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一章 原始・古代の相模原

1 旧石器から縄文へ
  赤土のなかの旧石器/相模原の旧石器人/相模野の狩人/
  縄文中期の繁栄/勝坂追跡/勝坂の大集落/縄文の食生活
  
2 あずまびとの世界
  市域に少ない弥生遺跡/古墳と大和政権/古墳群と集落/
  谷原と御所之入/水源の神を祭る/中央集権下の相模原
  
3 古代国家の終幕
  律令体制のゆるみと地方/相模原の村/古代の地名と郡郷/
  横山党の進出

   1 旧石器から縄文へ top

 赤土の中の旧石器

 人類の起源は近年の調査・研究により、日々書き変えられている。
 日本の原始文化の起源についても、一九四九(昭和二四)年の群馬県岩宿遺跡調査以前は、縄文文化が最古のものとされていたが、今日ではその起源が洪積世にまでさかのぼることは疑いのない事実となっている。
 一般に洪積世に発達した打製石斧をもつ文化を旧石器文化と呼び、土器や磨製の石器などをもつ新石器文化とは区別している。
 日本ではまだ前期旧石器文化の資料は不安定であるが、三万〜一万年前の後期旧石器文化の資料は豊富で、全国くまなく遺跡が発見されている。
 住居の跡も、洞窟住居のほか、竪穴式の住居なども発見されている。
 石器の種類も多く、オノ・ノミ・ナイフ・ヤリサキ・チョウナなどの役割りをはたしたと思われるもののほか、組合せ石器なども使用されていた。
 相模原台地でも、立川ローム層と呼ばれる今から約三万〜一万年前に堆積した赤土の中から多くの遺物が発見されている。
 相模原台地の後期旧石器文化を最初に調査研究したのは、岡本勇・松沢亜生の二人の考古学者である。
 一九六〇(昭和三五)年三月以来、十数回にわたる分布調査を実施し、四四か所の遺跡を発見した。
 その後、相模野考古学研究会の人々により分布調査が重ねられ、遺跡の数はさらに増加した。
 相模原台地に厚く堆積したローム層には、他地区のローム層と比較するのに便利な、スコリア(火山砂)層やパミス(軽石)層など、地層の年代区分の基準となる鍵層がきわだって発達しており、相模原台地は武蔵野台地と共に南関東ではもっとも研究の盛んな地域でもある。
 また、遺跡の分布をみると、相模原台地や武蔵野台地に比べ、その間にある多摩丘陵には極端に遺跡の数が少なく、このことは当時の人々の生活を知る手がかりとなるものと思われる。


橋本遺跡 発掘中の遺跡を見学する市民たち。
(『グラフさがみはら』より)

 相模原の旧石器人
 後期旧石器時代の遺跡も、他の時代の遺跡と同じく、境(さかい)川・鳰(はと)川・相模(さがみ)川といった河川の流域に集中してみられる。
 市域ではおよそ六〇か所の遺跡が確認されているが、それらは切通しや侵蝕崖などにおいて石器が偶然発見されたものであるから、まだ発見されていない遺跡の実数は、数倍あるいは数十倍にもなるのではないかと考えられている。
 たとえば、当麻遺跡の調査ではその所作が明らかではなかったが、ローム層を試掘したところ、ナイフ形石器や有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)などを含む文化層が発見され、元橋本遺跡の調査では、はじめ縄文時代の集落が


市域にある旧石器時代の遺跡

あることを予想して発掘を実施したが、多量の旧石器が発見された。
 これからも、後期旧石器時代の遺跡数が増加することは確実である。
 市域で発見されている最古の遺跡と思われるものは、上溝(かみみぞ)地区の長久保遺跡である。
 残念なことに、まだ調査は実施されていたいが、約三万年ほど前のものと予想されてい 二万年ほど前の遺跡は、橋本遺跡が知られている。
 この頃になると、市域には、かなりまとまった人々が、各地で生活を営んでいたものと思われる。
 一万五〇〇〇年ほど前になると、橋本遺跡をはじめ、下九沢山谷(しもくざわさんや)遺跡・横山坂遺跡・当麻(たいま)遺跡・塩田(しおだ)遺跡など多くの遺跡が知られている。
 二万年ほど前の遺跡に比べ、石器の種類・量ともに豊富であり、遺跡の数そのものも爆発的に増加する。
 一万年ほど前になると、遺跡の数はさらに増加し、各流域に分布するものと思われる。
 このように。後期旧石器時代も終末になると、他の地域と比べて、市域の遺跡の数が多くなるのは、当時のこの地域の環境がよほど良かったものかと思われる。
 一方、上下何層にもわたって多量の石器や礫(れき)群と呼ばれる遺構が集中する橋本遺跡や下九沢山谷遺跡などと、上溝遺跡や当麻遺跡のようにきわめて限られた範囲に少数の石器しか残さない遺跡とが同時に存在していたことも事実である。
 このことは、集団が一団となって生活すると共に、分散して狩猟生活をするなどの繰返しがされたのではないかと推測される。
 旧石器人の相模原での生活を理解するには、まだ資料は少ないが、おそらく、境川や鳰川などの流域の見はらしのよい台地にキャンプすると共に、水を求めくる動物を待ちぶせ、石槍などを利用してとらえたり、木の実や植物の若葉や根などを採集して食料としたものと想像される。
 当時の気候は、ヴュルム氷期(氷河期の最後)にあたることから、現在よりやや冷涼であったことが考えられる。
 橋本遺跡で実施された花粉分析の結果は、これを裏づけている。二万年〜一万年前にかけての古植生(こしょくせい)は一様ではないが、ヨモギ属・イネ科・シダ類からなる草地に、ハシバミを主体とした疎林(そりん)が広がっていたことが想定されている。

 相模野の狩人
 日本列島に火山活動がようやく落着き始めた洪積世の末、それまで木々石などを加工することで道具を製作していた人々は、粘土の焼成という科学的技術により、新たな器(うつわ)を作り始めるようになった。
 その発生の時期ははっきりしないが、土器はカゴや皮袋などの容器と異なり、従来の食物加工法に、煮る、蒸すとしった新しい調理法を加えた。
 現在日本で知られている最古の土器は、隆線文(りゅうせんもん)系の土器で、今からおよそ一万二〇〇〇年ほど前
に製作使用されていた。この一万二〇〇〇年前からはじまったとされる縄文文化は長く続き、後の弥生文化(農耕文化)までの間、約一万年にわたった狩猟採取の時代である。
 考古学の研究者は、この期間を土器の型式により、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に区分している。
 縄文時代の気候は温暖で、相模原の市域は照葉樹林帯と呼ばれるカシやシイなどの生いしげる森林に変貌したと思われている。
 当時の人々は、竪穴式住居と呼ばれる半地下式の住居に寝起きし、春にはワラビやゼンマイなどをつみ、夏は川で魚をとらえ、秋にはドングリやシイの実などを収穫し、冬はイノシシやシカなどをとらえたことと思われる。
 貧富の差もなく、数戸が共同して狩猟・収穫し、一か所にそれほど長くは定住せず、獲物を求め移動する生活に終始したようである。
 相模原市域では、縄文時代の全期間にわたって繁栄していたわけではない。各時期・各地域によってそれぞれ特徴ある文化が消長した。その中期後半が、相模原での縄文文化がもっとも栄えた時期である。
 縄文時代の誕生期は草創期と呼ばれているが、相模原では今のところ。この時期の土器片は発見されていない。しかし、塩田遺跡などではこの時期特有の石器類が出土していることから、土器の発見も夢ではない。
 つづく早期の遺跡はかなり確認されているが。器形の全ぼうをうかがうことのできる土器片は発見されていない。塩田遺跡の撚糸文(よりいともん)系の土器や押型文(おしがたもん)系の土器、新戸五味ヶ谷(しんどごみがやと)遺跡や橋本遺跡の沈線文系の土器片などがこの時期に該当する。
 前期に入ると遺跡の数は多くなり、上溝三屋(さんや)遺跡で羽状(うじょう)縄文系の土器や、上溝本郷などでは竹管文(ちくかんもん)系の土器片などが発見されている。


当麻遺跡 縄文中期の敷石住居跡。
(報告書『当麻・上依知遺跡』より)

 縄文中期の繁栄
 相模原でもっとも遺跡の数が増加するのが、つづく中期である。
 縄文時代の遺跡数は一二〇余が市内で確認されているが、これは市域の遺跡の総数二六〇の約半数に近く、そのうち縄文時代中期の遺跡は九〇余を数え、全体の三分の一、縄文時代の実に七五パーセントに及んでいる。
 また、この時期の追跡の特徴として、広大な面積をしめる「聚落群遺跡」とも呼ぶべき、大規模なものを指摘することができる。


市域にある縄文時代の遺跡

 勝坂遺跡などは、鳩川の左岸段丘上、南北一キロメートル、東西約二五〇メートルを越える範囲に集落群が存在するものと思われている。
 国道二一九号線のバイパス工事に先だって調査された当麻遺跡や、現在調査中の橋本遺跡(国道一六号線バイパス工事に先だって行なわれている)などをはじめ、破壊されてしまった番田(ばんた)遺跡や上溝中学校グランド遺跡、そして古淵檜台(こぶちひのきだい)遺跡なども大規模な遺跡である。
 当麻遺跡では、遺跡全体からみればごく一部の調査だったが、中期中葉の竪穴式住居一三軒、中期後半の竪穴式住居および敷石住居は六一軒も発掘された。
 橋本遺跡も一部ではあるが、中期後半の竪穴式住居がいままでに六〇軒も発掘され、さらに増えることが予想されている。
 この縄文時代中期を代表する型式に、勝坂式と呼ばれる土器型式がある。
 この勝坂式の土器というのは、磯部の勝坂遺跡で出土したものを標準として生まれたもので、器形の雄大さ、装飾の豪華さなどは他のいずれの土器型式にもまさるものである。
 縄文時代も後期に入ると、遺跡の数は減少する。
 この傾向は関東全般の台地や丘陵にいえることではあるが、その原因としては気候の悪化が考えられ、中期に比べ、三〜四度も気温が低下したといわれる。
 古山(こやま)・古清水(こしみず)・久保ヶ谷(くぼがやと)などがこの時期の遺跡であるが、特筆すべきものとして下溝稲荷林(しもみぞいなりばやし)遺跡があげられよう。
 この遺跡は、住宅開発にともなう緊急調査として、一九七九(昭和五四)年に実施されたが、「方形配石遺構」と呼ばれる東西一三メートル、南北一二・五メートルのほぼ方形をした積石状列石(れっせき)が検出された。
 この遺構の中心部には石囲いの火焚場(ひたきば)が設けられており、ここから南に向かって河原石が平らに長方形に敷きつめられていた。
 さらに弧状を描くような敷石の張出し部も設けられていた。
 この特殊な遺構は、山あるいは石の崇拝に関係する祭祀(さいし)遺構ではなかろうかと考えられている。
 いずれにしても、気候が急変し、獲物が減少している時期にふさわしい、祀(まつ)りの場といえよう。
 なお、一九八三(昭和五八)年秋、神奈川県によって発掘調査が実施されている新戸(しんど)地区新設高校用地で、この時期の大規模な配石(はいせき)遺構が発見された。
 縄文時代の終末期は晩期とよばれているが、相模原からは、今のところ大沼から数点の破片が採取されているにすぎない。
 気候の変化が予想以上に激しかったものと想像される。

 勝坂遺跡
 勝坂(かつさか)は相模原市がほこる全国有数の縄文時代の大集落である。
 遺跡は中位段丘面の縁辺、鳩川にのぞむ段丘崖(がい)上に広く長く位置している。
 崖下には鳰川にそそぐ湧水が豊富で、これらの湧水は遺跡の人々の貴重な飲料水となったばかりではなく、ワラビやシイの実などをさらす作業にはなくてはならないものであった。
 勝坂遺跡をはじめて学界に紹介したのは、考古学者大山柏氏であった。
 氏は一九二六(大正一五)年、一九二七(昭和二)年に調査を実施し、その結果を『神奈川県下新磯(あらいそ)村字(あざ)勝坂遺物包含地調査報告』として世に示した。
 そののち、勝坂遺跡で出土した土器が時代区分の基準となる標式土器となり、山内清男氏によって「勝坂式」という土器型式名称が与えられた。勝坂式の名称は、その土器の特徴が他の型式に比べ著しくはっきりしていたことから早くから提唱され、一九二八(昭和三)年の専門誌には早くも取入られていた。
 大山氏の調査以後も、何人かにより小規模な調査は実施されたが、そのいずれも報告はされてしないようである。
 一九六一(昭和三六)年、『相模原市史』執筆にあたり、岡本勇氏が勝坂遺跡を踏査したが、この踏査の結果、従来ばくぜんととらえられていた勝坂遺跡のなかで、土器片の散布が密である三つの地区が確認され、それぞれA区(大山氏調査地周辺)、B区、C区と名づけられることとなった。


勝坂式土器
勝坂遺跡から出土した深鉢

 その後、宅地化の波が押しよせようとしていた一九七二(昭和四七)年、神奈川県教育委員会から依頼をうけた岡本勇氏は、A区の範囲確認調査を実施した。七本のトレンチ(遺跡・遺物を探るための細長い試掘溝)と三つのグリッド(同じく格子状の試掘溝)による小規模な調査ではあったが、勝坂期と思われる竪穴式住居三軒と、加曽利(かそり)E期の竪穴式住居二軒が発見された。
 このことから、勝坂遺跡のA区は縄文時代中期中葉から後半にかけての聚落遺跡であることが、はじめて明確になった。
 勝坂で開発にともなう緊急調査が最初に実施されたのは、一九七〇(昭和四五)年のことであった。
その後、七二(昭和四七)年にはB区に隣接する一万三一六九平方メートルの地区大規模開発の申請が市に提出されることになったので、市民や研究者の間に勝坂遺跡を守る運動が展開されることとなった。
 勝坂遺跡を守る会は、国・県・市にその保存を求める一方、広く市民に遺跡の重要性や必要性をうったえつづけた。
 その結果、大川清氏の調査結果にもとづき、一万六九〇〇平方メートルか国の指定史跡となり、市が公有地化をはかり開発区全域が保存された。
 しかし、一方では、小規模な個人住宅による開発が進展し、市街化は今なお進みつつある。
 大川氏の調査以後、現在までの間、三二件の開発に先立つ試掘調査が実施された。
 このうち、保存がはかられたのは一九七九(昭和五四)年に青木豊氏によって調査された地区一〇〇〇平方メートルと、八三(昭和五八)年に市教育委員会によって調査された七四三平方メートルのみで、他はすべて開発されてしまった。
 八一(昭和五六)年、相模原市教育委員会の依頼をうけた江藤昭氏は、国指定地周辺の遺跡範囲確認調査を実施したが、氏の調査結果が尊重されて、勝坂遺跡がより広い範囲で保存されることを期待したい。

 勝坂の大集落
 「勝坂遺跡からは、いまだ住居址の発掘されたという例をきかない」。
 これは、『相模原市史』第一巻にみえる文章である。
 実際のところ、市史が編さんされた一九六四(昭和三九)年当時は、住居跡は一軒も発見されてはいなかった。
 しかし、現在までの間、実に六○軒を越える住居跡と多数の配石遺構などが発見され、その遺物量はぼう大なものとなっている。
 筆者の知る範囲でも、完全な形あるいは復原することができる土器は、大山氏の調査で勝坂式が七点・加曽利(かそり)E式が二点、岡本氏の調査で加曽利E式が一点、大川氏の調査(この調査を第一次調査として、以下年次順に第二次、第三次とする)で加曽利E式が八点・曽利(そり)式が九点、第二次調査で加曽利E式が一点、第三次調査で曽利式が二点、第四次調査で加曽利E式が二点・曽利式が二点.第六次調査で曽利式が二点、第七次調査で曽利式が一点、第一五次調査で加曽利E式が三点、第一八次調査で曽利式が三点等々、合せて五〇点以上が出土している。


勝坂遺跡全景(『グラフさがみはら』より)

 勝坂期の遺物がA区のみにみられることは、『相模原市史』第一巻で岡本氏がすでに指摘しているが、現在までの調査結果もほぼそれを裏づけている。


勝坂遺跡配置図

 住居跡にしても、岡本氏が発掘した三件と、第一〇次調査の一軒が勝坂期のものであり、A区に属している。
 広大な面積をもつ勝坂遺跡で、勝坂期の集落はA区だけに営まれたのであろうか。
 たしかに現在までの調査結果からみるなら、他の地区からは細片が数点発見されているにすぎず、集落はA区にあったと考えるのが筋道である。
 しかし、国指定地(D区)の北方には勝坂期の遺物を多量に出土する地区があり、江藤氏の一九七〇(昭和四五)年の調査では多量の勝坂式土器を発見している。第一三次調査においても多量の勝坂式士器片が出土し、第三〇次調査では住居跡も発見された。
 勝坂期の集落はA区と、この地区(かりにE区と名づける)に営まれたのであろう。
 勝坂遺跡で発見された住居跡(住居と思われるものを含む)を図示すると、右の図のようになる。
 調査に疎密の差があり、図から全体をうかがい知ることはできないが、A区、B区、D区の南部、D区の北部、E区と、そしてF区(D区から三メートルほどの比高差のある小段丘上、かりにF区と名づける)にそれぞれ集落は営まれたものと思われる。
 これらを時期別に分類することは困難であるが、中期のなかごろ(勝坂期)は、A区とE区、中期の後半(加曽利E期)になってほぼ全域にわたって集落が営まれ、後期に入るとB区、D区の北部と南部にそれぞれ小規模な集落が営まれたものと想像される。

 縄文の食生活
 縄文時代中期は、多量に出土する打製石斧から、原始的農耕が存在したか、どうかが議論されている。
 勝坂を広く世間に知らせた大山氏も、その報告書のなかで、打製石斧を「土掻き(スクレーパー)」であると述べ、外国の土俗(どぞく)例から「原始農耕にまた因縁深きものである」といっている。
 現在、考古学研究者の間では、打製石斧が土掻き具であることは大方の人々が認めているが、農耕が行なわれていたかどうかについては、賛否がわかれている。
 組織的・計画的な農耕は存在しえないとしても、多量に出土する土掻き具から、食用となる植物の移植とか、住居のまわりに落ちた種子を大事に育てるといった「半栽培」をこの時代に想像する研究者は多い。
 いずれにしても照葉樹林におおわれ、温暖で湿潤な縄文時代中期には、豊富な果実類や根茎類・堅果類にめぐまれ、それまで以上に生活を安定化させ、集落規模を拡大させ定着させたものと思われる。
 事実、橋本遺跡の住居跡からは大量のオニグルミが発見され、平塚市の上ノ入(かみのいり)遺跡や東京都の宮下遺跡などの中期の遺跡からは、キツネノカミソリ類やノビルなどが発見されている。
 勝坂周辺の崖には、いまでもヤマイモやゼンマイ・ワラビなどが自生している。またクリやシイ・カシの類も自生し、『神奈川県潜在自然植生』によれば、ハンノキ群落があったことも考えられていることから(ハンノキの果肉は食料となる)、植物食に困ることはあまりなかったと思われる。
 勝坂遺跡にある豊富な湧水は、単なる飲料として使用されたばかりでなく、シイやカシの実のアクぬきに必要であったと思われる。
 中世の記録ではあるが、九条政基(まさもと)の日記『政基公旅引付(たびひきつけ)』、一五〇四(文亀四)年二月一六日の条に、

  大木村の番頭(ばんがしら)若崎右近、ならびに船渕の番頭両人まいりて、地下(じげ)より申していう、去年の不熟(ふじゅく)のゆえ、御百姓ら繁多(はんた)餓死(がし)する。
 よって蕨(わらび)を掘りて存命しむるところ。
 くだんの蕨、河流において粉に認(したたむる)ものなり。
 その粉は水にて取て、一夜置いてすえさせて(これ?)を取るなり。(以下略)

 と記録されており、ワラビを粉にして水でアクぬきをして食べた例もある。
 縄文時代の植物食としては、あまり注目されていないワラビも、打製石斧と共に多く出土する磨石(するいし)や石皿(いしざら)などから考えるなら、重要な食料の一つであったと思われる。
 勝坂を代表とする相模原の大集落は、豊富な植生に支えられ、おおいに繁栄したものと想像される。
 もちろん石鏃も出土することから、動物性タンパク質の摂取も盛んであったと思われるが、後期に入って急激に集落が衰退しのは、植物食への依存度が高かったからではないかと思われる。
 つまり、木の実や根茎類を生んだ照葉樹林が、気候の寒冷化によってこの地域から消滅してしまったのである。

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 市域に少ない弥生遺跡

 これまでみてきたように、相模原市域で縄文時代中期に花開いていた文化も、縄文晩期となると、今のところ市域からは集落址はあるが、遺構すら発見されていない。
 関東地方は、東北地方を中心にさかえた晩期縄文文化の影響下にあったが、紀元前三世紀頃に北九州に定着した弥生文化が入ってくるのは、紀元前後(弥生中期)のことであった。
 弥生文化は、水稲耕作と金属器(青銅器・鉄器)の使用を特徴とする農耕社会を、北海道と屋久島以南を除く日本中に広く浸透させた。
 しかし、相模原台地のような洪積台地や丘陵部・山間部には、水稲耕作に適した土地が少ないため、弥生農耕集落はひろがらなかった。
 市域では、上矢部和組(わぐみ)遺跡や上溝三屋遺跡などから弥生式土器の破片が数点発見されているにすぎない。
 沖積地(河川の運ぶ土砂が堆積した川筋や川口の平野)が少ない市域は、弥生時代の人々にとっては、住むに適しない所であったと思われる。
 しかし、古くから開かれたと思われる谷戸田もあり、今後の調査によっては、小規模な集落遺跡が発見される可能性は、おおいに残されている。
 このように、相模原市域では弥生集落は発達しなかったが、全国的にみれば、弥生文化は各地方に浸透して新しい社会が形成されようとしていた。
 地域的にみれば、農耕の発達により余剰生産が増し、貧富の差ができて階級性社会へと向かいつつ、集落(ムラ)の数も増大し、大規模になり、さらにムラムラの統合がすすんで地方的クニヘと成長していった。
 やがて強大な権力者も出現することとなる。
 一方、この時期には東アジア世界も大きく動いていた。
 中国の統一王朝は、秦・漢以来、朝鮮半島にまでその勢力をのばし、日本列島には朝鮮半島を通じて、新しい文化が盛んに流入してきた。
 多くの弥生遺跡で土器と共に新(しん、前漢と後漢の間の王朝)の時代に鋳造された貨泉(かせん)が出土していることが、この事情を物語っている。

 古墳と大和政権
 弥生時代は、社会や文化の発展と共に、墓制(ぼせい)の変遷にも大きな特色がある。
 弥生中期以後には、いわゆる方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる、溝を方形にめぐらした形式の墓が出現する。
 ところが、弥生時代の未期になると、これに代り。西日本に大規模な高塚式(土を高く盛上げた形式)の墓が出現する。
 この種の墳墓(ふんぼ)を古墳と呼び、古墳が権力者の象徴として盛んにつくられる期間を一般に古墳時代と呼んでいる。
 しかし相模原には、大規模な前方後円墳などはみられない。
 古墳時代も終末期の七世紀につくられた小円墳や、崖に洞窟状に捐られた横穴古墳が群となって存在するにすぎない。
 そこで、これらをくわしくみてゆく前に、しばらく南関東を中心とした東国地方における古墳時代の様子をながめておこう。
 さて。古墳時代には、畿内(大和を中心とした地方)では三世紀頃と思われる古墳もみられるが、関東では四世紀に入ってから大規模な古墳がみられるようになる。
 このことは、四世紀頃大和国(奈良県)に強大な政権が誕生したことと関連が深いと考えられている。
 というのは神奈川県域を例にとっても、古くて大規模な川崎市白山古墳や平塚市真土(しんど)大塚古墳などからは、それぞれ山口や京都、岡山や京都などの古墳から出土した鏡(三角縁神獣鏡)と同じ鏡が出土しているからである。
 これらの鏡は、大和政権が地方豪族にゆずり渡したものと考えられており、神奈川県域も四世紀には大和政権の影響下に入ったことを物語っている。
 相模川水系の古墳をみると、はじめ河口付近(平塚)を勢力圏とした大和政権と関係の深い有力豪族が古墳を造営し、その後、中流域(海老名)の有力豪族が中規模古墳を造営、つづく古墳造営最上流部の相模原市域の支配者層が小古墳を造り始めたのは、古墳時代も終りの時期であったことがわかる。
 しかし、古墳の造営が大和政権の影響によるものであることは疑う余地のないことであるが、古墳の造営そのものが、大和政権の支配下にあったことを意味するものではない。
 たとえば筑紫国造(つくしのくにのみやっこ)磐井が新羅(しらぎ、朝鮮半島の有力な国)と結び、五二七年に大和政権と戦っていること(磐井の反乱)からもわかるように、九州や関東の各地では、大和政権に一応は従属しながらも、有力な地方政権が、なお半独立を保っていたのである。
 武蔵国でも国造の座をめぐって笠原直使主(あたえおみ)と同族の小杵(おぎ)が争ったとき、小杵は上毛野(かみつけぬ)君小熊(おぐま)と、使主は大和政権とそれぞれ結んだといわれる。
 結果は小作が敗れ、使主が国造となるが、それは五三四年のできごとといわれる。
 この武蔵国造の戦いをきっかけとして、大和政権は小杵の旧領(多摩川・鶴見川流域)を屯倉(みやけ、大和政権の直轄領)とし、関東における支配力を強めた。一方、大和政権に対抗しうる関東の大豪族、毛野氏は衰退していったのが、当時の関東の状勢であった。
 相模原市域心また、谷原や隴の小古墳がつくられる七世紀後半、大和政権の影響力はより一層強くなったものと思われる。

 古墳群と集落
 相模原には小円墳の群が当麻の谷原や田名の滝に存在したことが知られている。
 谷原は一部調査が実施されており、その性格をうかがい知ることができるが、滝は未調査のままそのほとんどが破壊されたので不明な点が多い。
 一方、横穴古墳の群は、当麻の芹沢(せりざわ)、下溝(しもみぞ)の上庭(うえにわ)、磯部の上磯部、上矢部の御所之入(ごしょのいり)・和組(わぐみ)、鵜野森(うのもり)などに存在しているといわれる。
 御所之入・鵜野森を除くほかは、未調査のため詳しいことは不明である。
 ただ上磯部の横穴古墳から出土した直刀(ちょくとう)が、現在、市で保管されている。
 高塚式の小古墳や横穴古墳があるということは、それらを造営し、祭った人々の生活が市域にあったことを物語るが、現在のところ当時の人々のムラの遺跡が調査された例は少ない。
 当麻遺跡で七軒、上鶴間中村遺跡で一町が発見されているだけで、これらは古墳時代後期・終末期に属するものである。
 それより古い前期・中期の住居跡は、今のところ未体認であるが、橋本遺跡や田名椿森(つばきもり)遺跡から土師器(はじき、弥生式土器に比べ地方色が少なく、専業の工人たちによってつくられたと思われる薄く洗練されたもの)(かめ)片や高坏(たかつき)など、が発見されている。
 当麻遺跡の住居跡はいずれも方形で、規模には大小の二種がある。
 このうち二軒は一五平方メートルの小型で、四軒は二百平方メートル以上の大型であった。
 カマドは竪穴式住居の北壁あるいは北東寄りにつくりつけられていた。
 これらの住居跡は谷原の古墳群と同一の地域に属しているから、古墳を造営した人々のムラの一部であった可能性がある。


市域にある古墳時代の遺跡

 今のところ、他の古墳の地域では、住居跡が発見された例はない。
 となりの八王子市域には、この頃のムラがほぼ完全な形で発掘された例がある。
 相模原市域に近い多摩川の南にある中田遺跡(八王子市中野山王三丁目)もその一つである。
 ここでは七六軒の古墳時代後期・終末期の住居跡が発見されている。
 この七六軒のうち。六世紀に三八軒が、七世紀の前半には二三軒が、七世紀の後半には一五軒が存在したと考えられている。
 相模原のムラも、古墳の状況から考えるなら、中田遺跡にまさるともおとることのない規模のものが存在したはずであるが、すべては今後の調査と研究に待つほかはない。

 谷原と御所之入
 そこで次に、市域の古墳のうち、わずかに調査が行なわれた谷原(たにはら)の小円墳群と御所之入(ごしょのいり)の横穴古墳について、少し詳しくながめておこう。
 谷原の古墳群は、神奈川県企業庁の相模原ポンプ場周辺に存在した。古墳は一四基が確認されたが、現存するものは相模原市指定の一号墳と呼ばれるもののほか二、三基のみである。
 この一四基は、東と西の群にわかれて分布していたが、西の群(六基)は未調査のまま破壊されてしまった。

古墳時代の装身具 谷原古墳から
出土した玉類。(報告書『谷原』より)

横穴古墳 御所之入の2号横穴。

 調査された古墳は、いずれも東の群に属す四基で、調査は一九六九(昭和三四)年と七一(昭和四六)年の二度にわたって行なわれている。
 市指定の一号墳は、直径二〇メートルで、幅約二メートル、深さ約一・二メートルの周溝をめぐらした円墳である。
 調査以前の古墳は、地上約一・五メートルほどの墳丘の形をもっていたといわれる。
 古墳の内部は、南に羨道(せんどう、石室への入口にあたる道)のある横穴式の幅約四・五メートル、長さ六・五メートルの台形の石室があった。
 出土した遺物は、金環二、管玉(くだたま)一、水晶切子(きりこ)玉一、琥珀(こはく)玉一と直刀一、鉄鏃(てつぞく)一〇点であった。
 二号墳もほぼ一号墳と同様の規模・構造であったが、一号墳でははっきりわからなかった人骨が六体分発見された。
 その時の報告書によれば、すべての人骨は、古墳がつくられた際に最初に埋葬されたものではなく、人骨や副葬品がかたづけられたのも、二次埋葬されたものといわれており、また、人骨の状況から、直刀をもった一体は家父長で、豊富な玉をもった人骨はその妻ではなかろうかと推察されている。
 その他の人骨は副葬品がとぼしく、この二人に従属した者と思われている。
 このことは、小古墳を造営した人物は、有力豪族とはいえないまでも、従者を従えた富裕な者と考えられる。
 これらの古墳がつくられたのは七世紀後半と思われるが、前庭(ぜんてい)部にあった遺物からみると、八世紀前半までは、古墳に対する祭祀(さいし)が行なわれていたと考えられる。
 また、二号墳の周溝の西南の外縁には、火葬墓と思われる石組遺構が発見されていることから、埋葬や祭祀が行なわれなくなったあとも、子孫によってこの地が墓所として使われていたとも推定される。
 しかし、一〇世紀に入ると、墓所としての聖地意識はなくなったのか、古墳の周溝にせり出した形で住居がつくられている。
 横穴古墳は、御所之入と鵜野森で調査されている。
 御所之入で発見された二つの横穴古墳は約一〇メートルヘだててつくられており、つくられた年代は、二号横穴が七世紀後半、一号横穴は二号より時期が少しくだるものと考えられている。
 一号横穴は全長一三メートル、奥壁の幅二・七五メートル、奥壁の高さ一・七メートルの無袖(むそで)三角形と呼ばれる型をしていた。
 遺物は棺座から刀子(とうす)が二点検出されたのみであった。
 二号墳は全長一四メートル、奥壁の幅二・二メートル、奥壁の高さ一・七メートルの羽子板状で、遺物は墓道を埋める土の中から、土師(はじ)器の破片二点と棺座から布のきれはしが発見された。
 人骨は一号横穴から男性二体(三〇歳前後と二〇歳前後)、二号横穴から女性一体(四〇歳前後)と思われるものが発見された。
 さて、この御所之入の横穴古墳と谷原の小円墳を比べると、出土した遺物の量に差があることが注目される。
 盗掘も考えられるのでいちがいにはいえないが、高塚式の円墳をつくるか、あるいは横穴古墳をつくるかの違いは、力の差を示すものかもしれない。
 いずれにしても、相模原の古墳時代には、相模川流域(田名・当麻・下溝・磯部)と境川流域(上矢部・鵜野森)にムラが存在したことは疑う余地もない事実であろう。

 水源の神を祭る
 縄文時代の代表的遺跡である勝坂遺跡の位置する台地の下に、有鹿(あるが)神社という小さな祠(ほこら)がある。
 この祠の下流約一〇〇メートルの田の整地の時に、銅鏡一、鉄鏡一、大型管玉一、子持曲玉一などの祭肥遺物が発見された。
 この時、一緒に出土したと思われる土師器は五〜六世紀のものであり、谷原古墳や御所之入横穴がつくられるより古い時期の祭祀跡と思われている。
 祭祀の対象は、湧水と思われる。
 この有鹿神社は式内社(しきないしゃ、『延喜式』の神名帳にのっている古くからの神社)である海老名の有鹿神社の奥の宮と思われ、水源の神を祭ることによって海老名耕地を潤(うるお)す鳩川の一水源を確保することは重要なことであったと思われる。


有鹿神社の祠

 古墳時代の中・後期は、海老名に地頭山(ちとうやま)古墳をはじめ、秋葉山(あきばやま)の古墳群など中規模の前方後円墳が造営された時期であったから、この有鹿の祭祀遺跡も、相模野の広大な耕地を支配する権力者によって祭られていたものと考えられる。

 中央集権下の相模原
 古墳文化の終焉(しゅうえん)は仏教文化の伝来と共におとずれた。
 それまで、古墳は豪族たちの権力を示すものとして竸ってつくられたが、仏教の伝来によって、豪族たちは古墳に代えて寺院の建立(こんりゅう)を行なうようになった。
 また一方、仏教文化に象徴される新たな文化をはぐくんだ奈良時代と呼ばれるこの時期は、政治体制のうえでも、それまでの連合政権的政治体制から、天皇を中心とする中央集権国家への移行期でもあった。
 天皇権力は、大化の改新、壬申の乱等のクーデターをへて、大和地方を中心とする大豪族たちの力をおさえ、絶対的権力を手中にすることができるようになった。
 そしてこのような中央政界において確立した天皇権力は、やがて地方にもおよぶこととなった。
 それまで各地で独立してクニを治めていた国造(くにのみやっこ)たちをおさえ、公地公民の政策と共に一〇〇余国といわれた国々を半数近くに整理し、中央政府はそれぞれ新しい国々に国司(こくし)を派遣し、国造たちを郡司(ぐんじ)として国司の下に位置づけた。
 しかし、これらの政策は必ずしもすんなりと地方に受入られたわけではない。
 関東に国司が派遣されたのは、大化の改新後わずかに二か月後であったといわれているのに、国々の境界が定められたのは八世紀も後半のことであったといわれている。
 当時の相模国の状況を文献で調べてみると、実に苦難にみちたものである。
 蝗害(こうがい)・風害(七〇一年)、疫病の流行(七〇三年)、飢饉(七六五年)などの天災のほか、富民の陸奥への移住(七一五年)、浮浪人の陸奥・出羽への移住(七五九年)、武器の陸奥・出羽への供出(七五九・七七七年)、陸奥・出羽への派兵(七七四・七七五年)、陸奥への米の供出(七八一年)、そして筑紫(つくし)への防人(さきもり)派兵(七五五・七六六年)など、相模国の人々は苛酷な苦役(くえき)を強(し)いられていた。
 それでなくても労役は重く、一年に一〇〇日前後といわれており、兵士に徴発された家の没落は目にみえるようである。
 国分寺の建立や大仏の建立はまさにこのような天災や東北の反乱などのなかで、わざわいをのがれるために聖武(しょうむ)天皇の詔(みことのり)として発願されたのである。
 しかし、国分寺の建立は、仏教文化と瓦・須恵器(すえき)の普及という文化面での地方変革ははたしたものの、地方の人々の生活をいっそう苦しめることになったことも事実である。
 このような世情を反映してか、相模原のこの頃の遺跡は少なく、規模も小さいようである。
 現在までのところ、住居跡は当麻遺跡で四軒、相原田ノ上遺跡で一軒、相原No.四遺跡で一軒がそれぞれ発見されているにすぎない。
 そして、住居の大きさも、古墳時代に比べ小型化する傾向がみられ、中央貴族の栄華や、各地に氏寺を建立した地方豪族に比べるなら、逆行する現象さえ示しているといえる。
 法隆寺式の伽藍(がらん)をもっていたといわれる相模国分寺(海老名市国分)の、南北約一六、七メートル、東西三四メートルの金堂や、瓦を重ねる塔や中門をみた相模原の人々は、一体どんな思いをしたであろう。
 わずか四坪たらすの竪穴住居に住まう彼らの生活は、『貪窮問答歌』に歌われるように

 「伏蘆(ふせいお)の曲蘆(まげいお、竪穴式住居)の内に直土(ひたつち、地面に直接)に藁解(わらと)き敷きて父母は枕の方に、妻子どもは足の方に囲み居て憂へ吟ひ(なげきうめいて)(かまど)には火気ふき立てず甑(こしき、むし器)には蜘蛛の巣懸(か)きて飯炊く事も忘れて」

という状況であったと思われる。
 古墳時代の繁栄に比べ、奈良時代の関東は、蝦夷に対する東北戦線の最前線として位置づけられた、天皇政府の植民地的様相を呈していたと思われる。

  3 古代国家の終幕 top

 律令体制のゆるみと地方
 古代のフィナーレは、貴族政治と国風(こくふう)文化に象徴される平安時代である。
 その前期には、律令制に準拠した安定した政治が行なわれ、地方においては古墳時代からの伝統的な力を有していた郡司(ぐんじ)層が没落していく時期であったが、しだいに律令体制がゆるみ、中央の統制がゆるんでいった。
 この時代の様相も、相模国の人々にとってはけっして安穏(あんのん)な時代とはいえなかった。
 六回にわたる富士山の噴火をはじめ、二度の大地震のほか、疫病などもたびたびおそってきた。
 政府は、相模国をはじめ関東諸国の疫災を払うため、一切(いっさい)経の写経奉進を指示している(八三四・八五三年)・ 八四七(承和一四)年、前相模介橘永範が、貧窮した百姓を救済するため建てた救急院から地子稲を貸与された人々は、一一五八人におよんだといわれる。
 このほか奥羽への派兵や各地の豪族の反乱鎮圧のための派兵も多く、人々はあい変わらぬ苦役を強いられていた。
 さて、律令体制がゆるんでいったことは先に述べたが、このため公地公民制も崩れ、地方においては、土地が有力な個人に集中して、荘園という私有地が増加していった。
 この荘園の実際の管理者である荘官たちが、やがて武士として登場し、新しい時代をつくっていくのであるが、中央の弱体化と共に、こうした在地の力がしだいに蓄積され、充実しつつあったのが、この時期の地方、とくに東国における大きな動ぎであった。
 八九九(昌泰二)年の僦馬(しゅんば)の党と呼ばれる群盗の横行や九〇一(延喜元)年に群盗取締りのための追捕使東国派遣は、東国の治安の乱れを示すと共に、ここに政府権力にも屈しない実力をもった人々の活躍をうかがわせる。


市域にある平安時代の遺跡

 九三五(承平五)年には平将門(まさかど)の乱が起こる。
 平将門とその一党(郡司層・在庁官人層・荘官層など)は、常陸(ひたち)・上野(こおずけ)・下野(しもつけ)の国府をおそい、九三九(天慶二)年には相模国の国府をもおそった。
 一時は関東八か国を支配したといわれているが、これにおどろいた政府は参議藤原忠文を征東(せいとう)大将軍に任じて将門追討(ついとう)軍を組織し、九四○(天慶三)年、将門は藤原秀郷(ひでさと)と平貞盛らに討たれ、乱は平定された。
 将門も秀郷も、元々中央貴族の子孫であるが、地方官に任じられ、そのまま地方に土着した土豪の子孫である。
 そして、彼らに味方しあるいは戦った人々も、彼らと同じく広大な土地を所有し多数の百姓層を従える私営田領主であった。
 このように、関東には、律令国家を震憾させるほどの乱を起すことができるエネルギーが満ちていたばかりでなく、その力をも関東自身の力でつぶすこともできる力が育っていた。

 相模原の村
 これまで平安時代における地方の状態を、東国を中心にながめてきたが、そのころ相模原のあたりではどのような社会と生活が展開されていたのだろうか、その一端をみてみよう。
 平安時代の前期ごろのムラとしては、当麻遺跡や上鶴間(かみつるま)中村遺跡、橋本遺跡、小山矢掛遺跡、そして相原(あいはら)田ノ上遺跡などがあげられよう。
 これらの遺跡から発見されている住居跡の形は様々であるが、おおむね方形をした竪穴式の住居で、面積は一〇平方メートル前後という小型のものである。
 出土する土器は土師器の坏(つき)や甕(かめ)のほか、須恵器の坏や碗なども一緒に出土している。
 この須恵器は、朝鮮から伝来した灰釉(かいゆう)で硬質の土器で、


平安初期の竪穴住居
相原田ノ上遺跡の第5号住居址

弥生式土器の系統をひく土師器に比べ、一〇〇〇度以上の高温で焼きあげるため特別な技術を必要とした。
 畿内では古墳時代の中期(五世紀はじめ)にはすでに生産が始められているが、相模国などでは、国分寺建立に必要であった瓦の生産技術と共に、八世紀になってようやく生産が開始されたものと思われる。
 また、まれに灰釉陶器の水瓶(すいびょう)や、瓦片も出土する。
 しかし、瓦は竪穴式住居に住まう人々が屋根材としたわけではなく、住居から破片が単独で出土する様子から、めずらしいものとして瓦窯(がよう)から拾われてきたものと思われる。
 平安時代中期のムラは、谷原遺跡・当麻遺跡・田ノ上遺跡・相原二本松遺跡そして田名坊山(たなぼうさん)遺跡などで発見されている。
 この時期に入ると、まだ少量ではあるが灰釉陶器の碗をはじめ各種の施釉(せゆ)陶器が出土する。
 これらの施釉陶器は東海地方からの移入品と思われ、当時は高価であったと思われるこれら陶器が出土することは、余剰生産が高まり、生活に余裕が現れれたことを示すものと思われる。
 また、鉄製の農具や刀子なども従来にまして出土例を多くしており、この鉄製品の普及は開墾作業をより能率化したことであろう。
 この頃の特筆すべき遺跡として、となりの町田市相原町から小山(おやま)、八王子市にかけて発達する南多摩古窯(こよう)をあげることができる。
 小山瓦尾根(かわらやね)では一〇世紀前後に相模国分寺を再建するために焼いた瓦窯址が調査されている。
 また、相原町から八王子市にかけては九世紀から一一世紀にかけて創業されたといわれる窯址が多数発見されている。
 そしてこれらの窯址(かまど)の分布をみると、時代がくだるにつれて多摩丘陵の奥へ入っていく傾向があるといわれる。
 相武の国境は、古くは多摩丘陵の尾根であったといわれているが、これらの窯址の調査研究は、その事実を判断する手がかりをわれわれに示してくれるものと思われる。
 相模国分寺の瓦窯の存在や、相原地区で多量に出土するこれらの窯址で焼かれた須恵器も、当時の境界を物語るものと考えられる。
 弥生時代以後、それまでの尾根を交易路とする縄文狩猟文化が、河川を中心とする農耕文化に変質発展していったのである。
 大河川が国境となる例は全国的に多いが、境川のような小河川の場合は国境とはならず、むしろ、尾根や峠が国境となる方が自然であった。
 境川の古名は、相模国高座(たかくら)郡の「高座」であり、高座川は境界線ではなく、むしろ高座郡の中心をなす川であったと思われる。
 相原のムラは南多摩の古窯に従事する工人たち、もしくは関係の深い人々のムラであった可能性が大きい。

 古代の地名と郡郷
 ここで相模原とその周辺地域の古代地名について触れておこう。
 承平年問(九三一〜九三八年)、源順(したごう)によって編さんされた『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう)は、各国の郡名・郷(ごう)名などをいまに伝えるが、相模国高座郡には一三郷一駅が所在したと記されている。
 ここに出てくる郷は地方制度の最小単位で、奈良時代の七〇一(大宝元)年にできた大宝令に定められた国・評(こおり、のち郡)・里のうちの里が、七一五(霊亀元)年に改称されたものである。
 大宝令の制度では、一里が五〇戸と定められていたが、その制度を受継いでいたものと想像される。
 しかし、ここでいう一戸は現在の一戸とは異なり、四、五名で二戸の場合もあれば、四〇名を越える大家族の一戸が存在したことも、当時の戸籍帳から知られている。
 このように一戸の人数に大きな差があったことから、高座郡の一三郷のうち、どの郷とどの郷が相模原の市域にあったのかを決定することは不可能であり、推測の範囲を越えることはできない。
 一三郷のうちに塩田郷という名があるが、現在、田名に塩田という字があり、付近からは谷原の小古墳群や平安時代のムラなどが発見されていることから、この地が『倭名類聚鈔』にある塩田郷である可能性は大きい。
 しかし、当時のムラが発見されている相原地区と上鶴間地区が、どの郷に属していたのかは推定するにも資料は少なすぎる状況である。
 ただ、『新編相模国風土記稿』によれば、かって相原村は上棚郷と称したと記載されていることから、『倭名類聚鈔』にある上甘郷にあたるかもしれない。
 時代は古いが、正倉院文書「相模国封戸租交易帳」(七三五年)という記録によれば、高座郡土甘郷には五〇戸の戸数、一七八町余の田地があり、鈴鹿王に支配されていたとある。
 現在の相模原の相原地区の広さだけでは面積が少なすぎることから、かりに上甘郷が上棚郷であるとすれば、土甘郷には当然、町田市の相原や小山、そしてやはり『新編相模国風土記稿』に古くは相原郷に属したと記されている相模原の上溝(かみみぞ)や下九沢(しもくざわ)そして小山などにわたる広い地域が含まれていたものと考えられる。
 いずれにしても古墳時代以来、相模原には境川と相模川流域の二つの文化圏が栄えており、奈良・平安時代の郷もそれぞれの流域に所在していたことは疑いのない事実であろうし、その二地域が土甘郷・塩田郷と呼ばれるようになったのではないかと推測される。
 今後の調査研究により明確になることを期待したい。

 横山党の進出
 平安時代も後期に入ると、相模原で集落遺跡の発見された例は聞かない。
 これは関東地方全般にいえることだが、ふしぎなくらいこの時期の遺跡は少ない。
 鎌倉光明寺裏遺跡で、平安時代末から中世初頭(鎌倉時代前期)の土師質土器皿などが出土しているが、現在のところ考古学の分野では、平安時代後期(一一世紀後半〜一二世紀)は空白の感を与えている。
 相模にもっとも関係の深い武士団である横山党が相模原に進出しだのは、一一世紀前後と思われるが、その足跡(住居・集落跡など)が考古学的調査に現れれないところに矛盾が感じられる。
 横山党にかぎらず、関東の武士団がもっとも発展し、源頼朝の旗上げに応じられるだけの力をたくわえる時期が一一世紀後半から一二世紀である。
 この時期には、関東の各地で彼らのムラも充実し発展していたはずではあるが(もちろん相模原市域でも)、考古学的調査ではかえって他の時期に比べ遺跡の発見が少ないのである。
 このことは、考古学的成果と文献史学による成果との間にずれを感じさせるものである。
 しかし、いずれにしても、今後の調査研究によって、このずれを埋めていくほかはない。
 さて、相模原に進出した武士団として、武蔵七党の一つ武蔵松山(八王子市)を拠点とする松山党があげられよう。
 横山党は、他の武士団が惣領支配を特徴とするのに比べ、共和的連合をとっていたといわれている。
 彼らが進出したといわれる相模原・町田両市にまたがる相原や小山(おやま)、相模原の田名(たな)などは、これまで何度も述べてきたように古くから開けていた地区であり、それらの地に成長した田堵(たと)(荘園制の下に発生した小地主)が、たくみに党の一員として組みこまれていったものと思われる。
 田堵は、自分の田地はもちろん、公領などの耕営も請負っていた。
 田堵のうちでも大きなものは郡司などとなり、国家権力を利用することにより、益々強大なものとなっていった。
 同じ相模国高座郡の大庭庄(おおばのしょう)を伊勢神宮に寄進し(一一一七〈永久五〉年、大庭御厨)、自ら荘官として実質的に荘園を支配すると共に、国司勢力を排除した平景正(大庭氏)などは大きな田堵である。
 横山党は強い権力をもつ総領(本家の嫡男)による支配を行なわず、小さな田堵層を横につなげたいわゆる党の結集をはかることにより、自らの田地を他の勢力から守っていたものと思われる。
 やがて相模原市域を勢力下に組みこんだ横山党は、次章で述べるように、頼朝の旗あげと共に中世の世界をつくる原勁力の一つとなるのである。

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