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エリザのセイロン史


スリランカの歴史13
大航海時代
ポルトガルからオランダへ
コンスタンチノ・ダ・サーの軍隊






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史13
大航海時代
ポルトガルからオランダへ
コンスタンチノ・ダ・サーの軍隊
 

オランダ軍、山上王国カンディを攻める


 1630年、ポルトガル総督としてスリランカで7年を過ごしたコンスタンチノ・ダ・サーはセネラト王の不穏な動きを察知していた。セネラト王は攻撃を仕掛けてくる。だから、ダ・サーはその前にセネラト王を攻撃すると決断した。
 軍務につけるすべての兵はヨーロッパ人であれシンハラ人であれ招集された。大軍を集めるとダ・サーは山上王国カンディに攻め入る準備を進めた。
 ウェッラネWellaneへの道が作られ、更にカンディへと道が広げられた。
 ダ・サーはセネラト王に反撃の隙を与えなかった。カンディ王国に侵攻すると軍の手に落ちた物すべてを焼き払った。セネラト王はハングランケタHanguranketaの居城を追われ、ウヴァの森へ逃げ込んだ。
 ダ・サーの軍はセネラトの軍を圧倒していたにも関わらず、決定的な勝利を得ることができずにいた。セネラト軍はカンディの地形を知り尽くし、しかも住民はセネラトに味方していたのである。
 ダ・サーは一旦、退却することを決めた。ゴアの提督に援軍を申し入れ、彼は1500のポルトガル兵と2万の援軍を得て再びカンディ王国に進軍した。王国の地方都市を焼き払い、丘の上に軍を集結させセネラト王と彼の17歳の息子シンハ王子が率いる軍との戦いに備えた。

 ドゥ・サーの軍は精鋭ではなかった。しかし、勝利をあせることがなかった。露営地の周りをすべて包囲されても、敵地を一ヵ所づつ叩くことを忘れはしなかった。
 戦闘は昼間に行われる。夜、帳が下りるとシンハの軍は夜を徹して歌い、祝宴をあげていた。ポルトガル軍は神に祈りをささげて静かに夜をすごした。ダ・サーは自軍の露営を回って、かつての武勇を褒め、明日の戦いの重要性を解いて回った。「これまでは名誉のために闘っただろうが、明日は君の命を守るために戦え」と言った。

 翌朝、シンハ王子軍のムダリヤー(将校)150名が寝返ってダ・サーの下へ走った。(ポルトガルは戦後の処理として、ムダリヤーたちに領地を分け与えると約束した) だが、多くはシンハ王子に忠誠を誓っていた。
 ポルトガル軍は山上で孤立した。援軍は来なかった。シンハ王子軍はポルトガル軍に焼かれた町を取り返し、さらに散発的な攻撃を丘の上のポルトガル軍に浴びせた。夜の帳が降りるまでその状態が続いた。
 雨が降った。ポルトガル軍の銃器が使えなくなった。兵士たちは司令官ダ・サーに対し護衛を伴っての退却されるよう促したが、彼はそれを拒絶し、兵と運命を共にした。翌日、ポルトガル軍は全滅した。
 

ポルトガルの衰退


 この戦いを契機にしてポルトガルの衰退が始まった。シンハ王子の勝利で勢いづいたセネラト王軍は間髪を入れずコロンボの奪還に向かった。
 ポルトガルの要塞を取り囲んだ。絶え間ない攻撃をかけた。一時は要塞を占拠したが、ゴアとコーチンからの援軍を得たポルトガル軍は軍事力で圧倒的に有利だったにもかかわらず、苦戦を強いられた。
 セネラト王軍はコロンボから8マイルの地点に陣営を築いた。双方の一進一退の攻防が続いた。長期にわたる戦闘は互いを疲弊させ、それが和平への道となった。年に2頭の象をカンディ国はポルトガルに収める。それが和平の取り決めだった。

 1634年、30年にわたる統治の後、セネラト王は亡くなった。王子のラージャ・シンハ二世Raja SinhaⅡが王位を継いだ。
 ポルトガル領事ディエゴ・ダ・メロDiego de Meroは貪欲だった。ラージャ・シンハ二世が贈り物をよこさないと言って700のポルトガル兵と2万8千のシンハラ雇用兵を率いてカンディ王国の領土を侵犯した。
 ダ・メロの率いる軍がウェッラネに着くとラージャ・シンハ二世は使者に親書を携えてその地に送り、領事が信仰する宗教は友好国の領土を侵略するよう教えているのか、と問い質した。また、神は罪ある者を罰すると伝えた。
 ダ・メロの軍は親書を無視して進軍した。そして、かつてのように進軍の途中でカンディ軍からの攻撃を受けた。ダ・メロ軍のシンハラ外人部隊はそのとき、カンディ軍側に寝返り、残されたポルトガル人の軍は四方を敵に囲まれた。
 侵略軍に向かって槍と矢が降り注がれた。カンディ軍は夜を徹して戦いを仕掛けてきた。33名の捕虜を残して、ポルトガル軍は全滅した。

 ラージャ・シンハ二世王はポルトガルがランカー島にとどまる限り戦闘が続くと見て、ポルトガルを島から完全に排除しようと決意した。
 カンディ王国からオランダに使節が送られた。ポルトガル排除というラージャ・シンハ二世の申し入れは積極的に受け入れられ、カンディ王国にオランダの使節が送られた。
 ラージャ・シンハ二世王はオランダ全権特使との会見に際して、ポルトガルには示したことのない恭しい装いで接した。頭には冠を、手には宝剣を、そして、全身に宝石を纏い、黄金の鎖を纏っていた。
 カンディ王朝とオランダの交渉は次のような合意を見た。
 オランダはポルトガル排除のために軍を送る。そのための費用はラージャシンハ二世が負う。ポルトガルが要塞を築いた土地はカンディ王国に引き渡す。オランダは胡椒とシナモンの全貿易権を所有する。

ポルトガル・オランダ戦争


 1639年、オランダのウェステルウォルドWesterwold海軍大将がバティッカロアに軍を率いて上陸し、2ヵ所に砲台を築いた。ポルトガル軍へ水を供給する井戸の水路を遮断したので、短い抵抗があったもののポルトガル軍はすぐに白旗を掲げ、ネガパタムNegapatamへ退散した。
 オランダは次にトリンコマリを襲撃した。警備が手薄だったことやポルトガル軍の弾薬が不足していたことがあって、わずか数日で城砦はオランダ軍の手に落ちた。ラージャ・シンハ二世はこれらの城砦の取り壊しを命じ、東海岸の城砦はすべてなくなった。

 翌年、12隻のオランダ船がコロンボ港に現れた。船団はネゴンボへ向かい、その地に2000人のオランダ兵が上陸し、たちまちのうちに城砦を築いた。城砦は土嚢で固められ周囲に広い堀が掘られた。ここに800名の守備隊を駐屯させ、6門の砲台を置いた。
 オランダ軍は更にガーッラへと向かい、ポルトガルの砦を攻めた。18日間の攻防の末、砦の一隅に突破口を開くと、わずか2時間でガーッラの砦を落とした。
 だが、ポルトガル領ゴアの総督がランカー島にやってくると、戦況は一変した。若くて行動的なマスカレンハスMascarenhas総督はネゴンボを砲撃し、短時間の戦闘でオランダを降伏させた。ガーッラにもマスカレンハスは攻め入ったが、ここではポルトガル軍を掌握できず、攻撃に耐えたオランダの領事がカンディに向かいラージャ・シンハ二世王の救援を求めた。

 1644年、オランダはポルトガルからネゴンボの城砦を取り戻し、守りを固めるために周囲に四つの要塞を築きそれぞれに大砲を備えた。1646年、ポルトガルとオランダの間に休戦協定が結ばれ、その協定がもたらす安定は1654年まで続いた。
 1658年、両国は再びコロンボで交戦を始めた。コロンボの要塞は800人の守備隊で守られていたが、海路がオランダによって封鎖され、ポルトガルは食料の調達ができなくなった。食料の欠乏が始まり餓死者を出し、ポルトガルは防衛に窮した。5月10日、財産の保障とジャフナへの逃避を条件にしてコロンボのポルトガル人は140年にわたって領有した城砦をオランダに明け渡した。
 ジャフナへ逃れたポルトガル人に安全な避難場所はなかった。1658年6月21日、オランダ軍はポルトガル人の財産を略奪し、ジャフナの要塞に攻撃をしかけ守備兵を捕虜とした。ポルトガルのスリランカ統治はここで終焉する。

 ポルトガルはスリランカにどんな影響を残したか。いくつかのポルトガル語、ローマン・カトリック。ポルトガル領事らは自らを豊かにすることに血眼だったが、市井の人々を豊かにする努力は怠ったように思われる。
 「セイロンの歴史」はスリランカへのポルトガルの影響を控えめに書き残している。ポルトガルがスリランカ文化に与えた影響はあまりに大きい。
 アミーン・イサディーンが「ポルトガルの音楽」という記事を書いている。ポルトガルがこの島に残したバイラという形式の軽快なダンス音楽に触れている。バイラは暮らしの楽しみを歌う。また、社会を風刺し、政府を批判する。→シンハラ語質問箱QA81-バイラの真髄、ザ・ジプシーズ
 ポルトガルの陽気さ、暖かな気候のようなやわらかさがオランダの固く寒々しい風景に塗り替えられる。オランダ軍隊食のランプライは今もスリランカの人々に受け入れられている。スリランカ風に激辛をまといながらも。
   

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