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七章 近代的制度下の相模原
1 維新後の動揺 top
不穏な世情
一八六八(慶応四)年三月一九日から、神奈川県の政治機関としては横浜裁判所が置かれていたが、これは幕府時代の神奈川奉行所を受継いだもので、裁判所とはいっても、現在のように司法機関としてのみではなく、行政全殷にわたる機関であった。
ついで四月二〇日には神奈川裁判所と改称し、さらに六月一七日には神奈川府となって神奈川四方一〇里を管轄範囲とした。
そして九月二一日に府藩県三治制によって神奈川県となった。
その間、七月一七日に江戸は東京になり、九月八日に明治と改元した。
官軍進駐と同時に、幕府直轄領や旗本領は順次新政府の支配に属し、市域の農村は大体は一八六八(明治元)年末までに神奈川県に入った。
しかし烏山藩領や荻野山中藩領などの大名領はしばらく旧幕時代のままであった。
つまり市域の場合でいうと、鳥山藩領は小山・矢部新田・淵野辺・上溝・下溝の一部と上矢部・大島・田名の全部、荻野山小藩領は下溝の一部で、これらが本藩から離れて神奈川県管轄地域の中にとびとびに存在してしたのである。
一八六八(明治元)年から翌年にかけて、各地方では「世直し」と袮する一揆が頻繁に起っているが、市域ではそのようなことはなかった。
しかし凶徒(きょうと)や盗賊などが盛んに荒し回っていた模様で、同年七月の神奈川県在方(ざいかた)取締係松倉誠輔の通達により、寄場(よせば、一八二七〈文政一〇〉年に幕府がつくった組合紂という村々の連合体の中心地)の磯部村役場では、七月二七日に管内一斉に神社仏寺の床下捜査や山狩りなどを行なうように、各村へ命じている。
同年八月にも松倉は「盗賊が所々へ忍びこみ、あるいは抜刀して押込むなどの犯行が多いから、各寄場では番非人(ひにん)を案内にして森林や山祠(さんし)などに潜伏している不審な者は捕え、取調べのうえ管外へ追い出せ」と命じている。
なお浪人や博徒も横行しており、翌一八六九(明治二)年八月県から
「最近凶徒どもが在方へ立ちまわり種々悪行を働くのを、若者たちがまねをし、博奕(ばくち)や暴行をする者が出てきたことはもってのほかである。
聞込みしだい召捕えよ」と触書を出している。
七〇(明治三)年六月にも県庁では「近来、浪士あるいは脱走人と袮して止宿合力(ししゅくごうりき)を乞うものがあるが、けっして承知してはならぬ。もし不法を申し募(つの)ったら訴えよ」と達している。
明治維新という大転換期に際し、世上一般に物情騒然たるようすが想像される。
一八六九(明治二)年一月、戸長土肥四藩士が連署で版籍奉還(はんせきほうかん)を上奏し、翌七〇(明治三)年六月許可された。
これがきっかけとなって、各藩主もあいついでこれにならった。
そして藩主は藩知事に任命され、家禄として石高の一〇分の一が支給された。
これで藩主たちの土地領有と人民支配の権力は、実際的に政府に取上げられた形となった。
なお政府は一八七一(明治四)年七月、藩知事を一斉に免職させ、完全に全国土と人民を直接支配できるようになった。
これは中央政権確立のための財源確保にはぜひとも必要なことであった。
この時、烏山藩でも藩知事が免官となり、翌一八七二(明治五)年二月に、神奈川県へのすべての引渡しが終了した。
荻野山中藩でも同様であったが、同年一一月にいったん足柄県に属したのち、七六(明治九)年四月に神奈川県となった。
民衆娯楽の禁止
明治維新の原動力は、一般民衆の力によって推進されたものであった。
しかし幕府が倒れて王政が復古しても、民衆のための明るい政治はいっこうにすすまなかった。
たとえば一八七〇(明治三)年閏一〇月の神奈川県庁通達には、
「現在豊年祝いなどといって各村々が申合せ 歌舞伎に類似した手踊りなどを催しているそうだが、このため若者たちは遊惰に流れ、自然賭けごとなどもするようになって風儀を悪くし、世の疲弊の基だから今後いっさい禁止する」
とあり、翌七一(明治四)年七月市在捕亡掛(ほぼうがかり)高橋史生の触書には、
「貧民たちは、長いあいだ洋米を食して飢えをしのいできた苦労を忘れ、昨近、豊年だと思いこみ、風祭りなどといって手踊りを催し、綺麗な着物を着、化粧などする者もあると聞いているがもってのほかのことだ。
もし家業を忘れてこのようなことを行なった際は、ただちに捕縛して厳重糺問(きゅうもん)する。
この旨は巡回先へはもちろん密告をも申しつけてある」とまでいっている。
なおその後、一八七六(明治九)年四月になっても県権令(ごんれい)野村靖から、
「その区内で近来みだりに俳優のまねをし、自宅で演戯をし、はなはだしきは観場を開いて飲食にふけり、淫逸に流れ、家業を怠る者もあるように聞いている。
これは風俗を頽廃させる容昜ならざる所業である。また百事進歩の際の障碍にもなることゆえ、以来素人が俳号がましき行為をするのはもちろん、たとえ本職を雇って社寺境内や自宅などで一時的に開場して観覧させる場合でも、許可を經ず興行することはならない」と通達している。
これらは農民の娯楽を全く抑圧した幕末の触言と、何ら変るところがないのである。
2 地方制度の推移 top
戸籍法と新しい管内区画制
廃藩置県のみとおしのついた一八七一(明治四)年四月に、政府はいち早く戸籍法を判定した。
これは全国民を統一的に支配するには、その一人一人を四民平等の建前から身分にかかわらず確実に把握しなければならないからであった。
このため県内をいくつかの「区」に分割し、区の下の各村ごとに戸長(こちょう)を置いて戸籍事務を取扱かわせた。
戸長は従来の名士の兼務であった。この戸籍法は、翌一八七二(明治五)年から実施され、「壬申(じんしん)戸籍」とよばれた。
同年四月に名主・年寄などが廃止され、戸長・副戸長が置かれた。
従来の村役人の事務はいっさいこれに引きつがれて、土地・人民に関する事項をすべて取扱うことになった。
このように、政府は全国的な行政機構を組織するために、一歩一歩村落制度を変革し、一八七二(明治五)年一〇月には大区小区割を実施することにした。
これは同一府県内をいくつかの大区に分け、その下に小区を置して従来の村はそれに含まれるというものである。
しかし神奈川県では翌一八七三(明治六)年五月に、県権令大江卓が、「管内区画の改正」を布達した(これはすでに同年四月の「区画改正之大略」に完成して示されている)。
これによると全県を二〇区に分け、その下に一八五の番組を置くことになっており、相模原の市域は第二〇区に属することになった。
相模原市域に相当する各番組の会所・戸長・副戸長・書記名は右の表のようである。
第二〇区の会所は下溝村天応院にあり、区長は田所範高、副区長は和田直栄、学区取締は大矢弥市、書記は柚木易翠・片野要助であった。
なお大小区制発布後の神奈川県の各区の称呼は「相模国高座郡第弐拾大区之内上鶴間村」というように小区は用いていない。
「区画改正之大略」によると、戸長・副戸長の人選の方法は、小前(こまえ、小作人)一〇〇戸につき五人の代議人をあらかじめ選挙しておき、この代議人の入札(いりふだ、投票)によって定める。 |

「管内区画改正亅下の相模原市域 1873(明治6)年
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区長・副区長・戸長・副戸長とも高一〇石以上のものを選挙する、ただし特別人望のあるものはこの限りではない、区長以下の任期は四年とする、などが規定されている。
これによって正副戸長が改選されたのは半年後のようである。
大小区制と郡区町村編成法
区番組の呼称は、一八七四(明治七)年六月の県令中島信行の通達によって廃止され、第一区から順次に第○大区第○小区と改称することになり、相模原市域は第二〇大区の第二小区から第八小区までとなった。
しかし大小区制では農民たちの実際的生活基盤である近世以来の村落が、法的にその存在を認められなかった。
そのため区戸長らがややもすると村民たちに相談せず、村を無視して土木工事を起こしたり共有物を売買したりして問題を生じていた。
そこで政府は、一八七六(明治九)年一〇月からこれを抑制する規則を制定して、村には総代を置いてある程度の権限をもたせ、区戸長の専横をおさえようとした。
そしてなお大久保利通の意見によって、一八七八(明治一一)年七月に「郡区町村編成法」が発布され、大小区制は全く廃止された。
この法により、県の下に郡制を布き、郡長か任命し、部役所を置いた。
そしてその下に近世からの村々そのまま存置した。村には戸長を置き、総代人のなかから選ぶことにした。
市域の属する高座郡役所は藤沢に置かれ、郡内一一〇か村を管轄し、初代郡長は稲垣道生であった。
当時の市域の戸長は右の表のとおりであった。なお郡区町村編成法と同時に、地方税規則・府県会規則が公布され、これを三新法と称した。
その後一八八四(明治一七)年六月、従来の村はそのままにして、戸長だけを数か村一名とし戸長役場を置いた。
市域の戸長役場は次のようであった。
新戸(しんど)・磯部・下溝・当麻一戸長役場(位置下溝)、上溝・田名はそのまま、大島・上下九沢一戸長役場(位置大島)、橋本・清兵衛新田・小山・相原一戸長役場(位置橋本)、上鶴間・細野森・淵野辺・上矢部・矢部新田一戸長役場(位置鵜野森)、そして戸長は公選から官選になった。 |

市域の戸長 1878(明治11)年、
郡区町村編成法による。
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徴兵令の発布
政府が王政復古の当初から考えていた軍事権の掌握と常節軍の設員も、廃藩置県の実現によって可能となった。
軍隊の設置については、最初、大村益次郎が国民徴兵制を主張したが、政府部内の反対にあい、やがて刺客の手に倒れた。
その後、山県有朋がヨーロッパに留学して兵制を研究し、帰国後軍隊設置をすすめることになった。
廃藩と共にまず諸藩の軍隊を解散させ、精強なものだけを残して、東京・大阪・東北(仙台)・鎮西(小倉)の四鎮台に配置した。一八七二(明治五)年一二月一日、徴兵制が発布され、全国の壮丁(そうてい、成年の男子)をことごとく兵籍に編入し、国家防衛にあたらせることとした(徴兵令刊布は翌年一月)。
陸軍を大別して常備軍(服役三年)・後備軍(第一第二各二年)・国民軍(男子一七歳〜四○歳)の三軍とした。
このため一八七三(明治六)年一〇月には、明年一七歳となる男子を父兄・戸主からもれなく届け出るよう、大江県権令から各区長へ通達している。
徴兵検査をうける成丁は二〇歳であるが、徴兵令第三章常備兵免役概則によると、次に該当するものは兵役免除になることになっていた。
@身長曲尺(かねじゃく)五尺一寸(約一五四・五センチ)未満、
A身体虚弱で持病がある者・不具者、
B官省府県の奉職者、
C陸海軍生徒で兵学寮にある者、
D文部工部開拓其他の公塾に学んだ専門生徒・洋行修業の者・医術馬術学習者、
E一家の主人、
F嗣子、
G独子・独孫、
H徒刑以上の罪科ある者、
I父兄が病気または事故のため代って一家を治める者、
J養子、
K徴兵在役中の兄弟のある者、以上一二項である。
当時の国民は徴兵に応ずることを喜ばず、なんとかして自分をこの免役概則に該当させようとして苦心する者が多かった。
たとえば一八七三(明治六)年三月書上の相原村壮丁名簿で、五名全部が五尺一寸以下で、なかには四尺二寸の者がいる。
八二(明治一五)年田名村壮丁名簿によると、適齢者一九名のうち身体関係免除者四名、身長不足二名、嗣子一〇名で結局徴兵該当者は三名となっている。
戸主が病弱で家計が困難のため、当人が入営するときは「その族は餓死するを待つのみ、真に事情びん然のはなはだしきこと見るに忍びず」と、同一文句で戸長が添書(てんしょ、そえ書き)している例もいくつかみられる。
また養子関係のいわゆる兵隊養子の例も多く、なかには検査後離別復帰して、戸長から再度屈け出をしている者もいた。
はなはだしいのは下溝村の一八八〇(明治一三)年の例のように、徴兵検査に替え玉を出してのがれようとし、発覚して懲役四〇日のところ、自首して許された者もある。
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なお下検査の際、行方不明の者や入営後の脱走者も多く、一八七五(明治八)年七〜八両月、東京鎮台では脱走者が三名あり、見当たりしだい取押えるよう、県から各区へ通達している。
以上のような事実は、政府が国民に平等の人権を得させ、兵農合一の基を開いて、恩恵を与えたような顔をしていても、国民は少しも喜んでいなかったことを示している。
また徴兵告諭中の「血税」という語を誤解し、一八七三(明治六)年六月から八月にかけ、徴兵を喜ばぬ民衆が暴動を起こした。
政府はこれらの民衆蜂起の際は士族出身の鎮台兵で鎮圧し、その後の士族たちの叛乱の場合は徴兵常備軍を用いている。
こうして士族兵と徴集兵とを適当にあやつり対抗させながら、しだいに国民常備軍を増強していったのである。
3 畑作地帯の地租改正 top
地租改正への動向
明治新政府か成立したので、農民たちは今までの大名旗本らによる苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)から免れることができるものと期待していた。
しかし政府発足当時の財政源としては、旧幕時代のままに農民から徴収する年貢米と少額の代金納が最大の収入であったから、それを変更して農民負担を軽減することはできない状態にあった。
それでとりあえず大名旗本領の租税・戸籍などの記録を報告させ、租税法はしばらく旧制のままにして改正を要するものは申告させ、その貢納条目を定めた。
なお会計官に命じて維新以後の軍国の経費と租税の多寡とを検討させた。
一八七一(明治四)年一月には、農民が自己の所有地をかくしたり、勝手に地目(じもく)を変換することを禁じた。
しかし廃藩置県後、政府が全国の土地人民を一手に掌握するようになってからは、従来のままの三〇〇に近い藩主たちの年貢徴収法では統一を欠き、また現物納では輸送が大変で、これを現金化することが非常にやっかいであった。
政府はこのような理由から、一定の租税額を金納によって徴収し、正確な歳入出予算を編成しなければ貨幣経済による近代国家として立ちゆくことができないと考えた。
そこで新しい土地制度・租税制度を旅行する必要に迫られ、その方向に向かって徐々に切換えていった。
まず、一八七一(明治四)年九月、農民に田畑作物栽培の自由を認め、ついで夫米永銭(ふまいえいせん、労役の代りに納めた金銭)の旧制を廃した。
翌七二(明治五)年二月には土地売買の禁止をといて、人民の土地所有を確認する地券(ちけん)下付規則を頒布(はんぷ)した。
七三(明治六)年六月には田畑石高の称を廃して反別制に切換えた。
そして同年七月二八日、地租(ちそ)改正条例が発令されたのである。
地租改正萸例の要点は、――
第一に、土地の価格を政府で定め、その三パーセントを地租(土地所有税)として政府がとり、地租の三分の一以内を町村が地方税としてとることができ、年の豊凶によって税金の多寡には変化はない。
第二に、地租は土地所有権を有する個人からとり、その者が納税できなくとも誰も連帯責任は負わない。
第三に、地価は改正後五年経過すれば時価によって改正する――というものであった。
そしてその地価の算定方法は、田一反歩の標準収穫を貨幣に換算し、それから種もみ・肥料代・地租・村入用を引き去り、残った部分を利子率で割り、その価を地価としたものである。
なお上記の土地収益からは労働賃金にあたる部分は差引かれていないので、農民の耕作労働に対しても課税されていることになる。
そしてこの改正によって、農民の納税負担は軽くなるどころか、かえって重くなる始末であった。
改正による重圧
神奈川県では、一八七四(明治七)年、地租改正の趣旨を全管内に布達し、各区戸長の下で一名を取締係総代人に任じて、地租関係事務をもっぱら管掌させることにした。
地租を決定して課税するには、できるだけ精確な地図を作成することが先決であるから、まず測量器具を用意させ、係官を派遣して土地計量作図の方法を十分に指導した。
一方、農地の地位等級の査定は、その基準とするために全県下に一九二村の模範地区を置き、地味の肥瘠(やせ、ひそう)・耕耘の難易・土地の便否・水旱(水害と旱ばつ)の被災などについて、徹底的に衆議をつくしで検討し、一筆ごとにその当否を検査した。
そして、ここを中心にして適当に近隣の村々を比較して不公平なことがないように「甲表」をつくり、ついでこれを大区ごとにまとめた「乙表」が検討修正のうえ、全県的な「丙表」を作成した。
これが完成して新しい租額が課税されたのは、一八八〇(明治一二)年頃であった。
相模原地域では十字縄入による土地計量製図は、一八七五(明治八)年から始まっており、七月末に神奈川県地租改正係村田茂質が各村を巡回して反別(田畑の面積)検査をした。
田畑その他の改正反別・上中下位当書上代同年八月二〇日限り提出するように中島県令が指示しており、改正反別調査済の上は地引全図へ番号を記入し、四隣村々の調印を求めて、九月一五日限り県庁に持参するように命している。
その間、内務省量地課から実測官員が相模野へ派遣され、官用地となるべき場所へは旗を立てた。
なお入会秣場の官有地の部分を、測量の際に村方有力者がみだりに自分の所有地に取込まないように注意し、この際、申出ずに後日発覚した場合は厳重に処分すると中島県令が通達している。
市域の地租改正土地台帳は一八七六(明治九)年に完成したが、その結果、新反別は少ない村で一・五倍、多い村では約六倍近くに達している。
一、二の例をあげると、新戸村は旧村高六一八石六斗八升五合で、この年貢を金にすると、一〇七八両一朱余(一〇七八円)となる。
これに対して、改正後の地租は一八五五円六一銭であるから、約一・七倍となり、反別では約二・九倍となった。
田名村は一八八〇(明治一二)年の地租は二八七五円余で、これを近世末期の年貢を金に換算した五二三円五七銭余に比較すると、実に五・五倍となる。新戸村に比較すると非常な増徴であるが、これは田名村が田が少なく畑が多かったためである。
相模原地域のような畑作地帯は、地租改正によって非常な重圧を受けることになったのである。
地租修正運動
一八七六(明治九)年以来、各地で引続き地租改正に反対する暴動が起った。
そのため、翌七七(明治一〇)年一月、地租を地価の三パーセントから二・五パーセントに引下げ、地方税は地租の五分の一(従来は三分の一)を越えないように命じた。
相模原地域の地価修正運動としては、一八七八(明治一一)年一月、清兵衛新田の「地価等級訂正願」がある。
同地は新開(新しく開墾した土地)で地味が非常に悪く、よく耕して肥料を十分に与えないと作物がとれない土地であるのに、地価等級を一段階あげられたのは不当であると、丙表作成の際に請願している。
新磯村でも、一八九二(明治二五)年に請願運動を起こしている。
それは、――地租改正は地価の査定がきびしい土地とゆるやかな土地とがあって適正を欠いていたにもかかわらず、八〇(明治一三)年以来、修正の道をとざしてしまっていたので、他県にくらべると地租の負担が過重であった神奈川県では、県民がつねに嘆いていたところである――として、その修正を第四回議会直前に貴族院議長に請願していたのである。
すでに「地価修正請願期成同盟」が全国的に組織されていて、第一議会当時から内閣・議会に圧力をかけていたのであるが、新磯村の運動もこの全国的運動の一環として行なわれたものであった。
しかし政府としてはかえって地租増徴の機会をねらい、農民が地価修正の恩恵をうけることは、ついに実現をみることができなかった。
4 自由民権運勁と武相困民党 top
自由民権運動の展開
自由民権運動の起点は、一八七四(明治七)年一月の「民選議院設立建白(けんぱく)」にあるとされている。
これは板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らが太政官(だじょうかん)に提出したもので、政治を専制官原の独占にせず、一般民衆の参画できる民選議院を設立すべきであるというのである。
板垣らはこれと同時に愛国公党を組織し、民権を伸ばすことは国権を伸ばすことだとした。
この運動は広く一般に普及し、憲法と議会を求める国民運動に盛りあがった。
この運動は、さらに明治一〇年代に入ると、愛国社の再興から国会期成同盟へと展開していった。
政府はこれに対して、民衆の政治批判を禁止して運動をおさえる一方、三新法発布の行政措置(そち)により、それらの組織を分裂させ、その勢力を弱めようとしたがあまり効果はなかった。
こうした自由民権の思想は全国各地に波及し、地方民権運動を展開していったが、相模原市域での動きをみてみよう。
一八八一(明治一四)年一月三〇日、原町田の本吉田屋で武相懇談会が開かれた。
発企人は石坂昌孝・佐藤貞幹・神藤利八らで、聴衆は約三〇〇名、市域からの参加者は五一名であった。
この後、武相各地では盛んに演説会や懇談会が開かれた。
同年八月、民権派政治結社の融貫社(ゆうかんしゃ)を結成した。
旨は、日本を立憲帝政とするため「専(もっぱ)ラ政事ノ改良ヲ謀(はか)リ、思想知識両(ふたつ)ナガラ彼此(ひし)融合貫通シ」というのである。
石坂昌孝・村野常右衛門・青木正太郎・山本作左衛門・佐藤貞幹らが発企で、事務所は原町田の渋谷仙次郎方に置き、結成時の会員は約一五〇名であった。
当時、山本・神藤両名は高座郡内に相国社という結社をつくっていた。
また両名は板垣退助を連れてきて、淵野辺村の鈴木理平宅に宿泊したという(「鈴木理平覚書」による)。
同じ年一〇月、自由党が結成され、板垣退助が総裁、中島信行が副総裁となった。
市域の民権派の入党は翌八二(明治一五)年七月に石坂昌孝を中心とする融貫社員二〇名が最初で、同九月、山本作左衛門がこれについだ。
一八八四(明治一七)年の自由党員名簿によると、全国党二〇四七名中、神奈川県党員は二六八名(うち南多摩郡九〇名)で、秋田県についで二位である。
市域の党員は山本作左衛門と新戸の川島録之助・平片万五郎・安藤源太郎の四名となっていて、みな地主層である。
一八八三(明治一六)年一月二七日、山本作左衛門は細野喜代四郎・井上光治らの同志と下鶴間の松屋に高座・鎌倉両郡の有志を集め、毎月定期的な政談演説会を開くことを決定した。
そして三月三日に上溝の角長楼、翌四日に上鶴間の鶴林寺で演説会を開いた。
なお六月には自由新聞主筆古沢滋その他党幹部を招いて、水郷田名で武相自由党の大遊船会を開いた。
神奈川県会での民権家
この間、一八七八(明治一一)年七月の府県会規則の制定は、国会開設への足がかとして民権派も望むところであったが、これも官治的色彩が強く、選挙資格は成年以上の男子で一定の資産を有する者だけの制限選挙であった。
神奈川県の最初の県会議員選挙は、一八七九(明治一二)年二月で、区部(横浜)五名、郡部四二名、計四七名で、高座郡選出議員は菊地小兵衛(萩園)・今福元頴(中新田)・山本作左衛門(下九沢)・神藤利八(相原)の四名であった。
山本作左衛門は一八四八(嘉永元)年、名主弥七の次男として生れた。
家は代々農業を営み、醤油醸造をかねていた。
兄が死亡したため一八歳で家をつぎ名主となったが、明治になってからは第二〇大区五小区の区長を勤めた。
二九歳で県会に当選し、以来連続四期議員兼常置委員を勤めた。
非常な無口で平素は議場でも沈黙をつづけたが、いったん問題が生じると、堂々と正論を主張し、事を決したという。
神藤利八の家も農業を営み、酒造と質屋を兼業して石高四〇石を有する豪農であった。
若くして石野家知行瑣の名主を勤め、三三歳で県会に当選した。
山本・神藤の自由民権運動における活躍はあとで述べるが、いずれも生命にめぐまれず、神藤は一八八一(明治一四)年八月。自宅の土蔵で夫人と共に自殺した。原因に不明である。
山本は一八八六(明治一九)年三月、東京四谷の客舎で三八歳で病死した。
次の辞世を残している。 |

山本作左衛門墓誌銘
下九沢の金泉寺境内にある
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おしむべきものにはあれど 玉の緒の絶えての後の名こそおしけれ |
神奈川県会の初代議員には、民権派の石坂昌孝がなり、ついで小西正蔭・今福元頴らがなったが、当初は行政当局に対抗する姿勢が強く、とくに一八八〇〜八一(明治一三〜一四)年の備荒貯蓄法などではまっこうから反対し、廃案を議決した。
しかし野村県令は松方内務卿の指示をあおいで強行した。
一八八〇(明治一三)年三月から六月にかけて、神奈川県では民権派県会議員の指導で国会開設請願運動が行なわれ、県下九郡二万三五五五名の代表一四名が連署した「国会開設ノ儀ニ付建言」が元老院議長大木喬任あてに提出された。
高座郡では山本作左衛門・今福元頴・神藤利八の三名が名を連らねている。
内容は政府の外交・国防・財政などの内外の失政を鋭く非難して、今日の日本を人民の日本とし、日本の艱難を人民の艱難とするために、すみやかにこれに参政権を付与し、国会を開設せよと強調している。
これはこの年二月、今福・神藤両名が県会代表として全国地方官会議を傍聴した際、全国の有志議員らと国会開設運動を約束した、その結果にもとづくものであった。
これらの運動に対して、政府は一八八〇(明治一三)年、「集会条例」などで抑圧はしたが、すでにその実施のやむをえないことは承知していて、内々申合せはしていたのであるが、八一(明治一四)年政府部内に分裂を生じ、なお北海道官有物払下げ問題で新聞の一斉攻撃をうけ、政府は苦境におちいった。
そこで世論を緩和するため、払下げを中止し、九〇(明治二三)年、国会開設の詔勅を発布することとなった。
農民の窮乏
一八八一(明治一四)年以来の松方大蔵卿の経済政策は、農村を不況のどん底におとしいれた。
しかも八四(明治一七)年九月の相模湾台風は、これにいっそうの拍車をかけ、天保以来の大飢饉となった。
下層農民はもとより富農層にいたるまで多額の借財に苦しみ、そのため八三(明治一六)年末から八四(明治一七)年にかけて、各地で負債の延納や減免を要求する集団的な農民騒動が頻発した。
これに対し高座郡長今福元頴は一八八四(明治一七)年七月二五日、「負債者総代と称する者が、暴力で貸主をおどした場合は、すみやかにもよりの警察へとどけ出よ」と各戸長あてに通達している。’
今福郡長の警告から五日後の七月三〇日に、上鶴間村の負債農民三〇〇名が、谷口青柳寺となりの鹿島神社境内に集合し、返済方法について協議した。
そして八月一〇日には高座・南多摩両郡の窮民数千人が御殿峠に集合し、負債延納要求のため八王子目がけて押しかけようとしたが、警察の必死の説諭によって、大部分は一一日未明に解散した。
しかし一部強硬分子はなお応ぜず、藤沢警察署へ連れていかれ、「責誡説諭」のうえ釈放された。そのなかには相模原市域の者もたくさんいた。
ついで同月一四日から一七日にかけて、津久井・南多摩両郡の者三〇〇人が七国峠(町田市相原町、八王子市大船町へ通ずる標高二二〇メートル余の峠)・高尾山(八王子市高尾町)に集合し、津久井郡役所や八王子の銀行・金融会社へ押しかけた。
これら負債農民の債権主に対する要求は「負債満五か年据置き、その後五〇年で返却、質流れ地所も五〇年で買戻し」などで、それに応じない場合は、実力行使も辞さない勢いであった。
このような負債農民の状態をみた地域の有力者二四名が、この貸借事件の仲裁に立ち、銀行・金融会社へ掛けあって、農民たちの暴動化を防ごうとした。
この仲裁人たちはほとんどが新旧戸長・県会議員らで、そのうち自由党幹部が八名もおり、石坂昌孝・佐藤貞幹・山本作左衛門らはその中心的存在であった。
そして彼ら自身あまた経済不況のため財産を失い、没落にひんした富農層であった。
仲裁人たちは八月二〇日から九月中旬にかけ、まず知事あてに上願書を提出し、銀行・金融会社には個別交渉をした。
八月三一日に同代表らか八王子で第二回目協議の際、同席した困民党の指導者塩野倉之助宅が、翌九月一目家宅捜索され、証拠書類を押収されて同人書記が逮捕された。
これを聞いた農民たちは奪還のため警察署へ押しかけ、以後各所で集合した。
仲裁人が銀行・会社へ交渉した結果の返答は、九月下旬にあったが、「利率を一割五分〜二割程度に低減、元金の三年闘請求猶予、五か年程度の年賦返済」などすべて要求とはほど遠かった。
債権主側の大口株主や頭取の中には、石坂・山本らの同志の自由党員が多数いたので、それをあてにしたのが予想違いとなった。
以後は仲裁人らはいっさい手を引き困民党と離れることになった。
武相困民党
一八八四(明治一七)年夏から秋にかけ、各地に小組織がっくられていたが、同年一一月一九日の相模野における臨時総会で、武相困民党が結成された。
参加者は武相七郡三〇〇か村におよび、「申合せ規約並に維持法」と「決議案」を採択して、監督四名・幹事九名・会計五名・周旋四名を選出した。
このうち市域関係者は、監督に下溝の福田島吉、幹事に上鶴間の渋谷雅治郎・下溝の座間八三郎・小山の井上登一、会計に上鶴間の渋谷元右衛門・阿部要八、周旋に下溝の小山万吉の七名である。
なお事務主任に西多摩郡谷野村の須長漣造がおり、これが活動の中心となった。
同党は行動の基本を合法的な請願に置いたので、まず関係部長に願書を出したが何の効果も得られなかった。
翌一八八五(明治一八)年一月、須長漣造・若林高之亮・佐藤昇之輔が沖県令に面会し陳情したが、知事は強硬な態度ではねつけた。
このことはたちまち農民側に伝わり、一月一四日、相模原大沼新田に集合し、神奈川県庁に向かって示威行進を始めたが、原町田で警官隊に制止され解散を命じられた。
そして同党指導者はすべて逮捕され禁錮(きんこ)された。
市域の幹部たちもこの事件によって家産を失い、妻を離別し、あるいは土地におられずに他郷で一生を終った者もある。
こうして武相困民党運動は敗北に帰し、自由党も前年一〇月にすでに解党していた。
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