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三章 江戸幕府の成立と相模原

1 藩主と村々
  合戦のあとの荒廃/領主の配置/新しい領主たち/
  目まぐるしい領主の交代/一七か村で三八給

2 検地と農村のすがた
  検地と検地帳/検地のはじまり/近世的な村へ/
  当麻村検地の意義/田名村の変貌

3 村々にかかる年貢
  年貢の基準/生産高より多い年貢高/高い年貢率/
  「分」という特殊な存在/旗本領の年貢率/年貢の取り方、納め方

4 当麻村の市場
  市祭りの賑わい/市場の中絶と再興

  1 領主と村々 top

 合戦のあとの荒廃

 戦国の動乱は終った。しかし武士たちの戦いによって、被害をうけるのは常に庶民である。
 小田原城が、また津久井城が落ちる前、一五九〇(天正一八)年四月、豊臣秀吉は相模原市域の新戸(しんど)村・磯部村と市域に接する座間郷(ざまごう、座間市)七か村に三か条の禁制をくだした。
 戦乱で逃げている百姓は立ち帰るように、立ち帰った百姓の家に陣取るな、寺家(寺の僧や使用人)や門前の者にむりな申しかけをするな、また麦作を刈りとるな、ということである。
 翌五月、秀吉はこんどは当麻郷に三か条の禁制を出した。

 座間郷のそれとちがって、軍隊の乱妨禁止、放火するな、百姓にむりなことを申しつけるか、といっている。 座間郷の四月、当麻郷の五月、この時期は小田原城や津久井城もまだ攻防の最中である。
 秀吉の禁制はこういうときに出ているが、市域はすでに秀吉の支配下になっていたわけである。 そしてこのような禁制は出たとしても、現実には、村々は人馬に踏み荒され、農民は戦渦(せんか)を恐れて山中へ避難した。
 市域の村々も、とくに津久井城攻撃の際には、かなりの被害をうけたと思われる。
 津久井城が落ちた八か月後に作成された一五九一(天正一九)年二月の「当麻郷野帳」によると、この時当麻郷には、九一(天正一九)年現在の不作地一二町四反(たん)六畝(せ)九歩(ぶ)と、さらに以前から続いている不作地一五町八反八畝二〇歩があった。
 当時、当麻郷の総耕地は六五町余であるが、不作地はその四三パーセントをしめることになる。 この他に、所有者のない土地=無主の地や、人の住んでいない屋敷=明屋敷が一反一畝余もあった。
 こうした荒廃(すべてがそうとはいえまいが)の最も大きな原因は、今度の合戦に際し、逃散による農民の耕作放棄であることはいうまでもなかろう。
 後北条氏のあとにくる領主の第一の課題は、こうした荒廃を復興させることである。


当麻郷野帳

 領主の配置
 一五九〇(天正一八)年八月一日、徳川家康は江戸へ入城した。
 小田原合戦の論功行賞として、秀吉から後北条氏の旧領を与えられたのであるが、家康は関東入国と同時に、榊原康政を総奉行、その下に青山忠戍・内藤清成を配して、家臣団の知行割り、その所領配置と江戸の整備に着手した。


大岡義成の墓 中和田の惣吉稲荷境内


天正期の領主 1590(天正18)年当時の市域12か村の領主

 当時の市域は一二か村からなっているが、九一(天正一九)年現在の村々の領主を図に示すと右の地図のようになる。
 この図でもわかるように、市域の領主配置は、境川筋と相模川筋とに大別することができる。
 滝川筋の村々は、相原村・矢部村・淵野辺(ふちのべ)村・鵜野森(うのもり)村が徳川氏の直轄地、上鶴間村が徳川氏直轄地と旗本大岡義成(義勝)の知行地に二分された。
 相模川筋の村々は、大島村・田名村・当麻村・磯部村・新戸村が内藤清成、上溝村・下溝村が青山忠成の知行地となった。
 このように、市域の領主配置は境川筋=上段の地域が徳川氏直轄地中心、相模川筋=中段・下段地域が旗本領中心というように、対照的になっている。
 直轄地となった境川筋五か村は、代官頭彦坂元正が支配にあたった。
 代官頭とは、直轄地支配の責任者である代官を統轄する役職であり、伊奈忠次・大久保長安・長谷川長綱と彦坂元正の四名である。
 彦坂氏は地方(じかた)支配(地方とは、都市=町方に対して農村のこと)にすぐれた「地方巧者」といわれ、彼の検地のやりかたなどが彦坂流とよばれた。
 上鶴間村は直轄地と旗本大岡領に二分されたが、こうした支配形態を相給とか分給という。
 また領主の数によって二給・三給・四給などともいうが、関東では藩領としてまとまった地域を除いては相給支配が一般的である。
 市域の村々もこののち広範な相給支配となっていく。

 新しい領主たち
 当時、上鶴間村の規模すなわち村高は約三六〇石であるが、このうち三〇〇石が大岡領、六〇石が徳川氏直轄地となった。
 旗本大岡氏の所領は字谷口と字中和田のうち谷口に集中していた。
 大岡氏は、この村以外に所領を拝領していないので、大岡氏にとってここは本貫(本領)の地である。
 大岡義成(義勝)にはこれといった経歴もないが、一五九八(慶長三)年四二歳で没した。
 その墓所は、いまは廃寺となった中和田の西光寺(いまの惣吉稲荷の境内)である。
 市域の中段・下段を所領とした青山忠成・内藤清成は、先の知行割りの担当者であり、一五九二(文禄元)年、関東の地方支配の最高責任といえる関東総奉行に任じられている。
 関東入国と同時に二人は江戸に屋敷を与えられたが、現在の東京の新宿の前身である内藤新宿は内藤氏が、また現在の港区青山は青山氏が、それぞれ居住したところからついた地名である。
 二人とも、一五九〇(天正一八)年に五〇〇〇石を与えられたが、青山忠成の所領は、市域のほかに高座郡今泉村(海老名市今泉)・大住郡小稲葉村(伊勢原市小稲葉)・城所村(平塚市城所)その他にあった。
 内藤清成の所領は「相州当麻五千石」などともいわれている。
 ここでいう当麻とは、市域の当麻村である。市域外の所領としては、新戸(しんど)村の南に接する座間宿村(座間市座間)がある。
 清成はこのうち新戸村に広さ二反六畝余の陣屋を設けた。現在の字陣屋小路で、白山社の裏の陣屋稲荷のあたりである。
 この陣屋の責任者に、かって後北条氏治下で座間領七か村の“名主職の司”(みょうしゅしきのつかさ)とされた安藤氏の後裔安藤主水(もんど)を代官として登用した。
 青山忠成にくらべ、内藤清成の市域に対する施政は、彼が市域に陣屋を置いていただけに、はっきりとみられる。
 その一つに検地がある。検地について詳しくはのちに述べるが、現在確認できる範囲でいうと、関東へ入国した翌一五九一(天正一九)年新戸村・当麻村に、九四(文禄三)年田名村に、検地を実施した。
 また当麻村時宗(じしゅう)の名刹当麻山無量光寺に朱印地(徳川氏から年貢を納めなくてもよい、と認められた土地)を三〇石と決定したが、これは清成の斡旋できまったものである。
 朱印地三〇石という規模は市内の寺社では最高であり、津久井郡根小屋村(津久井町)にある曹洞宗功雲寺朱印地五〇石と共に、相模国内では上位に属している。
 その後、清成(信州高遠藩内藤家の祖)・忠成(丹波篠山藩竹山家の租)は大名にすすみ、一六〇一(慶長六)年、「奉書の判に加う」という老中に昇進したが、○六(慶長一一)年、家康の勘気をうけ二人の政治生命は終った。
 ○八(慶長一三)年清成は五四歳で死去するが、所領の座間宿村(座間市)にある行洞宗宗仲寺にほうむった。
 宗仲寺は清成が実父竹田宗仲の菩提をとむらうために創建した寺であり、いまも宗仲夫婦や、清成とその子清次・清政等四代にわたる墓碑五基が現存する。


市域村々の領主各村の領主を時代順に並べたもの。
正徳ころまでにほぼ表のように固定し、
最終的には、17か村で38給となって幕末までつづいている。
太字が藩領、他は旗本領。幕領は幕府直轄領で、代官が支配した。

 目まぐるしい領主の交代
 徳川家康の関東入国にともない、上のように知行割りによって領主と所領が確定したが、もちろんこれで幕末まで領主が固定したわけではなく、こののち目まぐるしい領主の交代が行なわれた。
 領主の交代がなくなるのは、これから約一世紀もたった一七世紀末から一八世紀なかばの元禄〜享保年間である。
 そこで、各村々の領主はどういう変遷をたどったか、この点を九〇ページの表にまとめてみた。
 この表からわかるように、市域の村々は最終的には相給(ひとつの村を二人以上の旗本の領地とすること)による旗本領が中心となって固定するが、こうした中で、磯部村から上九沢村と、上矢部村から上鶴間村とでは、領主の変遷ということでは対照的である。
 後者のうち、とくに淵野辺村・鵜野森村・上総間村等は早くから旗本領で固定しているが、これに対して磯部村等は藩領と幕府直轄領の交代を繰返し、元禄・宝永年間から旗本領が展開する。
 この間、元和〜慶安年間の約三〇年間の動きはとくに目まぐるしい。
 たとえば磯部村などは、
  一六二三〜二七(元和九〜寛永四)年の四年間――幕領
  一六二七〜二三(寛永四〜九)年の百年間――駿河国府中藩(静岡市)徳川忠長支配
  一六三二〜二三(京水九〜一〇)年の一年間――幕領
  一六三三〜三九(寛水一〇〜一六)年の六年間――武蔵国忍藩(埼玉県行田市)松平信綱支配
  一六三九〜五一(寛永一六〜慶安四)年の一二年間――幕領
  一六五一〜五九(慶安四〜万治二)年の八年間――増山正利支配
 となり、こののち下総国関宿藩(千葉市関宿町)久世(くぜ)氏の支配がしばらく長期に続く。
 この経過をみると、駿河国府中藩とか武蔵国忍藩などのように、県外に本城をもった大名が市域に飛地として所領を与えられるが、この支配期間がとくに短かいことに気づく。
 ということは、市域の中でも磯部村等は府中藩や忍藩等の城付地(しろつけち、本領)の石高だけでは所領高(府中藩は五〇万石、忍藩は一〇万石)に不足なため、城付地から離れた地域に飛地などを与えて所領高を満たすための、いわば所領充足地であったのである。
 市域が、駿河国府中からいかに離れているかは改めていうまでもない。
 この場合は、天下の嶮箱根山を越えての所領であり、これに続いて武蔵国忍藩の所領充足地になったのである。
 神奈川県内でこうした支配をうけたのは、市域以外では現在の座間市と海老名市の一部だけである。
 この後、磯部村等は増山正利・久世広之など大名の支配地となるが、久世氏の支配期間は、他の大名にくらべて長期にわたり、しかもその間に検地をはじめ重要な政策が行なわれた(後述)
 そして一六九七〜一七〇五(元禄一〇〜宝永二)年にかけ、市域に広範な旗本領が設定された。

 一七か村で三八給
 一六七九(元禄一〇)年一〇月、幕府は「地方(じかた)直し」という政策を実施した。
 地方直しとは、領主から米を給与されている蔵米取り(蔵米知行)から、土地(所領・領地)を与えてそれを支配する地方取り(地方知行)に切換えることをいう。
 幕府の場合、これより前、三代将軍家光の時、三三(寛永一〇)年に第一回の地方直しを行なっているから、これは二度目のことである。
 幕府はなぜ地方直しを実簇したのだろうか。これにはいくつか原因があるが、大きな原因の一つは、旗本の財政窮乏を救済することにあった。
 地方直しには卜くつかの原則があるが、おもなものをあげると、
 @対象となる旗本は蔵米五〇〇俵以上の者、
 A小身(しょうしん)の者は江戸から近く、大身(たいしん)者は遠くへ、
 B一〇〇石程度の知行地は一〜二か村で分割する、
 C一〇〇〇石以上の者へは少し林をつける、
 D二〇〇〇石以上の村は分割しない、
 等々である。
 地方直しは、一六七九(元禄一〇)年ですべて終ったわけではなく、宝永年間(一七〇四〜一〇年)にも行なわれ、ほぼ一七一一六正徳二)年に終った。
 この二度の地方直しの際には、市域の村々も対象となった。
 これをきっかけとして、市域の村々は大部分が旗本領となり、そして一村が二人以上の領主によって分割支配される、相給(あいきゅう、分給)所領が成立したのである。
 元禄地方直しの対象になった旗本は、五四二名である。
 このうち、いまの神奈川県域には七一名、市域では一〇名の旗本領が設けられた。
 つづく宝永地方直しでは、県域に三九名、市域では一二名であるが、市域の比率(三〇・七パーセント)が高い。
 二度の地方直しの結果、市域の全一七か村のうち一〇か村に、二二名の所領が設けられたことになる。
 一〇か村に二二名の旗本領ということでもわかるように、所領は村を分割して与えられた。
 前に説明した相給所領であるが、たとえば磯部村は幕府領・町野三安領・深谷盛重領・大津勝寧領の四名の所領(四給という)になり、また上溝村は六給、犒本村は四給、というように村々は分割され、市域一七か村は実に三八給に分割された。
 そして村々は、この時の領主と、この所領分給の形で大体、固定するのであるが、全く領主の変動がなくなったわけではない。
 たとえば、一七一八(享保三)年三月に磯部村・当麻村・下溝村の一部が相模国愛甲郡荻野山中藩(厚木市)一万三〇〇〇石大久保長門守教寛の、また二八(享保二一)年に下澣村・上海村・田名村・大島村・小山村・上矢部新田村・淵野辺村の一部と上矢部村全体が下野国烏山藩(栃木県那須郡烏山町)三万石老中大久保佐波守常春の所領となった。
 そして三〇(享保一五)年には、荻野山中藩三か村のうち磯部村・当麻村は藩主の弟大久保江七兵術教平に分知され、ここに幕末まで領主は固定することになったのである。
 先にあげた一覧表は、領主が固定した一七一一・三〇(正徳元・享保一五)年ころまでの、領主と所領の状況をまとめたものである。旗本領が多いことと、そしていちじるしい分給の様子が一目でみてとれると思う。

  2 検地と農村のすがた top

 検地と検地帳

 検地とは、領主が領内の耕地を一枚ごとに測量し、その耕地の所在地をはじめ、面積・等級・生産高や持主、そして行政単位としての村落の範域などを確定することである。
 検地が実施できなければ、領主は年貢も取れないし、何よりもまず領地を支配することができない。
 検地を行なうことは、領内の全耕地を測量するのであるから、その労力はなみたいていのことではないし、余すところなくきびしく年貢を取るという目的で行なわれるため、農民たちの検地に対する反乱(一揆)が起こることも予測される。
 検地を実施する行為自作が領主権力の発動だから、領主の力が強いときでなければ実行できない。
 こうした意味で、検地は領主にとって最も重要な政策であった。
 その一方、農民にとっても、検地によって領主から耕地の持主であると公認されるのであるから、年貢負担の関題とは別にこれも大事な問題である。
 検地の結果をまとめた帳簿――これが検地帳で、ほかに御水帳とか御縄打帳、あるいは竿帳・民図帳などともいうが、この検地帳もまた、領主・農民の双方にとって最も大事な文書である。
 旧名主が所蔵していた文書(地方文書)の調査をすると、他の文書は残っていなくても、検地帳だけが現存していることがめずらしくない。
 これは、検地帳が村にとって何よりも大切であるため、長々と持ち続けた結果である。

 検地のはじまり
 さて、検地というと、まず思いだすのが大閤検地である。
 近世という時代は、豊臣秀吉が全国統一の過程で行なった検地、すなわち太閤検地によって始まるということもできる。
 大閤検地は全国的な規模で行なわれたが、市域の場合は徳川氏とその家臣による検地で、太閤検地は行なわれていない。
 市域に行なわれた最初の検地は、一五九一(天正一九)年の旗本内藤弥三郎清成の新戸村・当麻村検地と、代官頭(がしら)彦坂小刑部(ぎょうぶ)元正の磯部村・田名村・大島村検地である。
 この五か村のうち、代官頭彦坂元正が検地を施行した磯部村・田名村・大島村も内藤清成の所領だから、代官頭による代行検地ということになる。
 天正検地に続くのは、一五九四(文禄三)年の文禄検地である。
 先に天正検地が行なわれた磯部村に彦坂元正が、田名村に内藤清成が二度目の検地を、また下溝村・上溝村・相原村・上矢部村に彦坂元正が検地を行なった。
 田名村は天正検地のときは代官頭が代行していたが、この年は領主内藤氏が直接検地したわけである。
 当時、市域には一二か村があったが、天正・文禄年間で九か村にまで検地が施行されたことになる。
 次の慶長検地では、一五九六(慶長元)年に代官大屋助兵衛が上九沢村、一六〇三(慶長八)年に代官川彦坂元正が新戸村、代官伊丹理右衛門康勝が上沢村をそれぞれ検地した。
 このうち新戸村は内藤領なので、磯部村の文禄検地と同じく代行検地である。
 市域の検地は、これまでに述べた天正〜慶長検地が第一段階といえる。
 徳川氏は、新たに領地となった領国に検地をするにあたり、まず前領主時代の村落支配の旧慣をできるだけ認める方針で検地を行なうのが常であった。
 これが第一段階の検地である。

 近世的な村へ
 第二段階の検地は、一六二五(寛永二)年、代官設楽(しだら)長兵衛が淵野辺村に行なった。
 この寛永検地は淵野辺村だけに施行されたが、市域の検地施行過程からみると異例である。
 しかし翌二六(寛永三)年に淵野辺村が旗本領になったところをみると、その前提としての検地かと思われる。
 一六四六(正保三)年になって、上相原村へ代官野村彦大夫為重が検地を実施した。
 この検地は市域の行政村落ができていくうえで、大きな役割りをはたした。
 当時の上相原村は、のもの下九沢村・橋本村・小山村から構成されていた。
 しかし前にも述べたように、戦国時代から相原村は粟飯原(あいはら)郷とよばれて、その中にこの村々がすでに存在していた。
 その村々はそれぞれが村落的な規模(ひとかたまりの聚落)としては存在していたが、まだ行政上の村落としては成立していなかったのである。
 このような状態の上相原村へ代官小検地し、この検地によって上相原村・上九沢村・橋本村・小山村がそれぞれ分村し行政村落として成立したのである。
 相模原市域一七か村の基礎はこうしてできあがった。
 一六六二〜六四(寛文二〜四)年に、久世(くぜ)大和守広之が新戸村をはじめ一二か村に検地を実施した。
久世広之の名は前にも出てきたが、六四(寛文四)年に老中に就任、翌年下総国関宿(せきやど)藩五万石の藩主となった新興大名で、その才智は広く知られている。
 久世氏の寛文検地は、第一段階の検地における中世以来の有力な在地勢力を中心とした旧体制を、零細な土地ではあっても、その土地を耕作する小農民を検地の名請人(なうけにん)――つまり本百姓(年貢を負担する義務をもつ農民)とする、近世社会の基本的な体制に組替えた検地である。
 一般にいわれている小農民経営がこの寛文検地によって成立し、行政村としての近世村落の体制も、そして村落の範域も確定した。
 こののち一六七〇(寛文一〇)年にも、代官成瀬五左衛門重治が上矢部村に検地をするが、これは幕府の実施した一連の寛文検地のうちでも、市域に隣接する武蔵国多摩郡柚本領・由井領(八王子市)と同時期に行なわれたものである。
 これまでみてきたような市域の検地が行なわれた寛文年間には、幕府も、全国の多くの諸藩も検地を施行しているが、この時期の検地は、近世的な農村のワク組みを確立させたとしう点で、近世史のうえで特別に重要な性格をもった検地であった。
 寛文期に続いて、一六七五(延宝三)年には旗本岡野貞明が所領の淵野辺村へ、また旗本大岡作左衛門が所領の上鶴間村へそれぞれ検地した。
 現在、神奈川県内で確認されている旗本領の検地はおよそ六四件であるが、そのうち延宝検地は一七件である。
 これら旗本領の延宝検地は、幕府の寛文・延宝検地に伴って行なわれたといえる。
 市域最後の検地は、一六八四(貞享元)年、代官成瀬五左衛門重頼(先の成瀬重治の二代後)が上矢部新田村に施行した。
 これは市域でも有名な上矢部新田が成立したため、その結果を検地したものである。
 これまでみてきた市域の検地のうち、寛永・正保の両検地は幕府の全国的検地施行過程から少しはずれ、淵野辺村あるいは上相原村等独白の検地であったが、この貞享検地もまた、市域では上矢部新田村のみを対象としたものであった。
 市域での検地施行の経過はおよそ以上のようである。
 そこで次に、こうした検地に対して村はどうであったか、村と検地、あるいは検地の結果についての具体例をいくつかみることにしたい。

 当麻村検地の意義
 初めから大げさなことをいうようであるが、最初に市域で行なわれた一五九一(天正一九)年の検地は、幕府全体の検地からみて特記に価する検地である。
 その理由は、第一に当時の検地基準からみて、よりすすんだ基準をもっていること、第二に徳川氏の関東入国期から幕府創業期にかけて、関東の地方支配の総責任者の一人である内藤清成の実施した検地の内容がわかるのは全国でもこの検地だけである、ということである。
 当麻村の天正一九年検地は、二月一二日から一四日にかけて行なわれた。
 この時期の徳川氏の基本的な検地基準は、一反=三〇〇歩(坪)であったが、さらに大=二〇〇歩、半=一五〇歩、小=一〇〇歩というような小割りの単位が用いられた。
 また後のような一反=三〇〇歩で、何畝何歩という畝歩制は採用されていない。
 ところが内藤清成は、この検地で、すでに畝歩制を使用している。
 そればかりではなく、普通屋敷地には等級がつけられないのに、清成は屋敷地に上・中・下の等級分けをした。
 このような清成の検地は、結果からいうと、新しい次の時代の検地基準の方向にそった前向きの検地といえる。
 これはおそらく、徳川氏の基本的な意向を、地方支配の直接責任者である清成が、自分の所領にまず適用してみたのではなかろうか。
 さて、検地は二月一二日〜一四日にかけて行なわれた。
 まず一二日に耕地二二町六反四畝四歩を検地し、一三日に耕地四〇町七反六畝一歩、そして一四日に屋敷地一町九反二畝二二歩を検地し、総面積は六六町五畝二歩となった。

 この耕地別内訳をみやすくしたのが上の図である。 水田一二町余(一八パーセント)、畑五一町余(七八パーセント)となるが、この田畑を五二名の農民がもっている。
 幕末の当麻村の全耕地面積のうち、天正検地のときからあった水田が五五パーセント、畑が六三パーセントをしめている。
 従って当麻村は、こののち近世を通じて、天正検地で確定した面積とほぼ同じくらいの規模の開発が行なわれたことになる。


当麻村の耕地の割合

 屋敷地は一町九反余であるが、そこにある屋敷数は三一戸である。
 農民の屋敷とは別に、当麻山無皿光寺関係の屋敷である。
 「当麻山房師方」とか「当麻山尼方」「先達屋敷」があり、これらはいずれも年貢の対象外となっていた。
 ところで、検地帳に登録された農民(名請人)たちについてであるが、これには興味のある事実が確認できる。
 耕地所持順位第二位「采女」(うぬめ)、第三位「弥七郎」、第五位「五郎左衛門」、第七位「隼人」(はやと)等の農民の名がみえる。
 武士のような名前の者もいるが、このうち采女以外の三名は検地案内人=村役人で、なかには関山弥七郎・渋谷采女・中島五郎左衛門などと姓名で記されている者もいる。
 このうち、関山隼人は中世で述べた当麻三人衆の後裔であり、弥七郎は宿の関山氏の分家、中島五郎左衛門は市場争論で敗れた落合氏と行をともにして市場から原当麻へ移った中島氏である。
 天正当時の当麻村の農民は、こうしたかっては村の給人(領主北条氏の家臣だった土着の武士)でもあった有力農民たちが中心になっている。
 農民の持高は、最高一〇町余の豪農から二畝歩という零細農民にまで及んでいるが、一町以上の上層農民一四名の持高が村全体の七五パーセント強をしめている。
 当麻村のこの頃の姿は戦国期の村そのものであるが、この点は次に述べる田名村でよりいっそう明らかになる。

 田名村の変貌
 検地によって村の範囲期はどういうふうに変っていくのであろうか。
 また、たとえば天正検地と寛文検地とでは、村の範域は一致しているのか、それとも違っているのであろうか。
 こうした問題は、残念ながらいまでも十分に解明されていない。
 ところが、この一端が旧名村天正検地ではわかるし、そこにみられる村の範域は、現在では想像もできない地域にまでひろがっている。
 まず、順序として、田名村での天正検地の様子からみていこう。
 検地は代官頭彦坂元正により、一反=三〇〇歩の新制を採用し(旧基準は一反=三六〇歩)、大八一〇〇歩、半=二五○歩、小=一〇〇歩の小割制で行なわれた。
 前に述べた当麻村の場合と形式がちがうが、当時の徳川氏の基本はこれである。
 小割制で口畑の面積を書くと実塙がないので、畝歩(せぶ)制でいうと、田名村の耕地面槓は一〇二町三反五畝二〇歩で、村高は四五一石八斗八升八合である。
 この検地から一九三年後の一七八三(天明三)年に、旧名村で「村鑑(かがみ)近郷村附帳」という帳簿がつくられるが、この中に天正検地の時の屋敷の区別と、その所在地が復元されている。

 それによると、屋敷の区分には「坪屋敷」と「畑屋敷」とがある。
 坪屋敷とは、天正検地で屋敷の記載か坪であらわしたところから出た名称で、当時の本百姓(年貢負担者)の屋敷である。
 帳面では「本家」とある。
 畑屋敷は帳面では「畑(はた)ニ居(おる)」と記され、坪屋敷とちがって検地帳には登録されなかった屋敷である。
 つまり坪屋敷と畑屋敷とでは、両者の間に上下関係があるといえる。
 この二種類の屋敷を図に示すと、右の図のようになる。
 この図は、天正検地で田名村として決定した屋敷地の分布である。
 この図でみると、村の西から東南は相模川が境となっており、対岸は津久井領葉山島(はやましま)(津久井郡城山町)である。
 この葉山島村の下河原に、坪屋敷二と畑屋敷四があり、畑屋敷四のうちの一つは、かって後北条氏治下で小代官を勤め、検地当時の田名の名主である江成筑後の二男若狭の屋敷である。


田名村の屋敷地の分布 1591 (天正19)年

 自然の境界である相模川を越えて屋敷を所有しているのである。
 北の方をみると、「くずぱ」(葛輪)に坪屋敷一があるが、この地域は、のちには下九沢村に入る地域である。
 また「越水」に坪屋敷二があるが、越水は古清水のことで、ここは大島村である。
 こうしてみると、大島村・下九沢村と、さらには津久井領へもくいこんだ範囲、これが天正検地で確定した旧名村の村域であることがわかる。
 普通いわれている近世の田名村の範囲(もちろん現在の田名地区の範囲とも)とは違うが、これが戦国時代の田名村をうけついだ現実の田名村なのである。
 江戸時代の行政村落としての田名村の範域は、この後の検地、前述した一五九四(文禄三)年と一六六二(寛文二)年検地によって確定していくのである。
 天正検地を含め、近世前期の田名村、さらにはより広く相模原市域をみるとき、田名村の江成筑後を取上げないわけにはいかない。
 前に述べたように、江成筑後は戦国時代後北条氏治下の小代官であった。
 小代官とは、後北条氏が村の有力農民に給分(給与としての所領)を与え、村の支配にあたらせたもので、武士ではないが名主より上位にいた。
 それが、後北条氏滅亡により、こんどは徳川氏治下で名主として村に君臨することになった。
 ここでもう一度、前の図をみていただきたい。図の中心あたりに「久所」(ぐぞ)という所があり、江成筑後はここに一反二〇歩という大きな坪屋敷をもっている。
 ここを中心として、「原地」に長子豊前の畑屋敷と末子織部の坪屋敷八畝一八歩か、また津久井領葉山島村の「下河原」に次男若狭の畑屋敷を、そして「塩田」に三男次郎大夫の畑屋敷を分出させていた。
 この事実から、坪屋敷と畑屋敷との関係の一つに、本家と分家との関係があることがわかるし、近世前期における有力農民の一側面がみられる。
 田名村に年貢が賦課されるとき、村自体とは別に「久所」を中心として「筑後分」という一単位が設定された。ここまでくると、公的には名主であるが、村内では農民たちにとって、江成筑後はあたかも小領主ともいえる存在であったことも知られるのである。

  3 村々にかかる年貢 top

 年貢の基準
 普通領主が自分の所領を支配するには、まず村々の耕地の面積を計り、耕地の持主を確定し、そして年貢を取るということになるが、その政策が前述の検地である。
 そこでここでは、市域の村々の検地の実情をもう少し詳しく迫ってみることにしたい。
 市域に現存する多くの文書(もんじょ)の中で、近世の年貢について伝える最も古いものは、一五九一(天正一九)年、代官頭彦坂元正の手による田名村の検地目録である。
 この検地目碌については前に記したが、これにより、各耕地の等級別反あたり生産高(石盛)がきまり、またそれをもとにした年貢高も確定した。


田名村の検地目録

 たとえば、上田(じょうでん)一反の石盛は一石、上畠一反の石盛は七斗とか、水田(田方)の年貢は米であるが(米納)、畠年貢(畠方)は銭納で、この年貢高は一反に永楽銭(室町〜江戸初期に通用した中国からの輪入銭)で一七〇文、中畠一〇〇文、また屋敷は二〇〇文……などとなった。
 ここで確定した石盛や年貢高がどのような意味をもっているかというと、石盛は、この後、近世をとおして全く変らずに続いている。
 もうひとつの反あたりの年貢高は、領主やそれぞれの年の作柄によって当然異なってくる。
 しかし、屋敷年貢は二〇〇文のまま幕末まで変らず、上畠から下畠までの等級分けも一一六年後の一七〇七(宝永四)年にもみられる。
 ということは、この時にきまった石盛・屋敷年貢高・耕地の等級などの数量は、近世の中頃まで、あるいは近世をとおしての一基準になっていることになる。
 前に述べたように、検地目録がつくられたのは一五九一(天正一九)年五月で、これは徳川家康が関東へ入国して九か月目にあたる。
 当時は関東の争乱は終ったとはいえ、なお臨戦体制下であった。
 このような状況下における施政のいくつかが後々までの基準になったのであり、当初の徳川氏の在地支配の細かさがうかがわれる。
 検地目録によって、田方米納・畠方銭納という年貢の形、また年貢の基本的な数字がわかった。
 しかし農民にかかる年貢の実態は一様ではない。
 次に、時代や領主によって変化する年貢の実態をみてみよう。

 生産高より多い年貢高
 「領主の交代」のところで述べたように、近世前期の市域のうち、相模川ぞいの村とそれに隣接した村々は、幕領と藩領がめまぐるしく交代する。
 藩領の最初は、一六二七(寛永四)年、駿河国府中藩(静岡県)徳川忠長領になった時である。
 この年、府中藩代官平岡吉道が田名村に与えた年貢割付状によると、割賦の方法はごく簡単で、村高五三二石七斗五升九合に、一六二四(寛永元)年に新しく開発された三一石五斗六升八合を加えると村高は五六五石三斗二升七合となるが、これに対して、年貢高は六三四石八斗八升五行となっている。
 年貢高が村高より多くなっているが、これは書きちがいではない。
 しかし実際には、村高つまり村の全生産高を年貢が上まわるはずはない。これには次のような操作がされている。
 年貢高六三四石余の内訳は、水田年貢(米納)が米七三石三斗五行、畑年貢(銭納)が永一二一貨三一六文となる。
 従って、問題は水田の年貢でばなく畑年貢にある。当時、永高を石高になおすには一貫文=五石で換算するが、畑年貢永一一二貫三一六文を、この比率で石高に換算すると五六〇石余、これに水田年貢七三石余を加えると全年貢高六三四石余となるわけである。
 要するに、畑年貢の永高を単に機械的に石高に換算(石直し)したもので、全年貢高六三四石余は実高ではないことがわかる。
 年貢の割付にもいろいろあるが、このような例はめずらしい。
 そこで問題となるのは、どうして通常と変った形式になったかということである。
 この点、確証はないが、次のように推測できる。
 田名村割付状の発行は一二月二四日であり、割付状の末尾のところに、「割付の儀も余日無く候間、来春出すべく候」とある。
 これはどういうことかというと――駿府領になったのは割付状発行の直前なので村々を検分して年貢を賦課する余裕もない。
 だから正式な割付状は翌年の春に交付する――ということである。
 従って、この割付状はいわば仮割付であり、おそらく前年の幕領時代の年貢高をとりあえずそのまま用い、その畑年貢を単純に石直ししたために、村高より多い年貢高の数字になってしまったのであろう。
 割付状の記載はごく簡単である。しかし、その内容はこのように複雑である。
 将軍家光の弟でありながら、悲劇的な最後をとげた徳川忠長、その年貢割付状は神奈川県内では他地域には皆無で、田名村のものが唯一のものである。

 高い年貢率
 松平信綱の治世といっても、その期間は一六三三〜三九(寛永一〇〜一六)年のわずか七か年である。
 当時、信綱は老中で、武蔵国忍(おし)(埼玉県行田市)三万石の城主である。
 先の徳川忠長旧領が、三九(寛永一〇)年に忍藩領の飛地になったのであるが、その年の割付状が現存する。
 これもいまのところ、県内では唯一のものである。
 割付状は同年一一月一〇日発行で、月日の下に「伊豆」と署名し、その下に信綱の花押と黒印がある。
 府中藩支配時代の割付状にくらべると形式がととのっており、年貢の取り方もこまかくなっている。
 年貢は本田・新田と本畑・新畑とに分けて賦課されるが、その年貢率は本田七一・六パーセント、新田四五パーセント、本畑六八・一パーセント、新畑二五パーセントとなり、本田畑の年貢は高率である。
 村側からみると、農民の手元には、全生産物のうち本田は二八・四パーセント、本畑は三一・九パーセントしか残らないことになる。
 時の名宰相といわれた松平信綱の、もうひとつの側面がここにみられよう。

 この割付状の裏をみると、計一〇〇名の農民が連名・連印している。 これは、表書の割付状をみた、という確認のしるしであるが、後世のように、すべての農民が正式の印鑑を使っているわけではない。
 村役人と思われる四名をのぞく他の大部分の者は、筆のうしろに墨をつけ、それを押して印鑑の代りにする「筆印」である。 これなどは、近世の古文書の中でも、いかにも前期の農民の文書らしい特色のある例といえよう。
 さて、先に松平信綱治世の年貢が高率だと述べたが、実はこののち、領主が変るたびに年貢率は上昇している。
 一六四七〜五九(正保四〜万治二)年までの一二年間、相模川ぞいの村々は一万石増山正利の支配をうけたが、その治世下である五七(明暦三)年の田名村割付状によると、さらに年貢率はあがった。


百姓の署名と筆印
1639 (寛永10)年の田名村の年貢割付状の裏面

 先の松平信綱のときは、本田畑と新田畑を区別し、新田畑の年貢は低くしていたが、増山氏はこの区別さえやめた。
 それまで年貢の低かった新田畑を本田畑に組込み、本田畑並の年貢にするわけであるから、これは明らかに年貢の増徴となる。
 結果として年貢率は水田八九パーセント、畑八〇パーセントである。
 これは異常なほどの高率な年貢である。現実問題として、これでは村人たちは生活ができなかろう。
 こうした治世の下で、人々はどう生きていたか。
 このへんの実態を知りたいが、残念ながらこれに答えられる資料は市域に伝わっていない。
 このような高率年貢は、一時期の、また臨時のことではなく、どうも恒常性をもっているようである。
 たとえば一六六〇(万治三)年、この地域は久世大和守広之(のち老中、下総国関宿藩主)の支配となるが、その年の久世氏の年貢をみると、その年貢の賦課は増山氏と同じく新田畑は本田畑に入り、年貢率は水田九〇パーセント、畑七五パーセントとなる。
 増山氏治下にくらべ、水田で一・〇パーセント高く、畑で五・〇パーセント低いが、高率であることは改めていうまでもなかろう。

 「分」という特殊な存在
 これまでは、領主により年貢率が変ることをみてきたが、ここで、近世前期ならではの、少し特殊な年貢の賦課についてふれてみたい。
 あらためていうまでもないが、年貢というものは、村を単位として賦課される。
 これは近世での大原則である。しかし、社会の体制にまだ流動性のある近世の初期には、この原則とは違った例が時々みられる。
 その一つが、これから紹介する領主から個人へあてた年貢割付である。
 前に田名村に対する年貢をみたが、田名村では、それとは別に、名主江成氏一家に年貢が課されている。
 一五九一 (天正一九)年当時の田名村江成氏については前にも紹介したが、当時の当主(江成筑後)から二代目を五郎左衛門という。
 現存する文書によると、一六二五(寛永二)年、幕府代官守屋佐大夫行広から江戍氏にあて、「田名之村五郎左衛門分丑年(うしどし)御成ヶ可納(おさむべき)割付事」という年八割付状が発行されている。
 この割付状によると、五郎左衛門の持高は本田蝠屋敷九七石三斗二合で、現在の持高水田一四石三斗余に対して年貢一〇石四斗余(年貢率七三パーセント)、畑七六石九斗余に一一八石四斗余(二五パーセント)、新田二石七斗余に八斗一升(三〇パーセント)、新畑五石八斗余に三石五斗余(六〇パーセント)となる。
 本畑の年貢が持高をこえているが、これは現実には、七六石余以上の持高があったことを意味していよう。
 このようなことは、むしろ異例ではあるが、私の知るかぎりでぱ、たとえば市域に隣接する津久井郡には三例がある。
 そこで問題は、なぜこうした例外的な年貢の割付があるのか、ということである。
 この点まだ完全な説明がされていない。
 私には、戦国期からの土着の武士とか、あるいは村の草分け百姓など――言いかえると、小領主ともいえるような農民に対する政治的な配慮によるものではないかと思われる。
 家格と伝統をもち、村における有力農民としての社会的な立場をみとめた結果といえよう。
 このような存在を「分」という。
 しかし、こうした存在は過渡的な現象であって長くはつづかない。
 幕府権力が固まっていくに従って、遅くとも一七世紀中頃、四代将軍の治世の寛文年間(一六六一〜七三年)頃までに、「分」という特異な対象は村へ絖合され、そして消滅する。
 「分」は、前代の遺制の一つといえる。

 旗本領の年貢率
 年貢については、まだまだ多くの問題があるが、年貢にばかりかかわっておれないので、ここで最後に、近世中期以降の市域諸村の中心である旗本領の年貢の実例をみてみよう。
 まず淵野辺村をみると、この村は旗本岡野氏の本家領と分家領の二給支配である。
 一六九〇(元禄三)年現在、本家岡野領は所領高二四六石六斗六勺余であるが、これに対して本年貢七三石九斗余、附加米(雑税)六石三斗余で、この年貢率は三二・五パーセントとなる。

 この年貢率は、県内旗本領のうち、私が実際に検討することのできた三三〇領の平均年貢率四三パーセントからみるとまだ低い。
 以下旗本領の四例の数字をあわせて右のような表をつくった。
 わずか五例にしかすぎないため、これですべてをいうことはできないが、それにしても淵野辺村岡野領の三二・五パーセントから、新戸村岡部領の六四・八パーセントまで、その差は激しい。


旗本領の年貢と年貢率

 五例の平均年貢率は五六・四パーセントと高率である。
 地域的にみると、畑作中心の上段の淵野辺村や上相原村にくらべ、谷田ではあるが、上段より水田の多い中段の新戸村や上溝村等が年貢が高い、という結果になる。
 これは、水田の年貢、すなわち米に対する課税が高く、七〇からときには八〇パーセントに及んでいるためである。
 前にも記したように、米は領主のものといわれ、米の生産者である農民は、アワとかヒエを主食とする社会であるから、水田への年貢はおのずと高くなるのであろう。
 しかし、それにしても高率な年貢ではある。

 年貢の取り方、納め方
 さて、これまで年貢高や年貢率についてみてきたが、最後に年貢の取り方、納め方についてふれておこう。
 年貢の取り方は、幕領・房領・旗本領でちがう。
 また幕領の年貢の取り方が近世を通じてさほど原則が変らないのに対して、藩領や旗本領では、特定の時期を境として大きく変化してくる。
 そこでここでは、市内の藩領と旗本領それぞれの年貢の取り方をみてみよう。
 近世の年貢は、田方米納・畑方銭納で、納める時期は春・夏・冬の三季分納が原則である。
 藩領もこれと変らないが、大藩は別として、市内に所領をもつ下野国烏山藩とか、あるいは国内の荻野山中藩などの譜代小藩の場合、この原則とはちがった年貢の取り方が行なわれる。
 前に近世前期の田名村の年貢をみたが、一七二八(享保一三)年、田名村は下野国烏山藩三万石の所領となった。
 烏山藩というと、あの渡辺崋山の『游相(ゆうそう)日記』でその支配の苛酷なことが記されている藩である。
 これを数字でみると、田名村の場合、四五(延享三)年には年貢率は実に九四パーセントに及んでいる。
 烏山藩の年貢も、田名村等が藩領となった当初は田方米納・畑方銭納で、また三季分納であったが、これが宝暦年間(一七五一〜六四年)頃になると、年貢はすべて銭納で、またこれを一二か月で分割し月別に上納する方式へと変ってきた。
 この年貢上納方式を「月割制」または「月並制」といっている。
 それと共にに「繰上納め」すなわち年貢の先納が行なわれるようになった。年貢の先取りである。
 「月割判」といい、さらに「繰上納め」といい、いずれも藩が実施したことであるが、これは窮迫する藩財政を何とか補填しようとするところからとられた政策で、以後幕末までこの方式は続く。
 年貢の月割制と先納は、なにも烏山藩のみの独自な政策ではない。
 市域に所領をもつ一万三〇〇〇石荻野山中藩、そして旗本領もまた同じである。
 もう少し広くいえば、所領規模の小さい小藩、そして旗本領に共通することであり、あらためて例はあげないが、近世中期頃からはいずれも月割制と年貢の先納が行なわれている。
 年貢の月割制は、一面からみると領主がサラリーマン化したようであるが、取られる百姓たちにとっては大変なことである。
 従来の三季分納であれば、収穫物がとれてからその現物、あるいはそれを売った代金を納めるのであるからまだしも、月割制になると、収穫の有無にかかわらず毎月現金を用意しなければならない。
 当時の流通機構からいうと、これは容易なことではない。
 それに加え、年貢の先納が行なわれ、これが恒常化しこれも幕末まで続いている。
 こうした時期のできごとである。
 一七六〇(宝暦一〇)年、下溝村烏山藩領の農民仁右衛門が、金一四五両と銭一行二〇文という莫大な借金をかかえたまま家出し、潰(つぶれ)百姓となった。
 こうしたことを身代限り、あるいは分散という。仁右衛門の借金の内訳をみると、全借金の三四パーセントにあたる金四九円か藩へ納める先納年貢である。
 仁右折門にとって、先納分かいかに大きな負担だったかは、あらためて説明するまでもなかろう。
 また淵野辺村のうち、烏山藩領(市内大沼)の農民の一人である源兵衛は、持高四石八斗で家内三人暮してあるが、年貢金がなく、「麦毛生引当」つまり収穫前の仕付中の麦を引きあてとして借金をし、それで年貢を納めた。
 いわば青田売りといえよう。源兵衛は村の中層農民である。
 それでもこのような状態下あるから、それ以下の階層の百姓たちについては、そのおよそを想像できよう。
 こうした事実があるが、それでも農民たちは生きつづけたのであり、ここに農民の根強さがうかがわれる。

  4 当麻村の市場 top

 市祭りの賑わい

 当麻村が戦国時代から交通の要衝であり、また市場も盛んであったことは前の章に述べた。
 政治や経済の関係で商品流通の動きが変ると、市場の盛衰もそれに左右されるが、当麻の市場も小田原の北条氏が亡びたのを境として衰えをみせたようである。
 そうしたおり、当麻市場を復興するため、一六三〇(寛永七)年九月三日、市祭りが行なわれた。
 当時、当麻村は駿河国府中藩(静岡県)五〇万石徳川忠長の支配下にあった。
 忠長は、時の三代将軍家光の弟にあたる。
 市域は城下の府中(静岡市)から遠く離れているが、当麻のほかに磯部村・新戸村・下溝村・上溝村・田名村・大島村や、市域に隣接する座間村(座間市)等もまたその領地であった。
 この村々の支配は、忠長の家臣で代官の平岡岡右衛門吉道が担当した。
 平岡氏は、新戸(しんど)村の長松寺(禅宗)の中興開基になっているが、当麻の市祭りもこの平岡氏の援助によって始まった。
 この市祭りの時、「相州東郡当麻村市祭り之覚(おぼえ)」という文書がつくられたが、次にこれによって市祭りの様子をみてみよう。
 市祭りの時、村へは各地から大勢の商人が集まった。小田原からは、家伝(かでん)の秘薬透頂香(とうちんこう)を独占販売する有名な外郎(ういろう)氏が、若衆二一人をつれて村の清左衛門家へ宿泊した。


市祭りに集まった商人の分布

 商業の町八王子からは、年寄・若衆二一人が、また近くは下鶴間村(大和市)から、生糸商人と思われる山本五兵衛が若衆五〇人もつれて杢右衛門方へ宿をとった。
 右上の地図は、市祭りにきた商人たちの分布をまとめたものであるが、北は八王子の横山から、南は小田原まで、広い範囲から商人たちが集まっていることがわかる。
 全体で、一八の地域から三〇五人という大勢が、市祭りに参加した。


当麻の市祭りの文書 日付の後に、朝と昼の食事の献立が書いてある。(関山氏蔵)

 この他、覚書には、商人たちの宿泊先での朝と昼の食事が書いてある。
 それによると、朝は雑煮に酒、昼は鮎のなますや飯に煮物と焼鮎で、これに酒がついている。
 この献立は村できめたものであり、昼に出る酒は村から宿泊の家々へ渡される。昼の鮎のなますとそして焼鮎、というように鮎料理が多いのは、相模川の渡河点にある当麻村らしいごちそうといえよう。
 こうして当麻市場は再興した。この時の盛況は、当麻市場にとっておそらく空前絶後のものであったろう。
 しかし、市祭りが行なわれてから五、六年後の一六三五、六(寛永一二、三)年頃、当麻市場は中絶した。
 盛大で華やかな市祭りは、消える寸前の蝋燭の灯のように、ひときわ強く輝いたのである。

 市場の中絶と再興
 当時、当麻に近い市場としては、愛甲(あいこう)郡厚木村や荻野(おぎの)(以上、厚木市)と、津久井領川尻村(津久井郡城山町)の市場があった。
 厚木村は、河川交通上では相模川の一基点であり、これに陸上交通上での庶民の道“矢倉沢道”が交叉した地域である。
 荻野村では、小田原北条氏のときからの六斎市(毎月二と六の日)がよくみられる。
 川尻村は当麻村に最も近いが、当麻の市祭りが行なわれた少し前の寛永初年頃、地元出身の幕府代官守屋佐大夫行広・行吉父子の力添えにより、下川尻村久保沢で毎月三の日、上川尻村原宿で毎月七の日に六斎市が立ち、八王子の横山商人と結んで発展した。
 当麻の市祭りの行なわれた頃はその発展期であり、新しい市場として当麻市場に対抗する関係にあった。
 当麻布が中絶したのに対し、川尻村の六斎市はさらに発展し、これが幕末まで続いた。当麻市場は、川尻市場の発展のかげに、その名は消滅した。
 しかし、当麻市場は、これで歴史の上から完全に姿を消してしまったわけではない。
 市祭りが行なわれてから六九年後の一七〇〇(元禄一三)年、村の名主・年寄・農百姓たちにより、市場の再興がすすめられた。
 おそらくは、時代が進むと共に、新たな商品経済発展の波がこの相模野の村々におよび、かっての経済情勢下とは異なった理由で、市場の必要性がでてきたのであろう。
 一七〇〇(元禄一二)年一一月から一二月にかけて、当麻村は高座郡・愛甲郡の村々から市場復興に対する承諾書をとり、毎月一の日と六の日による六斎市設立許可を、村の領主である阿部飛騨守正喬(当時の寺社奉行)へ願い出た。
 この時、当麻村が市場設立の承諾書をとった村々は、現存する史料でみるかぎりでは、市域の村々と、南に接する高座郡と相模川対岸の愛甲郡の村々であり、これは川尻市場の後背地とは明確にちがっている。
 当麻市場再興願に、翌年正月までの間に許可され、一七〇一(元禄一四)年正月、市場開催にあたっての用水堀の整備と、その費用を惣百姓(本百姓。家屋敷・耕地を所有し、年貢を負担する農民)が負担することなどもきまった。
 こうして当麻市場は、再び復興された。
 しかしそれにもかかわらず、市はかっての繁栄を取戻すことはできなかった。
 市域の村々は川尻市場と八王子の商業圈にまきこまれ、市場は細々と、かろうじて続いた。

 参考までに、市場再興がなってから四年後、一七〇五(宝永二)年の当麻村の一端をみると次のようである(「相模国高座郡当麻村鏡」による)
 ○家数一九四軒=本百姓一九一軒・水呑百姓三軒
 ○総人数一〇五人のうち、塩売六人・酒売六人・油売二人・穀売六人・綿売四人・肴売三人・小間物売三人・太物売二人・豆腐売四人・多葉粉屋(煙草)三人・真木売(薪)一人・菓子売一人
 ○出家二九人=堂守三人・無量光寺一〇人・外寺内寮守り
 ○其外=山伏四人・研屋一人・屋根屋四人・大工二人・紺屋三人・鵜浪一人・馬喰三人・木挽一人
 ○馬一一疋
 塩売りから菓子売りまでは「商売人四一人」と称され、さらに相模川での鵜遣い(鵜飼の鵜匠)、そのほか紺屋・大工などもおり、時宗の本山無量光寺の僧一○人、それに馬一一疋など、当時の農村とは異なった、市の立つ村らしい一面がよくみられよう。


当麻村の職業構成 1705(宝永2)年ころの
様子を記録した「相模国高座郡当麻村鏡」の一部。

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