▲TOPへ



エリザのセイロン史


スリランカの歴史14
大航海時代
オランダの進出






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史14
大航海時代
オランダの進出
 

貿易で儲けるためにランカー島へ


 ラージャ・シンハ二世はオランダがポルトガルから奪還したすべての城砦をカンディ王国に返還するものと思っていた。だが、オランダにはそんな意志はなかった。 新しい同盟国に友好の気持ち見出せなかったラージャシンハ二世はオランダに対する食料の供給、納税を禁じた。沿岸地方の領主にはオランダが占有した土地を整備しないよう命じた。
 不信はオランダの側にもあった。ラージャ・シンハ二世のとった敵意ある政策に対してオランダはすぐに報復する体制を整えた。

 オランダは警告した。平和を維持することこそが両国にとって利益であり、もし貴国が武力をもってわが国オランダを攻撃するのであれば、わが国もまた武器を取る。そう告げたのである。

 ラージャシンハ二世がとった政治姿勢だが、それは欧州人を過酷に処遇するばかりでなく、その臣下に対する圧迫もまた、更に激しかった。カンディ王国の人々は王の怒りに触れれば鋏で裂かれ、燃え盛る鉄で烙印を押され、自らの肉を食らわされという残虐におびえた。
 1644年、王の居住するカンディの南のニレンバNilembeで反乱が起こった。王の息子が即位を宣言し蜂起したのだ。ラージャ・シンハ二世はあわてて森の中に逃げ込んだ。
 だが、若い王子には国を運営する力もなく、反乱はすぐに鎮圧された。王子の共謀者は処刑され、王子は毒殺された。
 
 オランダは貿易でもうけるためにランカー島にやってきた。その目的を叶えるために彼らは可能な限り友好な関係をシンハラ王国と築こうとした。懐柔政策を取ってラージャ・シンハ二世王にへつらいもした。だが、王にしてみればオランダが城砦を建て、王の領地に軍隊を常駐させ、沿岸警備まで彼らが勝手にすることは内政への干渉でしかなく、不快なことだった。カンディ王国に接するオランダの砦はラージャ・シンハ二世によってたびたび襲われたが、王のそうした自衛行為が成功することはまずなかった。

ロバート・ノックス、「白いシンハラ人」


 ラージャ・シンハ二世王の時代、英国人の貿易商ロバート・ノックスが20年間、カンディ王国に拘留された。
 彼の父は英国東インド会社が所有する貿易船の船長だった。父と共に航海をしていたとき台風に巻き込まれ、貿易船はスリランカ東海岸のコッティアールKottiar湾に避難した。船を修復する間、彼らはその地で交易を始めたが、それを聞きつけたラージャ・シンハ二世は行使に兵団をつけ、コッティアールに送った。
 行使は部下に命じて海岸に船長を呼び寄せた。息子と7人の乗組員を伴って船長がボートで上陸し、行使の現れるのを待ってタマリンドの木の下に腰を下ろした。突然、行使の兵団が現れた。船長らを捕らえ肩に担いで行使の下へ連れて行った。
 行使の次の目的は貿易船の確保だった。ノックス船長は息子を船に戻し船を出港させるという約束で行使の兵団の乗船を許可したが、その約束は破られ、兵団は乗船という目的を果たすとロバートを連れて海岸に戻った。
 ノックス船長は捕虜となり乗組員らと共に内陸へ連れて行かれた。森の中を歩き、木の下で4,5晩を過ごした。干し肉、塩、魚、米、鹿肉、蜂蜜が食料だった。カンディ王国の村々に着くと彼らは炊いた米、肉、多様な果物が提供された。
 1660年9月、ロバートは父と共にカンディの北30マイルの森の中に住まうよう命じられた。その地域には熱病が広がっており二人ともその病に倒れ、父が亡くなった。
 父の行いを尊び冥福を祈り、神に感謝の祈りをささげ埋葬を行う時となった。ロバート・ノックスは虚弱で病気がちだったが、父のなきがらを包み墓へ運ぶため人々の助けを求めた。村人は彼に綱を渡し牛になきがらを繋げと言った。金を渡して手伝いを頼もうとしていたが村人はそれを拒絶した。彼は1人で父のなきがらを森に運んだ。この仕打ちを彼はひどく嘆いた。森の土は乾いて固く穴を掘ることができなかった。助けを得て父を埋葬したのはしばらくしてのことだった。

私は救われるために何をなせばいいのでしょうか

 ノックスは数ヶ月間を召使として雇ったタミルの少年と共にマータレで過ごした。熱病の流行は去った。食料と交換するために小川で釣り糸を垂れていた。そこに老人が通りかかり召使の少年に「主人は文字が読めるか」と聞いた。「読める」と少年は答えた。老人が言うには、家に一冊の本がある、それはポルトガルがコロンボを去るときに残したのもであり、望むなら売りたいと言った。
 ノックスはそのまま少年を老人の家にやった。少年が本を持ってきたとき、ノックスはあまりの幸運に驚いてしまった。少年が手にしていたのは聖書だった。釣竿を投げ出して、ページを綴った。使徒行伝(新約、パウロとペドロの伝道)の16章、30節、31節に目が止まった。「かくて使徒らを連れ出し、そして言った。聖なる使徒よ、私は救われるために何をなせばいいのでしょうか。使徒は答えた。わが主イエス・キリストを信じなさい。信じれば救われるでしょう。我らの一族となりなさい」
 その本を老人はいくらで売るのか。ノックスの有り金すべてをはたけば売ってもらえるのか。恐れながらも所持金をすべて払おうとしたところ、少年に止められた。購いはノックスにすれば些細なものでよかった。結局、毛織の帽子と交換してノックスは聖書を手に入れたのだった。

 王は捕虜の処遇に対して、充分に食事を与え、王が呼び出すまで面倒を見よと命じていた。
 捕虜の英国人は次第にシンハラ人を召使のように見下すようになり。食事にも不満を漏らすようになった。シンハラ人が運んできた食事を不味いと言って器ごと投げつける有様だった。彼らの我慢も限界にあった。
 衣服は既にぼろぼろだった。シンハラ人の衣服を得るために、彼らは配給される食事の半分を残し衣服と交換した。
 ノックスはシンハラ語が充分使えるようになっていた。食料は調理されたものでなく素材で手に入れたいこと、他の捕虜たちのように2倍量がほしいことを申し入れた。彼の周りの人々は不相応な要求だと言ったが、彼の申し入れは受け入れられそれ以来、英国流の調理で食事ができるようになった。
 ノックスは家も建てるようになった。王の持つ椰子畑に家を作った。壁を漆喰で固め白くしたが、シンハラ法では王宮と寺院以外、漆喰の使用は禁じられていた。しかし、外国人であるとして咎めはなかった。
 家を新築して豚を飼い鳥を飼い、その数を増やしていった。庭の椰子の木から油をとった。Capsで編むことも覚え、日用品がすべてまかなえるようになった。こうして数年が経ち、開放される望みは消えかかっていた。住まいを囲む道には守衛が張っていて、脱走を試みた捕虜は捉えられ、元に戻された。
 しばらくしてノックスはカンディ国内での旅行を許されるようになった。旅の途中、彼はシンハラ語で人々と話し、道路、土地の様子、監視の位置などをそれとなく探った。疑うこともなく人々はノックスに様々な情報を与えた。そこからカンディ王国は北の地域がまばらで、脱走が容易であると知った。
 1679年、ノックスはもう1人の英国人捕虜と共に脱走を図った。象・チータ、熊が棲むジャングルを抜けアヌラーダプラへ向かった。そこはカンディ王の支配が及ぶ最北の地だった。守備兵がいた。ノックスらは商人を装った。国境をそうして越えた。
 人々は野獣を恐れて夜には道を歩かない。その夜中に町を出てマルワッタオヤMalwatteoyaに沿って道を行き海岸に出る希望を抱いていた。3,4時間歩いて、突然大きな象と出会った。そのまま身動きができず、火をたいてその場にとどまり朝を待った。
 翌朝、ノックスらは自分たちが村々の近くまで来ていることを知った。中空となった大木の中に身を潜めて夜を待ち、暗闇の中を出立した。間もなくして潅木や小さな木々の折れる音が聞こえて、自分たちが象の道にいることを知った。ずいぶんと勇気付けられた。村人は敢えて象の道に踏み込むことなど、絶対にしないからだ。軽食を取り、仮眠し、ジャングルを見張る男たちの叫びあう声を聞きながら夜を過ごした。その翌朝早くに出立した。川にはワニが泳ぎ、熊と豚と野牛に何度となく出くわした。
 数日後、オランダの居留地に入った。領事に手厚く迎えられ二人はやっと欧州への帰路の端緒についたのだった。


 

次章→7 シンハラ王国の衰退