきっかけを与えてくれるものでもある。
 この作品も然り。いくつか気づかされた点、改めて確認できた点があるので、簡単にではあるが、指摘しておくことにしたい。
 ということで、以下、『To Heart 2』から四人のヒロイン、向坂環、十波由真、ルーシー・マリア・ミソラ、小牧愛佳を取り上げ、それぞれ萌えのあり方について考察する。そこから、姉萌え、眼鏡っ娘、珍設定、純愛といった、萌え論の重要な諸主題について教訓を取り出してみたい。当然のことながら、重度のネタバレを含むので、注意していただきたい。

1 向坂環…姉萌えの一般理論から

 まずはタマ姉である。
 端的に言って、タマ姉シナリオの出来はあまりよくない。萌えるエピソードを適切な仕方で積み重ねることができていない。
 では、どこが悪いのか。私は既に「姉萌え憲章」において、姉萌えのあり方についての一般的理論を提示しておいた。これに照らしてみると、理由がわかる。タマ姉は、基本的な設定の段階で姉萌えの原則を踏み外しているのである。
 姉萌え憲章の1−4「お姉さん魂は能力的な優越にその理由をもってはならない」および2−1「お姉さんは背伸びしている」を思い出していただきたい。姉萌えの醍醐味は、姉の「お姉さんだからお姉さんしなきゃ」という「背伸びの感覚」にある、というのがそこでの私の主張であった。
 タマ姉はここに違反している。タマ姉は能力的に完璧にすぎて、姉萌えに必須の「背伸びの感覚」に決定的に欠けるのだ。タマ姉は姉役どころか母親役までをも完璧にこなしてしまっている。そしてそれを苦にもしない。隙がなさすぎるのだ。
 一応、「親しい人々にだけ見せるヤンチャ」要素と「オバQ的犬嫌い」要素はある。しかし、これではまったく足りない。姉というものは、もっとマヌケでダメなところをもたなければならない。たとえば、内向きの性格をもっともっと極悪なものにしておかなければならないのだ。姉は保護者として完璧であってはならないのである。
 こう考えてみると、小牧愛佳のほうが姉キャラとしてはずっとよくできている。「お姉さんだからお姉さんしなきゃ」という痛々しいまでの「背伸び」の姿が、愛佳シナリオには詰まっている。なんとも愛しいではないか。これがまさに「姉としての小牧愛佳」の萌えを成立せしめているわけだ。これが正しいのだ。
 まとめておこう。
 タマ姉は姉にしては完璧にすぎる。このキャラ設定に基づいて姉萌えシナリオを展開するのは、不可能ではないにしろ、かなり難しいと思われる。そのために、タマ姉シナリオは、どこかタカ坊おいてきぼりの不完全燃焼なものに終わってしまったのではないか。もう少しタマ姉の本性がダメ人間であれば、「盲目的に崇拝してくる下級生」ネタなんか、いくらでも面白く料理することができたであろうに。
 残念なことである。

2 十波由真…隠れ屈折眼鏡っ娘

 十波由真は面白い。
 彼女は眼鏡っ娘である。劇中にはほとんど眼鏡をかけた姿は出てこない。しかし、眼鏡っ娘である。
 なんとなれば、由真シナリオは、まさしく眼鏡っ娘ならではの萌えを狙ったものとなっているからである。
 私は先に「屈折理論」において、眼鏡っ娘の萌えどころを「屈折」という点から整理しておいた。眼鏡のレンズは屈折する。同様に眼鏡っ娘も屈折する。そして、その屈折こそが萌えの肝をなすのである。
 さて、由真シナリオであるが、まさに「眼鏡なし由真」と「眼鏡あり由真」の差異、すなわち眼鏡的屈折のありようこそが主題となっている、と解しうる。そして、由真の屈折は、屈折理論における第二第三屈折、すなわち自己表現および自己理解の屈折と分類できよう。私の理論に則るならば、由真シナリオは徹頭徹尾眼鏡っ娘的であると解釈できるのだ。
 さらには、由真シナリオのオチのつけかたにも着目しておきたい。
 「眼鏡あり由真」が本当の姿で、「眼鏡なし由真」は仮面だった、ということになっていないことに注意されたい。「どちらも本当の彼女だからひっくるめて愛する」というのがオチである。そして、ラストの由真はきちんと眼鏡をかけているのである。
 これは眼鏡っ娘萌えの観点からして、たいへんに正しい態度である。高く評価したい。「屈折理論」で述べたように、眼鏡っ娘萌えとは、屈折をもひっくるめて眼鏡っ娘を愛する、という点において成立する。
 そして、由真シナリオは、「最初は気づいていなかった彼女の屈折」=「彼女の眼鏡」を主人公が発見し、その「屈折」=「眼鏡」ごと彼女を愛するに至る、という流れになっているのである。まさに眼鏡が核となった眼鏡っ娘シナリオなのだ。

3 ルーシー・マリア・ミソラ…何のための珍設定か

 るーこシナリオは、まあ出来のよいものではない。
 しかし、その失敗を分析することで、いくつかの教訓を引き出すことができる。とりたてて目新しい論点というわけではないのだが。
 問題は当然のことながら、ヒロインが宇宙人という珍設定にある。たしかに一応の前作である『To Heart』からロボットだとか超能力者だとかいった珍設定キャラはあったわけで、珍設定そのものが悪いというわけではない。ただ、るーこシナリオの珍設定は、残念ながら失敗している。
 そもそも、なぜ珍妙な設定をするのか。それは、通常の設定では生まれえないような萌えを成立させるためであるはずだ。別にハードSFをやりたいわけではないだろう。萌えのための珍設定であるはずだ。
 たとえば、『To Heart』のマルチシナリオは、いまさら言うのもなんだが、ヒロインがロボットという激烈に珍妙な設定である。しかし、それはとてつもなくピュアな純愛を描き、萌やすための設定であり、その目的がきちんと果たされているから気にならないわけだ。
 至高の名作『One〜輝く季節へ〜』なんかを考えてもらってもいい。もっとも出来のよい里村茜シナリオあたりを想起されたい。
 ご承知のとおり、『One』においては、何が何やらワケのわからない「えいえんの世界」なる珍設定がシナリオを貫いている。はっきりいって意味不明、整合的な解釈は不可能である。しかし、それでいいのだ。
 「えいえんの世界」設定は、「他のすべての人間が僕のことを忘れてしまっても、彼女だけは僕を忘れない」という状況を構成することで、「二人だけの純愛空間」をきわめて純粋な形態で成立させるためのギミックである。
 すなわち、「えいえんの世界」もまた、徹頭徹尾萌えを盛り上げるための設定であり、それが成功しているからこそ、その珍妙さに誰も文句をつけようとはしないのである。
 まとめればこうなる。真面目にSFする場合を除けば、珍設定が正当化されるのは、「萌えを効果的に盛り上げる」という目的に適っている場合のみなのである。
 さて、ひるがえって、るーこシナリオの宇宙人設定はどうか。まったく逆の効果を生んでしまっている。珍設定に由来する逆境に主人公たちは置かれるわけだが、その逆境があまりに浅薄に珍奇であるがゆえに、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまってテキストを読み進める気も萎えてしまうのだ。
 ギャルゲーやエロゲーの珍設定の失敗としては、ありがちなものなのだがね。

4 小牧愛佳…純愛は世界を救う

 小牧愛佳シナリオは素晴らしい。多くのことを教えられた。
 姉萌えの観点からの分析は、タマ姉シナリオを検討した際に簡単に示しておいたので、省略する。ここでは、純愛シナリオはどうあるべきか、という観点から少々語っておきたい。
 個人的な事情であるが、私は純愛モノがそれほど得意ではなかった。理屈は「燃えは萌えに優先する」において述べておいた。
 かいつまんで言えば、こういうことだ。
 純愛シナリオの多くは、二人だけの完結したラヴラヴな世界を練り上げていくことにその全精力を傾ける。しかし、二人だけの世界に浸る恋人たちを見るたびに、私は以下のように思ってしまう。君たちが安んじて純愛物語を展開できるのは、ヒビキさんたちが日々鍛えに鍛えたその力で我々の日常生活を守ってくれているからではないのか、と。自分たちの純愛にどっぷり盲目的に浸かってヒビキさんたちの死闘を忘却する、というのは、許しがたい罪ではないのか、と。
 こういう事情なので、私はつねづね「燃えオタとしての信念を貫きつつ純愛に素直に萌えることは可能か」ということを考えていたわけだ。
 愛佳シナリオは、それに一つの答えを与えてくれた。
 そう、二人だけの世界の深みにどんどん嵌っていくばかりが純愛ではないのだ。俺(?)と愛佳との純愛はね、たとえば郁乃の幸せにも繋がっていくものなのだよ。そしてまた、愛佳本人に「自分はこんなにも周りのみんなに愛されているのだ」ということを教えてくれるものでもあるのだよ。
 そうなのだ。二人だけの世界に引きこもっていく、ということは、純愛成立のための必要条件でもなんでもないのだ。
 このシナリオにおける純愛は、図書室奥の狭い書庫という「二人だけの世界」を超えることにおいてまさに成就するのである。
 技法の観点から言えば、ラブコメは基本的に恋愛の成就をゴールとする物語なのだが、そのゴールに別の付加価値をつけることで、物語の読み手の満足度を上げている、ということになろうか。このシナリオでは、二人の幸せは周りのみんなの幸せでもあるのよ、ということを付け加えているわけだ。この手の技のやりすぎは逆効果だろうが、ここでは上手くいっているのではないか。
 ともあれ、これまでの私の純愛批判は誤解に基づいた不十分なものであった。
 小牧愛佳という女性に私は改めて「純愛のなんたるか」を教えられた。
 ありがとう、ああもう今すぐ嫁に来てください。

5 おわりに

 オタクの妄想する力は侮れない。シナリオやシステムがいまひとつであっても、なんとなく属性が合い、そこそこの萌えエピソードが与えられていれば、あとは脳内補完して萌え狂うことができる。そこそこ丁寧につくってあれば、だいたいの欠陥は気にならなくなってしまう。ギャルゲーについて精密な読みをすることは、オタク的にはあまり意味がないのかもしれない。
 ただまあ、「愛佳かわいいよ愛佳」と繰り返すだけでは芸がないので、ちょっと辛口に批評をしてみた次第である。萌え論の重要な諸主題について考え直すことができて、なかなかに有益であった。
 他にもヒロインはいるのに無視するのか、と言われると心が痛むが(とくに笹森花梨はわりと気に入っている)、力も尽きてきたので別の機会に、ということにしたい。いろいろ言いたいことがないわけじゃないんだけどね。

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