皿を割れた。
えっ、「皿が割れた」の言い間違いでしょう? いえ、シンハラ語では「皿が割れた」ではなくて「皿を割れた」と言うのです。そのわけは……
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2007年2月、「口語シンハラ語のヴォイス」という論文が宮岸哲也によって安田女子大学紀要35号に掲載されました。宮岸哲也がここ数年、精力的に発表しつづけているシンハラ語研究の諸論文。日本人が日本語の視点に立ってシンハラ語を解析するという貴重な研究の成果です。
米国を拠点にしてUG学派の研究者たちがシンハラ語と日本語を生成言語の研究対象として取り上げ、両言語の底流に共通する言語規則(ユニバーサル・グラマー)を見出そうとした。それが20世紀末に始まったシンハラ語の比較研究第一期とすれば、宮岸哲也が日本語学からの視点を持ち込んで細部にわたる語構成の比較をシンハラ語との間に行った時代は21世紀初頭の新たな出来事でした。それは、日本語学の立場からのシンハラ語研究の萌芽だったし、また、シンハラ語研究第二期の始まりでした。
宮岸哲也によるシンハラ語と日本語の対照研究はUG学派の取り組みとは別の面でより緻密に行われました。
シンハラ語と日本語の動詞と接辞に焦点を当て、主に文学作品に現れるそれらの語句の用法を多様な例文から比較する宮岸哲也の研究は他に類を見ません。
「口語シンハラ語のヴォイス」は無意志動詞の探求という、やや特殊な事例を扱っています。それは、しかし、シンハラ語にとっては日常茶飯の「言い回し」であり、日本語にとっては、目新しいことのように見えて、実は、根本的な日本語の事情に触れるテーマになっています。
まずは「~される」という言い回し、受動態のかたちからシンハラ語を探ってみます。
シンハラ語に受動文はない
無意志動詞と受動態
「口語シンハラ語のヴォイス」ではシンハラ語のヴォイスの特徴を四点にまとめ、それらの中で特に受動態に力点を置いています。そこで宮岸は、「口語シンハラ語には、生産性の低い語彙的な受動態はあるが、生産性の高い文法的な受動態はない」とする論証を行ないました。
受動文がないという指摘は奇異に聞こえるかもしれません。
シンハラ口語に受動態はないとしても、現実には受動態で表現されるようなこと、「~された」というような受動の状況は必ず生じます。このとき、言語表現と現実の行為とのギャップをシンハラ語はどう埋めるのでしょう。
文語シンハラでは、『シンハラ語の話し方』の例文に掲載した「動詞不定形+ラベーlabee」の形で受動の態を作ります。文語シンハラはこの動詞句の前に「~によって」を意味するウィシンという接辞を置いて行為者を表し受動文とします。
この受動文は日本語が「~によって+動詞語幹+れる/られる」で受動態文を作るのと語構成が似ています。しかし、実際のシンハラ語会話でこの受動文を聞くことはまずありません。それはこの語法が文語シンハラ語だけに限られて、口語シンハラではまったく別の言い回しが用いられているからです。
こんな例文があります。
4 mama sinhala igenagannawaa
I learn Sinhala / I am learning Sinhala.
5 mata sinhala igenaganna wenawaa
I'll have to learn Sinhala,
(i.e. the circumstances force me to learn Sinhala=happen to learn) |
an Introduction to Spoken Sinhala 3rd edition p.68
/ W.S.Karunatillake / M.D.Gunasena & Co.Ltd 2004 |
文の仕組みはこうです。
4 mama sinhala igenagannawaa
私[主格] シンハラ語[対格] 学ぶ[他動詞・現在]
私は シンハラ語を 学びます
5 mata sinhala igenaganna wenawaa
私に[与格] シンハラ語を[対格] 学ぶ - になる[他動詞連用形+無意志動詞・現在]
私は シンハラ語を 学ぶようになるだろう。
4は能動文です。
5は、どうでしょう。能動文でしょうか。
igenaganna venawaaは「学ぶようになる」という元の意味から「学ばされる(受動)」と転じてゆきます。igenaganna venawaaは語彙的な受動態を作っているのです。言い換えれば、文全体は、「私には-(何かの条件/動作主の作用があって)-シンハラ語を-学ぶようになる」という受動態のような意味を背負うのですが、文の形式そのものは受動態ではありません。
カルナティラカのシンハラ口語教本ではhappen to(偶然に)の英訳を充てて、そこから動作主の作用を排除して尚生じる受け身の状況を表そうとしています。しかし、これは受動文ではない。igenaganna wenawaaと言う動詞が曲者のようです。
シンハラ語は動詞が活用部分にwenawaaを持つとき、無意志動詞として分類されます。無意志動詞とは偶然におこる行為を表し、話者の意思しない動作・作用を表します。
「割る」と「割れる」と「割られる」
シンハラ語には動詞を意志動詞(サカルマカ動詞)と無意志動詞(アカルマカ動詞)とに分ける文法規則があります。
カルマに接頭語サを乗せるとカルマを強調します。これで意志を示す動詞という意味が作られます。逆にカルマに打消しの接頭辞アを乗せると、意志が消滅します。これが無意志動詞です。サカルマカ動詞とアカルマカ動詞の区別は他動詞、自動詞のう区分より重要な規則です。
以上のことを前提にして「口語シンハラ語のヴォイス」が能格言語的として紹介する次のシンハラ文Inman,1993を見てみましょう。
lamayaa pingaana bindaa 子供が皿を割った
pingaana bindunaa 皿が割れた
lamayaa atin pingaana bindunaa 子供が偶然に皿を割った
動作主(主語)の「子供」が皿を「割った」場合、「割った」は意志動詞です。「割る」行為者(子供)があり、「割る」対象(皿)があります。つまり、意思動詞は他動詞と同じ範疇に分けられます。
一方、動作主の行為に作為がない場合、手が偶然、皿に触れてしまったために、自然と皿が「割れる」ときには、「割れる」は無意志動詞に分けられます。動作主の行為はあったけど、それは作為でない。行為に意志があったか、なかったかに焦点を当てた動詞です。これは自動詞とは言えないでしょう。自動詞は自発の行為だからです。無意志の-アカルマカ-という概念の捉え方はシンハラ語独特の、行為へのスタンスが潜んでいるのです。「(動作や行為が)無意思の力で発する」ということ。そこがポイントです。これはインド的な行為のとらえ方と言い換えることができるかもしれません。「(動作や行為が)無意思の力で発する」ということは日本を含むインド的な風土が強く感じられます。この現象のとらえ方が無意志動詞という考え方を産むのです。
日本語では「割れる」の「-れる」は「自発の助動詞」です。「動作や作用が自然に行われる」ことを表すとされます。「自発」は「れる/られる」(古語では「る/らる」)の語形を持つ助動詞で表され、「れる/られる」は受け身や使役にも使われます。シンハラ語の無意志動詞は、この日本語の「自発の助動詞」に与えられた意味を持っていますから無意志動詞は「自発の動詞」と言い換えてもいいでしょう。
先の「口語シンハラ語のヴォイス」で宮岸が紹介している例文Inman,1993に戻れば、
lamayaa pingaana bindaa.
pingaana bindunaa
lamayaa atin pingaana bindunaa
これらはインマンによって次のように文法的に説明されます。
1 lamayaa pingaana bindaa.
子供[主格] 皿[対格 無表示] 割る[意思他動詞・過去]=子供が皿を割った
2 pingaana bindunaa
皿{対格 無表示] 割れる{無意思自動詞・過去]=皿が割れた
3 lamayaa atin pingaana bindunaa
子供[atin句] 手で 皿[対格] 割る[意思他動詞・過去]-子供が偶然に皿を割った
The
child happened to break the plate
1の能格文からは次の受動文が作れます。
4 lamayaa visin pingaana bindaa ladee
子供によって[助格] 皿[主格] 割られた[意志他動詞・過去‐ 受動の接辞]
1の能動文から4の受動文が作れますが、4の文は文語シンハラだけのものです。シンハラ語で助格が用いられるのは文語であって、口語的なシンハラ語、言い換えれば本来のシンハラ語ではありません。
1の他動詞の目的語と2の自動詞の主語は共通の対格で示される能格的表現の例です。
問題は3の例文です。
この文はInmanの論文で、The child happened to break the plate.と説明され、また、bindunaaが意志動詞として訳されています。このことに注目して宮岸論文は例文をこう修正します。
3‘ lamayaa atin pingaana bindunaa
子供[atin句] 皿[対格] 割れる[無意思自動詞・過去]=子供のせいで皿が割れた
bindunaaは無意志動詞bindenawaaの過去形ですから宮岸論文の指摘が適切だと思います。偶然に皿を「割った」のではなく、皿は「割れた」のです。
もっとも、happened to(偶然に)の訳語ですが、シンハラ文の「対格+無意思動詞」が英語に訳されるときには必ずこの英訳が当てられます。しかし、無意志動詞の解釈の場合、この英訳ではシンハラ語を理解しにくい状況が生じるでしょう。
happen to の限界
このhappen to「偶然にも…が起こった」はシンハラ語のbindunaaの「割れた」を言い得ているはずなのですが、先のカルナティラカの例文でもそうであるように、シンハラ語を解釈する英語の限界がこの無意志動詞の訳出にあります。happen to には神の意志にそむいて何かが偶然に起きてしまった、という意味合いがあります。シンハラ語の無意志動詞には、自然に事は起きた、というアジア的な意味以外に別の仔細はありません。
シンハラ語は動作主が対象に働きかける表現を好みません。それは日本語が持っていた姿に似ています。そこはかとなく、ものごとをあるがままに叙述する。対象との距離感。そのことをシンハラ語は忘れていません。
「~をする」ではなく「~になる」という状況。「なる」という意識。いや、正確に言えば無意識。これが無意志動詞の正体ではないでしょうか。
3の例文に戻れば、The child happened to break the plate.は「子供が偶然に皿を割った」のだから「子供のせいで皿が(自然と)割れた」とは意味が違います。
「皿をして、落ちる状況になった。だから、割れた」という意味がシンハラ語の無意志動詞文にはあります。
シンハラ語では対格(皿を)+無意志動詞(割れた)という言い回しです。それをそのまま日本語に写すと「皿を割れた」になります。「皿を」を対格主語と捉えることで「皿が」と(便宜上)日本語に訳しますが、シンハラ語ではあくまでも「皿を」と言っているのです。
では、対格主語を取るということ、つまり「皿が割れた」というべきなのに「皿を割れた」と言ってしまうのは、一体、どんな理由があるのでしょうか。
シンハラ語に現れる特殊な主語にもう一つ、与格主語があります。次にこの与格主語を検討して「特別な主語」を考えて見ましょう。
●次へ→②与格主語の場合
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