シンハラ語QA No-79-2
2007-Apr-16 / May-20 / Dec-19 2008-Jan-12 Apr-15 2009-Oct-03 2015-Apr-28
●与格主語の場合
無意志動詞が対格の主語を取ると「偶然に皿が割れた」という意味を作る。これが無意思文の一例だ。
無意思文にはまた、、別の主語の形をとるものがある。与格を主語に置く与格主語文がそれだ。これもまた、無意思文を作る。
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මට පෙනෙනවා |
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マタ ペネナワ
私に/与格 (自然と)見える/動詞 |
対格主語の「皿を割れた」とは違って、これはすぐに理解できる文だ。日本語でも「私は見える」より「私に見える」のほうが普通に聞こえる。「私が見る」という能動文ではなく、「私が見られる」という受動文でもない。「私に見える」は無意思文だ。無意思文は「私に」という与格を主語に取る。
この文は英語の場合、とても奇異に聞こえる。
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私は見える |
මට පෙනෙනවා |
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マタ ペネナワ
私に/与格 (自然と)見える/動詞 |
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Me see
私に/間接目的語・与格 (自然と)見える |
英語文としては成り立たない。古英語ではMesee(私には見える)という言い回しがあったようだが、現代英語はMe(対格)を主語に用いることはない。与格主語の文は英語で扱うシンハラ論文の恰好のテーマにされることが多いが、主格主語しか持たない言語にとって与格主語の言語はめずらしいのだ。
日本語でも「私には(与格)見える」と言うからシンハラ語の与格主語に驚かされることはない。だが、シンハラ語ではこの与格主語文のほうが主格主語文より普通の言い回しだとなれば、ちょっと驚かされるだろう。「見える」の他に、「開く」、「思いが浮かぶ」など、自然と物事が知覚される事を表す動詞や、自然の現象も与格であらわされる。森羅万象の中では私の意志で起こせる行為の及ぶ世界、つまり主格主語の世界なんて限られたものでしかない。与格の主語が頻繁に現れるのは、この世界にのさばり、世界を牛耳っているかのように振舞う人間の行為も、極小さなものに過ぎないと言うことを言語の世界から新鮮な視点で知らせてくれる。シンハラ語はそういう言語だ。
無意思の世界を表す動詞をニルットサーハカ動詞と言う。日本語では英語を経由して無意志動詞と訳されている。
シンハラ文法ではこれをニシュカルマ・クリヤー・パダと言う。「カルマを除いた(ニシュ)動詞」という事だ。カルマはここでは行動・行為と捉えていい。サカルマカ・クリヤー・パダ(他動詞)、アカルマカ・クリヤー・パダ(自動詞)に加えて、シンハラ語には第3の動詞ニシュカルマ・クリヤー・パダがある。
それぞれの動詞の形態的な特徴だが、サカルマカは動詞語幹をaで終わり、アカルマカとニシュカルマはeで終わる、というように大まかに覚える方法がある。アカルマカとニシュカルマの区別だが、これは日本語の直感を使うと便利だ。「私は/が笑う」のように「は/が」で繋がればアカルマカ、「私に聞こえる」のように「に」で繋がればニシュカルマの動詞だ。
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自動詞(アカルマカ動詞) |
මම සිනාසෙනවා |
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ママ シナーセナワ
私は 笑う |
無意志動詞(ニシュカルマ動詞) |
මට ඇසෙනවා |
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マタ アェセナワ
私に 聞こえる |
この分別法が通じると言うことは、つまり、日本語にも与格主語と無意志動詞がある、ということを示していることになるし、それがかなり綿密にシンハラ語の仕組みと重なると言うことも暗示している。
述語動詞が無意思動詞のとき、シンハラ文の主語は対格(~を)や与格(~に)で表される。シンハラ語の名詞は主格と対格が同じ語形をとる例が多いので対格主語は表面上、それと意識されない。与格主語はニパータのタTaが使われるのですぐにそれと分かる。与格主語と無意思動詞で作られる文は無意思文と呼ばれたり、中動態の文と呼ばれ、また、シンハラ語の文法用語ではニルットサーハカ文と呼ばれている。
無意志動詞という日本語だが、これはinvolitive verbという文法用語の訳だろう。involitive
verbはシンハラ文法のニルットサーハカ動詞නිරුත්සාහක ක්රියාව nirtsaahaka kriyaavaの訳語に当るのだが、その意味には違いがある。involitiveの打消しの接頭辞in-はシンハラ文法用語のni-/nir-とは意味が異なるからだ。シンハラ文法用語のni-/nir-は単に打ち消しの意味を持つのではなく、「開放された」という意味も持っている。
例えば「苦」dhukにたいして「苦からの開放」ni-dhukというように用いられるのがni-なのだ。同様にni-bhiiya
/ nir-biiyaは「恐れbiiyaから解き放たれた」ということ。ニルワーナもこのnir-の接頭辞で作られた言葉だが、nir+vaNaは哲学として昇華し過ぎてしまった用語だけど、シンハラ語的に「存在からの開放」と訳すだけでいいように思う。
nir-は単に打消しではない。英語でならfree from ではなく free to という積極性を持った意味になる。
「シンハラ口語において格ニパータと主語・補語・目的語はどう関係するか」THE RELATIONSHIP BETWEEN CASE MARKING AND S, A, AND O IN SPOKEN SINHALA
Carmen Janyではシンハラ語のinvolitive verbs を説明して、
associated with non-volitionality, lack of control, and lack of agency
非-意思の、統御欠如の、作用者欠如の、という意味と関連付けられる)
としている。
非意思、統御の欠如、作用の欠如といった消去法で否定表現を重ねて曖昧模糊とした定義をするしかなかったようだ。シンハラ語のニルットサーハカ動詞は、英語では一語で表すことができない。
同様に、involitive verbsを直訳した無意志動詞という文法用語では「意思から解放された」という条件を言い表せないだろう。シンハラ語のニルットサーハカ動詞は無意志動詞と訳しても何か物足りない。
J・B・ディサーナーヤカの考え方
先にあげたJ・B・ディサーナーヤカの書に次のようにシンハラ動詞が紹介されている。ここではサカルマカ動詞は他動詞、アカルマカ動詞は自動詞に対応するとしている。
ස්සකර්මක ක්රියා පදය
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අකර්මක ක්රයා පදය
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アカルマカ動詞(自動詞)は次のように文を作る。
このアカルマカ動詞文(自動詞文)にJB先生は次のような注釈をつけている。
මේ ආකාරයෙන් සකර්මක ක්රියා පදයක් පදනම් කොට ගතිමින් සදා ගත හැකි අකර්මක ක්රියා පද වර්ගයක් ඉංග්රිසියෙහි නැත්නේ ය. |
[このように(シンハラ語では)サカルマカ動詞(他動詞)を語形変化させて作るアカルマカ動詞(自動詞)の類は英語には存在しない。]
පිටුව 228 / මානව භාෂා ප්රවේසය / ජේ බී දිසානායක / සුමිත ප්රකාශනයකි 2005 / Human Language an introduction / J.B.Disanayaka / Sumitha Publication 2005
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こう説明した後、更に特別なシンハラ文をJB先生は紹介している。
通常のඋත්සාහක වාක්යය 能動文にනිර්ත්සාහක වාක්යය ニルットサーハカ文/無意思文を並べて特別な文例として紹介しているのだ。
特別である理由は、ニルットサーハカ文無意思文(シンハラ叙述文)が英語では表現できないと言うことだ。シンハラ語はそもそも英語には馴染みにくい言語なのだ。
අකර්මක ක්රියා පද අතුරින් සමහරක් 'නිර්ත්සාහක ක්රියා පද' සේ ද ක්රියා කරයි. --- මෙහි දැක්වෙන ආකාරයේ 'නිර්ත්සාහක වාක්ය' ද ඉන්ග්රීසියට පරිවර්තනය කිරීම අසීරු ය.. |
[自動詞の中には少数ではあるが’ニルットサーハカ動詞’とでも呼べるような働きをするものがある。(中略)…以下に示すニルットサーハカ文も英語で言い表すことは出来ない。] |
උත්සාහක වාක්යය
能動文
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නිර්ත්සාහක වාක්යය
ニルットサーハカ文
無意思文、あるいはシンハラ叙述文 |
අම්මා අඬයි
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අම්මාට ඇඬෙයි
ammaata aendeyi
母ta-泣いている |
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තාත්තා යමක් සිතයි
taatta yamak sitayi
父が何かを思っている |
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තාත්තාට යමක් සිතෙයි
taatata yamak siteyi
父ta-何かを思っている |
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පිටු 227-228 / මානව භාෂා ප්රවේසය / ජේ බී දිසානායක / සුමිත ප්රකාශනයකි 2005
「英語ではニルットサーハカ文(無意志動詞文)が表現できない」とJ・B・ディサーナーヤカは言うが、日本語にも訳しにくいようだ。
先に助詞の「は」「に」の使い分けでアカルマカ動詞(自動詞)とニシュカルマ動詞(無意志動詞)の区別をしたが、その方法が通用しない。
අම්මාට ammaa-ta、තාත්තාට tathaaththaa-taは日本語に変えれば「母-に」「父-に」となる。しかし、「母に泣いている」「父に何か思っている」では日本語文として成立しない。
しかし、この「に」を「に在っては」と補足すると次のように意味を伝えることができる。
උත්සාහක වාක්යය
能動文
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නිර්ත්සාහක වාක්යය
ニルットサーハカ文
無意思文、あるいはシンハラ叙述文 |
අම්මා අඬයි
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අම්මාට ඇඬෙයි
ammaata aendeyi
母に在っては泣いている状態にある
※母は泣かざるを得ない何かの訳があるのだろう。その何かが母を泣かせている。 |
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තාත්තා යමක් සිතයි
taatta yamak sitayi
父が何かを思っている
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තාත්තාට යමක් සිතෙයි
taatata yamak siteyi
父に在っては何かが思い浮かんでいる
※父は無意識という場所で何かを自然に思い浮かべてしまったようだ。 |
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「母にあっては泣きゐたる」「父には何をか思い浮かばん」…表の中の訳文を更に擬古文へと先祖がえりさせると、日本語でもニルットサーハカ文の気持ちが伝わりそうだ。
シンハラ語は「母が」「父が」という直截な言い方を嫌う。「母は」とか「父に(あっては)」という主語(主題)の切り出し方をします。これらの表現法は日本語も同じ。主格助詞の「が」で主語を表さず、係助詞の「は」や与格助詞の「に」を用いて修辞的に主語(主題)を匂わせる。これは日本語伝統の修辞法でもあるのだから。
現代シンハラ語文法はサンスクリット文法を支えにして作られた部分が多い。だから文法用語もサンスクリット語に倣っている。このニルットサーハカ文はサンスクリットのアートマネー・パダ(中動態)と呼ばれる表現法に似ている。主語とか目的語とかの文法要素、英語がまさに文の必須条件とするそれらの要素をまんまと省いて、しかも物事を旨く言い表す言語表現。そのアートマネー・パダがシンハラ語では濃厚に表現されている。
→③口語シンハラの主語と無意志動詞
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