辛気サイダー。.... 佐久間學

(18/12/15-19/1/5)

Blog Version

1月5日

BRAHMS/Symphony No.4
DVOŘÁK/Symphony No.9
Jakub Hrůša/
Bamberger Symphoniker
TUDOR/1744(hybrid SACD)


バンベルク交響楽団の首席指揮者だったジョナサン・ノットが2016年にスイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者となるのと入れ替わりに、5代目の首席指揮者に就任したのが、ヤクブ・フルシャです。
彼は、チェコ人としては初めて、この、チェコに起源をもつオーケストラの指揮者となったのですね。彼自身は、チェコ国内のオーケストラとは深い関係にありましたが、それと同等の頻度で世界中、ヨーロッパからアメリカ、さらには日本(東京都交響楽団)でのポストも手に入れていました。ですから、彼がこのレーベルで最初に録音したのが、スメタナの「わが祖国」だったとしても、それは単にチェコのナショナリズムではなく、もっとグローバルな、音楽の本質に迫った演奏となっていたのではないでしょうか。
そんなフルシャが次にこのレーベルで開始したのが、ブラームスの4つの交響曲と、ドヴォルジャークの後期の4つの交響曲をカップリングしたアルバムの制作でした。彼は、この二人の偉大な作曲家の間に、ナショナリズムとグローバリズムとの両方の要素を見出したのでしょう。自己陶酔と野蛮さですね(それはナルシシズムバーバリズム)。
その第一弾となるのが、今回のSACD、それぞれの作曲家の最後の交響曲がカップリングされています。ただ、「カップリング」とは言っても、合計の演奏時間は86分33秒で、CDレイヤーでは収録可能時間ギリギリとなっているために、1枚には収められず、2枚組です。DSDの2チャンネルと5.1サラウンドだけだったら、おそらく1枚になったのでしょうがね。
そういう事情だと、例えばRCOレーベルあたりだと2枚組でも1枚分の価格で提供されていたりしたのですが、このTUDORレーベルはしっかり2枚分の価格設定になっています。このあたりは、指揮者の思いとは異なっているのではないでしょうかね。
もちろん、このようなカップリングはアルバム制作時のコンセプトで、実際にこの組み合わせでのコンサートを行ったわけではありません。さらに、この2曲は同じセッションではなく、ブラームスは2017年の5月、ドヴォルジャークは同じ年の10月に録音されています。
ブラームスの方は、それこそこのオーケストラの「伝統」を受け継いだ、まるでカイルベルトあたりが演奏しているような重厚な音楽が伝わって来るものでした。音色もとても渋く、フルートのソロなどはまさに「いぶし銀」といった感じの音色でした。
それが、ドヴォルジャークになると、ガラリとその様相が変わります。それはもっと重心の高い、何かワクワクさせられるような演奏でした。フルートは音色も歌い方も全然違っていたので、ブラームスとは別の人だったのでしょう。
使われている楽譜は、両方とも「Breitkopf & Härtel」というクレジットがありました。ブラームスの場合は、この楽譜はHenle版のクリティカル・エディションのリプリントですから、最新の情報が盛り込まれているものです。ドヴォルジャークでは、1990年にやはり独自のクリティカル・エディションが出ているようです。現物は見たことが無いのではっきりしたことは分かりませんが、それはおそらく、有名なプラハ版(Editio Supraphon Praha)と同じような内容なのではないでしょうか。
そこで、特に注目すべきは、第3楽章のトリオでの木管の音符の長さが、しっかりとクリティカル・エディションのものになっていることでしょう。


↑初版のパート譜(1番フルート)


↑プラハ版のパート譜(1番フルート)

プラハ版が出版されたのは1955年とだいぶ前のことなのですが、確実にこのような楽譜を使っているはずの指揮者(たとえばシャイー、アーノンクール、ノリントンなど)でも、なぜかこの部分だけは初版楽譜のように「短い音符」で演奏しているのですね。NMLで片っ端から聴いてみたのですが、「長い音符」で演奏している指揮者はネルソンス、ウルバンスキ、インマゼール、ダウスゴー、ティチアーティぐらいしか見つかりませんでした。
このティチアーティ盤は、2013年、彼がバンベルク交響楽団の首席客演指揮者だった時のTUDORへの録音です。

SACD Artwork © Tudor Recording AG


1月3日

ROSSINI
Overtures
Michele Mariotti/
Orchestra del Teatro Comunale de Bologna
PENTATONE/PTC 5186 719(hybrid SACD)


ロッシーニの序曲などというと、かつてはコンサートの最初に「お飾り」のように演奏されるのが常だったのではないでしょうか。作曲家自身のイメージも、ただ明るいだけで底の浅い曲しか作らない人、ぐらいのものだったはずです。しかし、今では彼の業績は正当に評価されるようになっています。
それは、1970年ごろから始まったいわゆる「ロッシーニ・ルネサンス」と呼ばれる一連のムーヴメントがあったからです。楽譜はしっかりと原資料を基に校訂されたクリティカル・エディションが出版され、それによって今までの慣習とは異なる歌唱法も用いられるようになりました。さらに、それまではほとんど演奏されることのなかった、特に「オペラ・セリア」の様式で作られた「まじめな」作品が蘇演されることによって、この作曲家に対するイメージがそれまでの「軽い作風の作曲家」というものからは劇的に変わってしまったのですね。
そんな動きの中心となったのが、ロッシーニの生地ペーザロです。ここでは1980年から毎年「ペーザロ・ロッシーニ音楽祭」が開催され、リニューアルされたロッシーニのオペラが上演されています。そこはワーグナーのバイロイトのように、ロッシーニ愛好家にとっての「聖地」となっているのです。
そんなペーザロに生まれたミケーレ・マリオッティが、2015年から2018年まで音楽監督を務めていたボローニャ・テアトロ・コムナーレ管弦楽団(ボローニャ市立歌劇場管弦楽団)を指揮して、ロッシーニの序曲を9曲録音したのが、このSACDです。もちろん、楽譜はすべてアルベルト・ゼッダなどによって校訂されたペーザロ・ロッシーニ財団のクリティカル・エディション(Ricordi)が使われています。
収録されている9曲の中には、「マティルデ・ディ・シャブラン」や「コリントの包囲」といった、まだ一度も聴いたことのない曲がフィーチャーされているのも興味深いですね。
聴いたのは、もちろんサラウンド音源です。最初に感じたのは、とても遠くにオーケストラがあるような定位感です。録音会場がボローニャのサン・ドメニコ修道院の図書館ですが、写真を見るととても天井の高い、まるでシューボックス・タイプのコンサートホールのような形をしているスペースでしたから、その豊かな残響をしっかりと取り込んだ録音ポリシーなのでしょう。
そんな、まさにホール全体の響きが感じられる、ゆったりとしたリスニング環境の中から聴こえてきた「絹のはしご」の序奏のオーボエ・ソロは、まるで耳のすぐそばで演奏しているような立体感を持っていました。残響は伴っていても、その明瞭なアーティキュレーションははっきり伝わってきます。それに続くフルート・ソロも、やはり同じような立体感のある存在として迫ってきましたよ。そのふんわりとした肌触りは、まさにかつてのPHILIPSサウンドそのものでした。そこにサラウンドとしての立体感が加わっているのですから、これ以上の愉悦感はありません。もう最後まで、そんなサウンドの虜となってしまいましたよ。「泥棒かささぎ」あたりでは、2挺のスネア・ドラムがそれぞれリアの左右に定位していますから、うれしくなります。
マリオッティの指揮は、伝統にはとらわれない自由さを持っていました。たとえば、「ロッシーニ・クレッシェンド」と言われている連続したクレッシェンドでは、単に長いクレッシェンドをかけるのではなく、その途中に微妙に段差を付けて、豊かな表情を出しています。本当に有名な「セビリアの理髪師」などでは、手あかにまみれたそれまでの表現をあざ笑うかのような、とてもユーモラスなルバートが加わっていましたよ。
そんなサウンドと表現で聴く「ギョーム・テル」は、もはや「序曲」とは思えないほどの壮大な構造を持つ作品として眼前に現れてきました。これを聴けば、作曲家としてのロッシーニの偉大さは歴然たるものとなるはずです。単に、業務としてオペラを作っていたのではなかったのだ、と。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


12月31日

Jurassic Award 2018
年末恒例の「ジュラシック・アウォード」の発表です。この1年間に「おやぢの部屋」で聴いたものの中から、カテゴリー別に最も印象が深かったものを選ぶ、というものです。もちろん、審査員は私自身です。
昨年の末あたりから、今までは聴くことのできなかったサラウンドのソフトも聴くことができるようになりました。そのあたりも、今年の評価には影響を与えているはずです。
まずは、カテゴリーごとのアイテム数のランキングです。
第1位:合唱(今年47/昨年47)→
第2位:オーケストラ(35/33)→
第3位:フルート(18/18)→
第4位:オペラ(9/15)→
第4位:現代音楽(9/15)→
第6位:書籍(7/11)→
全て昨年と同じランキングですが、「オーケストラ」以外ではアイテム数が増えていないのが気になります。

■合唱部門
今年も、全く知らない作曲家や、全く聴いたことのない作品を手当たり次第に聴いてきましたが、なかなかこれというものには出会えませんでした。作品はなかなかのものなのに、演奏がいまいちで惜しいな、というものもありましたし。ですから、やはりよく知られた作品を新しいアプローチでまるで別の作品のように仕上げていた、クリスティの「ロ短調ミサ」あたりが、最も新鮮な感動を与えてくれました。
■オーケストラ部門
本当はクレンツィスのマーラーを挙げたかったのですが、あちらは某レコードアカデミー大賞受賞などという恥ずべきステイタスを獲得してしまったので、次点のバーンスタインのベートーヴェン交響曲全集で。これは、演奏も素晴らしいものですが、かつて4チャンネルとして録音されていたものを初めてBD-Aでサラウンド化したという、最新のフォーマットでのリイシューで、同じような試みの中では最も成功しているのではないでしょうか。これが大賞です。
■フルート部門
なんといっても、フルート界のレジェンド、ウィリアム・ベネットが78歳の時の録音が最高でしょう。彼のお弟子さんのローナ・マギーのソロ・アルバムも素敵でした。
■オペラ部門
これも、やはり昔の4チャンネルの録音をBD-Aで復活させたバーンスタインの「カルメン」を。このアイテムは以前にSACDでもサラウンド・バージョンが出ていたのですが、音のクオリティではやはりBD-Aの方が一歩抜きんでていました。
■現代音楽部門
シベリウスのひ孫という作曲家、というか、ロックバンドのベーシスト、ラウリ・ポラーの自作自演盤が、高い次元でジャンルの枠を超えた傑作でした。ここでは「現代音楽」の一つの進む道が、明確に開けていたはずです。
■書籍部門
やはり、「ベートーヴェン捏造」が秀逸でしたね。今まで学術レベルでは定説となっていたシンドラーの行状を、きわめて平明な(ちょっと度を越してる?)文体で綴ったというあたりが、勝因でしょう。それでも、「運命」や「テンペスト」といったタイトルや、「交響曲第8番の第2楽章はメトロノームを模倣している」といった俗説は、なくならないのでしょうね。

今年は、努めてサラウンドの音源を聴くようにしていたような気がします。「オーケストラ」でだけアイテムが増えていたのは、そのせいなのでしょう。まだ、配信データでサラウンド再生を行うには、かなりハードルが高いようですので、容易に高音質でサラウンド再生ができるBD-Aでのリリースが増えてほしいのですが、なかなかそうはいかないのがもどかしいですね。


12月29日

WAGNER
Götterdämmerung
Gun-Brit Barkmin(Brünhilde), Daniel Brenna(Siegfried)
Syenyang(Gunther), Eric Halfvarson(Hagen), Amanda Majeski(Gutrune)
Michelle De Yong(Waltraute), Peter Kálmán(Alberich)
中村恵理(Woglinde), Aurhelia Varak(Wellgunde), Hermine Hasselblöck(Froßhilde)
Jaap van Zweden, Eberhard Friedrich(Chorus)/
Bamberg Symphony Chorus, Latvian State Choir
Hong Kong Philharmonic Orchestra and Chorus
NAXOS/NBD0075A(BD-A)


2015年から始まったNAXOSによる香港フィルの「指環」ツィクルスの録音は、年頭の1月にコンサート形式で行った公演を収録して、同じ年の年末にリリースするという形で制作されてきました。そして、今回の「神々の黄昏」でめでたく完結です。これで、世界で初めて、ハイレゾ・サラウンド録音のBD-Aによる「指環」が完成したことになります(もっとも、映像としてのBDだったら、すでに同様のフォーマットは出ています)。
このレーベルはBD-Aのリリースに関しては、かなり初期の段階から手掛けていたようです。もちろん、それに備えてマルチチャンネルによるサラウンド録音も行い始めていたのでしょう。しかし、ある時期からは、BD-Aのリリースはぱったりと途絶え、この香港フィルの「指環」のツィクルスの途中で、それ以外のリリースは全くなくなってしまいました。ですから、おそらくこの「神々の黄昏」が、このレーベルにとって最後のBD-Aとなるのでしょう。こんなタイトルのアイテムで幕を下ろすなんて、なんて粋な引き際なのでしょうね。
今ではニューヨーク・フィルの音楽監督にもなってしまったヤープ・ヴァン・ズヴェーデンと香港フィルによる「神々の黄昏」のソリストは、これまで同様世界中から旬のワーグナー歌手が集められているようでした。あまり名前を聞いたことがない人もいますが、経歴を見るとそれぞれに立派なキャリアを誇っている人ばかり、なかなかの人がそろっているようでとても楽しみでした。しかし、序幕のノルンたちの歌が終わってメインキャストのジークフリートとブリュンヒルデの登場となった時に、そんな期待は全く裏切られてしまいました。
いや、ブリュンヒルデのグン=ブリット・バークミンは、ちょっと芯の細いところはありますが、逆に力で頑張りがちな今までのブリュンヒルデとは一味違った、とても新鮮な魅力を振りまいてくれていましたよ。問題はジークフリート役のダニエル・ブレンナです。これこそは、もろに力に頼った歌い方しかできない、今のワーグナー業界では全く通用しないどんくさいテノールではないでしょうか。最近では、いくらワーグナーだといっても、ただ声がでかいだけではとても使い物にはならなくなっています。かえって、たとえばフォークトのような全然軽い声でも、十分にワーグナー歌手として人気を得ることができるようになってしまいました(私は嫌いですが)。ですから、もはや最低でもカウフマンぐらいの正確な音程と豊かな表現力がないことには、トップに躍り出ることはできないのですよ。
もう一つ、残念だったのがラインの乙女たちです。既読にならなかったから、ではありません(それは・・・ライン)。この3人は「ラインの黄金」と全く同じキャストですね。そして、日本人の中村恵理さんがヴォークリンデを歌っています。彼女は前回はちょっとディクションで引っかかっていたのですが、今回は完璧に歌っていました。ところが、ヴェルグンデのアウレーリア・ヴァラクが全くの音痴なので、3人そろった時に全くハモらないのですね。これも、今となっては致命的。
でも、それ以外の人たちは、本当にすごい人たちばかりでした。グンター役の中国人、シェンヤンの知的な歌い方はこの役にはもったいないほど、対するハーゲン役のアメリカ人、エリック・ハーフヴァーソンは、地響きのするような深い声です。
そして、この作品だけに登場する合唱団が、とても素晴らしい声と、表現力で迫ってきました。なんたって合唱指揮がバイロイトのエーベルハルト・フリードリヒですからね。
もちろん、オーケストラも文句なし。やはり時代の最先端のワーグナーを聴かせてくれていました。それは、「葬送行進曲」での、決して叫ぶことのない、抑制された中から深い情感を湧き出させてくる演奏を聴けば、よく分かります。そこには、繊細さの中に「翳り」すらも感じることができる、格別な魅力がありました。

BD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


12月27日

UNIVERSITY STREET
竹内まりや
ARIOLA/BVCL 941


1979年5月にリリースされた、竹内まりやのセカンド・アルバムの、リマスタリングによる初めてのリイシューです。オリジナルはファースト・アルバムからきっちり半年後のリリースだというあたりに、この時期のまりやの置かれたスタンスがにじみ出ていまりや。ここには「女子大生」を「アイドル」としてデビューさせ、矢継ぎ早にシングルやアルバムを作って稼げるうちに稼ごうというレコード会社の思惑がはっきり表れてはいないでしょうか。
そう、彼女はこのころはまだ大学生でした。結局アイドル活動と学業との両立はできずに中退することになるのですが、この、もろ「大学」という単語が入ったタイトルのアルバムではそんな「大学」がらみの曲を最初と最後に置いて、彼女の「学生」としての立ち位置を主張しているようです。
1曲目の「オン・ザ・ユニヴァーシティ・ストリート」は、彼女自身の作詞作曲。「長く短かった4年の月日が終わる」と歌っています。ライナーノーツの中の現在の彼女の言葉によれば、これは「卒業できませんでした、というお知らせ」だったのだそうです。
そして最後の曲が「グッドバイ・ユニヴァーシティ」。これも歌詞は彼女自身の英語によるものです。その中では、「I'm starting to cry」と、卒業と同時に分かれる恋人なのか、あるいは不本意な形で去ることになった大学なのかはわかりませんが、その悲しみを歌っているようです。
そんな風に、前作では彼女のオリジナル曲は1曲だけでしたがここでは作詞だけのものも含めれば3曲に増えています。そのクオリティも、正直シロートの域を出ていなかった前作の収録曲に比べると、格段にアップしていることも分かります。このあたりから、彼女のソングライターとしての資質が本格的に開花していったのでしょう。ただ、そうは言ってもメージャー・セブンスというカッコいいコードで始まる「涙のワンサイデッド・ラヴ」などは、1967年にフランシス・レイが作った「パリのめぐり逢い」という映画音楽とそっくりなんですけどね(のちの「駅」も、ダニエル・ビダルのヒット曲のパクリと騒がれます)。
そして、同様に前作では1曲提供していただけの山下達郎の存在感が、ここでは格段にアップしています。作詞、作曲、編曲のすべての面で深く関わるようになっているのですね。特に、シングルヒットした「ドリーム・オブ・ユー〜レモンライムの青い風〜」をアルバムに収録する際に達郎が大幅に編曲し直したバージョンは、いかにもアイドル然としたシングル・バージョンとは雲泥の差のカッコよさです(フルーティストの名前がクレジットされていませんが、これは中川昌三さんでしょうかね)。ボーナス・トラックに、その瀬尾一三のアレンジが収録されていますから、それはすぐに聴き比べることが出来ます。
前から聴いていたベスト盤にあった「J-Boy」は、このオリジナルアルバムではやはり編曲が違っていました。そして、ボーナス・トラックにそのライブ・バージョンとして入っていたのが、聴きなれたものでした。これは逆に、まあ、聴きなれていたということもあるのでしょうが、曲を作った杉真理が編曲したアルバム・バージョンよりも、青山徹という人のバンド・アレンジの方が数段練れていると思えます。というか、杉はアルバムで曲も提供していますが、彼のセンスは、あまり好きではありません。
例によって、1982年にLPがリリースされた2年後にCD化されたベスト盤と、今回のリマスター盤との音の比較です。先ほどの「J-Boy」は、新たにリミックスされていたようで、楽器の定位が変わっていました。音そのものは、ブラスの生々しさがちょっと失われています。そして、達郎バージョンの「ドリーム・オブ・ユー」では、やはりブラスがかなり甘くなっています。「涙のワンサイデッド・ラヴ」では、とても気になった冒頭のヴォーカルのドロップアウトが、かなり修復されていたようです。

CD Artwork © Sony Music Labels Inc.


12月25日

ベートーヴェンを聴けば世界史が分かる
片山杜秀著
文藝春秋刊(文春新書 1191)
ISBN978-4-16-661191-1


片山さんといえば、特に近現代日本音楽に関してのとても緻密な文体による文章がおなじみです。そんな片山さんの最新刊は、こんなぶっ飛んだタイトルの新書でした。なんか、この、よくあるヤクザな「音楽評論家」気取りのライターが付けそうなタイトルには、ちょっと引いてしまいます。さらに、本文を読み始めると、なんともすらすらと読みやすい「ですます調」だったのには驚きました。まあ、ベートーヴェンにもあるようですが(それは「デスマスク」)。
ただ、それは確かに親しみやすい文体ではあるのですが、時折ちょっと練れていないな、という感じがするところがあります。もしや、とは思ったのですが、あとがきを読んでそれは確実なものになりました。これは「語り物」だったのですね。いわば「インタビュー記事」です。もちろん、おおもとのラフな原稿はあるのでしょうが、基本的には片山さんが話したことをそのまま文章に起こした、というものですから、文体に一貫性がないのは当たり前なのでした。
もっと言えば、そのような出自ですから構成にも緻密さを欠き、時には何の脈絡もなくほかのテーマに「話」が移ってしまったりしていますから、なんとなく雑な感じは否めません。ここは、しっかりご自身でチェックを入れて、「片山ブランド」たる隙のない文章として仕上げてほしかったものです。
本書の目指したものは、「クラシック音楽」の作曲家、あるいはその作品を通して、その当時の社会的な構造を浮き出そう、ということなのでしょう。確かに、普通の「世界史」で音楽までが語られるのは稀ですし、逆に「音楽史」を「世界史」の一環としてとらえた書物も、あまり見かけませんから、これはなかなか鋭い着眼点ですね。そこでこの平易な文体ですから、普段あまり書物を読まない人にとっても、とても親切な体裁です。
ただ、そこで語られていることの基本は、すでに、例えば柴田南雄さんのような真の知識人によって披露されてしまっていることですから、これはその二番煎じであるような印象はぬぐえません。とは言っても、片山さんはある意味柴田さんをも凌駕するほどの知識人ですから、これまではなかったような新鮮な視点を感じる部分も確かに存在します。
それは例えば「学校」について語った部分あたりでしょうか。それまでは、たとえばハイドンが、自身の作品を聴衆の成熟度に合わせてスタイルを変えたり、ベートーヴェンが「第9」の終楽章であえて平易な旋律をテーマとした(これらも、かなり刺激的な指摘)というような相互作用が、作曲家とそれを受容する層との間にありました。「クラシック音楽は、その時代の支配者の庇護のもとに成り立っている」というのが、ここに至るまでのテーゼでした。
しかし、「学校」の中では、そのようなチェック機能が働かずに音楽だけが独り歩きをして、「一般の聴衆と乖離した」難解なものになっていく、というのが片山さんの指摘、これはかなり興味深いものです。
ただ、残念なことに、そのようなクラシック音楽の歴史が、ここではラヴェルあたりで終わってしまっているのです。おそらくこの本の読者は、「学校」についてあれほどのことを言っているのだからそれが「現代」ではどのように帰結しているのかは、ぜひ知りたい、と思うのではないでしょうか。それを「取り扱ってもなかなか喜んでもらえない領域なので、踏み込んでいません」ですって。それはないでしょう。
アカデミズムによって難解となったクラシック音楽が、その後どのような道をたどり、今この時代にはどうなっているのか、それを片山さんの「口」からぜひ聞きたかったと、切に思います。
ベートーヴェンの交響曲第8番の第2楽章が「メトロノームの音を模写した」などと、今ではほぼ真実ではないとされているネタを取り上げるまえに、やることがあったような。

Book Artwork © Bungeishunju Ltd.


12月23日

Debussy
Prélude à l'apres-midi d'un faune, Jeux, Nocturnes
Marion Ralincourt(Fl)
François-Xavier Roth/
Les Cris de Paris(by Geoffroy Jourdain)
Les Siècles
HARMONIA MUNDI/HMM 905291


このレーベルのドビュッシーの没後100年の記念シリーズとしてリリースされたCDは全部で10枚ほどありますが、その中でオーケストラ作品のものはたった2枚しかありません。やはり、大編成のオーケストラの録音にはかなりの経費が必要ですから、今のご時世ではなかなか実現は難しいのでしょう。
それでも、今ではアルバムを出すたびに高い評価を得ている、ロトとレ・シエクルのコンビでしたら「安全牌」でしょうから、しっかりその一翼を担ってくれました。
このCDのための録音は、今年の1月にパリのフィルハーモニーで行われています。さらに、このパッケージにはボーナスとしてコンサートの映像が収録されたDVDも付いていますが、それはこのパリのコンサートではなく、その後の6月に行われたスペインのグラナダでのコンサートの模様が収録されているのです。ただ、演奏曲目がCDでの「牧神」が「民謡主題によるスコットランド風行進曲」に代わっていますから、肝心の「牧神」のソロ・フルートの映像を見ることはできません。そして、「ノクチュルヌ」の合唱も、スペインの合唱団に代わっています。
今年の6月といえば、このコンビが来日公演を行った時ですね。ワールド・ツアーの一環として、日本にも立ち寄っていたのでしょう。その時のコンサートは6月12日の東京オペラシティでの1回しかありませんでした。この時には、「牧神」は演奏されましたが、合唱が入る「ノクチュルヌ」ではなく、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が演奏されましたね。
そんな情報を調べていたら、このコンビはこれが初来日ではなく、それ以前2007年と2008年にあの「ラ・フォル・ジュルネ」のために来日していたことも分かりました。今ではすっかり有名になってしまいましたが、その頃はそんなドサまわりもやっていたのですね。
まずは、ボーナスDVDで彼らの楽器などをしっかり見ることができました。ホルンがピストンのタイプなのが目につきましたね。それと、弦楽器の配置もヴァイオリンが両翼に分かれる「対向型」であることも分かりました。その効果は、CDで聴くとはっきりします。やはり、ドビュッシーはそのころのスタンダードだったこの配置を念頭において、曲を作っていたのですね。
面白いのは「ノクチュルヌ」での女声合唱の位置、彼女たちはなんと弦楽器と木管楽器の間に座っていましたよ。おそらく、ホールで聴くときには弦楽器の陰になってそこに合唱がいることはわからないのではないでしょうか。もちろん、歌う時も座ったままですから、お客さんはどこから聴こえてくるのか一瞬分からなくなってしまうかもしれませんね。
これは、スペインでのライブの模様ですが、CDに入っているパリでの録音では、合唱がなんだか移動しながら歌っているようにも聴こえます、以前「ダフニス」の時には、確かに動かしていたので、もしかしたらスペインとは別のスタイルで歌っていたのかもしれませんね。
ソロ・フルーティストのラランクールの姿も、このDVDで初めて見ることができました。彼女は構えるときに、普通の奏者のように楽器が水平か右手が下がるのではなく、右手のほうを高くして演奏しているように見えます。ですから、2番奏者は右下がりなのでかなり異様な風景です。おそらく、彼女は唇の右側に穴ができるアンブシャーなのでしょう。
その音は、いつもながらのかなりおとなしい音色で、表現も穏やかでした。それは、ガット弦が使われている弦楽器の音色とは見事に合致していて、薄暗いモノクロームの世界が広がっていました。「ノクチュルヌ」の2曲目の「祭」のような派手な曲でも、ここからは普通のオーケストラのようなキラキラした世界は見えてきません。ドビュッシーの音楽を語るときに、よく北斎の浮世絵が引き合いに出されますが、こんなサウンドではそれよりも雪舟の水墨画の方が似合っています(ぼくが、そう思っているだけですが)。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.


12月20日

SCHUBERT
Symphonies 1 & 6
René Jacobs/
B'Rock Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 707(hybrid SACD)


かつてカウンター・テナーとして一世を風靡したルネ・ヤーコブスは、今ではもっぱら指揮者として大活躍をしています。もちろん、そのレパートリーは「前職」からの延長ということで、もっぱら声楽曲、時代的にもバロックが中心で、新しいものでもモーツァルトぐらいのところまで、という感じでしょうか。ですから、指揮をしているのはモダン・オーケストラではなく、小編成のピリオド・オーケストラです。
そんな彼が、いきなり古典派の作曲家、シューベルトの交響曲の全曲録音を開始しました。しかも、今までは全く関係を持つことはなかったPENTATONEレーベルからです。これはかなりのショッキングな出来事でした。しかしヤーコブスは、
シューベルトは、とても若い時から私の大好きな作曲家だった。私は彼の作品を多くの機会で歌ってきた。同時に私は、フィッシャー=ディースカウが歌うシューベルトの録音を聴きはじめ、彼の絶対的なファンにもなっていた。長い年月を経て、私は指揮者として再びシューベルトに対する別の形の愛を発見することになった。それは、私が最初に感じた彼への愛と同じほど熱烈なものだった。
と、平然と言いきっています。
まあ、それはそれで幸せなことなのでしょうが、実際に指揮者として、今までの経歴とはかなり隔たりのあるシューベルトの交響曲を演奏することについては、果たしてどんなものなのかな、という危惧はぬぐえません。
ヤーコブスは、確かに声楽曲以外のものも少しは録音していました。それが、モーツァルトの後期の交響曲です。その中の「39番」と「40番」のカップリングのCDを実際に聴いたことがあるのですが、それは結局「おやぢの部屋」にアップされることはありませんでした。普通だと、いいにせよ悪いにせよ、何かは書こうという気にはなるのですが、そのCDの場合はそれ以前のものだったのでしょうね。
今回、ヤーコブスがシューベルトの交響曲を録音するにあたってパートナーとして選んだのは2005年にベルギーで創設された「B'Rock Orchestra」という団体でした。「ビーロック・オーケストラ」と発音するのだそうです。もちろんピリオド楽器のオーケストラですが、単に「バロック」ではなく、もっと広がりのあるヴァ―サタイルな方向性を目指していることが、この名前からは分かります。
そういう顔ぶれでツィクルスの最初に録音されたのが「1番」と「6番」という、いずれもシューベルトの交響曲の中ではかなりマイナーどころだったのには、ちょっと驚きました。あるいは、有名な曲を最初にやってそれがコケたらまずいので、まずはあまり知られていない分、冒険が出来ると踏んだのでしょうか。
確かに、「1番」の序奏などは、およそ交響曲らしからぬ、派手ないでたちで始まったのは結構新鮮な体験でした。こういう演奏を聴くと、「交響曲」のそもそもの成り立ちがオペラの序曲だったのだな、ということが実感できます。それはまさに、これから起こる物語を大袈裟に紹介しているようなものでした。
しかし、果たして、そのようなアプローチがこの作品に合致したものであるのかは、ちょっと疑問です。普通のソナタ形式では、提示部の繰り返しは序奏の後の主部から行うようになっていますが、この曲では序奏から丸ごと繰り返されます。しかも、再現部になった時も、やはり同じ序奏から始まるという、かなりくどい作り方をされています。つまり、ここでは都合3回もこの仰々しい序奏を聴かされなければいけないものですから、正直ちょっと疲れてしまいます。
その他にも、例えばメヌエット楽章でトリオに移る時のフットワークが、なんともかったるいのがかなり気になります。やはり、ヤーコブスがシューベルトの交響曲を演奏するのはちょっと無理なのではないか、という印象を強く持ってしまいました。というか、もはやこのツィクルスには何も期待できないことが分かったような気がします。と、ほかの人にチクるっす

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


12月18日

Gospel Christmas
Chris Turner(Pf), Jerry Harris(Bass), Rodrick Nightingale(Dr)
Northwest Community Gospel Chorus(by Gary Hemenway)
Charles Floyd/
Oregon Symphony
PENTATONE/PTC 5186 720(hybrid SACD)


あくまで音が売り物、基本的にリリースはSACD、もちろん全てマルチチャンネル対応でサラウンドも楽しめるアイテムというとてもうれしいポリシーを貫いているこのPENTATONEレーベルは、スタート時には本拠地のオランダでちまちまと制作を行っていた印象がありますが、最近ではヨーロッパだけではなくアメリカでの録音も行っていて、リリース数も格段に増えているようですね。
そんな、アメリカでの録音の際のプロデューサーが、グラミー賞も受賞したことのあるブラントン・アルスポーです。このサイトでは、彼が制作したサウスダコタ・コラールのアルバムを何枚かご紹介したことがありましたね。
今回の彼の手になるアルバムもやはり合唱がらみのアメリカ録音です。アーティストは「ノースウェスト・コミュニティ・ゴスペル・コーラス」。
名前の通り、この合唱団は「ゴスペル」の団体です。全員がセーラー服を着て歌います(それは「コスプレ」)。いや、彼らが着ているのは、あのおなじみのガウンですけどね。このアルバムでのメンバーは90人、それが、フル編成のオレゴン交響楽団とリズム・セクションのバックで歌っている写真がブックレットに載っていますが、それはド派手なステージ照明とも相まって、かなりのインパクトを与えてくれます。そう、これは彼らが毎年オーケストラとともに行っているクリスマスコンサートで録音されたものです。昨年はそのコンサートが20回目を迎えたために、その記念にこんなライブアルバムが作られました。
それは、オープニングからもうハイテンションの、スカッとするようなサウンドで始まっていました。オーケストラの金管セクションが派手に鳴り響く中で、リズム・セクションのタイトなビートがいやが上にも盛り上がりを誘います。このリズム、特にドラムスの人が叩き出すものはとても強烈なパルスを届けていて、これだけで音楽のテイストがきっちり決まってしまっています。
ですから、オーケストラのほうは金管以外はそれほど目立った働きはないようで、時折ストリングスがうっすらとサウンドに色付けをしている程度の関与です。
そんなバックに乗って、このコーラスはとことん熱く迫ります。もう歌うことが楽しくてしょうがないという人たちが集まっているように感じられますから、その演奏からはほかの人もとことん楽しませようという気持ちがいやというほど伝わってきます。なにか、まさに「魂」で歌っているようなすごさがありますね。
ほとんどの曲ではメンバーのソロを聴くことができますが、それもみんなとても伸びのある声で素晴らしいものばかりでした。曲自体はほぼ知らないものばかりなのですが、そんな熱い思いをきっちり伝えるこのサウンドに囲まれていると、聴いているだけで心が熱くなってきますよ。
そう、これはもちろんサラウンドで録音されているのですが、正面のステージだけではなく、それを取り囲む客席の熱気までもが、きっちり聴こえてくるのですよ。ステージと客席の全員が手拍子を打っているところなどは、まさに圧巻のサラウンドです。
1曲だけ、本当によく知っている曲がありました。それは、ヘンデルの「ハレルヤ」です。あの「メサイア」の中の有名な合唱曲ですね。まさにクリスマスならではのきらきらとしたパーカッションによるイントロに続いて聴こえてきたのは、見事にゴスペルに変身した「ハレルヤ」でした。このバージョンは、1992年にクインシー・ジョーンズのプロデュースによって制作されたもので、アレンジはマイケル・ジャクソンと「テイク・シックス」のマーヴィン・ウォレンとマーク・キブルです。そして、オーケストレーションと指揮を担当しているのが、かつてナタリー・コールのバックを務めていたチャールズ・フロイド、ここにはただの「熱気」だけではない、しっかりとしたサポートによるバックボーンがありました。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


12月15日

BACH
Solo
Tobie Miller(Hurdy Gurdy)
RAUMKLANG/RK 3405


このジャケット写真、なんだか中世の絵画のようですね。確か、昔のエマ・カークビーのアルバムでこんな感じのがあったような気がしたので探してみたら、これが見つかりました。1981年に録音された最初期のCDのジャケット、モンテヴェルディの聖歌が収録されています。
ここで天使が抱えているのはおそらくヴィオールでしょうが、今回のアルバムで同じようなカーリーヘアの「天使」が持っているのは、もっと大きな楽器でした。
この写真だと、その楽器がよく分かりますね。これは「ハーディ・ガーディ」と呼ばれる古楽器で、その起源は11世紀にまでさかのぼれるのだそうです。香草畑ではありません(それは「ハーヴ・ガーデン」)。このような形になったのは中世あたり、ヴァイオリンのように弦をこすって音を出す楽器ですが、こするものが「弓」ではなく「円盤」であるのが大きな違いです。その円盤(ホイール)を、楽器のお尻についているハンドルで回し、その上にある弦を上から先の細い金具(タンジェント)で押し付けると、弦が回転しているホイールに触れて音が出る、という仕組みです。そのタンジェントは、ピッチに応じて並んでいて、それを鍵盤で押さえることによって特定の音程が作れます。
さらに特徴的なのは、このようなメロディを演奏するための弦のほかに「ドローン弦」というのが何本か付いていて、それで低音を持続的に出すことができることです。
この写真の主は、カナダで生まれ現在はスイスで活躍しているハーディ・ガーディ奏者、トビー・ミラーです。彼女がここで演奏しているのがバッハの作品、無伴奏ヴァイオリン・パルティータの3番と、無伴奏チェロ組曲の1番と2番、BWVでは1006番から1008番までの連番になっている3曲です。
バッハの時代にもハーディ・ガーディは使われていたのでしょうが、あいにくバッハがこの楽器のために作った曲はありません。ですから、ここで演奏されているのはミラーがこの楽器のために編曲したものです。
それがどんな音で響いているのかを初めて知ることができるのが、パルティータの1曲目の「プレリュード」です。バッハはこの曲を後に別の作品にも転用していますが、その中の一つ、カンタータ第29番の「シンフォニア」を、1968年にウェンディ・カーロスが世界で初めてシンセサイザーで録音していましたね。シンセサイザーとハーディ・ガーディ、ともにバッハが使わなかった(使えなかった)楽器によるアルバムの冒頭が同じ曲だなんて、面白いですね。
その「プレリュード」では、まるで普通のヴァイオリンのような音が聴こえてきました。さらに、驚いたことには、ヴァイオリンが右手で弓を使って作り上げるフレージングまでもが、しっかり伝わってきたのです。これはおそらくホイールの回転速度を微妙にコントロールして実現させているのでしょうね。こんなことがこの楽器で出来るなんて、想像もしていませんでしたよ。
この曲にはドローンは用いられていませんでしたが、続く曲には適宜ドローンの持続音の上で、いかにも軽快なダンスが奏でられていました。これは、今まで良く聴いていたこの楽器のキャラクターがそのまま表れたものですね。そういうのを聴いていると、この「パルティータ」や「組曲」といったものが、本来は踊るための音楽だった「舞曲」の集まりであることが再認識できますね。
無伴奏チェロ組曲になると、音域がぐんと低くなります。同じ楽器なのでしょうが、かなり広い音域をもっているのでしょうね。
ここでも、メロディだけのものと、ドローンで低音が補強されたものとが演奏されています。そして聴き進んで最後の曲、「2番」の「ジーグ」になったら、今度は高音でまるでトランペットのようなにぎやかなフレーズが聴こえてきましたよ。調べてみたらその名も「トランペット」という高音のドローンも、この楽器には備わっていることが分かりました。それこそシンセサイザーみたいに奥の深い楽器だったんですね。

CD Artwork © Raumklang


きのうのおやぢに会える、か。



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