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四章 相模野の新田開発
1 近世前期の開発
すすむ開発/多い新開発の農地/上矢部新田の成立/上矢部新田への検地
2 中期以後の諸新田
通勤農業の大沼新田/薪炭供給のための溝境新田/
開発難航した淵野辺新剛/市域最大の清兵衛新田/幕府主導の開発 |
1 近世前期の開発
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すすむ開発
近世の相模原の歴史、それは開発の歴史でもある。
市域の立地条件については、この本の最初で述べた通りであるが、太古の人々が足跡をまず印したのは、中段(なかだん)と下段(しもだん)の、鳰川・姥川(うばかわ)など小河川の流れに沿ったところであった。
それ以来この地域は、上段(うわだん)の村々にくらべて開発が進んでいた。
これに対して、上段の村々の開発が始まったのは、近世になってからである。
海抜一〇五メートルという高さ、水の便にめぐまれず、雑木林のうっそうと繁茂した上段は、古代・中世の人々の開発を拒否し続けたのである。
しかし、その雑木林は、村と農民の共同利用する入会地(いりあいち)として、肥料の供給や牛馬の飼料の採集などに利用されてきた。
上段の開発は、結果的にはこうした共同の利用地をつぶすことになる。
上段の開発は、近世前期の延宝年間(一六七三〜八一年)ごろから始まったが、この後、一七〇七(宝永四)年、二三(享保八)年から、さらに幕末を経て明治中期まで続き、近世では新田、明治期では新開(しんかい)とよばれる耕地を造成した。
これに対して、中段あるいは下段の村々でも開発は進んだ。
しかしこの地域は古くから開発されていたので、上段の新田・釿問のような大規役な開発ではなく、本田畑に附随した土地(持添)の開発にすぎない。
それでも田名村では、近世を通じて小さな村に相当するくらいの開発が行なわれた。
そこで、近世前期における市域の開発がどのように進展したが、このあたりのことを少しくわしくたどってみよう。
多い新開発の農地
市域における近世前期の開発をみるため、現存する資料から一四か村の村の規模(村高)と耕地の増加の状況を右のようにグラフであらわしてみた。
一〇か村という限られた範囲ではあるが、特定年次の村高にしめる新開発耕地の比率は最低一八・四パーセント(当麻村)から最高六九・三パーセント(上九沢村)にも及んでいる。
次にいくつかの実例をあげておこう。
たとえば磯部村は、一六〇三(慶長八)年当時、村高は三九二石六斗五升であったが、五九年後の六二(寛文二)年検地では七七五石八斗一合となった。
この石高のうち約四九・四パーセントにあたる三八三石余が、この五九年間に増加したことになる。
三八二石余というと、近世では通常の一か村の規模に相当する。
また当麻村は、新開発の耕地の比率は磯部村より少ないが、一五九一(天正一九)年から一六六二(寛文二)年までの七一年間に、四二〇石二斗三介が五一四石七斗八升八合というように、九四石余も増えた。
この新しく開発された耕地の割合は一八・四パーセントで、右のグラフで耕地の増加が確認できる一〇か村のなかでは最も低い。
当麻村の場合、古くから開発されていた耕地が多かったといえよう。
次に田名村は、当麻村とは対照的である。 |
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一五九一(天正一九)年検地により、村高は四五一石八斗八升六合と決定したが、九四(文禄三)年検地では六六六石七斗九升五合となった。
わずか三年の間に、二一四石も増加したことになる。
さらに六八年後の一六六二(寛文二)年検地では、村高は一五六六石余と確定し、この間に実に八八九石余の激増であり、市域でぱ最も大きな村となった。
田名村は長期間継続して開発が続けられていたといえよう。 |

新田・新開の分布
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この他の村々の例はグラフによってみていただきたいが、近世前期の市域村々における著しい開発の様子が、はっきりとわかったと思う。
先の開発の数字は、村々の農民たちの汗の結晶といえるが、次に別の面からこの数字をみてみよう。
時代は少しくだるが、近世前期の一六四四(正保元)〜一七〇二(元禄一五)年の間、相模国全体は二二万〇六一七石余から二五万八二一六石余に増加した。
五九年の間に三万七五九九石余の開発があったことになるが、この開発率は一四・六パーセントとなる。
これに対して市域の場合、開発状況の確認できる先の一〇か村の平均開発率は四六・六パーセントであるから、相模国内では、市域村々の開発が他地域にくらべていかに盛んであったかがわかると思う。
上矢部新田の成立
主として下段・中段の村々における本田畑に付随する新開発地の増加は以上のようであるが、次に、市域の古い地図に〇〇新田などとみえる地名からも知られる、新田開発の様子をみていくことにする。
まず、市域には、いつどこが新田として開発されたか、この点をわかりやすくするため、一六八四(貞享元)年の上矢部新田から、一八八四(明治一三)年の下溝新開(しんかい)までの新田・新開を右のように地図で示してみた。
これをみると、先に述べたように、新田あるいは新開はすべて上段に集中し、中段や下段には全くみられないということが、はっきりとわかる。
これから、各々の新田開発の様子を具体的にみてゆくことにするが、最初に、市域最後の検地である貞享検地以前に開発された上矢部新田を取上げよう。
戦国時代、後北条氏治下の一五三七(元亀三)年と推定される当麻山無量光寺文書に、「溝原・淵辺原・矢部原・田名野」という地名がみられる。
中世において、上段の広大な原野が、溝村(上溝・下溝)などの入会(共同利用地)になっていた、という事実を伝える唯一の文書である。
この中にある矢部原、これが近世の上矢部新田である。
近世では、東を淵野辺村、西を小山村、北を上矢部村、南を上沢村に接し、東西約一三町(約一四〇〇メートル)、南北約一二町となっている。
上矢部新田の現在の位置は、右の新田・新開地図にみられるように、国鉄横浜線の矢部駅を中心に、その両側に位置しているが、現在の矢部一丁目〜四丁目と、富士見二丁目・三丁目にあたる。この一部。東側北部の一ノ久保は、現在、米陸軍相模補給厰の構内となっている。
本村の上矢部村はその北で、武蔵国との境である境川との間に位置している。
この上矢部新田は、一七世紀中頃、寛文・延宝年間ごろから開発が始まった。
近世の新田開発には、土豪開発新田、村請(むらうけ)新田、町人請負(うけおい)新田などの種類があるが、上矢部新田は町人請負新田である。
町人請負新田というのは、町人が商業資本によって開発を請負うことで、一種の投機(金もうけ)といえる。
近世の中期ごろから盛んになった。
上矢部新田は、江戸の商人相模屋助右衛門の請負であるが、現在、相模屋についての資料は残っていない。
地元に残る伝承によると、相模屋は甲斐国(山梨県)の出身で、江戸で成功した商人といわれ、上矢部新田の開発に際しては自分から先頭に立って開発を指揮し、その人徳がいまも伝えられている。‐
上矢部新田は町人請負新田であるから、相模屋も開発による利益を目的としていることはいうまでもないが、しかし、火山灰地、しかも水の不便な不毛の原野であるこの地をなぜ選んだのか、この点はいまだにわからない。
地元にいくつかの伝えがあるが、商人としての相模屋が、商業上の必要から、ここに宿場を設定するのが目的で、農地の開発は本意でなかった、との説が今はとられている。
開発が始まった正確な年はわからない。
現存する資料によるかぎりでは、一六七五(延宝三)年六月に、相模屋は、開発請負地の一部、一〇町(約一〇ヘクタール)を金八両で、また同月に五間に一〇間(五〇坪=約一六五平方タートル)の宿屋敷を売りはらっている。
開発をはじめてからさほどの時期が経過していないのに、相模屋が畑と屋敷を売却していることは、開発請負に際して、相模屋が幕府へ上納した地代金や開発に要した諸費用の回収を目的としたものといえよう。
上矢部新田への検地
ところで上矢部新田の規模についてであるが、これは一六八四(貞享元)年九月に、幕府の代官成瀬五左衛門重頼の実施した検地ではじめて明確になる。 この時の検地帳「上矢部新田村検地帳」が現存するが、それによると開発は助右衛門組と本村組(上矢部村)の請負になっている。
その開発面積は、
助右衛門組 一四六町三反八畝九歩
本村組 四七町六反一畝一七歩
合計 一九三町九反九畝二六歩
となる。 |

上矢部新田の地目
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この地目をみてみると、上畑・中畑・下畑・屋敷のほかに、芝野・松林・萱野(かやの)がある。
このうち芝野・松林・萱野は未開墾地であるが、こうした土地もあらためで年貢の対象地となったのである。
このように、寛文末年ころから開発が始まった上矢部新田に、それからほぼ一五年を経て行なわれた検地は、いうまでもなく、開発の結果を把握するためのものである。
検地は新田の代表者助右衛門、本村の代表者年寄左兵衛ら一一名が案内人となり、成瀬重頼の手代小川吉左衛門ら五名を直接の責任者として実施された。
この時の検地帳「相模国高座郡上矢部村野新畑御検地帳」が現存する。
この検地帳によると、開発面積は前に記した通りであるが、その地目の比率は右上の表のようになり、芝野が圧倒的に多いこと、そして畑が狭いことがわかると思う。
こうした耕地のあり方と共に注意したいのは、その生産性についてである。
検地の結果決定した各地目の反あたり生産高をみると、上畑五斗、中畑四斗、下畑二斗、芝野・松林・菅好ともに二斗であり、この新田の生産性がいかに悪かったかは改めていうまでもなかろう。
最後に、新田の開発に従事した者たちについてみると、検地帳によると、助右衛門組六一名、本村組三五名の計九六名となる。
最も耕地を多くもっている者は助右衛門組の次郎兵衛で、畑二九筆・四町六反七畝一一歩、芝野三九筆・二一町二反九畝八歩、合計六八筆・二五町九反六畝一九歩(約二六ヘクタール)であり、市内の古くから続いている旧村では想像もできない大土地所有者といえる。
前述のように、生産性の低い新田であるから、生活していくには旧村とは違って、より広大な土地をもつ必要がある。
九六名の農民のうち、新田内に屋敷を構えている者は助右衛門組の一六名である。
本村組の者はもちろん新田内に屋敷はない。
助右衛門組で屋敷をもっていない者は、小山村居住者一四名と犬島村居住者五名である。
この一九名は、それぞれの村から新田へ出向いて農業をする、いわば通勤耕作者といえる。
開発請負人相模屋助右衛門は、上畑二反八畝二五歩(上畑全体の一四パーセント)、中畑二反七畝一八歩(中畑全体の一三パーセント)、下畑七反五畝一九歩(下畑全体の五パーセント)、芝野・松林などを加え、合計三町二反九畝二六歩(全耕地の二パーセント)をもっており、他の農民にくらべて畑地の所持率は高い。
全体の所持高順位は、九六名中の第八位である。
新田の中央に、北西から南東へかけて八王子道が横断している。
その道脇に小祠があったが、助右衛門はここへ一つの社を勧請した。 現在も続いている新田の鎮守(ちんじゅ)村富神社がこれである。 |

村富神社
寛文年間(1661〜73年)創建の上矢部新田の鎮守
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2 中期以後の諸新田 top
通勤農業の大沼新田
大沼新田の開発は一六九九(元禄一二)年から始まった。
大沼は淵野辺村のなの一部で、村の南部にある。
中世、淵辺義博の大蛇退治伝説の地である。現在と違って、淵野辺村の集落は境川ぞいに細長く点在し、それより南の村域のほとんどは雑木林と原野であった。
大沼はこの集落からはるかに離れている。
開発が始まったころの文書によると、大沼は淵野辺村と武蔵国多摩郡木曾(きそ)村(東京都町田市)との入会地である。木曾村は淵野辺村の東で、境川の対岸にあたる。木曾村から大沼へは、境川を渡って、淵野辺村を南の方へ横断するくらいの距離があるが、それだけ離れた大沼がいつから、どうして木曾村の入会になったのかはわからない。
古くは、一六一九(元和五)年当時、この入会は木曾村の村高にいれられ、入会地としての秣場野銭(原野などにかかる税金)も、木曾村がまとめて上納していた。
このように大沼は淵野辺村の中にあるのに、淵野辺村のようではない。
淵野辺村が木曾村の野銭もまとめて納めるようになったのは開発の話が出た一六九八(元禄一一)年のことである。
一六九九(元禄一二)年八月二七日、木曾村名主治郎兵衛ら一三名が大沼の開発願いを勘定奉行所へ提出し、淵野辺村と木曾村によって開発が開始された。
翌一七〇〇(元禄二一)年四月、開発絵図が作成され、開発終了後の○七(宝永四)年六月、代官江川左兵衛によって検地が実施された。
その結果として、淵野辺村の分は村高七八石三斗五升五合・農民数六四名、木曾村の分は村高三〇一石二斗三升六合・農民数二二四名となるが、前に述べた上矢部新田と違って、この農民はいずれも居村(本村、もともと住んでいた村)からの通勤耕作である。
伝えでは、こののち九戸が居住したといわれるが、正確な文書のひとつである一七三四(享保一九)年の「新田取立村々百姓書上げ」によると、この年に木曾村中里源兵衛・井上多兵衛ら四名がまず入植し、以後毎年移作が続いた。
三六(享保二一)年に鎮守大沼弁財天(東大沼二丁目の大沼神社)が勧請(かんじょう)された。
薪炭供給のための溝境(みぞさかい)新田
溝境新田は横浜線淵野辺駅の南で、北西端の一部が国道一六号線、上矢部新田の南端に接している。
淵野辺村と上溝村との境であるところから、溝境新田といわれ、大沼新田と同じく、淵野辺村と木曾村との共同で開かれた。
この新田の開発状況はよくわからない。
検地は一七二三(享保八)年、代官日野小左衛門正晴が実施している。
これによって開発結果をみると、全面積一〇九町五反三畝一〇歩であるが、これまでの新田とは違って、この開発地は淵野辺村一一三人・木曾村一九七人の計三一〇人に対して、一人三反五畝一〇歩ずつの平等割りになっている。
これは享保年間を中心とする、有名な武蔵野新田にみられる開発形態に似ている。
また開発の目的は、従来の新田のように耕地の造成ではなく、芝原を切り開いてナラ・クヌギを植林し、大沼新田などの薪炭材の供給源とするところにあった。
開発難航した淵野辺新田
淵野辺新田は、前記の溝境新田と横浜線との間に位置する。現在は国道一六号線がこの新田を横断しており、淵野辺駅の南にある市立図書館は新田の地内である。
一八〇四(文化元)年四月、幕府の関東郡代(ぐんだい)中川飛騨守の手代(てだい)ら二二名が巡見の途中、武蔵国多摩
郡木曾村(町田市木曾町)に来たことがある。
この時、淵野辺村名主平左衛門が木曾村へよび出され、相模野の秣場(まぐさば)開発についてたずねられたが、平左衛門は積極的に開発の意志があることを上申した。
この秣場は淵野辺村と、境川を越えた武州木曾村・根岸村(町田市根岸町)との三か村の入会地であった。
淵野辺村の開発推進に対して、木曾村・根岸村はあまり乗気ではなかった。
秣場に地続きの上溝村・下溝村と当麻村も、秣場面積の三分の一の開発を命ぜられたが、この三か村もまた開発には消極的で、開発免除を願った。
幕府側をみても、出役の役人(出張役人)たちは開発奨励であったが、勘定奉行所からの指示はなかった。
こうしたいろいろの条件がかさなって秣場開発は難航し、無為のうちに年月がすぎた。
一八一七(文化一四)年九月、御勘定方(おかんじょうがた)出役最上徳内が、櫨(はぜ)栽培を奨励するための廻村の途中、市域へも来た。
最上徳内は、一七八六(天明六)年千島諸島の探検などで知られる有名な人物である。
徳内は九月二六日上鶴間村に宿泊、二七日矢部釿田村を通過したが、淵野辺村名主平左衛門・良助は徳内を野先に出むかえ、開発願書類を提出した。
この一四年間、全く進展しなかった秣場開発はこれでいっきょに解決し、こののち徳内の斡旋もあって、一八一八(文化一五)年三月一八・一九日、開発地周囲への杭打ちが行なわれた。
開発に故障を申し立てた木曾村・根岸村は出張役人から厳重な叱りをうけた。
こうして開発は進んだ。
そして七年後の一八二四(文政七)年四月、幕府の代官中村八大夫によって検地が行なわれ、三〇町四反余・四二石四斗余と一〇一名の開発者が確定した。
この後もさらに開発は続き、その分が三〇(文政一二)年三月中村八大夫が検地を実施して、面積三六町六反余・石高五四石二斗余が帳付けされた。
二度の検地によって確定した地目は、「みつけものの畑」との意味をもつ、生産性のごく悪い見付畑や、雑木を植えて薪炭の用とした林畑である。
先に述べたように、現在の市立図書館や淵野辺駅を中心とする地域の一帯は、このような変遷をたどったところである。
市域最大の清兵衛新田
清兵衛新田は、近世における最後の、そして最も規模の大きな新開発地である。
現代、行政上の地名で清新(せいしん)よばれる地域は、この清兵衛新田からとったものである。
小山村の豪農である原清兵衛が開発したところから、清兵衛新田と命名された。
清新四丁目の氷川神社に開墾記念碑があるが、それによると、清兵衛がまず開発願いを出したのは一八四〇(天保一一)年のことである。
当時、小山村は旗本藤沢氏の知行地(ちぎょうち)であったが、四二(天保一三)年、天保改革の上知令(あげちれい)の先がけとして上知(土地を幕府に返すこと)されて幕領となり、代官江川太郎左衛門英龍の支配となっていた。
この翌年、清兵衛は開発願いを代官江川氏に提出し許可された。清兵衛の菩提寺真言宗蓮乗院にある清兵衛の墓碑銘(ぼひめい)によると、この年に代官江川氏から開発をしたらどうかとの内命があった、としている。 |

清兵衛新田開墾記念碑 1912 (明治45)年、氷川神社境内に建てられた。
書は15代将軍の徳川慶喜。 |

原清兵衛の墓 蓮乗院境内。 |
清兵衛の願いが代官の内命か、このどちらが正しいかはいま問うところではないが、清兵衛の意図と、幕府の年貢増徴の政策とが一致した結果といえよう。
開発対象地である相模野三〇〇町歩は、居村の小山村と、上相原村・橋本村・上九沢村(以上四か村はもと一村で粟飯原(あいはら)郷と袮した)・下九沢村・大島村・田名村など、合計七か村の入会地で、村々の肥料や飼料の供給地であった。
そのため、これらの村々から開発反対の抗議が出た。しかし代官側から、三〇〇町歩のうち二〇〇町歩を開発し、残り一〇〇町歩は秣場として存続するという形での説得があったため、反対の村々は納得せざるをえなかった。
従って、この開発には、代官江川氏を通じての幕府の力が強かったことがわかる。
一八四三(天保一四)年六月、江川氏の出役として柏木平大夫らが小山村に来村し、蓮乗院を宿として新開地の小割りが始まった。
七月から九月にかけては、江川氏の手代で幕末の三剣士として有名な斎藤弥九郎、また後に初代の足柄県令となった柏木総蔵(のち忠俊)らもここに宿泊して仕事をすすめた。
幕府主導の開発
閏(うるう)九月二二日、入植希望者が集まり、新開(しんかい)仲間の議定書が取交された。
そして開発は、現市役所から国道一六号線の東側に接した相模原六丁目の比丘(びく)口からその北の矢懸(やかけ)・横山・原と、国鉄相模線南橋本駅付近の大河原の五区に分割した。
一〇月には鎮守(ちんじゅ)氷川神社の社地もきまり、開発が始まった。
入植者の家屋は、ほぼ四間に二間半の構えが多く、井戸は比丘口六、矢懸二、原組一、大河原組二の一三か所に掘られたが、後に一五になった。
何分にも上段(うわだん)の地であるから、井戸は一一〇尺〜一二〇尺(三〇数メートル)というように深く掘らねばならなかった。 開発は翌一八四四(天保一五)年二月には大方が終った。
先に述べた淵野辺新田にくらべると対照的な開発状況で、非常にスピーディに進んだ。

清兵衛新田入植農家 当時建てられた農家で
現存する唯一のもの。(清新2丁目、大谷氏方)
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清兵衛新田入植者の出身地
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開発が終った九年後、一八五六(安政二)年一〇月、清兵衛ら一〇名の案内により、代官江川氏が検地を実施した。
それによると、開発面積一四二町六反余、開発高四二〇石二斗余で、ここに帳付けされた農民は四九名である。
この検地帳には、清兵衛とその開発分が含まれていない。
清兵衛分は六三町一反余で、これを加えると全体の開発面積は二〇五町七反余となる。
さて、入植者は四九名であるがいずれも二、三男で、その出身地は市域外の者も多い。
右上の表にそれをまとめてみた。
全四九名のうち市域外の者が一九名(三八・八パーセント)もみられる。
比丘口組にとくに多いが、この中には有名な武蔵野新田とそれに近い多摩郡芋久保新田(東大和市芋窪)・大沼田新田や砂川村(立川市)から、さらにより遠方の入間郡北秋津村(所沢市)・上赤坂村(狭山市)など市域から一一五〜三〇キロメートルもへだたった地域から入植している。
享保期を画期として行なわれた、武蔵野新田にみられる入植者の集め方に似ており、相模国内の新田開発では他に例のない一面といえる。
これら入植者は。全員が一時期に新田に住みついたわけではない。
開発の始まった一八四三(天保一四)年から、検地直前の五五(安政二)年にかけて来村しているが、これを年次別にみると、四三(天保一四)年九名、四四〜四七(弘化二〜三)年一四名、四八〜五二(嘉永元〜五)年七名、五五(安政二)年二名となる。
四九名の入植者は、その後多くの者が死亡あるいは脱落した。一八七二(明治五)年の壬申(じんしん)戸籍によると、この時まで続いた家はわずか二四戸にすぎなかった。
新田での生活が苦しかったことがわかると思う。
以上で、一六八四(貞享元)年上矢部新田から一八六五(安政三)年清兵術新田まで、市域における近世の新田開発をみてきた。
いずれも上段(うわだん)で、村々の入会地(いりあいち)である。
一九〇八(明治四一)年開通した横浜線は、古村から離れて、これらの新田地域を横断して施設された。
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