「私、転んじゃった」の「私」って、「私は」それとも「私を」?

 「私は転んじゃった」のはずなのに。シンハラ語では「私を転んじゃった」と言ってしまう。シンハラ語の言語感覚が納得できない。「転んだ」の主語は「私を」じゃなくて「私は」や「私が」と言うんだよ、とシンハラ人に教えようものなら、「日本語は難しいネ」と辟易されてしまう。ここんとこ、なんとかならないものか?


シンハラ語QA No-115 2018-June-28 Thirsday

 「私を~」と言ってしまうのは例の対格主語という言い回し現象なのですが、私たち日本語の常用者にはどうにも馴染みがありません。「私を」と対格で言うのなら「転ばせた」という使役の言い回しが来ないとしっくり馴染まない。でも、シンハラ語は「私を」の対格に「倒れた」という自動詞、いや、ここでは無意志動詞なのだけど、これを使って「私を倒れた」と言わないと「私の意志でなく、偶然に倒れてしまった」の意味が伝わらない。
 でも、「私を転んだ」のように言うなら、Me fell downと言ってるようなもの。「ミー」の対格を主語に持ってくるのは、イヤミ氏以外、使わない語法。
 この対格主語の文、シンハラ語を中心にして言語を研究する宮岸哲也さんが次のように解析、紹介しています。
 

    දුවද්දී පය පැටලිලා මාව වැටුණා.
      duwddii  paya  paetalilaa  maawa  waetuna
        走る 時  足    縺れる動詞/完了 私対格   転ぶ動詞/過去去
       走っている時足が縺れ、私が転んでしまった。

        例文出典 http://www.sarasaviya.lk/2013/01/17/?fn=sa1301172
           p.123/宮岸哲也/日本語とシンハラ語における動詞構文とその格標識の対照研究 2015-01 


 何で対格なんて形を主語にする言い回しがあるのか。それは動詞の表す行為/事態が「「外的な要因により無意志的に生じることを表す」ときに用いられる表現法だと宮岸哲也さんは紹介しています。この、無意志的に生じる、と言うのがシンハラ語に現れる対格主語のポイントのようです。
  与格主語ならタミル語にもあるし、日本語でだって「私にはわからない」のように与格で主語を表す言い回しはあります。でも、「私を」の対格を主語にするなんて。
 たしかに、北村透谷の『我牢獄』に「我をしてしばらく故郷に帰り」という言い回しがあるように、対格主語は日本語にもあったのだけれど、「これは無意志的に生じることを表す」のではない。「私は転んでしまった」と言っても「私をして倒れるに至りたり」なんてややこしく言うことなどないのです。
 無意志動詞についてはこのサイトで何度かご紹介していますから、また、「シンハラ語の話し方・増補改定」をご覧の方はすでにテキストでお馴染みでしょうが、宮岸哲也さんが挙げたこの対格主語例文が使われる前後の事情を含めてとりあげながら、すこし、この無意志の対格主語を見つめてみましょう。この独特の言い回しはシンハラ語が作り出す世界を理解するとき、大切な要素となるはずですから。

 宮岸哲也さん、スリランカ映画「イニ・アワン」に主演した女優スバーヒニー・バーラスブラマニヤム සුභාෂිනී බාලසුබ‍්‍රමනියම් さんへの映画雑誌サイトのインタビューからこの例文を取り上げています。

新人女優のインタビュー

 「イニ・アワン」は2012年に公開されたスリランカ映画。同年にカンヌをはじめとする世界各地の映画祭で上映されました。英語名は「him,here,after」。でも、「イニ・アワン」の意味はタミル語で「スィートな彼」。
 えっ、タミル語が映画の題名に? そう、この映画は全編タミル語の作品。だけど、監督はシンハラ人、というちょっと変わった作品。その内容はスリランカ内戦後のジャフナで市民生活復帰を目指すタミル人元戦士の生活を描いたもの。長い内戦後に作られたこの作品はきわどさの匂う作品です。
 以下はこの映画に主演して元戦士の恋人役を演じた女優スバーヒニー・バーラスブラマニヤム සුභාෂිනී බාලසුබ‍්‍රමනියම් への芸能雑誌「サラサウィヤ」によるインタビュー記事抜粋です。

【サラ】 イニヤワンはタミル人俳優を使って撮った映画です。しかし、監督はシンハラ人。監督には難しいことがあったんじゃないでしょうか、スバさんたちのようなタミル俳優たちの関心をひきつけることが?

【スバ】 本当に沢山のネガティブな意見がありました。映画ではタミル人にタミル人が敵対するように描かれているからよくないとか。実際にはそんなタミル人同士の敵対なんてないから。中にはそのことで怒る人もいました。だから、私、はっきりと言ったんです、これは映画の中だけよ、って。

【サラ】 あなたの演技をシンハラの役者さんたちはなんと言ってました?

【スバ】 凄く良いって言ってくれました。

【サラ】 イニヤワンの後、演技は好きになりました?

【スバ】 もちろん。今はとても好きです、演技って。

【サラ】 映画の中にスバさんが頭を壁に打ち付けるシーンがありますね。あれ、本当に打ち付けた?

【スバ】 そのシーン、とても大変だったんです。壁に発泡スチロールのかけらを貼り付けて、そこへ壁の色を塗って作ったんです。そこに私の頭を打ち付けた。リアルだったでしょ。凄くうまくいった。
 でも、最初のティクのとき私、発泡スチロールのかけらがあるとこじゃなくて本物の壁に頭を打ち付けちゃって。おでこ腫れ上がりました。それで、二日間撮影が延期されてしまった。

【サラ】 「イニヤワン」で難しかったシーンは?

【スバ】 火をつけた二本の木の間を走ったことです。でも、走って、つまずいて、私、転んじゃった。私、思ったんです、アソーカ監督、私を怒るわって。監督は撮影を止めると、命令してきたんです。もう一度撮るからそういう風に転んで、って。それで、4回もそうやって転ぶ羽目になったんです。手も足もみんな傷だらけ。


 スバさんはスリ・ランカのタミル人でシンハラ語が上手です。とても正確に、きれいにシンハラ語を話すので私たちにも聞き取りやすい。紹介したインタビュー記事は全文のごく一部ですがシンハラ語で話しています。
 何がなんだか分からない撮影現場。スバさんにとって初めての映画です。私、一生懸命に走った。足を滑らせた。そのとき、彼女は「私を転んでしまった」と言ったのです。
 最後のスバさんの、「走って、つまずいて、私、転んじゃった」を正確な訳文(宮岸哲也)で言うと、「走っている時足が縺れ、私が転んでしまった」なのです。
 「私を転んだ」の言葉がスバさんから出てきたときの状況が見えてきたでしょうか。
   神様が何らかの計らいで「私を」転ばせた…のではない。「私を」転ぶように誰かが仕掛けた…でもない。「私を、転んだ」…のです。「私を」なんて変な言い回しだけど、その言葉は無という意志の中に生まれ出てくるのです。

 シンハラ語の対格主語を動詞の格支配と考えれば「外的な要因により無意志的に生じることを表す」動詞に呼応して現れる現象だと言えます。宮岸哲也さんの先の論文は動詞の意味を他動詞(意志動詞)、自動詞、その中の無意志動詞が主語の格をどう変化させるかと追い続け、克明に言葉が表す意味を探っていきます。
 この論文に集められた日常会話のコーパスはシンハラ語の日常のさまざまな実態を上記の例文のように指し示しています。有体な言い方ですけど、日常会話例文集として使っても便利で重宝なこと、この上ありません。

 「私、転んじゃった」は映画の中の台詞ではないけれど、このインタビュー記事から希代な映画の存在を知ることにもなりました。「イニヤワン」(ini awanのシンハラ訛り)というタミル語のタミル映画がシンハラ人の監督によって撮られた。主演の女優スバさんは映画・サイトのインタビューできれいなシンハラ語で応えて、タミル語にはない対格主語という言い回しで話す。これは、もしや内戦後のスリランカがスィートな心情を取り戻している気配かも。

無意志ということ

 宮岸哲也さんの論文で無意志文の条件を教えてもらった。無意志ということ。
 言語を探るなんて古臭い、つまらないと思っていたことがあったけど、日本語からちょっとはなれてあたりを見渡すと何もかもが新しい。そして、それはまた、日本語に戻ってくる。新しい世界をダイバーシティで見せてくれるニッポンって、まだまだ、いいな。
 フィリピンの映画祭では「シンハラくさい」という低調な評をいただくことになったけど、アメリカのタミル人協会Ilankai Tamil Sangamからは「美しい映画だけどタミル人の現状が欠落している」と評されたけど、2012年37回トロント国際映画祭の現代映画部門で招待上映された後、「イニヤワン」はスリランカ国内の映画賞をいくつも受けています。2013年の第2回デラナ・ラックス映画祭で最高賞を、2014年の第1回ヒル・ゴールデン・フィルム賞で作品賞をはじめとする各賞を獲得。スバさんSubashini BalaSubramaniamは主演女優賞を獲得しました。
 さて、日本ではどんな評価が…
 え?、日本上陸はまだなの? 

【参考】スバヒニーのインタビュー記事http://www.sarasaviya.lk/2013/01/17/?fn=sa1301172 2013年1月17日


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