****************************************
Home 序章 一章 二章 三章 四章 五章 六章 七章 八章 九章 十章 付録
十章 相模原市の成立
1 新時代への動向 top
戦後の耐乏生活
軍都計画の主要地域にあり、必勝の信念のもとに戦争目的遂行のため一意専念してきた市域の人々は、敗戦と共に、今までの緊張が一時にゆるみ、虚脱状態におちいった。
なかには、戦時中の苦労や疲労の累積から原因不明の病気になる者もあった。威圧的に頭上を飛びかう飛行機は、すべて青色の星のマークをつけたものとなった。
物資の欠乏や食糧不足は戦争中から続いていたが、戦後は物価騰貴も加わって庶民生活の窮迫ははなはだしくなった。
一九四五(昭和二〇)年一二月一三日の相沢菊太郎日記には、
政府ハ米価ヲ引上ゲ一石(こく)百五十円卜云ヒ、一俵六十円ヲ公価トスルモ、目下(もっか)闇取引ハ一千円以上ニテ一升二十五円余、
サツマ(注、甘藷)一貫目十五円以上、此頃初荷ノサンマ魚三尾拾円魚菜皆之ニ準ズ、
人夫自食一人十五円乃至(ないし)三十円、配給米ハ一人一日二合一勺ニテ、此内へ豆カ粉力
麦ガ交リタルモノニテ、人ヲ頼ミテ食ヲ与フルコト不能、買出人来リ金ヲ散ラシ行ク故、
品ヲ有ツ農家ハ大成金者トナル、此頃巻煙草一本拾円トナル由、マッチノ小箱一個七銭ニテ配給アリ、
来客アリテモマッチヲ出サヌ有様(ありさま)。 |
とあり、地主の相沢家すらこの状態であった。
食糧市情は農村地帯だけに市街地区にくらべればまだよい方だったが、それでも非農家や疎開者たちの家では配給の食料品だけでは不足して、甘藷のツルや野草などを食用にする場合もあった。
農家に対する生産物の供出命令は厳重ではあったが、主食以外には余剰もあったので、京浜地帯からそれらを求める人々が多数みえた。
なかには衣類などとの交換もあり、毛布一枚がリュックー袋の甘藷と換えられた。
日常生活の必需品も十分でなく、セッケンその他の衛生用品も不足したので、いきおい不潔となり、のみ・しらみが発生し繁殖した。
そのため駐留軍からDDTという白色の殺虫剤が支所を通して各戸へ配布された。
終戦後の市域における軍関係復員者数は、陸軍軍人四三一〇人・同軍属一五三人、海軍軍人七七五人・同軍属八五人。
ちなみに戦没者は七八九人である。海外からの一般引揚げ者は四五四世帯・一一七六人であった。
なお市域出身以外の満州開拓団その他の引揚げ者が横山上の星が丘・麻溝台・大野台付近などに居住して開発に従事した。
当時の相模野台地は、戦前からの都市建設区画整理事業によって、道路は縦横に通じていたが、戦争の激化に伴う工事の中断によって、大部分はまだ原野のままであった。
区画整理事業の完成
そこで一九四六(昭和二一)年におけるこの事業の進捗状態と以後の完成までの過程をみておこう。
幹線道路の工事はほとんど完了していたが、砂利敷は六〇パーセントが終ったところで、砂利入手難のため中止されていた。
街路樹は植えた。補助線道路は九八パーセント完了していたが、砂利がないので路面は大部分土をかきならしただけであった。
公園は予定三四か所のうち、中央公園と児童公園一か所の整地を完了し、樹木を植えつけたが、戦後の混乱のうち盗まれてしまった。
また墓地移転は三一パーセント=八〇件完了、家屋移転は九〇パーセント=二八〇戸完了、という状態だった。
換地関係は、総面積四八二万三二二坪(約一五九二ヘクタール)を二一設計区に分け、換地引渡しは一九四二(昭和一七)年一二月から順次行ない、四七(昭和二二)年三月に第一一次を完了し、残る第一二次三八万六〇〇〇坪(約一二七ヘタタール)は同年七月までに引渡し完了の予定であった。
事業費は八か年で約五三六万円を支出し、財源は約半分が土地売却代金で、その総額は約三一七万七〇〇〇円であった。
ところか一九四六(昭和二一)年一一月の農地調整法と自作農創設特別措置法の実施により、唯一の財源である事業費充当用地までが農地の対象にされるという障害が起った。
そこでその後は街路や公園の工事を中止し、換地処分その他の完了事務に主力をそそいだ。
その間、事業費充当用地売却問題について関係者間の協陽か続けられ、一九四八(昭和二三)年二月、農林省・建設省・県農地部・土木部の四者協議会が開催され、区画整理施行中で換地処分前の事業費充当用地は、現在農地であっても農地買収計画は成立しないことが確認された。
さらに地元農地委員会との協議により、一九四九(昭和二四)年四月に覚書を交換し、事業財源の見通しもつき、換地処分事務も進行し、五〇(昭和二五)年四月、県営相模原都市建設区画整理事業は完了した。
のち、一九五八(昭和三三)年に相模原市が首都圏整備法第一号に指定された基盤は、実にこの時に造成されたのである。
農地改革
戦後、占領軍のわが国に対する民主化政策のなかで、農村地帯に最も大影響を与えたのは農地改革法である。
占領軍は、寄生地主制が(みずからは農業経営をせず、農民から農地の賃貸料を取るだけの地主)日本軍国主義を支えた基盤の一つであるとして、農村の民主化促進と農業生産力の発展のため、小作地の解放を日本政府に勧告したのである。
最初は一九四五(昭和二〇)年一二月の第一次改革案であったが、これでは不徹底であるとし、四六(昭和二一)年一〇月に第二次農地改革の自作農特別措置法の成立と農地調整法の改定が行なわれた。
これによって、次に該当する農地が強制買収をうけることとなった。
(一)イ、不在地主の農地
ロ、在村不耕作地主、七反歩までは保有、それ以上は買収
ハ、在村耕作地主、自作小作合わせて二町歩まで保有、それ以上買収
(二) 請負耕作地
イ、二町歩以上の自作地で経営不適正
ロ、会社工場等の自作地経営不適正
買収に際しては、農地調整指導員が一筆ごとに農地の実態を把握し、市町村農地委員会はそれによって買収計画を立てる。調査はすべて一九四五(昭和二〇)年一一月二三日現在にさかのぼることにした。
県農地委員会はその計画を承認し、知事はその事実に基づき買収令書を地主に交付した。
買収価格は土地台帳法による賃貸価格の田は四〇倍(全国平均反あたり七五七円六〇銭)、畑は四八倍(全国平均反あたり四四六円九八銭)の範囲で、同時に自作収益価格と地主採算価格(田九七八円五三銭・畑五七七円三三銭)との差額、田反あたり二二〇円(賃貸価格の一一倍)・畑一三〇円(賃貸価格の一四倍)を報酬金として三町歩(県二町三反)までに交付した。
こうして農地改革以前には自作・自小作・小作の割合が全農家のだいたい三分の一ずつであったのが、改革後は自作・自小作合わせて全農家の七七パーセントになり、小作農は非常に減少した。
買いうけた田畑の面積(反別)は、平均一戸あたり三反三畝(約三三アール)で、一九四七(昭和二二)年八月現在、農家戸数七万七〇〇〇戸の七七・二パーセントが買いうけている。
しかしこの実行に際しては各地でいろいろな問題を生じている。市域での例をいくつかあげてみよう。
一九四八(昭和二三)年一月、農地買収は新憲法二九条の財産権の侵害だとして、県内の中小地主二九名が知事と国を相手どって横浜地方裁判所に訴訟したが、そのなかに座間と新磯の地主がいる。
また二町歩以上の自作地の経営が適正か不適正かということで、大野の皇国葡萄園がその対象となった。また、この法律が都市建設区画整理事業の進行に一時支障となったことは前に述べた。なお焼失住宅補給のための庶民住宅敷地の問題では、相原などで多少の摩擦があり、農業生産協同化のための農地交換分合については、田名・上大島などでそれを強力に実施していくうえで若干の問題が起った。
大地主の境遇
農地改革の影響を直接にうけた地主の実例を、相沢菊太郎の日記からうかがうことにする。
一九四七(昭和二二)年三月一三日。
農地ノ所有一町歩以上ハ買上ゲラレ、一体ニ一町歩ノ地主トナルニ付、此頃農地委員ハ活動開始ス、
先祖ガ丹精買集メタル田畑ヲ子孫ガ受続ギ保護増加シタル甲斐ナク、一令ノ法文ノ下ニ所置サルル時至り、
如何ニ時世ノ変化卜云ヒナガラ、先祖ハ知ラズ、我等此時ニ遭フ。感慨無量。
同じく一九四八(昭和二三)年六月一一日、
此頃農地法ニテ地主ハ七反歩保有ノ外ハ、一反百三〜四十円ニテ国ニ買上ゲラレ、財産切捨卜同様ノ目ニ遭ヒ、
小作料ハ組合ヲ作リ、組合員定メタ金ヲ宛ガイニ払込ム平気得意ノ人情トナレリ、悪意増加シツツアリ、
斯ル政府ノ方針デハ悪人自然ニ生ズルニ至ルベク、真面目ナ者ハ損卜帰スル今日トナレリ。
一九四九(昭和二四)年八月二四日、
(橋本支所長地部)書記ヨリ神と第三八六号農地対価金九六一円五〇銭ヲ受取リ帰宅整理ス、
此金ハ大西ニテ〇〇ヘユキクル畑ニ反四畝余卜西ハケ下九畝一四歩ノ畑卜其南東ノ山ニ筆一反五畝余、
合計五反程ノ開拓地ニ買上ゲラレタルモノ、一反歩百九十円卜ハ余リ度外ニテ、悪イ規則卜委員会ノ共産心理ニヨリ片付ケラルル訳ナリ。 |
農地委員会の委員の構成は、地主三名・自作二名・小作五名として委員会における小作人の立場を強くした。
相沢家保有の小作地は七反歩となり、その小作料も高北農民組合では反あたり上地五〇円・中地四〇円・下地三〇円とした。
「此少額ニテハ近頃増徴ノ税ヲ引ク時ハ地主「皆無収ニ帰スル」と憤懣やるかたない心境が現れている。
一方、農地買いうけ側は景気がよく、各地域で農地祭と袮するものが行なわれた。
相原地区では一九四九(昭和二四)年三月二〇日に旭小学校講堂で行なわれ、相沢も招待状はうけたが「不愉快ニ付出席セズ」と記している。
このような地主の憤激は日本が軍国主義から脱皮して、民主化される道程として、まことにやむをえない犠牲であったといえよう。
なお農地改革は一九四八(昭和三二)年一二月末に終了の予定であったが、その根幹となる自作農創設特別 |

大地主の屋敷 江戸時代の名主の格式
を現在も残す長屋門。(東橋本・原家)
|
拑置法がなお存続したため、農地の買収・売渡しはそれ以後まで続行された。
新学制と学校数の増加
真の民主的文化国家の建設は教育の改革によらねばならない。
そのためには、まずその教育の理念・原理を法律として成立させる必要がある。
これが当時の内閣の教育刷新委員会の意見であった。
そこで慎重審議の結果できあがった法案を、一九四七(昭和二二)年三月一七日衆議院で可決、同年三月二六日に貴族院で可決して、教育基本法は成立した。
ついで同委員会はこの基本法の原則のもとに、四六(昭和二一)年三月に来朝したアメリカ教育使節団の勧告を参考として、学校教育法を作製した。
これは六・三制(小学六年・中学三年・高等学校三年・大学四年)の基本構成のもとに、小学・中学九か年の普通教育を無償義務教育とし、従来の複雑多岐な学制を単純化し、教育行政は中央集権の弊を改めて地方分権の方向を明確にする、ということがその眼目であった。
地方分権のための教育委員会法は一九四八(昭和二三)年七月に成立した。
なお教育は国民の責任においてなすべきであるという、教育の社会化のため、PTA(父母と教師の会)の組織化が進められた。
市域では一九四七(昭和二二)年六月結成された大沢小学校PTAが最初であった。
教育基本法・学校教育法の公布により、相模原市域では、一九四七(昭和二二)年四月一日に新磯・麻溝・田名・上溝・大沢・旭・大野第一(大野)・同第二(淵野辺)・同第三(南大野)・座間の一〇国民学桍が小学校と改称して発足した。
ついで五月一日には上溝・田名・大沢・旭・大野北・大野南・麻溝・新磯・座間の九中学校が新設された(座間町は一九四八年九月分離独立する。注=令和の今、座間市には米軍の厚木飛行場がある)。
校舎は大野北中学が旧兵器学校、同市中学が旧通信学校施設を利用して独立していたが、他は小学校の一部校舎に間借りであった。
独立校舎の建設については、町当局・学校・PTAなどが一丸となって、文部省やGHQなどへ陳情に歩き、一九五〇(昭和二五)年頃から徐々に新設された。
なお新磯・麻溝両中学は五一(昭和二六)年五月六日合併して柏陽中学となった。
新制中学校の教員は旧制中学・青年学校・小学校高等科などから集められたが、緊急の間のことであったので市域などでは相当苦労し、在学中の大学生なども採用されていた。
上溝・旭・大野・座間の四青年学校は一九四八(昭和二三)年三月末に廃止された。
戦災地から市域への各種学校の転入もあった。
一九四七(昭和二二)年六月に淵野辺旧兵器学校々舎へ麻布獣医畜産専門学校が移転してきた。
この学校は、その後五〇(昭和二五)年二月に大学開設を認可されて麻布獣医科大学となり、八〇(昭和五五)年麻布大学と改称した高等学校を併設している。
一九四六(昭和二一)年四月には、帝国女子専門学校が大野の旧通信学校々舎へ移転し、四九(昭和二四)年四月新学制により相模女子大学となった。
小・中・高等学校を併設する。
当時、市域内各地域小学校の分教場があいついで独立した。
一九四八(昭和二三)年旭小学校第二分教場は旭第二小学校(のち向陽小と改称)に、四九(昭和二四)年上溝小学校分教場は星が丘小学校に、五〇(昭和二五)年大野第三小学校第二分教場が大野第四小学校(のち谷口台小と改称)に、同年旭小学校第一分教場が旭第三小学校(のち相原小と改称)にとそれぞれ独立校となっている。
のちに述べるような人口増加のため、市は一九七五(昭和五〇)年「子ども急増貧乏白書」を出した。
七四(昭和四九)年には、小中学校四二校中一五校が、生徒数一五〇〇名以上のマンモス校となり、プレハブ教室が建並んでいた。
一九八〇(昭和五五)年四月現在、小学校四七校、中学校二〇校、高等学校一六校(公立て一校、私立四校)である。
大学・短期大学は六八(昭和四三)年北里大学、七六(昭和五一)年和泉短期大学が転入したため四校となった。
なお下九沢に職業訓練大学校がある。
2 市制施行と都市づくり top
市制施行に向って
一九四八(昭和二三)年九月、座間地区が分離独立したため、町政の方向にも若干の動揺がみられたが、町政担当者は戦後まもなく公布された地方自治法の改正による行政の民主化・合理化の気運に従い、県施行の区画整理事業終了の後に続くものとして、五〇(昭和二五)年一〇月に市制促進委員会を結成した。
町長を委員長、議長を副委員長に、議員から選ばれた委員一一名、助役を中心とする市職員を事務員とし、市制施行実現のための第一歩を踏出した。
すでに県が実施している土地区画整理を基盤として、市制計画は着々と進められたが、当時基地経済ブームは活況を呈し、人口も益々増加して、その促進の気運は醸成されつつあった。
一九五三(昭和二八)年九月公布の町村合併促進法は、町村の規模を適正にし、その財政的基盤を強固にすることを目的としたものであるが、合併町村は人口三万以上の基準に達すると競って申請したので、市制施行ブームを現出し、市の数は一躍数倍に達した。
面積・人口とも全国第一位をほこる相模原町も、この機会を得て年来宿願の市制実現に踏切ることにした。
一九五四(昭和二九)年四月に現在地に庁舎を新築したのを機会に、町議会に町政研究会を構成し、一部会として市制研究会を発足させた。
七月二〇日町広報課発行の『広報さがみはら』は、特集号として「合併相模原町の目途、町から市へ」という大見出しをつけ、人口・世帯・職業分布の状態を詳しく示し、合わせて町と市との相違点を述べて、住民の公平な判断を待つと訴えた。
その資料によると、同年五月一日の人口は七万九〇一三名、商工業などの都市的業態従事者も六七パーセントを示し、県条例の要求する都市的施設・要件を十分に備えていた。
なお市民の意志を尊重し、住民自治の精神をつらぬくために、町では八月上旬から中旬にかけて昼夜をわかたぬ地域巡回の町民の集(つど)いを開催した。
これは町の行政施策の積極的な現れであり、また町政担当責任者の市政施行に対する意欲の現れでもあった。
そしてこの集いを通じ、町当局は住民意志の大勢を市制施行の方向にとらえ、いよいよその意志を固めて八月三〇日の第八臨時町議会で市制施行の議案を提案することにした。
清水町長は提案理由の説明で、「緑を多く包含した田園都市の構想のもとに、特徴ある市を形成したい。
工場誘致については努力はしているが、いまのところ案件がととのわず困難な状態である。
そこで住宅問題におおいに考慮を払っている。
中間勤労者階級のための団地計画による住宅政策に重点を置き、これらを対象とする商業政策は中心街重点主義でなく、現在の商店街を特徴あるものに成長させたい。
もちろん農村地帯を軽視することなく、主食中心主義から立体農業への転換をはかりたい。
交通政策としては東京都の円周都市として横浜線の複線化運動を展開したい」と述べている。
議員からは金融の円滑化・工場誘致対策・農村振興策・文化的生産消費地帯の実現などの意見が出た。
慎重な討議ののち、数名の議員から原案支持の演説があり、全員一致で可決された。
九月三日「相模原町を相模原市とすることの申請」書類は、ぼう大な添付書類をそえて、内山県知事あてに提出された。
一九五四(昭和二九)年一一月二〇日、神奈川県下第一〇番目の市として相模原市が発足した。
この日、秋雨けむる庁舎横広場に設けられた式典場には、市民・来賓多数が列席のもとに、清水市長の市制旅行の宣言があり、これに呼応(こおう)して各地域では祝賀行事が多彩に行なわれ、相模原市誕生が人々の心に、明るい希望の光をかかげることになった。
首都圏の一員として
一九五六(昭和三一)年四月従来の首都建設法が廃止され、新たに首都圏整備法が判定された。
これによる首都改造の構想は、東京駅を中心に一五キロ以内を既成市街地、その外側の一〇キロまでを近郊地帯、同じく二五キロ以上離れている地帯を周辺地帯と定め、東京に集中する人口をこれら外側地帯に吸収定着させることにより、首都の工場・住宅・交通問題の解決をはかり、同時に周辺一帯を開発整備しようとするものである。
首都圏整備法による相模原市の位置は、全域四〇キロ以内にあり、しかも平坦で広大な土地と交通網の分布は、市街地開発地として絶好の立地条件といえる。
しかしその都市計画を市自体で行なうには、あまりに財政負担が大きすぎるので、この指定をうけるために市は積極的に立上り、強力な運動を推進することになった。
このため市理事者・議会議員・学識経験者を中心に対策委員会を組織し、急ぎ対策を講じ、一九五八(昭和三三)年八月一日、首都圏整備法による第一号の市街地開発区域として指定をうけた。
開発計画は一九七五(昭和五〇)年の計画人口を二〇万人とし、地勢的な立場から市街地域と農村地域とに大別されるが、開発はこれを基調とした用途地域の指定となる。
工業地域としては橋本・淵野辺を中心とした旧都市計画地域内を主体に、道路・用排水・公共施設整備などの計画を実施する。
商業地域の開発は、既設商業地帯の助長育成を主眼に、横浜線沿線各駅周辺の建築様式を近代化し、自由選択慣行を活用した商業街を造成する。
住宅地域は主として小田急沿線をあて、文化施設・環境衛生施設を近代化して、明るい生活が営まれるようにすると共に、工場地帯への就労と居住とのバランスに対して考慮する。
その他の地域は生産緑地帯として存置する。
このような重要課題と取りくむために、首都圏整備対策協議会が結成され、市議会議員と学識経験者がその任にあたり、首都圈構想の検討とその計画の達成とにつとめた。
農村地帯に対しては、一九五六(昭和三一)年から五か年計画で新農村漁村建設総合対策が実施された。
これは適地適産を目標に、一定地域に対して国が特別助成を行ない、農業経営の安定と向上をはかる自主的な村づくりを促進させようとするものであった。
指定の内容は、特別助成地域・計画樹立地域・予備指定地域の三段階に分かれ、市域の田名・上溝・大沢がその予備指定地域となった。
そこでその成果をあげるため、一九五八(昭和三三)年二月相模原西部地域農村振興協議会を設立した。
ついで特別助成地域の指定をうけたので、同会ではただちに基本調査にもとづく事業計画をまとめて申請し、助成事業として決定した。
事業は農事放送施設(上溝)・コンクリート畦畔工事(田名)・共同集荷所(大沢)・自治養豚共同施設(大沢)で、総工費九二一万円余のところ、国の補助は二六六万円であった。
かくて新農村建設は一歩一歩前進することとなった。
工場の誘致
一九五五(昭和三〇)年七月、「相模原市工場誘致の奨励措置に関する条例」が公布され、その活動をはかる目的で、同年一二月、工業勧奨委員会が発足した。
会長は市長で委員会は学識経験者三〇名によって組織され、新条例を背景に積極的な活動を行ない、翌五六(昭和三一)年には誘致第一号として淵野辺にカルピス食品工業、ついで大東レースその他の進出があり、これらに要する用地七ヘクタール余の転用が決定した。
市制施行当時は工場をむかえることは困難視されたが、首都圏開発都市指定の好機を得て、工場誘致活動は一段と進展がみられた。
一九五八(昭和三三)年、工業地域整備のため大山工業団地三三・四ヘクタールが日本住宅公団と市の協力で確保され、数多い進出希望工場の中から山村硝子・セントラル自動車・日本金具工業・会田鉄工所が決定、また昭和電線電らんその他諸工場の建設もきまり、かっては雑木林の連なっていた相模野の一角は、全く面目を一新した。
誘致条例は一九六一(昭和三六)年に廃止されたが、なお三菱電気・日本電気・住友スリーエスなどの進出が相次ぎ、既定地域ではせまくなったので、三菱重工業建設には新たに田名工業団地が造成された。
六四(昭和三九)年当時の市域進出工場は二五〇社で、生産高は四五〇億円に達した。
これはその立地上の優位性と施策の積極性によるものである。
すなわち気候風土のうえからも、田園的風光に恵まれた広々と開けた地域の特色からも、人間定住の好適地である。
また京浜地帯に直結する交通上の要衝でもあり、地方工業の前提である原材料の集積や生産品の輸送などにも便利のためであった。
欠点とされた工業用水は、一九六一(昭和三六)年一月、大山工業団地に対する市営工業用水道が完成した。
また排水路は橋本を中心とする工業団地から南橋本を経て姥川上流点に達し、鳩川に合流して相模川にいたる全長九キロを完成した。
一九七八(昭和五三)年市域工業事業所数は一一七三か所、従業員数は四万〇四二二名、生産額は六七九五億円である。
工場・事業所の増加にともない、通信機関としての電話の需用は加速度的に増大したが、従来市の電話事情は市内数局の交換局にわかれていて混雑をきわめ、不便さは想像以上のものがあった。
一九五五(昭和三〇)年工場誘致運動開始と同時に、自動電話局開局運動が行なわれてきたが、六〇(昭和三五)年、橋本に三〇〇〇回線をもつ自動化された相模原電報電話局が開局され、一時的にはその緩和に重大な役割をはたしつつあったが、需用はとどまることなく増加の一途をたどり、ついに六四(昭和三九)年一月、市役所前官公庁街の一角に相模原電報電話局本局の開局が行なわれ、全市自動化の理想が実現することとなった。
また郵便局も、同年相模原局として電報電話局の隣接地に開局、この年制度化された新住居表示の整備とあいまって、通信連絡の利便を高めることとなった。
多年の宿願だった横浜線の複線化は一九七二(昭和四七)年八月二〇日に鍬入式が行なわれ、八〇(昭和五五)年現在、橋本駅〜東神奈川駅間か完成して、複線運転が行なわれている。
3 基地の町の側面 top
旧日本軍施設から米軍施設へ
一九四五(昭和二〇)年九月二日、米進駐軍は市域にあった旧日本軍施設のほとんどを接収した。
それらのその後の状況を列記すると次のようになる。
旧陸軍士官学校は、同月五日に米陸軍第一騎兵師団第四兵站厰、一九五〇(昭和二五)年六月キャンプ座間となり米陸軍第八軍司令部、五七(昭和二二)年七月一日、在日米陸軍司令部・基地司令部が置かれ、六九(昭和四四)年九月一日軍機構改革により基地司令部の方は廃止された。
七一(昭和四六)年一〇月陸上自衛隊東部方面軍の一部が移駐し共同使用することになった。
座間小銃射撃場は、当初からそのまま使用された。
旧陸軍機甲整備学校は、はじめ米陸軍兵舎地区となり、一九五〇(昭和二五)年国家安全保障局在日太平洋事務所が新設された。
旧陸軍相模造兵廠(ぞうへいしょう)は、進駐のあと一九四九(昭和二四)年二一月米陸軍横浜技術廠相模工廠となり、五六(昭和三一)年米極東陸軍工兵器材廠、翌年在日米陸軍総合補給廠、六六(昭和四一)年七月所沢補給厰が合併して、在日米陸軍相模補給本廠となり、六九(昭和四四)年九月機構改革により在日米陸軍相模補給廠となる。
旧陸軍相模原衛戊病(えいじゅ)院は、接収後九月二六日に米陸軍第二一八病院、一九五〇(昭和二五)年六月米陸軍第八一六九部隊座間病院、五六(昭和三一)年二月第四〇六医学研究所が東京から移転し、五八(昭和三三)年一月在日米陸軍医療センターとなる。
旧電信第一聯隊敷地と周辺の民有地は一九五〇(昭和二五)年五月接収され、米軍相模原住宅地区となる。
以上接収地の総面積は五三ニヘクタールで市域総面積の六パーセントにおよんでいる。
接収をまぬがれた臨時東京第三陸軍病院は、一九四五(昭和二〇)年一二月厚生省所管の国立相模原病院となり、その他は各種学校などに使用された。
接収当初から進駐軍の要請で基地周辺の住民は労務提供を割当られていたが、一九五〇(昭和二五)年朝鮮戦争が起ると労務者の募集が開始され、補給廠には最も多い時は八〇〇〇名が雇用され。下請修理の相模工業には五五〇〇名が働いていた。
この補給廠は極東および西太平洋地域に駐留する米軍に対し、生活必需品から戦車にいたるまでの多品目の物資・機械等の補給整備・余剰物資の処分等の兵站業務を行なうのが任務である。
労務者の待遇は民間企業の一・五倍で、週休二日制という奸条件であったので、希望者は全国から集まり、この地域は敗戦時の沈滞混乱から立直って、活況を呈するようになった。
しかし一九五六(昭和三一)年に朝鮮戦争が終ると、駐留軍関係の離職者は相次ぎ、五七(昭和三二)年末には補給廠在職者は五八〇〇名になり、なお引続き解雇された。
このため「相模原地区失業対策協議会」を設置し、その救済にあたった。

基地反対デモ行進 1971 (昭和46)年。 |

県立相模原公園 |
基地問題の発生
一九六七(昭和四二)年一二月一三日の新聞報道で、全国一二か所が電波障害制限地域の指定をうけたことが明らかにされ、翌一四日の衆議院内閣委員会で問題となった。
このなかにキャンプ淵野辺周辺地域も入っていた。
キャンプ淵野辺の中心には国家安全保障局在日太平洋事務所があって米国の世界的な通信網の一つであり、四二本のアンテナが建っていた。
電波障害制限地域というのは、通信施設のある所から半径八〇〇メートルの圏内がA地域、その外側半径一六〇〇メートル圏内がB地域で、両地域での禁止事項は人口密集地域の建築・トタン屋根・電気熔接機・針金使用などで、A地区などでは家屋は掘立小屋以外は建てられず、電灯もひけず、農作機械は使えず、金物使用は一切だめで、自動車通行は一時間五台以下ということになり、事実上、人間は往めない状態になるのである。
このことを知った市議会基地間題特別委員会は、同月一六日に超党派で反対運動推進を決定し、ついで一九日の市議会は反対を決議し、市長・議長は決議書を衆議院内閣委員会へ提出した。
同二五日には市民会館で各種団体員二〇〇〇人が参集して反対実行委員会を結成、委員長は市長で総決起大会を挙行した。
翌一九六八(昭和四三)年二月二五日、キャンプ淵野辺正門前で一万人集会を開催、なお四月三〇日に一二万人反対署名簿を佐藤首相に手渡した。
このような市民打って一丸となっての熱烈な反対運動の成果と、米国側のドル防衛や基地集約などにより、七〇(昭和四五)年五月になってこの問題は解消した。
相模原での基地問題として、さらに全国的に知られるようになっだのは、戦車搬出阻止の運動である。
一九六八(昭和四二)年二月、ベトナム戦争の激化にともない、相模大野の医療センターへは負傷兵の搬入が多くなった。
戦地から飛行機で横田基地へ運ばれ、そこからヘリコプターによって運んだ。
患者はそれまでより二〇〇人増えて七〇〇人になった。
なお座間キャンプの五棟の事務室の一階も病室になっていたという。
一方、淵野辺の補給廠でも夜中にM48型戦車が一〇五ミリ砲を突き出してトレーラーで搬出されていた。
当時、ここでは米軍属三〇〇人、日本人労務者四七〇〇人が働いており、前記戦車や五〇ミリ砲をつけたM113兵員輪送車などを修理していた。
修理能力は年間に戦車五〜六〇台、輸送車五〇〇〜一〇〇〇台、トラック五〇〇台くらいであった。
この状態はベトナム戦争中続いていたが、一九七二(昭和四七)年八月五日早暁、横浜ノースピア入口の村雨橋で、相模補給廠から搬出されたM48戦車五台が革新団体によって通行を阻止され、再び補給厰へ引返すという事件が起った。
以後三か月にわたり、補給廠正門前の市道五〇〇メートルの路上には、阻止団体のテントや旗が立ち並び、紛争は連日テレビや新聞紙面を賑わした。
この問題の焦点は、
第一にベトナムへ日本の基地から武器や物資を運ぶことは安保条約による極東の安全の解釈から逸脱しているという点、
第二に日本の基地から搬出された武器でベトナム人を殺すことは人道上許しがたいという点、
第三に戦車のような重車両の通行は道路法で認めがたいという点にあった。
そしてこの第三項は市長の許可事項であった。
さてその間に、市・警察・米軍の三者協議も数回行なわれ、重量チェックの市職員の逮捕や河津市長の軟禁という事件も起ったが、市では市民の不安を除くため早期解決を志し、九月一四日車両通行許可を決意して一九日から伝送は再開された。
このため車両制限令の一部を改め、米軍車両の通行には特例を設けた。
基地返還の促進
基地には上に述べたような大きな問題があったが、なおその他に多くの公害がある。
一例をあげると、飛行機の騒音、補給厰から排出されたカドミウム汚水の境川への流入、同厰の塩素ガス発生や重油をかけて燃やした廃材の煙による周辺耕作地の作物枯死、ハウス内排水設備不備のため雨水による付近民家の被害、補給厰内修理の戦車・装甲車走行テストによる騒音やほこりの被害、米軍人・軍属による犯罪など限りがない。
また市の財政面としては、もし基地面積に工場が建ったとしたらその税収は八億円になる。
しかし基地交付金総額は一九六八(昭和四三)年七三〇〇万円、六九(昭和四四)年一億円余にすぎない。
なお基地外居住の米軍人・軍属・家族らは市民同様の生活を送っているが、それらに対する課税は認められない。
そして発展を続ける市の都市計画は、基地の所在により全く阻害されているのである。
このため市議会は、一九五八(昭和三三)年九月、基地問題特別委員会を設置し、市議会との関連のなかで、問題の調査研究・集約をはかり、基地行政や問題解決のために方策を立てている。
一般市民運動としては一九七一(昭和四六)年三月に、前掲の「電波障害制限地区指定反対実行委員会」が発展解消後、「相模原市米軍基地返還促進市民協議会」が結成され、市長を会長として、市の各種団体によって構成され、同年七月一〇日市民会館大ホールで総決起大会を開催し発足した。
以来、大会・集会・陳情・宣伝・啓蒙その他の事業を行なって今日にいたった。
以上のような市議会や市民の活動によって、一九五三(昭和二八)年以来、各施設の一部が返還されてきた。
それは、キャンプ座間・補給厰・医療本部の各一部などで、淵野辺プラント8(旧浅野重工業)は六〇(昭和三五)年返還、富士製鉄中央研究所となり、座間小銃射撃場は七一(昭和四六)年全面返還されて県立相模原公園となった。
キャンプ淵野辺跡地については県と市とでスポーツ公園の構想をねり、早期返還を政府機関や米軍に訴えてきたのであるが、その結果、一九七四(昭和四九)年一一月三〇日、全面的に日本政府に返還された。
市民はただちに学校も公園もできるものと喜んだが、大蔵省は有償三分割案を押付けてきた。
これは一〇ヘクタール以上の返還基地の場合は、地元と政府機関が三分の一ずつ使い、残る三分の一に将来に備えて保留地とする。
県市に売却する値段は半分は時価とし、残り半分を公園とする場合は無償貸与、学校・病院用地とする場合は時価の二分の一とするというのである。
地元は今日まで大きな犠牲を払ってきた問係上、これには大反対で、市民こぞって全面無償返還運動を起したが、問題は難航して解決をみず、現在にいたった。
その間、一部がヤング広場として解放され、また市の人口急増による小中学校用地としての暫定仮使用が一九七七(昭和五二)年九月に認められ、七八(昭和五三)年二月、全国渉外知事会(会長長洲知事)が大蔵省と交渉の結果、二・〇九九九ヘクタールを五億三〇〇〇万円余で購入することに決まった。
しかしその他の使用はまだきまっていない。国の使用分には国民生活センターが設置された。
一九八一(昭和五六)年三月、米軍医療センターの返還が決定した。
地点は小田急相模大野駅の北側で、面積は二〇ヘクタールある。
市の都市計画にとっては、最も重要な地点ではあるが、有償三分割の大蔵省案がある以上、地価高騰の地域であるだけに、地元の跡地利用については、今後幾多め経緯を経なければ、決定の段階にはいたるまい。
4 市民生活の向上を目ざして top
急激な人口増加
小田急沿線に一九五九(昭和三四)年から日本住宅公団が実施した相模大野団地・上鶴間団地の建設により、市は区画整理事業の急速な必要に迫られ、関係住民の理解と協力を得て、六〇(昭和三五)年から着手した。
一九六六(昭和四一)年には公団相模台団地、六七(昭和四二)年には公団相武台団地が造成され、七八(昭和五三)年にはその西の新磯野に住友団地ができた。
他地域にも七三(昭和四八)年の市営大島団地のような公営住宅が多数建設され、この間に個人住宅も次々と建てられた。
工場・事業所の進出と共に、以上のような住宅増加により、一九六〇年代の人口増加は年間一〇パーセントを越え、一九六七(昭和四二)年には二〇万人を突破した。
首都圏整備計画もこのため六六(昭和四一)年には周辺地帯の市街地開発区域から近郊整備地帯に切換えられた。
これは既成市街地の外側の緑地帯の性格をもつものである。
一九六九(昭和四四)年には市役所も手ぜまとなり、八月、新庁舎が落成した。ちなみに八一(昭和五六)年には市制施行当時の人口の五・五倍にあたる四四万人となった。
このような人口の激増には、市民生活に必要な諸施設の整知が追いつけず、いろいろな問題を生じている。
小・中学校については既述したが、道路・下水道その他の諸整備についても問題は多い。
以下、これまでに建設された主な施設をみてゆこう。
生活関連施設の建設
し尿処理場は一九六〇(昭和三五)年に大野中地区古淵へ着工し、工費一億二六五三万円を要して、六二(昭和三七)年一二月に完工した。
一日九〇キロリッ卜ル、九万人分が処理できる施設である。
ついで七一(昭和四六)年七月、一億四九三九万円の工費で、高速酸化方式のし尿処理施設が完成した。
なお公共下水道完成の暁には、各戸は三年以内に水洗便所にすることが義務づけられている。
塵芥焼却炉は、一九六四(昭和三九)年三月にし尿処理場の隣接地に一日焼却量六〇トンのものが完成したが、これでは間に合わず老朽化もしたので、七〇(昭和四五)年七月に北部石宮地区に総工費三億九九一一万円で一日一八〇トンを処理する北清掃事業所が開設された。
しかし人口増加と共にごみの処理量も増加し、一九七〇(昭和四五)年に年四万九三七三トンのごみが、七九(昭和五四)年には倍以上の一〇万〇四九〇トンになり、一日の収集量は二七五トンである。
しかし老朽化した北清掃所の処理能力は低下して一日約一〇〇トンになった。
そこで多摩市の焼却炉へ依頼したり、麻溝台埋立地へ埋立てたりして一時をしのいできた。
そこで七八(昭和五三)年に麻溝台へ南清掃工場の建設に着工し、工費約一〇〇億円を要して八〇(昭和五五)年一二月に完成した。
焼却能力は一日六〇〇トンなので当分は大丈夫である。
平坦な相模野台地は排水が悪く、しかも無秩序に家屋が建てられているので、集中豪雨でもあるとたちまち床上床下が浸水となるところが多い。
現在各地域では、雨水の貯水濠をつくって急場をしのいでいる。
横山下の姥川などは工場の排水のために白く泡だち、悪臭を放ってきわめて不衛生な状態だった。
これらをはじめ、各家庭のし尿・汚水今市業所の排水を集める公共下水道の完成は、市民の強く要望しているところなのである。
相模原市では、一九六七(昭和四二)年から市役所を中心とした中央地区に、その整備を進めてきたが、八一(昭和五六)年度末までに市内市街化区域の面積の一六・一パーセントにあたる一〇三〇ヘクタールが完成する。
同地域ではすでに七九(昭和五四)年七月から一部の処理は開始されており、家庭からの汚水や工場排水吭県と相模川沿岸の二一市町で整備を進めている相模川下水道左岸幹線に流入し、相模川河口にある終末処理場で処理されている。
今後の計画は人口の最も集中している南部地区と、相模川流域下水道左岸幹線ぞい地域など約二三○ヘクタールが事業認可をうける予定となっている。
また姥川水路をはじめ一六水路、総延長約四二キロメートルの都市下水路の整備も進められ、一九八〇(昭和五五)年までに総延長の三三・二パーセントにあたる五水路が完成している。
これらの水路は将来公共下水道の雨水幹線となるように設計されており、なお雨水調整池も前述のように各所に建設されつつある。

番田の神代神楽 その舞台と見物の市民たち。 |

県立フィッシング・パーク |
住みよい文化的都市として
生活施設だけではなく、市民の文化活動のための施策や施設心、まだ十分とはいえないが、整備されつつある。
市民の教養の本拠ともいうべき図書館が鹿沼台に本館があり、住友団地に分館がある。
館外奉仕のみどり号二台は市内各地域を巡廻している。
市内各種単位文化団体が総括する相模原市文化協会が結成されてから一〇余年を経過した。
現在は俳句・合唱・美術・写真・郷土史・華道・謡曲・奇術・茶道・詩吟、川柳・盆栽・建築文化・民謡・書道・短歌の一六団体が加盟して多彩な活動を続け、市から補助金をうけている。
これらの継続的な活動の場としては、各地域に公民館があり、現在独立一〇館、併設一〇館があるが、一九八五(昭和六〇)年までに二一館が独立する予定である。
公民館は地域社会教育活動の婦人学級・老人大学その講座や展示場にも使用され、市民生活の向上と地域文化振興の拠点となっている。
展示場としては福祉施設のあじさい会館六階も使用される。
伝統的な民俗芸能である下九沢・大島の獅子舞い(県指定文化財)、番田神代神楽(市指定文化財)、ぼうち唄、土がさつき唄などの保存のために、相模原市民俗芸能保存協会が設立されている。
博物館は建設計画が進行中で一九八四(昭和五九)年完成予定である。
市民体育の向上のために各種のスポーツ団体があり、各所にスポーツ公園も用意されていて、現在麻溝台には総合体育館が建設中である。
老人福祉施設としては渓松園辛老人いこいの家があり、障害者のためには陽光園がある。
*
さて、相模原の人々は、遠い過去から相模川や相模野という大自然の母体にはぐくまれてきた。
相模川の河畔は砂利採掘などで荒されてはいるが、流れそのものには変りはない。
市は相模川の自然を保全しながら河川の有効利用を目ざすため、その調査を研究機関に委託し、また市職員も研究していたが、それができあがり、一九八一(昭和五六)年中には市内在住の学識経験者によって具体的計画を完成させ、市民の協力のもとに実現させる予定である。
なお相模野のおもかげを残す鵜野森・大野台地域などは緑地保全地帯として保護されている。
館盛市長の提唱する国際化時代に向けての姉妹都市づくりに対して、市民一部の文化人・教師・主婦らが「行政サイドの姉妹都市も結構だが、市民自身としても手づくりの国際交流を進めよう」と立上り、一九八〇(昭和五五)年に有志の懇談会を開いたが、やがて市民各階層の四〇〇人近くが参加するようになり、市内在住の中国人学生や米国婦人もまじえて会話の練習や話合いを行なってきた。
そして八一(昭和五六)年六月に相模原市国際交流協会として正式に発足した。
top
****************************************
|