フックと豆の木。.... 佐久間學

(11/9/26-11/10/14)

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10月14日

クラシック・ゴシップ!
いい男。ダメな男。歴史を作った作曲家の素顔
上原章江著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-87006-0

医学的には、「恋愛」というのは体に悪いものなのだそうですね。「胸がときめく」という状態は、「異常」なことなんですって。ですから、人間の体が正常に機能している限り、恋愛状態が長続きする事は決してないのだそうです。それは、体としてはなんとかして「正常」に戻ろうとするからだ、と思われています。恋愛が続くのは長くても1年半、それを過ぎるともはや相手を「恋愛」の対象と見ることはできなくなり、分かれてしまうか、あるいは運良く夫婦になった時には、今度はお互いに自分にないものを補完してくれる対象として認めることで、恋愛感情はなくても円満な夫婦生活を送ることが出来るというわけです。確かに、そういう「仕組み」が分かってしまうと、いろいろ納得できることに思い当たるのではないでしょうか。「体に悪い」ことは、妖しい魅力を持っているものです。その味を知ってしまった人は、悪いと知りながらも、何度も相手を変えて「恋愛」をリセットすることになるのですね。ですから、「一生あなたのことを愛します」などと言っている人などは、そもそも信用してはいけないのです。
そんなことが分かったのは、おそらく最近のことなのでしょうから、昔の「大作曲家」などはそれぞれの性格に応じて、さまざまな恋愛を繰り広げていたに違いありません。そこで、そんな16人の作曲家を俎上に乗せて、女性の視点から「恋愛の対象としてはどうよ」とあれこれ評価してみよう、というコンセプトのもとに作られたのが、この本です。
もちろん、それだけだったらそれこそただの「ゴシップ本」にしかなりませんから、そんな「評価」のもととなる、音楽家として、あるいは人間としてのプロフィールは、最新の資料に基づいてきっちりとその実像を伝えることに、抜かりはありません。いや、おそらく、本来はその部分が、著者の最も力を入れたところなのでしょう。恋愛対象うんぬんは、まあ著者の趣味の反映として軽くあしらい、きちんと作曲家の評伝に接するというのが、もしかしたらこの本の正しい読み方なのかもしれませんね。だいぶ前に、こんな本をご紹介したことがありますが、おそらく、そこで貫かれていた精神とかなり近いものが、この本にもあるのではないでしょうか。
その本では、プッチーニの、まさにゴシップそのもののスキャンダラスな私生活が暴露されていましたが、ここではそれ以上の愛憎劇を、ドビュッシーの項で味わうことが出来ます。おそらく、この作曲家はさっきのような「体に悪い」ことにはほとんど依存症状態にあったのでしょう、激しく女性を愛して自分のものにしたいと思い、一緒に暮らしたり結婚までしたにもかかわらず、次第にその女性に飽きてきて他の女に手を出すといったことを、何度も何度も何度も(しつこい)繰り返したそうなのです。そんな「捨てられた」女性のうちの2人までがピストル自殺を試みたというのですから、穏やかではありません。著者も、「超ジコチュー男」と決めつけています。
作曲家の私生活と、その作品とは別物なのだ、とはよく言われることですが、こういうドビュッシーの嗜好を見せつけられると、やはり彼の音楽は穏健な常識人ではとてもなしえない特別のもののように思われてくるから不思議です。
ところで、そのドビュッシーの2度目の妻となるエンマは、出会った時は裕福な銀行家の妻だったのですから、「立派な」不倫になるのですが、その前にもエンマはあのフォーレと通じて子供までもうけていたのですね。それは、夫の子供として育てられたというのですから、まさにワーグナーとコジマのようなどろどろの関係ではないですか。そうなると、あんな穏やかな作風だったフォーレの「私生活」も知りたくなってしまいませんか?

Book Artwork © Yamaha Music Media Corporation

10月12日

Impressions Françaises
Juriette Hurel(Fl)
Hélène Couvert(Pf), Arnaud Thorette(Va)
Christine Icart(Hp), Florence Darel(Réc)
ZIG-ZAG/ZZT110401


ロッテルダム・フィルの首席フルート奏者、ジュリエット・ユレルのソロ・アルバムです。「フランスの印象」という、粋なタイトルが付けられていますが、ここでは、これまた粋なジャケットと相まって、「揺れる乙女(?)心」みたいなものが表現されているのでしょうか。ラインナップは、プーランク、フォーレ、そしてドビュッシーと、フルートの名曲としてははずせないものが並んでいます。
プーランクは、もちろん「フルート・ソナタ」です。この曲を演奏していないフルーティストはいないのではないか、というほどの「名曲」ですから、録音するのにはかなり高いハードルが要求されるはずですが、ユレルはそんなプレッシャーにも負けないでいとものびのびと演奏しています。彼女の持ち味の繊細さを前面に出して、極力「気持ちのよい」演奏に徹しているのではないでしょうか。それはそれで魅力的ではありますが、やはり聴く方としてはもう少しなにかがあれば、と思ってしまいます。第2楽章などは、もっともっと歌ってくれれば、とか。
フォーレは、おそらくフルートを吹いたことがある人であれば必ず聴いた、あるいは実際に吹いたことがある曲ばかりですから、今度は別の意味でのハードルが待っています。それは、例えば「コンクール用小品」とか「シチリエンヌ」といったそれほど難易度の高くない曲を、単に「おさらい会」レベルでしか聴いたことのない人に対して、きちんとした「芸術」であることを見せつけなければいけない、という、ある意味「使命」です。もちろん、そんなことが出来るのは本物の「芸術家」だけですから、ここではごく当たり前のものしか聴くことは出来ません。 ただ、彼女はここでちょっとした抵抗を試みています。「コンクール用小品」のふつうの楽譜は、同じ部分が2度繰り返されそのあとにちょっとしたコーダが付く、という構成になっています。同じメロディを、2度目にはちょっとニュアンスを変えて味わってもらうという趣向なのですね。ところが、ここではその「2度目」がすっぽりなくなっています。実は、これがフォーレが作ったオリジナルの形、繰り返しは別の人が「コンクール(初見演奏用の課題)」ではあまりに素っ気ないので、「コンサート」用に付け加えたものなのです。ですから、彼女の演奏からは、この曲がいかに「素っ気ない」ものであるかを学ぶことが出来るのですね。
ドビュッシーでも、彼女は誰もやったことのないような試みを行っていました。少なくともLPCDで聴いたのはこれが初めてなのですが、「シランクス」を、それこそオリジナルの形で演奏しているのですよ。今では完全にフルート・ソロの作品として独り立ちしている曲ですが、本来はさるお芝居の「劇伴」として作られたものなのですね。そこで、ここではそのガブリエル・ムーレの「プシシェ」という劇の第3幕第1場で語られる台詞と一緒に演奏しているのです。これはなかなかのインパクトです。というより、あまりに台詞の存在感が大きいため、フルートは完全にBGMとしてしか聴こえてきません(それは、「劇伴」の理想的な形なのでしょうが)。ですから、最後にもう1度、フルートだけで演奏される時には、無性に台詞が欲しくなってしまいます。
ドビュッシーでもう一つ、フルートのレパートリーとして欠かせないのが、「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」です。ここでも、彼女によってこの曲の新しい面を知ることが出来ました。今まで、この曲ではフルートが主役だとずっと思っていたのですが、実は本当の主役はヴィオラだったんですね。ここで演奏しているアルノー・トレットという人のヴィオラがあまりに素晴らしいので、そう思ってしまったのでしょう。逆に言えば、いかにユレルの存在が薄いか、ということでしょう。「乙女心」が、これほどまでにはかないものだったとは。

CD Artwork © Zig-Zag Territoires

10月10日

ORFF
Carmina Burana
Lenneke Luiten(Sop), Christoph Genz(Ten)
Stephan Genz(Bar)
GrauSchmacher Piano Duo
Rupert Huber/
SWR Vokalensemble Stuttgart
HÄNSSLER/CD 93.280


オルフの超有名曲(つまり、シュトラウスの「ツァラトゥストラ」と同じように、冒頭部分のみが突出して聴かれる機会が多いということですが)「カルミナ・ブラーナ」は、1936年に完成されましたが、その後、オルフ自身の要請によって、1956年に彼の弟子のヴィルヘルム・キルマイヤーという人が小編成のバージョンを作りました(以前この編成の録音をご紹介した時に「オルフ自身の編曲」と書きましたが、それは引用したライナーノーツの間違いでした)。これは、オリジナルと同じSchottから出版されています。編成は、合唱と打楽器のパートはそのままで、残りのパートをピアノ2台で演奏する、というものです。
ここで、重要なパートであるじゅうよう(デュオ)・ピアノを演奏しているのは、「春の祭典」なども軽々とレパートリーにしているアンドレアス・グラウとゲッツ・シュマッハーのチームです。ここで彼らは、もともとこの楽器に託されていた役割を存分に果たした上で、この編曲で新たに加わったオーケストラの他のパートを、単なる「代用品」ではなく、あくまでデュオ・ピアノとしての表現に昇華させるという驚くべきことをやっていました。それは、3管編成という大人数のオーケストラでは決して成しえない微妙な息づかいやルバートを、演奏の中に織り込む、という手法です。例えば、オーケストラだけで演奏される「Tanz」では、勢いだけで突き進みがちなところを、時折さりげなく「間」を作って、絶妙なフレーズ感を出すことに成功しています。逆に、フルートとティンパニだけのアンサンブルになっている部分などでは、オケ版ではついフルートが歌ってしまってビートが崩れてしまうところを、まさに鉄壁のリズムで「ミニマル感」を味わうことが出来ます。
そして、合唱は、現在の首席指揮者のクリードではなく、その前、1989年から2000年までそのポストにあったルパート・フーバーに率いられたSWRヴォーカルアンサンブルです。任期中に録音されたメシアンやジョリヴェでちょっとすごい演奏を聴かせてくれたコンビの、久しぶりの復活となります。
この合唱団の人数はせいぜい30人程度でしょうか、オーケストラではなくこのようなアンサンブルとでさえも、この曲を演奏するには、それはあまりにも少なすぎると感じられてしまうことでしょう。ただ、そのような思いは、もっぱら大人数の力に頼った演奏を聴き慣れたせいだと、しばらくすると気づくことになります。こんな精鋭ぞろいの、凝縮された力によって醸し出される繊細な味わいも、なかなかいいものだ、と。なによりも、深刻ぶらない冷静さは聴きものです。
3曲目の「Veris leta facies」では、そんなハイスキルの伴奏と合唱によって、ちょっと今まで気づかなかったような体験も出来ました。オケ版だとピッコロと打楽器で演奏される冒頭の細かい音符(絶対合わない!)が、ここではしっかりとした意味を持って聴こえてきたのです。これは、礼拝の時の鈴の音だったのですね。それに続くピアノのアコードの、なんと敬虔なことでしょう。ですから、そこで歌われる合唱が、まさにプレーン・チャントそのものであることが、とてもはっきり感じられるのですよ。伸縮自在のテンポで歌われるその聖歌は、今まで聴いて来た変拍子の譜面づらにとらわれていた「合唱曲」とはまるで別物、そこからはしっかりとした祈りの心が感じられるものでした。
ソリストたちは、どうでしょう。バリトンのゲンツの音程のアバウトさは、大味なオケ版では通用するかもしれませんが、この緻密なコンテクストでは浮いてしまっています。テノールのゲンツはあまりにも平凡。そしてソプラノは悲惨です。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

10月8日

Invocation
Music by Dalit Hadass Warshaw
Wendy Warner(Vc)
Re'ut ben Ze'ev(Sop)
The Momenta Quartet
Dalit Hadass Warshaw(Pf, Theremin)
ALBANY/TROY1238


ダリット・ハダス・ウォーショウという、棋士のような名前の(それは「王将」)アメリカの作曲家の作品を集めたアルバムです。このジャケットの写真の方が、ウォーショウその人、なかなかチャーミングな女性ですね。ただし、この写真が撮られたのが今から10年以上前のことですから、ブックレットの中にある「現在」の姿を見て、若干失望をおぼえる人も少なくないことでしょう。時の流れは非情です。
1974年に生まれたウォーショウは、3歳の時から母親のもとでピアノを学び始めますが、程なくしてその音楽的な才能が人々を驚かせることになります。彼女が8歳の時に作ったオーケストラのための作品が、なんたらという世界的な「音楽賞」を受賞してしまうのですね。さらに、その3年後に作った次のオーケストラ曲は、ズビン・メータの指揮によってニューヨーク・フィルと、イスラエル・フィルという2つのオーケストラで演奏されたというのですから、まさに「神童」ですね。
その後、彼女は作曲家、そしてピアニストとして修行を積み、その作品は世界中で演奏され、彼女自身も多くの場所でピアノ協奏曲や自作を演奏するようなピアニストとしての地位を築いています。
一方で、彼女は6歳の時から、「テルミン」を、望みうる最高の先生の下で学ぶようになりました。その先生とは、この楽器を作ったレフ・テルミンの恋人であり、世界最高の「テルミニスト」として名を馳せたクララ・ロックモアその人です。ロックモアとは、単なる師弟関係を超えた、生涯の友人として関わりを持つようになったのだそうです。
このアルバムでは、彼女自身が卓越したテルミニストであることを、2曲の自作の中で知らしめています。1曲は2007年に作られた、テルミンと弦楽四重奏というアンサンブルの「Transformation」という作品。もし、テルミンという楽器には、例の「ヒュウウウ」というおどろおどろしい音しか出せないと思っている人がこれを聴いたとしたら、彼女の楽器が他の「フツーの」弦楽器と見事に溶け合っていることに驚かされることでしょう。実際、この楽器の音に充分慣れ親しんでいる人でさえ、最初のうちはアンサンブルの中にテルミンが入っていることすら気づかないかもしれないほど、それは、音色といい、アーティキュレーションといい、そしてビブラートといい、「生の」弦楽器と寸分違わぬものに聴こえるはずです。そして、しばらくするとそんな均質な響きの中から、明らかにテルミンならではの個性的な音がわき起こって来ることにも気づくはずです。そこでソリスティックに歌われるテルミンは、圧倒されるほどの存在感をもっています。ここで使われている楽器は、クララ・ロックモアが愛用していたビンテージのテルミンなのだそうです。
もう一つのテルミンがフィーチャーされた曲は、アルバム中最も新しい2010年の作品「Nizk' orah」です。ここでは、テルミンが2台とピアノ1台という編成になっていますが、元々はテルミン、チェロ、ピアノという編成で、2001年のロックモアのメモリアル・コンサート(彼女は1998年に亡くなっています)で演奏されたものを、この形に書き換えたものです。ここでは、この3台の楽器を全てウォーショウ自身が多重録音で演奏しています。この録音に用いられたテルミンは、1台は先ほどのロックモアの楽器ですが、もう1台は、この楽器を現代に蘇らせたあのロバート・モーグ(「モーグ・シンセサイザー」の発明者)が作った、オールド・テルミンの完全なレプリカ「91W」という楽器です。そんな由緒ある楽器による「ひとりアンサンブル」、ここでは、あたかもロックモア、モーグ、そしてウォーショウという、それぞれにレフ・テルミンとのつながりのある3人の魂が共演しているようには、感じられないでしょうか。

CD Artwork © Albany Records

10月6日

BACH
Mass in B Minor
Bethany Seymour(Sop), Sally Bruce-Payne(Alt)
Jason Darnell, Joshua Ellicott(Ten), Peter Harvey(Bas)
Peter Seymour/
Yorkshire Bach Choir
Yorkshire Baroque Soloists
SIGNUM/SIGCD265


モーツァルトの「ドゥルース版レクイエム」を最初に演奏したことによってのみ知られていたヨークシャーのピリオド・アンサンブルと合唱団のチームは、最近ではSIGNUMレーベルの常連になって、バッハの宗教曲などを積極的に録音しているようですね。やっと「日の当たる場所」に出た、ということでしょうか。しかし、その第1作目の「ヨハネ受難曲」は、決して現在のバッハ業界の水準を満たすものではありませんでした。その時に指摘されていたのは、合唱に対して弦楽器があまりに人数が少なかった点でした。おそらく、ピーター・シーモアはそれを目にして反省したのでしょう(まさかね)、今回の「ロ短調」では大幅に弦楽器を増員して録音に臨んでいました。「ヨハネ」では3人だったヴァイオリンが、今回は8人ですからね。ヴィオラも1人から2人、その中に、以前コンサートマスターだったダンカン・ドゥルースの名前もありました。まだ「現役」だったのですね。ブックレットの写真を見ると、ヴィオラのパートに白ひげをたたえた中高年がいますから、おそらくこの人なのでしょう。「やっと会えたね」という感じでしょうか。
その「増員」は、見事な成果を上げていました。オーケストラが、しっかり大人数の合唱に見合うだけのたっぷりしたサウンドを提供出来ているのですね。そういう意味では、これは「OVPP」などという危なっかしいものよりは、よっぽど安心して聴いていられます。
そうは言っても、やはり演奏の水準自体は、相変わらずでした。合唱は、そこそこよい声の人は集まっていて、ホモフォニックの部分ではなかなか聴かせてくれるのですが、ポリフォニックなところになるといけません。「Gloria」の最後、「Cum Sancto Spiritu」などは、フーガの入りこそかっこいいのですが、他の声部が入ってくると段々テンポが落ちてくるのですね。最後の方などは、もういい加減そのものです。セッション録音なのに。さっきの写真を見てみると、どうも指揮者はチェンバロを弾きながら指揮をしているようなのですね。自分の演奏に手一杯で、合唱の面倒までは見ていられない、という投げやりな態度が、この写真と、そして実際の音からは感じられてしまいます。
Credo」の合唱の聴かせどころ、「Et incarnatus」と「Crucifixus」では、それなりにしっとり歌い上げているのですが、そのあとの「Et resurrexit」ではやはり「病気」が出てきてしまいます。今度は、やたらと走り出すのですね。ですから、74小節目から始まるベースの長大なパート・ソロは、とても合唱では無理だと判断したのでしょうか、ソリストが1人で歌っていますよ。
それを歌っていたのはピーター・ハーヴェイなのでしょうが、彼自身のソロ「Quoniam tu solus sanctus」は、コルノ・ダ・カッチャのオブリガートのあぶなっかっちゃと相まってちょっとお粗末でした。後半になるにしたがって集中力がなくなってしまうのですね。もう一つのアリア「Et in Spiritum Sanctum」も、やはり後半がダメになってます。いい声なのに、惜しいですね。
「ヨハネ」同様、曲全体に貫かれている素っ気なさは、なんとも困ったものです。2番目の「Kyrie」や、最後の「Dona nobis pacem」の、とってつけたようなテンポの速さには、なんの意味も見いだせません。いい加減な合唱を差し引いたとしても、彼らがいったいこの曲から何を訴えたいのかが、全く伝わってこないのですよ。
そんな中で、アルトのブルース・ペインだけは、しっかりとした主張を持った演奏に徹しているようでした。声は軽めですが、そこはかとない凄さを秘めています。「Agnus Dei」は出色でした。

CD Artwork © Signum Records Ltd.

10月4日

CHILKOTT
Choral Works 2
Stephen Disley(Pf, Org)
Bob Chilkott/
The Oxford Choir
OUP/MCDCHIL 11


合唱界では知る人ぞ知る「パナムジカ」という味噌屋さんみたいな(それは「ハナマルキ」)楽譜やさんがありますが、一度そこのネット通販で楽譜を買ったらメルマガが届くようになりました。もはや実際に歌うことはなくなったので、大半はどうでもいい情報しかないのですが、たまには役に立つこともあるので、別に削除もしないで読んでいます。そうしたら、なにかの記念で、メルマガの読者だけ、先着300名様にサンプルCDがもらえるというので、申し込んでみました。市販のCDではなく、他では入手できないという「ささやき」が、なにか魅力的に感じられたのですね。
実際は送料が315円かかりましたが、届いたのがこのCDです。それは、オクスフォード・ユニバーシティ・プレスという、宗教曲などの出版で有名な(例えば、フォーレの「レクイエム」のラッター版とか、モーツァルトの「レクイエム」のモーンダー版などの出版元です)楽譜出版社のサンプルCDでした。中身は、この出版社から出ているボブ・チルコットの新しい合唱曲の音源ですって。つまり、実際に楽譜を「音」にして聴いてもらい、気に入ったら買ってくれ、という意志のこもったCDなのでしょう。もちろん、その「音」はサンプリング音源などではなく、ちゃんと合唱団が実際にこのCDだけのために録音を行ったものです。その合唱団を指揮しているのが、作曲者のチルコット自身というのですから、すごいですね。もっとすごいのは、その録音のプロデューサー兼エンジニアが、あのジョン・ラッターなんですよ。実際、ラッターはちゃんとした「市販」CDでも、よくプロデューサーや、そしてエンジニアとしてもクレジットされていますから、驚くことはありませんが、まあ、それだけしっかりした体制で作られたCDなのだということでしょう。
ただ、合唱団は「オクスフォード・クワイァ」という名前からも分かるように、この録音のために出版社が作った、いわば「寄せ集め」のメンバーによるものなのでしょう。もっとも、それぞれのメンバーは、おそらくイギリスの他の合唱団で活躍している人たちなのでしょうから、その実力には問題はないはずです。
チルコットに関しては、以前のアルバムを聴いた時にその作品のおおよその傾向を知ることが出来ました。今回おそらくそれ以降に作られた「新しい」作品を聴いてみても、その印象は大きく変わることはありませんでした。2010年に初演されて、楽譜ももちろんOUPから出版されている大作、「レクイエム」から「Thou knowest, Lord」という曲を聴くことが出来ますが、これを聴く限りでは「レクイエム」全体では、おそらく同じ出版社から出ているラッターの「レクイエム」より、さらに「聴きやすい」曲に仕上がっているのでは、という気がします。既に日本でも実際に演奏されているようですので、いずれは全曲の録音が出ることでしょうが、過度の期待は慎むべきでしょうね。
興味深いのは、「日本のメロディ」を編曲したものを集めた曲集から、3曲ほどが聴けることです。「砂山」あたりは、カノン風のア・カペラで、ちょっと敬虔な味が出ていますが、「村祭り」や「朧月夜」はピアノ伴奏が入ってごくありきたりの編曲にとどまっています。歌詞が英語というのも微妙ですね(「どんどんひゃらら」というところだけ日本語)。日本の合唱団が歌う時には、そのまま英語で歌うのでしょうか。日本語に「訳して」歌ったりして。「村祭り」はドイツ語でもいいですね。In diesen heil'gen Hallenという歌詞ですよ。分かります?
合唱は、期待していたほどではなく、同じ「寄せ集め」でもウィテカーが作った合唱団には遠く及ばないものでした。それと、ラッターの録音が意外といい加減なんですね。フォルテシモではことごとく音がひずんでいますし。
ちなみに、このプレゼントはもう定員に達したようですね。

CD Artwork © Oxford University Press

10月2日

MESSIAEN
Fète des Belles Eaux
Ensemble d'Ondes de Montréal
Louise Bessette(Pf)
ATMA/ACD2 2621


モーリス・マルトノが作った電子楽器、「オンド・マルトノ」の実物を「見る」ことが出来たのは、おととしの今頃でした。

その時に、この楽器の恐るべき正体を知ることになったのです。なんと、いくつかあるスピーカーのうちの最も手前のものには、「ドラ」が仕込んであるのですね。電子回路によって作られた音は、最終段階でその「ドラ」と共鳴するという、なんともアナログな過程を経て、独特の音を出していたのです。それは、「電子楽器」とは言っても、あくまで自然の音響との調和を考えていた「アコースティック」な楽器であることを、その時再確認したのでした。
決してピアノやオルガンのように誰にでも知られている楽器ではありませんが、今でも細々と製造は続けられており、専門の演奏家もそれなりに育っています。特に、メシアンの作品には「トゥランガリーラ交響曲」や「アシジの聖フランチェスコ」といった、大々的にこの楽器をフィーチャーした「クラシックス」がありますので、これらの曲を将来も演奏するためだけでも、その存在は欠かせません。
そのメシアンは、なんとオンド・マルトノを一挙に6台も使うというとてつもない曲を作っていました。なんでも、1937年にパリで開催された万博のときに、会場で噴水と花火を合体させたというイベントが行われたそうで、それのBGMとして、主催者が当時のフランスを代表するミヨーやイベールといった20人の作曲家に新しい曲を委嘱したのだそうですね。その作曲家たちは、それぞれオーケストラや合唱、室内楽など、全く自由な編成で曲を提供したのですが、そこでメシアンが世に問うたのが、こんな珍しい編成だったのです。
「美しき水の祭典」というこの曲、なんせ6台のオンド・マルトノと6人のオンド・マルトノ奏者を揃えなければなりませんから、なかなか演奏の機会はないのでしょうね。録音も、今まではメシアンとは縁の深いジャンヌ・ロリオ(メシアンの義妹)を中心としたアンサンブルのものしかなかったはずです。お弟子さんを集めての演奏なのでしょう、ロリオ以外のメンバーは全て異なる、たぶん3種類の録音が、ADÈS(1967)ERATO(1982)、そしてREM(1996)から出ていました。最後のものだけ、手元にありました。

  (REM 311306)
そして、今回のCDは、この楽器が初めて人前で演奏されてから80年という記念の年である2008年に、カナダの演奏家によって録音されたものです。なんせ、こんな不確定な要素の多い楽器ですから、ロリオ盤とはかなり異なる演奏を楽しめますよ。
曲は、「花火」と「噴水」とに合わせて作られた8つの部分が切れ目なく続きます。「花火」はリズミックで色彩的、「水」は瞑想的というわかりやすさは、この作品の目的を考えれば、当然のことでしょう。しかし、4曲目の「水」になったときには、その音楽があまりに聴き慣れたものであることに、驚かされるはずです。それは、この3年後に作られることになる「時の終わりのための四重奏曲」の第5曲目、「イエズスの永遠性に対する頌歌」というタイトルの、チェロの息の長いフレーズをピアノが支えるという静かな曲と全く同じものなのですね。さらに、6曲目では、同じフレーズに、別の楽器がまるで滝のきらめきのような飾りを付け加えてくれます。ロリオ盤に比べると、メリハリのはっきりした、気持ちのよい演奏です。
カップリングで、ラヴェルの弦楽四重奏曲を4台のオンド・マルトノで演奏したものが入っています。マルトノは、そもそもチェロの音色に似せてこの楽器を作ったと言いますから、こんな自然なトランスクリプションもありません。もしかしたら、ラヴェルの「なよなよ」感には、まさにぴったりの温度を持っているのではないでしょうか。メシアンとはまた違った、この楽器の粋な魅力を、存分に味わうことが出来ます。

CD Artwork © Disques Atma Inc.

9月30日

FAURÉ
Requiem
Sunhae Im(Sop)
Konrad Jarnot(Bar)
Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchener Kammerorchester
SONY/88697911082


Philippe Jaroussky(CT)
Matthias Goerne(Bar)
Paavo Järvi/
Choeur de l'Orchestre de Paris
Orchestre de Paris
VIRGIN/0 88470 2


半世紀前のリイシュー盤に続いて、ともに2011年の2月に録音が行われたフォーレの「レクイエム」が、ほぼ同時にリリースされました。この前も新録音が出たばかり、ちょっとしたラッシュに、追いかける方も大変です。
ミュンヘンで録音されたダイクストラ盤は、本当にお久しぶりの「第2稿ラッター版」です。この楽譜による演奏、録音はしばらくなかったーものの、合唱団のコンサートではしっかり利用頻度が上がっているという印象が強くなっていませんか?まあ、オケの人数が少なくて済むという利点が買われているのでしょう。同じ第2稿でも、「ネクトゥー・ドラージュ版」は、あまりにも今までのものと違いすぎて、アマチュアには馴染めないのかもしれませんね。
ダイクストラの指揮するバイエルン放送合唱団は、もちろんアマチュアではなくプロの合唱団ですが、なにかひたむきさのようなものが決定的に不足しているように感じられるのはなぜでしょう。クリュイタンスを聴いたばかりなのでその様に感じるのかもしれませんが、一つ一つのフレーズがあまりに安直に流れてしまっているのが、とても残念な気がします。せっかく力のある人が集まっているのですから、もうちょっとアマチュアっぽい真摯さでていねいに仕上げて欲しかった、と。
そんな風に感じられるのは、ダイクストラがとったテンポがあまりに速すぎるからなのかもしれません。「In Paradisum」などは、ちょっと入っていけないほどの速さです。いかに身軽な版だとは言っても、これではやりすぎ。「Sanctus」でも、せっかくのヴァイオリン・ソロがとてもせわしない、チマチマしたものになってしまっていますし。
そんな中で、ソリストたちがちょっと大げさすぎる身振りなのも、全体のバランスを欠くものでした。ジャーノットはドラマティック過ぎますし、スンヘ・イムも、やはりオペラの人、この稿の求める「Pie Jesu」のキャラではありません。
カップリングは、プーランクの「悔悟節のための4つのモテット」、フランス風の粋なハーモニーがなにか決まらないのは、ドイツ人が歌っているからなのでしょうか。いや、長三和音すらきちんとハモれていないのですから、もう少し根は深いのかもしれません。

同じ頃にパリのサル・プレイエルでライブ録音を行ったヤルヴィは、パリ管を指揮しての「第3稿」です。つまり、クリュイタンスから半世紀経っての、(ほぼ)同じオーケストラによる録音ということになります。合唱は、オケ付属の合唱団。もしかしたらアマチュアなのでは、と思えるほど、技術的には拙いのですが、不思議とそこからは「フォーレ」が感じられるのですから面白いものです。おそらくフランス人の「血」のようなものが、この曲には必要なのかもしれません。
このCDでは、「Pie Jesu」がカウンター・テナーによって歌われています。ボーイ・ソプラノというのは今までにもありましたが、カウンター・テナーを聴くのは初めてです。ただ、ここで歌っているジャルスキーは、ちょっとクセのある声のようで、Gから下の音が全く別の響きになっていてちょっとブキミ。惜しいところです。
バリトンのゲルネは、それこそクリュイタンス盤のフィッシャー・ディースカウを思わせるような落ち着きのある、それでいてパッションも伝わってくる素晴らしい演奏です。なぜか、このソロだけはフランス風のなよなよとしたバリトンは似合いません。
こちらのカップリングは、フォーレのオーケストラ伴奏の合唱曲。定番の「ラシーヌ賛歌」などに混じって、これが世界初録音となる詩篇137をテキストにした「バビロン川のほとり」という珍しい曲が聴けます。バッハのコラール風に始まって、途中からはソロも加わり盛り上がるという、ちょっとしたオラトリオのような曲でした。

CD Artwork © Sony Music Entertainment, EMI Records Ltd

9月28日

FAURÉ
Requiem
Victoria De Los Angeles(Sop)
Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
André Cluytens/
Choeurs Elisabeth Brasseur
Orchestre de la Société des Concerts du Concervatoire
ESOTERIC/ESSE-90055(hybrid SACD)


1962年に録音された永遠の名盤、クリュイタンス指揮のフォーレの「レクイエム」がついにSACD化されました。しかも、望みうる最高のマスタリングで。
このアルバムは、LP時代から愛聴していたもので、確かに愛着のたっぷり詰まった録音でした。しかし、この曲を巡る状況は、現在ではその頃とは大きく変わってしまいました。クリュイタンスが録音した当時は、当然この曲の楽譜は「第3稿」と呼ばれるフルサイズのオーケストラ(実際は、木管楽器などは出番が1曲しかないという不思議なオーケストレーションなのですが)のものしかありませんでした。しかし、その後、これは出版社の要請で仕方なく作った編成、しかもフォーレ自身の手によるものではないことも分かってきて、本来の小さな編成の演奏の試みが広く行われるようになってくると、どうしてもその重っ苦しさが鬱陶しく感じられてしまい、次第に聴くこともなくなっていきました。
でも、やはり手元に置いておいて、なにかの時には聴くべきものだ、との意識は残っていたのでしょう、LPはとっくの昔に手放してしまったので、とりあえずCD化されたものを入手してみました。1998年の「ARTマスタリング」盤です。

しかし、これで聴き直してみても、やはり古めかしい演奏にしか聴こえませんでした。合唱のレベルが、とても今の感覚では鑑賞に堪えられないのですね。
そして、今回のSACDの登場です。マスタリングはもちろん杉本さんです。ケースを開けると、薄っぺらな紙が入っていて、そこにはプロデューサーの大間知さんの、「オリジナルテープにあったヒスノイズは、あえて除去しませんでした」というようなコメントがありました。そもそも、杉本さんのマスタリングでは安直にヒスノイズをカットしてだらしのない音に変えてしまうようなことはしていなかったはずなので、何を今さら、という感じだったのですが、さっきの「ART」と聴き比べてみると、その意味が分かりました。「ART」では、ものの見事にヒスノイズがなくなっているのですね。そして、その代償として、オケも合唱も、なんとも薄っぺらな音になってしまっているのですよ。例えば、「In Paradisum」に現れる、第3稿の最大の特徴であるヴァイオリンの輝かしい煌めきが、このSACDでは神々しいほどに広がって聴こえてくるというのに、「ART」のCDではなんの高ぶりも感じることの出来ない平凡な音に変わってしまっているのです。
そんな、言ってみれば、録音された音の生命を保つためには、「邪魔」なノイズまできっちりと残すという「攻め」に徹したマスタリングの結果、このSACDでは、EMIによってCD化された時に失われてしまった「生命」が、見事に蘇っているのですよ。合唱などは、CDではただのヘタな合唱にしか聴こえなかったものが、ここでは、メンバー一人一人がそれぞれの思いで「祈り」を込めて歌っていることが良く分かるのです。そんな、てんでバラバラな歌い方で、方向が一つにまとまっていない合唱なんて、現代の合唱界ではまず顧みられることはない、アンサンブルとしては不完全なものなのかもしれませんが、現実にそんな「ヘテロ」としての訴えかけが持つとてつもない力を体験してしまうと、これは確かにものすごいもののように思えてきます。
録音の時にはまだ30代だったフィッシャー・ディースカウですが、このSACDではその完璧な声のコントロールぶりをまざまざと体験できます。音色やダイナミックスを、ものすごい精度で制御、しかも、そこには確かな情感も込めるというのですから、まさに神業、こんな凄さも、CDではまず味わえません。
ただ、ロス・アンヘレスは、逆に、そのマスタリングによって、現在では到底この曲のソプラノとしては受け入れられないものになっていることを再確認です。
録音会場の外を走る車の音までも、なんとリアルに聴こえることでしょう。

SACD Artwork © Esoteric Company

9月26日

Hooked on Classics
Louis Clark/
The Royal Philharmonic Orchestra
DELTA/60378


1980年代初頭に一世を風靡した「フックト・オン・クラシックス」のシリーズが、なんだか得体の知れないイギリスのレーベルから3枚組のボックスとしてリリースされました。ジャケットはオリジナルとは似ても似つかないデザインですが、3枚まとめてたったの1000円というので、買ってみましたよ。実は、かつてこれらの曲をまともに聴いたことはなかったものですから。
それにしても、このジャケット、例の、ト音記号の先が釣り針(フック!)になっているという印象的なイラストが再現されていないのは残念ですし、なんだか「五線」ではなく「六線」になっているのが、非常に気になります。ま、その程度の志なのでしょう。そもそも、肝心の指揮者の名前すら、ここにはありませんからね。
そんなかわいそうな扱いを受けている1947年生まれの指揮者、アレンジャーのルイス・クラークは、ジェフ・リンの「ELO」のストリングス・アレンジャーとして1974年にこの業界にデビュー、後には、ELOのツアーにもキーボードのメンバーとして参加しています。1981年に、クラシックの名曲をディスコ・ビートに乗せてエンドレスで演奏する、というアイディアで、彼自身がロイヤル・フィルを指揮して録音した「Hooked on Classics」というアルバム(LP)は、たちまちUKのヒット・チャートを躍り上がり、クラシックにはあるまじきセールスを記録することになりました。まあ、正確には「クラシック」は単なる素材だったので、「クラシックのアルバム」とは言えないのですが、「クラシック」がらみでそんなに売れてしまったのは、一つの「事件」だったわけですね。それに味を占めて、同じメンバーによって1982年には「Hooked on Classics 2」(後に「Can't Stop the Classics」)、そして1983年には「Hooked on Classics 3」(後に「Journey through the Classics」)という、全く同じコンセプトのアルバムがリリースされ、いずれも大ヒットとなりました。
クラークが関わったのはその3枚だけですが、そのあとは、よくあるような他のアーティストによる「便乗」アルバムが続出することになりますね。そんなわけで、この「フックト・オン」シリーズは、いったいどのぐらいのエピゴーネンを生んだのか、その実態を正確に把握するのは困難です。
この「フックト・オン」という言葉は、「引っかける」ということで、次々と色々な曲を連続して演奏するという意味を持たせているのでしょうが、最近になって、もうちょっと別な意味もあるのではないか、と思うようになりました。ポップスでは、例えば山口百恵の「♪ああ〜、日本のどこかに」(いい日旅立ち)のように、曲の中で最も盛り上がる部分のことを「サビ」といいますが、「フック」には、この「サビ」と全く同じ意味があるのですね。つまり、このタイトルは、単に曲をつなぐだけではなく、その曲のまさに一番の聴かせどころがつながれている、という意味までが、込められているのではないでしょうか。
ジャケットはちょっとヘンですが、とりあえずここでは3枚のアルバムがきちんと3枚のCDに再現されています。それによって、リリースされてから30年も経って、初めてクラークの仕事に対峙することになりました。高音を強調した、いかにもポップス寄りのサウンドには、ちょっと引いてしまいますが、この、全く脈絡のない曲をつなぐというやり方には、とても潔い爽快感を味わうことが出来ました。というより、これを聴いて、思わずピーター・シックリーの「P.D.Q.バッハ」を思い浮かべてしまったのは、なぜなのでしょう。「本家」よりもアレンジはかっこいいし、演奏もしっかりしている分、「笑い」もより充実したものに感じられてしまいましたよ。
「曲名あてクイズ」として遊ぶのにも、これはもってこい。でも、難易度はかなり低いですね。このサイトを見ているような人だったら、簡単に全部分かってしまうはずですよ。

CD Artwork © Delta Leisure Group Plc.

おとといのおやぢに会える、か。


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