英語ではシンハラ語をうまく理解できない、とJ.B.ディサーナーヤカは言う。なぜだろう。それは主語のあり方に違いがあるからだ。特に、「私が」「あなたが」という主格主語があまりに違いすぎるという問題だ…
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「英語ではニルットサーハカ文(無意志動詞文)が表現できない」そして、「英語ではシンハラ語をうまく理解できない」ともJBディサーナーヤカは言う。なぜだろう。それは主語という概念、捉え方が違うからだ。「私が」「あなたが」という主格主語の捕らえ方が英語とシンハラ語ではまったく異なるからだ。
主語は文の必須要素、主語が無くては文が作れないという立場を英語はとる。この立ち位置からシンハラ語を眺めれば、どうしてもシンハラ語は理解できない言語と映る。
英語は主格が文を統御する。いや、主格という用語は使わず主語、主題と呼ぶ。主語という言葉は日本語っぽいか。英文法では主語をNominativeと呼ぶより主題という意味のsubjectiveと呼ぶほうが普通なのは主格が文の中の動詞の「主題」だからだ。
シンハラ語は主語にとらわれない。主語は文の必須要素ではない。主語を欠いても文は成立する。英語にはありえない。いや、むしろシンハラ語は積極的に主語を拒絶する、避けるそぶりさえ見せてくる。主語へのスタンスがシンハラ語と英語ではまったく異なり、二つの言語の距離をことさらに大きく引き離している。
日本語も主語を文の必須要素としない。主語へのスタンスはシンハラ語とほぼ同じだ。日本語も主語の声高な存在を厭う。主語を取り払って表現する。文の本質は主語にはないと言うかのように。
シンハラ語の対格主語
ここまで主語と呼んできたサブジェクティブは主格主語のことだ。シンハラ語は主格主語を避ける。ほとんど日常では主格主語の使用を避ける。その代わりに対格主語と呼ばれる言い回しを用いる。一人称代名詞で言えば主語のIは目的語のMeで(常に)表される。「私が/私は」の I は「私を/私に」のMeが取って代わって主語の位置に座る。
シンハラ語ではなぜ対格主語という現象が起こるのか。シンハラ人のためのシンハラ語テキストにはこんなことが書いてある。
「皿を割れた」の「割れた」は無意志動詞である。そのため、本来、主格主語となるべき「皿」は対格の「皿を」という形を取りながら主語となる。
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これはシンハラ文法解説書の大方の説明で、そうなっているのだからそう覚えておけ、と言わんばかりの押し付けだ。こんなことだからシンハラ人でさえシンハラ語を学ばなくなるのだ、とシンハラ語の将来がますます心配になってしまう。
前回ご紹介したカルメン・ジャーニィの「シンハラ口語において格ニパータと主語・補語・目的語はどう関係するか」ではシンハラ語の無意思動詞文(叙述文)に現れる主語の格を次のように表している。
THE RELATIONSHIP BETWEEN CASE MARKING AND S, A, AND O IN SPOKEN SINHALA Carmen Jany
表①
mamә diuw-a
一人称・主格 走る・過去/意志動詞 |
主格 |
I ran |
(私が走るという意思を持って)私は 走った。
○私が 走った |
maawә wӕte-nәwa
一人称・対格 落ちる・無意思動詞・現在 |
対格 |
I am falling |
(私を落とすようにしている何かが作用して) 私は 落ちている。
×私を 落ちている |
matә nӕtun-a
一人称・与格 踊った・無意思動詞・過去 |
与格 |
I danced |
(私に(外的な何かが作用して) 私は 踊った。
×私に 踊った |
※備考欄は「かしゃぐら通信」
Carmen Jany は表①に見られるシンハラ文と英語文の違いについてこう述べています。
英語では主格の I だけが主語となるのに対してシンハラ語では主格のmamә、与格のmatәが共に主語となる。これは統語上、そのような多様な格を取るのではなくて、文の主旨において、また、(個別の)動詞語彙の意味において対格や与格を主語に迎えるのである。 |
シンハラ語の対格主語や与格主語は統語上のルールではない。動詞語彙の意味上の形態に過ぎない。カルメン・ジャーニィはそう言っています。
表に日本語訳を加えました。日本語訳の補足を加えてシンハラ文を読み返すと英語の説明では判然としにくいシンハラ語の対格・与格主語の意味がはっきりと見えて来ます。
シンハラ語の格って何?
屈折語とされるシンハラ語。だが、名詞の格は名詞の屈折変化で表されることはありません。I- my - me のような屈折変化に現れる単語そのものの変容はシンハラ語の格変化に起こりません。シンハラ語の格変化は名詞語尾に格ニパータを付けて表されます。膠着語的に格は変化します。
格ニパータは日本語の格助詞に対応します。「私が/主格-私の/属格-私を/対格-私に/与格」の格変化は「mama(無表示) -magee -maawa -mata」で表されます。太字にした部分が日本語の助詞とシンハラ語のニパータです。シンハラ語では主格の「私が」に当るニパータがない(無表示である)以外、属格・対格・与格を表すニパータという接尾辞があります。
そして、格表示は名詞の対格語形を用いてその後ろにニパータを付けるというのが格表示のルールです。
「私」の場合、対格のmaa / maが主格以外の格表示の基本になっています。
実際には、シンハラ語の主格と対格は語形が同じになる単語が大部分なので、「格表示は名詞の対格語形を用いて行われる」と言っても、これは文法規則のための規則でしかないように感じます。
表①を格ニパータの視点から捉えるとつぎのようになります。
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主語の格 |
格ニパータ |
備考・和訳 |
mamә diuw-a
一人称・主格 走る・過去/意志動詞 |
主格 |
無標 |
(私が走るという意思を持って) 私は走った
格助詞/無標=意志 |
maa-wә wӕte-nәwa
一人称・対格 落ちる・無意思動詞・現在 |
対格 |
wә |
(私を落とすようにしている何かの為に ) 私は 落ちている
格助詞/wa・を=無意思/受動 |
ma-tә nӕtun-a
一人称・与格 踊った・無意思動詞・過去 |
与格 |
tә |
(私に(外的な何かが作用して) 私は 踊った
格助詞/ta・に=使役 |
和訳の( )内はシンハラ語の格ニパータが表示する意味を表している。日本語に訳してしまえば「私は」としかならないが、シンハラ語の主格主語、対格主語、与格主語が表す意味は括弧の中に示したとおりだ。
シンハラ語の与格主語は多様である
英語ではシンハラ語がうまく理解できないとディサーナーヤカは言う。また、与格主語(に自動詞が続く文型)はタミル語にもあるが英語には絶対に現れないとしている。そして、与格主語が現れるのは次のような語彙の文だという。
①感情・思慮を表す文
②病の状況を表す文
③必要・不必要を表す文
④可能・不可能を表す文
⑤「見える、分かる」などの知覚を表す動詞を用いる文
※ディサーナーヤカ 前出資料から
文意 |
与格主語例文 |
和訳 |
①事態・感情・思慮を表す文 |
මට මහන්සියි
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私は忙しい ←私にあっては忙しい状況がある |
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②病の状況を表す文 |
මට හෙම්බිරිසාව |
私は風邪を引いている ←私にあっては風邪をひいた状況がある |
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③必要・不必要を表す文 |
මට කමිසයක් ඕනැ |
私はシャツが欲しい ←私にあってはシャツの欲しい状況がある |
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④可能・不可能を表す文 |
මට දෙමළ ටිකක් පුළුවන්
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私はタミル語が少しできる ←私にあってはタミル語が少しできる状況がある |
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⑤特定の知覚動詞を用いた文 |
මට පෙනෙනවා |
私は見える ←私にあっては(自然と)見える |
なぜ与格主語は起こるのか。その疑問に答えてくれるのが上の五つの例文です。
サンスクリットと同じ現象が起こっているのだろうか、そう思われる方もおられるでしょう。再びサンスクリットに戻って、シンハラ語の与格主語との接点を探ってみましょう。
→次へ④無意志動詞文をサンスクリットとの関係で読む
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