余はね、痔なんです。.... 佐久間學

(09/3/28-09/4/15)


4月15日

BRUCKNER
Sinfonie IV(Original Version from 1874)
Marcus Bosch/
Sinfonieorchester Aachen
COVIELLO/COV 30814(hybrid SACD)


ブルックナーの交響曲に於ける「第1稿」の、最近の隆盛ぶりは、いったいどうしたことでしょう。「4番」に関しては、このSACDはついこの間ご紹介したケント盤よりも実は前にリリースされていたのですが、現時点での最新の録音、2008年6月にアーヘンの聖ニコラウス教会で行われたライブです。こちらによれば、2007年4月以降に録音された4つのアイテムは今のところすべて「第1稿」、こうなってくると、ただの偶然では済まされない事態です。ついに第1稿の時代がやってきたのでしょうか。少なくとも、今までのように本当にマニアックな指揮者しか取り上げないマイナーなバージョン、というイメージからは脱却して、「4番」の選択肢としてごく自然に取り上げられるようになった、という段階には確実に達しているのだ、とは言えるのではないでしょうか。
ここで指揮をしているのは1969年生まれの若手、マルクス・ボッシュです。彼は、すでに自分が音楽総監督を務めているこのアーヘン交響楽団とともに、6年前からブルックナーのツィクルスを手がけており、これがすでに6枚目となるのですが、2006年に録音した「3番」でも第1稿で演奏していましたね。やはり、マニアック?
オーケストラは、ドイツ最古のオーケストラの一つ、コンサート時は「アーヘン交響楽団」と呼ばれますが、同時に、「アーヘン歌劇場」のピットにも入っています。そこで思い起こされるのは、あのカラヤンがキャリアのスタート地点で手にしたポストではないでしょうか。そう、歴史はあるけれど、そんなスター指揮者の下積み時代を支えたオケ、ぐらいの認識しか、現在のこのオーケストラに対してはあーへん。ボッシュの治世になって果たして「今」の時代での知名度は上がるのでしょうか。
このブルックナー・ツィクルスは、全て教会での録音だということです。その写真がライナーにありますが、それを見ると弦楽器はかなり少ないように見えます。それでも、演奏している祭壇はぎゅうぎゅう詰めの感じ。実は、ライナーにはメンバー表も載っています。それによるとファースト・ヴァイオリンが12人で、コントラバスが6人ですから、確かにこれは最近のブルックナーの演奏としてはかなり少なめな人数です。
それでも、録音のせいでしょうか、トゥッティでは弦楽器が少なくて物足りないという感じはあまりありません。ただ、残響があまりコントロール出来ていないのか、冒頭のホルン・ソロなどは恐ろしく遠くの方から聞こえてくるような感じがありました。それと、後ろで演奏しているコントラバスのピチカートなどは、残響のせいでなにか存在感が希薄になってしまっています。当然、ゲネラル・パウゼでの残響はものすごいもの、完全に減衰する前に次の小節を始めないと、いくらなんでも間延びしてしまうほどです。
そんなアコースティックスの中で、ボッシュは努めて軽快で明るい音楽を目指していたのではないでしょうか。第1楽章のさっきのホルンに続いての木管のテーマ、そしてそのあとにすぐ金管が入ってくるというこのバージョン独特の形では、そんな「明るさ」が全開になっています。ですから、テンポも軽快、第2楽章などはあまりにもさっぱりしすぎて物足りない面もあるかもしれませんね。
しかし、この軽快さは第3楽章では大いに効果的。金管のエネルギッシュなたたみかけは圧倒的な力となって迫ってきます。ただ、トリオになると、弦楽器の少なさがもろに現れてしまって、ちょっと物足りません。さっきのコントラバスのピチカートのサウンドの弱いのが、この部分、しっかり聞こえてきて欲しいのに、残響に邪魔されてしまっています。
リズム的には曖昧なところが全くないため、第4楽章はまるでギーレン盤のような精密さが実現出来ています。エンディングでの「モアレ効果」を、こんなにはっきり味わえたのも久しぶり。

SACD Artwork © Coviello Classics

4月13日

OHANA
Works for Harpsichord
Elisabeth Chojnacha(Cem)
Arturo Tamayo/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/IC1161


1913年に生まれ、1992年に亡くなったモーリス・オアナという往年のバンドマスターのような名前(それは、「スマイリー・オハラ」)を持つ人のように、殆ど知られていないフランスの作曲家の作品を集中してリリースしているのが、このレーベルです。全部で5枚ほど出ていますが、そのうちのチェンバロのための作品だけを集めたアルバムが再リリースされました。チェンバロ曲はもう1つ他のアルバムに入っているのですが、それでおそらくオアナのこの楽器のためのすべての作品が網羅されているのでしょう。このアルバムの中の「Miroir de Célestine(セレスティーヌの鏡)」という、1990年にホイナツカとシルヴィア・グァルダによって初演されたチェンバロと打楽器のための作品は、これが世界初録音となります。
アルバムタイトルは「ハープシコード(チェンバロ)のための作品集」となっていますが、これに関しては注釈が必要です。ここで使われている楽器は正確には「モダンチェンバロ」と呼ばれるべき楽器です。それは、19世紀末期に誕生した「新しい」、つまり、それまでの楽器の歴史の中では一度も登場したことのない楽器なのです。確かに「チェンバロ」という、その時点で完全に絶滅していた似たような楽器はありました。しかし「モダンチェンバロ」は、その「チェンバロ」と同じ発音原理は持っていても、素材は全く別のもの、したがって出てくる音も、奏でられる音楽も全く異なる別の楽器だったのです。
20世紀後半に、「チェンバロ」を正確に復元した楽器「ヒストリカルチェンバロ」が作られるようになり、その楽器が奏でていた音楽の真の姿が明らかになるに伴い、「モダンチェンバロ」は急速に忘れ去られていきます。これは、歴史の流れからは非常に興味深いことです。かつてチェンバロがピアノの発明によって衰退、絶滅の道をたどったように、歴史というものは普通「より発展」したものへと向かいがち、しかしここでは発展形であったはずのモダンチェンバロが、「未発展」のヒストリカルチェンバロによって駆逐されてしまったのですからね。
不幸なことにチェンバロは、ヴァイオリンやフルートのような他の楽器のように「モダン」と「ヒストリカル」(つまり「オリジナル楽器」)がそれぞれの専門の奏者によって棲み分けが図られるという事態にはなりませんでした。「モダン」は、チェンバロにはあるまじき異端の楽器として、ほぼ完璧に抹殺されてしまったのです。
バロックのレパートリーに関しては、それは全く正しい淘汰でした。大きな音を出すことのみが「発展」だと考えた先人の醜さは、先日のメンゲルベルクの「マタイ」を聴けば誰しも納得出来ることでしょう。しかし、チェンバロといえば「モダン」しかなかった100年の間に、この楽器のために作られた作品というものも、現実には存在しています。例えばプーランクの「田園のコンセール」などは、まさにオーケストラとも拮抗出来る力を持ったモダンチェンバロを想定して作られた作品ですから、これをヒストリカルチェンバロで演奏することは愚行以外の何者でもありません。
もちろん、オアナの作品も全てモダンチェンバロのために作られたものです。先ほどの「セレスティーナの鏡」などは、大音響の打楽器と対等に渡り合っている強靱なピアノ線の魅力が満載の曲、ヒストリカルではなんの価値も見いだせないことでしょう。しかし、まさに絶滅の危機に瀕している「モダン」の未来はもはや風前の灯火、オアナからも多くの作品を献呈されたホイナツカは、その最後の演奏家になってしまうのかもしれません。ただ、以前も書いたように彼女のリズム的なセンスはかなり危なっかしいものがあります。このアルバムの中でも「So Tango(これほどタンゴ)」などは悲惨そのもの、将来そんな彼女の演奏しか残らないのだとしたら、それはあまりにも残念なことです。

CD Artwork © Timpani

4月11日

VIVALDI
Bellezza Crudel
Tone Wik(Sop)
Barokkanerne
2L/2L56(hybrid SACD)


オリジナル楽器のフィールドで幅広く活躍しているノルウェーのソプラノ、トゥーネ・ヴィークの、このレーベルでの2枚目のソロアルバムです。今回は、ノルウェーで最初に作られたというオリジナル楽器の団体、「バロッカネルネ」との共演で、ヴィヴァルディの「カンタータ」集です。4曲のカンタータの間に、ファゴット協奏曲とフルート(アルト・リコーダー)協奏曲が演奏されるという趣向です。
「カンタータ」とは言っても、バッハの曲のように教会で演奏されたものではありません。ヴィヴァルディの場合はもっと世俗的、宮廷やホールで演奏された、言ってみればコンパクトなオペラのようなものになっています。ここで聴くことの出来る4曲には序曲も何もなく、ソプラノによるレシタティーヴォとアリアが、そのすべてです。テキストの内容も愛の喜びやはかなさ、あるいは苦しみを歌ったもので、アルバムタイトルも「All'ombra di sospetto(疑惑の陰に)」というカンタータの最後の言葉「むごい美しさよ」から取られています。美しいことは罪なのですね。
ヴィークの写真がブックレットにありますが、それもとても美しいものでした。もはや美しさの頂点(ピーク)は超えたお年頃なのでしょうが、そのブロンドの髪や涼しげな目の中には、確かにかつてさらに美しかった頃の面影がそのままに残っています。
超優秀な録音が売り物のこのレーベル、そのヴィークの声はかなり高い音圧で迫ってきて驚かされます。一瞬ひるんでしまいますが、それはとてもくっきりとした音のかたまり、しばらく聴いているうちにその高い密度が、直接心の中に語りかけてくるような存在感として伝わってくるようになります。彼女の声は、オリジナルのヴァイオリンなどと良く溶け合う、とても素直なものでした。あのエマ・カークビーとは違って、若かりし頃の声は、その美しい容姿とともにほとんど衰えることなく今も維持出来ている、というのが幸せなことです。
ですから、なによりも、ヴィヴァルディ特有の、無機的なスケールなどのような楽器の音型をそのまま声に置き換えることを要求されるという、ほとんど無茶とも思える歌い方を、こともなげにクリアしているのが素敵です。特にアップテンポのナンバーでの軽快感は、感動すらおぼえます。
そして、スローバラードでも、ヴィークはしっとりとした歌を聞かせてくれます。「La farfalletta s'aggira al lume(小さな蝶は光の中をさまよい)」という、通奏低音だけの伴奏によるカンタータの最後のアリア「Vedlò con nero velo(黒いヴェールを見るだろう)」などはその白眉、低音パートとの掛け合いになる下降スケールの正確なイントネーションと相まって、確かな情感が伝わってきます。この曲でのチェンバロのリアルな録音も聴きもの。
協奏曲でもその録音は際立っています。ペール・ハンニスダールがソロをとっているファゴット協奏曲では、バロック時代のファゴットの乾いた軽やかな音がとても魅力的に迫ってきますよ。モダンのファゴットが持っているちょっと押しつけがましいキャラは、そこからは全く感じることは出来ません。これでこそ、とても細かいアルペジオなどから、ヴィヴァルディの持ち味が存分に味わえようというものです。
バロック時代、「フルート」といえば「縦笛」の楽器、つまりリコーダーのことを指しました(だから、「横笛」はわざわざ「フラウト・トラヴェルソ(横のフルート)」と呼びました)。ここでその協奏曲を吹いているアレクサンドラ・オプサールも、目まぐるしいタンギングで鮮やかなヴィヴァルディを聞かせてくれます。
実は、さっきのタイトルの歌詞のあるカンタータにも、こちらはフラウト・トラヴェルソのオブリガートが入っています。トルン・キルビー・トルボというそのトラヴェルソ奏者は、かなり艶っぽい奏法でヴィークの歌を盛り上げています。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

4月9日

BACH
St. Matthew Passion
Jo Vincent(Sop), Ilona Durigo(Alt)
Karl Erb, Luis van Tulder(Ten)
Willem Ravelli, Herman Schey(Bas)
Willem Mengelberg/
Amsterdam Toonkunst Choir, Concertgebouw Orchestra
OPUS KURA/OPK 7021-3


メンゲルベルクの「マタイ」といえば、この曲の決定的な名演として、特にお年を召した方の間では人気があります。「自分にとって最高の『マタイ』」みたいなコメントを公にしてはばからない人はそこら中にいるのではないでしょうか。しかし、まあなんと言っても録音されたのが1939年といいますから、まだSPの時代です。派手なサーフィス・ノイズの彼方から聞こえてくる「マタイ」を聴いても果たして演奏の本質が伝わってくるのかは疑問ですから、まあ一生聴くことはないだろうな、と思っていました。しかし、SP復刻のCDに関してはなかなか評判の高い「オーパス蔵」が、レーベル創設10周年ということでこの5000円近くする3枚組のCDをなんと1000円という破格の値段で売り出してくらたものですから、まあ手元に置いておくのもいいかな、と買ってしまいました。
ライナーノーツによると、この録音はもちろんSPで出たものなのですが、そのマスターが普通のアセテートのディスクではなく、フィルムが使われていたというのですね。そして、おそらくそのフィルムからトランスファーされたPHILIPSの初期LPを使って、このCDは作られたそうなのです。
他の音源を聴いたことはありませんから、これが果たしてどの程度のクオリティ持っているのかは分かりませんが、試しに聴いてみた最初の部分は、想像していたものよりはるかにクリアな音でした。ノイズは殆ど気になりませんし、ダイナミック・レンジもなかなかのものです。録音年代を考えたら、これはある意味驚異的な録音、これでしたらメンゲルベルクの音楽がストレートに味わえるはずです。もうすぐ復活祭、せっかくですので全部聴いてみましょう。
確かに、これはものすごい演奏でした。それは、明らかに20世紀前半という時代の様式というか、趣味を全面的に反映したものではあることが良く分かります。その時代にあっては何よりも指揮者の主観がなんの規則にも縛られずおおっぴらに解放されることが許されていたのでしょう。このCDでは、それこそ、メンゲルベルクの心の中に沸々とわき上がっているまさに「パッション」が、もしかしたら音楽の根元的な約束事さえも無視させるほどの力を持って発散されている様を、つぶさに味わうことが出来てしまったのです。その「約束事」の一つは、音楽のビート感。もちろん、定められた時間軸の中で単調に刻まれるビートほど退屈なものはありません。そこを適度に伸び縮みさせるのが演奏家の仕事になるわけですが、メンゲルベルクの場合にはその許容量を大きく振り切ってしまうというのが、芸風のツボなのでしょうね。その結果、音楽の流れは時にせき止められてあふれかえり、そこからとてつもなくエネルギッシュな奔流が聴き手を襲うことになるのです。
そんな音楽が、心地よいわけはありません。第1部が終わったところでぐったり疲れ果ててしまいましたよ。一休みして気を取り直し、今度はかなりカットが施された第2部を聴き終わります。ライナーには高名な宇野先生が寄稿されていますが、その中で「『マタイ』全曲のコンサートをカットなしで聴くときの苦痛はもはや拷問に近く、指揮者の常識を疑う」などと、罪のない暴言を吐かれています。確かに、こんな演奏を聴かされれば、そうも思いたくなるかもしれませんね。
しかし、こんな、ぶざまに心情をさらけ出した演奏が許されたのが、あの時代だったのです。レシタティーヴォの間に聞こえてくるまるで冗談のようなモダンチェンバロの強靱なアコード、この演奏に涙する人がもしいたとすれば、彼の心の琴線が触れたのは、バッハの音楽ではなく、メンゲルベルクその人の「芸」だったのではないでしょうか。
カップリングでチャイコフスキーの「悲愴」も入っているのですが、それを聴くだけの勇気は今のところはありません。

CD Artwork © Opus KURA

4月7日

MAHLER
Symphony No.8
澤畑恵美、大倉由紀枝、半田美和子(Sop)
竹本節子、手嶋眞佐子(MS)、福井敬(Ten)
河野克典(Bar)、成田眞(Bas)
Eliahu Inbal/
晋友会合唱団、東京都交響楽団
EXTON/OVCL-00379(hybrid SACD)


インバルが東京都響の首席指揮者に就任したことを記念しての「お披露目コンサート」が、昨年の4月に行われました。それは、3日連続でマーラーの8番「千人の交響曲」を演奏するというハードなもので、居眠りする人もいたそうです(それは「お昼寝コンサート」)。3日間それぞれの会場がみんな違っていた、というのも面白いところです。初日の28日は上野の東京文化会館、29日は川崎のミューザ川崎、そして30日は六本木のサントリー・ホールという、日本を代表する「大きな」コンサートホールが使われました。そのうちのサントリー・ホールのコンサートの模様は、NHKでも放送されましたね。
今回のSACDは、川崎でのライブ録音です(ただし、ジャケット写真は上野)。テレビで映像を見てしまったのですから、別にわざわざ音声だけのものを買うこともないような気もしたのですが、自称「録音の良さでは定評のある」レーベルですので、NHKの音と比較してみるのもいいかな、と。
確かに、「音」に関しては、かなりのこだわりが見られます。当然SACDなのですが、敢えてマルチチャンネルは入れないで、SACDのレイヤーをめいっぱい使って圧縮しないステレオのデータだけを収めてあるというのです(ということは、普通のSACDの信号には圧縮がかかっているのですね)。それを称して「High Quality SACD」というのだそうですが、なんだか最近流行の素材を吟味したCDという「High Quality CD」と混同しそうなネーミングですね。
それはともかく、やはりその音はNHKの音声とは比べものにならないぐらい素晴らしいものでした。一つ一つの楽器の音が立っていて、非常に存在感を持って迫ってきます。マスとしてのオーケストラの音も、このダイナミックレンジの異様に広いスコアを、見事に再現したメリハリのあるものです。ただ、バランスはあくまで会場のライブ感を優先したのでしょうか、テレビで見たときに気になった「瞑想の神父」役のバスの成田さんだけなにかオフ気味に聞こえていた感じは変わりませんでした。テノールの福井さんなどは必要以上に、それこそ、最後のソロ「Blicket auf」の前の息を吸う音まで聞こえるというのに(本体の歌は、かなり悲惨でしたね)。
演奏は、第1部での合唱が、ちょっと普通の「8番」で聴けるものとは次元の違う、しっかりとした表現力を持っているものでした。この合唱をテレビで見たときには、全員暗譜で歌っているのですごい、と思ったのですが、さすがに指揮者の動きに鋭く反応していることが良く分かります。
ですから、その水準が第2部でも維持出来ていれば、合唱に関してはこれまで聴いたことのなかったようなものすごいものが実現されていたはずでした。ところが、第2部冒頭の本当に繊細の極みのオーケストラに続いて歌われた男声合唱は、なんとも魅力に乏しいものでした。ここでぜひ表現して欲しい「神秘性」のようなものが、そこからは全く感じられないのです。期待が大きかっただけに、これは非常に残念なことでした。この第2部を通して、やはり聴かせて欲しいドラマ性も、なにか中途半端なところで終わってしまっています。
インバルは、いつものように、「声」を出して指揮をしています。その音はこの「優秀な」録音でつぶさに収録されて、正直かなり邪魔。しかし、ライブのステージでそんな「声」に煽られたオーケストラは、まさに信じがたいほどのテンションで、度肝を抜くような演奏を展開していました。ヴァイオリンの矢部達哉やチェロの古川展生のソロも狂気すら感じられる妖しさ、そこには、最初から最後まで、一時も緊張の糸が切れることない熱いマーラーの世界が広がっていたのです。合唱がそれに付いていけなかったことが、かえすがえすも悔やまれます。

SACD Artwork © Octavia Records Inc.

4月5日

Le Sacre Debussy-Stravinsky
Andreas Grau(Pf)
Götz Schumacher(Pf)
NEOS/NEOS 20805(hybrid SACD)


SACDのフォーマットは、DSDという、PCMとは異なるデジタル録音の方式によっています。しかし、それはあくまでSACDのためのマスタリング(オーサリング)の段階での話、元の録音は必ずしもDSDであるとは限りません。PCMもあり得ますし、もちろんアナログ録音もあります。しかし、実際にそこまでの表示が製品になされているかというと、それは極めて曖昧なものです。良心的なものはきちんとどんなフォーマットで録音したかということまで記載されていますが、明らかにPCM録音なのにDSDのロゴが入っていたりしますから、油断はなりません。おそらくそのロゴはSACDへの記録方式を表示してあるものであり(ですから、当然DSDとなります)、元の録音に関する記載ではないのでしょうね。
このSACDの場合は、きちんと「24bit/48kHz」で録音された、という表記がありますから、その点は正直です。つまり、普通のCD(16bit/44.1kHz)よりははるかに高いスペックで録音されているので、それをDSDにコンバートしても充分CDよりは高いクオリティが保証される、ということになります。もっとも、DSDと同等のクオリティを得ようとすれば、サンプリング周波数は、倍の96kHzまで必要になるのでしょうが。
そんな良心的(というか、それが本来の姿)なレーベルからの、ピアノ・デュオのアルバム、演奏しているのはなんと15歳と16歳の時からペアを組んでいて、すでに30年近くのキャリアが続いているというグラウとシュマッハーのコンビです。この2人の演奏、まさにデュオとしての理想的なものを作り上げているのでゅおないでしょうか。お互いの音は全く同質、まるで腕が4本ある一人の人間が弾いている、といったような驚異的なものがあります。その「4本」の腕が作り上げる完璧なタイミングを聴いていると、本当にそんな生き物がいるような気になってきませんか?(ちょっと気持ち悪いかも)
そんな、まさに同一人格化した二人の音色やタッチは、とてもまろやかで、ここで演奏されているドビュッシーや、そしてストラヴィンスキーが、とてもやさしいものに感じられます。
お目当ては、もちろん「春の祭典」です。そういうちょっとおとなしめのセンスで演奏される「春の祭典」の4手版は、しかし、オーケストラ版の荒々しさとは全く別物の、もっと作品のかたちがはっきり伝わってくるようなものでした。イントロ部分でのバスクラリネットやアルトフルートのように、オケの中ではほとんど聞こえてこないような、それでいてとても複雑なことをやっているパートがくっきりと一つの声部として聞こえてきます。トゥッティで激しく刻まれるパルスも、オケの量感よりは、リズムの確かさ、という面が際だって感じられます。
それと同時に、驚くことに、彼らの演奏では、オケで演奏した場合にはまずあり得ない「呼吸」の瞬間を味わうことも出来たのです。曲の最後近く、「祖先の儀式」の部分でアルトフルートによって延々と吹かれる単純なパターンでは、フルート奏者はオケ全体の流れを壊さないために何とかしてブレスをごまかそうと苦労しているのでしょうが、この4手の生き物は、そこに見事な「間」を設けて、生身の人間が演奏している音楽を見せてくれているのです。
そもそも、このバージョンはそもそもはバレエ・リュスでのリハーサルや、その前の振り付けのプランのために用意されたものでした。作曲者自身もコンサートで演奏することは想定してはいなかったものですから、最初に公開の場で演奏されたのは、作られてから50年以上も経った1967年のことでした。その「初演」を行ったマイケル・ティルソン・トーマスとラルフ・グリアソンの演奏を聴いてみると、同じ部分は実に生真面目な楽譜通りのものになっていました。それから何十年もかかって、やっとこのバージョンも「命」を持つようになったのでしょう。

SACD Artwork © NEOS Music GmbH

4月3日

KARG-ELERT
Das geistriche Chorwerk
Stefan Engels(Org)
Gregor Meyer/
GewandhausChor
Vocalconsort Leipzig
GENUIN/GEN 88130


ジークフリート・カルク・エラートというドイツの作曲家は、1877年に生まれて1933年に亡くなったといいますからマーラーの一世代あとの人、いわゆる「ロマン派」はもう殆ど終わりを迎えた頃に活躍していました。あまり馴染みのない名前でしょうが、フルート吹きにとっては、かなり難しい曲やエチュードを作った人、ということで認知されているはずです。フルート1本で演奏する「ソナタ・アパッショナータ」などは、リサイタルでは良く取り上げられる作品ですね。「バッハの街」ライプツィヒの音楽大学の教授を務めた人で、オルガン曲もたくさん作っているということです。ただ、作風がちょっと「人工的」なため、大学の同僚からは少し距離を置かれていた、などということが、ライナーには書かれていました。確かに、「ソナタ・アパッショナータ」はなんともつかみ所のない曲のような印象があります。なにしろこの顔ですからね。いかにも頭でっかちなつまらない曲しか書けないような人のように思えては来ませんか?
そんなカルク・エラートの宗教的な合唱曲を集めたアルバムです。買ってはみたものの、いったいどんなものなのか、果たして、最後まで退屈しないで聴いていられるのか、そんな不安がかるく脳裏をよぎります。なんせこの顔ですから。
確かに、ここで聴くことの出来る彼の作品は、かなりユニークなものでした。何よりも編成がとても変わっています。「受難カンツォーネ『キリストの埋葬』」という曲では、ソプラノ・ソロに合唱、そこにオルガンと、そしてコール・アングレの伴奏が付いています。いや、主役は声楽ではなくその「伴奏」の方だと思えるほど、そのオルガンとコール・アングレという不思議な組み合わせは強いインパクトを放っています。肝心のソプラノ・ソロは、殆どメロディらしいものは歌わせられませんし。しかし、ここで歌っている合唱はかなりの高水準のものを聴かせてくれています。何よりも、音色がとても渋く、ちょっと陰のある彼の作品にとても良くマッチしています。曲の構成もちょっとひねくれていて、オルガンのフルストップでアコードが響き渡ってそこで終わりだと思っていると、そのあとにピアニシモで合唱が延々と「アーメン」とか繰り返すのですが、そこの繊細な演奏はとても印象的です。
実は、この中の1曲だけは、以前にも聴いたことがありました。それは「レクイエム・エテルナム」という、8声から12声の混声合唱のためのア・カペラの作品です。前に聴いて時にはたぶん演奏のせいで殆ど印象に残らなかったのですが、今回はちょっとした戦慄が走るほどの体験を味わいました。おそらく、この合唱団の均質な響きが、この作品の真の価値を知らしめてくれたのでしょうか、それはまるで、クリトゥス・ゴットヴァルトが16声部の合唱のために編曲したマーラーの「私はこの世に捨てられて」(@リュッケルト)のようなテイストを持っているものでした。その中で、和声はマーラーよりもさらに精緻なきらめきを放っています。思いがけず、また一つ、好きな曲に出会えたな、という喜びを与えてもらえました。
もう一つ、最後に収められている有名な「主よ御許に近づかん」というコラール(「賛美歌」と言った方がいいのかも)を元にしたソリスト、合唱、オルガン、そしてフルートのためのカンツォーネも、素敵な曲でした。その演奏の前に、指揮者のマイヤーが編曲した原曲をア・カペラで聴かせてくれるのですが、それとセットで味わうと、この曲の魅力がさらに増す、という粋な計らいも加わっています。つまり、ここまで聴いてくると、カルク・エラートの作風にも次第に慣れてきて、それがついにはかけがえのない魅力につながってきた、ということなのでしょうか。人間、決して顔だけで判断してはいけません。

CD Artwork © GENUIN Musikproduktion, Leipzig

4月1日

知ってるようで知らない
「音楽コネタ」おもしろ雑学事典
瑞穂れい子著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-84451-1

数限りなく出版されている「雑学本」というか「トリビア本」の中には、もちろんクラシック音楽に関するものもあります。これもそんなものの一つ、もしかしたら、本当に初めて知るような新鮮な「ネタ」があるのかもしれない、と思って読んでみることにしました。
確かに、世の中にはまだまだ知らないことは多いものです。この本の中では、思わず「そうだったのか!」と膝を打つ様なことをいくつか発見することが出来ました。一番ウケたのは、「山田耕筰が名前の『作』を『筰』に変えたのは、頭がハゲていたからである。」というネタです。やはり偉くなる人は、こんな誰も知らないような字を使うものだな、と今までは思っていたのですが、実はこんなことだったとは。確かにこれは「作」の上に「ケ」が2本生えているというねたに(めったに)ない字ですね。
もう一つ、「ジョン・ケージの有名な『4分33秒』という曲名には、こんな意味がある。60(秒)×4(分)+33(秒)=273で、あらゆる物質が凍る絶対零度をあらわしている。」というものも、信憑性はともかく「なるほど」と思わせられるような説得力のある情報です。
しかし、そのうち「左利き用のヴァイオリンはない」などというネタが出てくると、その「信憑性」はかなり怪しげなものになってきます。そもそもヴァイオリン(あれっ、こちらのコメントにあるように、この出版社の刊行物の中では「ヴァイオリン」は「バイオリン」と表記しないといけなかったのでは)を顎と左肩の間に挟んで演奏するというスタイルはごく最近確立されたもので、その前は膝の上に立てて弾いていたりしたのですからね。実際に左腕に弓を持って演奏している人を、少人数のアンサンブルで見たことだってありますよ(オーケストラでは邪魔になりますからね)。
「現在のCDの収録可能時間では、クラシック曲のうち95%しか完全に録音できない。」というのも、なんだかなあ、という感じではないでしょうか。そもそも筆者の言う「収録可能時間」が「7442秒」というのがちょっと怪しげ、今では7958秒まで収録出来るのは「常識」です。しかし、それだけの「収録可能時間」であっても、「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍 1993年刊)の演奏時間に従えば、例えばマーラーの9曲の交響曲のうち、「完全に録音できる」ものは3曲しかないのですから、33.3%しかないことになりますね。ワーグナーの舞台作品にいたっては0%ですよ。
極めつけは、「ホルストは冥王星の存在を知らなかった。当然、『惑星』にも冥王星は入っていない」です。冥王星が「惑星」ではなくなってしまったことが大々的に騒がれたのはごく最近のことなのに、こんな間抜けなことを書くなんて。と思って、奥付をよくよく見てみたら、小さな字で「本書は、既刊のものをタイトルと装丁を変更して再発売したものです」と書いてあるではありませんか。なんと言うことでしょう。これは、さも新刊のような扱いですが、昔の本をただ新しく見せかけて出しただけのものだったのですよ。それ自体は悪いことではないのでしょうが、普通そういうときには中身も少しは見直すものなのではないでしょうかねえ。いや、確かに「ベンチャーズ」のところに、そんなことを匂わせるような不自然な文章はありましたが、このホルストにまでは目が届かなかったのでしょうね。それにしても、調べて分かった初版時(調べなくても分かるようにきちんと印刷しておくのが最低限のモラルだと思うのですが)にはすでにコリン・マシューズが作った「冥王星」があったのですから、そのぐらいは知らないと、「雑学家」の名が泣こうというものです。

Book Artwork © Yamaha Music Media Corporation

3月30日

BRUCKNER, DURUFLÉ
Requiem
Benoît Mernier(Org)
Guy Janssens/
Laudantes Consort
CYPRES/CYP1654


デュリュフレの「レクイエム」の新譜はもれなくチェックしていたはずなのに、この、ベルギーのCYPRESというレーベルから出ていたものは気が付きませんでした。というのも、このレーベルは日本の代理店が「国内盤」という扱いで販売していたため、通常の輸入盤のチェックでは引っかからなかったのですね。
このアルバムは、実は「レクイエムと7つの世紀」という4枚から成るシリーズのうちの1枚です。1枚目は15世紀のオケゲムと16世紀のラッスス、2枚目は17世紀のカンプラと18世紀のミヒャエル・ハイドン、そして、この3枚目が19世紀のブルックナーと20世紀のデュリュフレということになります。これから出る予定の21世紀のピエール・バルトロメーの世界初録音と合わせて、7つの世紀からそれぞれ1曲ずつの「レクイエム」を集めたアンソロジーが完成するのだそうです。21世紀の新作はともかく、18世紀や19世紀には、もっとメジャーな「レクイエム」があるのでは、などとは突っ込まないで下さい。これが「ポリシー」というものなのでしょうから。石油を入れておくやつですね(それは「ポリタンク」)。
ブルックナーの「レクイエム」などいうレアな曲が、「国内盤」でリリースされるのは、おそらくこれが初めてのことなのではないでしょうか。もっとも、輸入盤では1987年に録音された名盤、マシュー・ベストとコリドン・シンガーズのHYPERION盤がありましたね。それに比べると、今回のラウダンテス・コンソートの合唱も、そしてソリストたちも、かなり見劣りしてしまいます。なにしろ、合唱の歌い方がいかにも幼稚なのですよね。そこになまじオリジナル楽器のオーケストラが加わっているものですから、変に荒っぽい印象しか伝わっては来ません。
ところが、そんな合唱がデュリュフレになったとたん、なんとも素敵な味を出すようになっているのですから、ちょっとびっくりしてしまいました。幼稚だと思っていた歌い方が、なぜかこの曲のちょっと昔風のセンスに非常に良くマッチしていたのです。本当に、このデュリュフレの「レクイエム」というのは、なんとも不思議な曲だと、今さらながら思わずにはいられません。いくら、上手な合唱団がきちんと歌ったところで、その魅力が完全に伝えられるわけではなく、逆にいくらか危なっかしいような演奏の方がえもいわれぬ味を出していることがあったりするのですからね。
ついそんな風に感じてしまうのは、おそらくデュリュフレ自身の指揮による初録音(ERATO)を最初に聴いていたからなのでしょう。決して上手とは言えないそのフランスの合唱団は、しかし、この曲の魅力を決定づけるなにかをもっていたのでした。その「なにか」の一つが、もしかしたらフランス風のラテン語の発音だったのかもしれません。今回のベルギーの団体に同じような感触を見たのも、その発音が与える印象が強かったせいなのでしょう。
これはオルガン伴奏の「第2稿」による演奏です。しかし、「オルガン版」とは言っても、「Pie Jesu」には普通はチェロのソロが加わるのですが、ここにはそれはありません。さらに、その、メゾ・ソプラノのソロで歌われる曲が、ここでは合唱によって歌われています。もう一つ、バリトンソロが入る部分でも、そこはやはり合唱で歌われています。同じことをロバート・ショー(TELARC)がやっていましたが、その時はちょっと違和感があったものが、今回はすんなり聴けてしまったのは、そんなあまり上手ではない合唱のもたらす独特の雰囲気のせいだったのでしょう。
正直、最後の「In paradisum」で、オルガンの間奏の間に次のフレーズ「Chorus Angelorum」がどんな風に始まるのか想像していたら、まさにそれと同じものが聞こえてきたときの心の昂ぶりは、ちょっと味わえないほどの体験でした。こういうのも、やはり「感動」というのでしょうね。

CD Artwork © Kastafior

3月28日

MacMILLAN
St John Passion
Christopher Maltman(Bar)
Colin Davis/
London Symphony Chorus
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0671(hybrid SACD)


2008年の4月に行われたジェイムズ・マクミランの最新作、「ヨハネ受難曲」の初演のライブ録音です。2枚組、1時間半という長さの大作、現代の作品でこれだけの大きな「ヨハネ受難曲」といえば、2000年に作られたグバイドゥーリナの同名の曲以来なのではないでしょうか。ちなみにこのグバイドゥーリナの作品は、当初はロシア語のテキストに作曲されたものでしたが、2006年にドイツ語バージョンも作られ、2007年2月にはドレスデンで初演されました。同じ演奏家による、その1週間後のシュトゥットガルトでの再演の録音が出ています(HÄNSSLER/CD 98.289)。

グバイドゥーリナに比べれば、マクミランの作品は福音書にそのまま沿って作られていますから、物語の進行はバッハの曲のように分かりやすいものになっています。ただし、ここではそのテキストが英語という点が、スコットランドの作曲家としてのアイデンティティなのでしょう。ドイツ語などで慣れ親しんでいたものが英語で語られると、日本人にとってはなにか親密感がわいてきます。そんな物語を語るのはエヴァンゲリストのようなソリストではなく、合唱でした。ここでは、そのための合唱が2つ用意されています。一つは「ナレーション・コーラス」という15人編成のアンサンブル、看護師さんもいます(それは、「ナースステーション・コーラス」)。もう一つは「ラージ・コーラス」という、文字通り100人以上の大きな合唱です。この合唱はイエス以外のキャラクターのセリフや、群衆の叫び声を主に担当しています。そして、イエスだけはバリトンのソリストが割り当てられています。
作品の構成は大きく2つのパートに分かれていて、さらに前半の「第1部」は「イエスの逮捕」、「アンナスとカヤパの前のイエス、ペテロの否認」、「ピラトの前のイエス」、「イエスは死刑宣告を受ける」の4つの部分、後半の「第2部」は「磔」、「キリストの着衣は引き裂かれ」、「イエスと母親」、「叱責」、「イエスの死」という5つの部分のあとに、オーケストラだけの「Sanctus immortalis, miserere nobis(聖なる不滅のもの、彼らを哀れみ給え)」という曲が続きます。
ここで見られるマクミランの作風は、まさに多岐にわたっています。オーケストラは、今の作曲家が用いているあらゆる技法を駆使して、多彩な技で迫ってきます。今となっては懐かしいクラスターや、クセナキスの得意技のグリッサンド、そして、煌めくような打楽器と金管楽器の火花。そんな中で、「ナレーション・コーラス」の語りだけは、ちょっとケルトっぽい旋法で歌われ、不思議な情緒を醸し出しています。
もう一つの「ラージ・コーラス」は、その大人数を最大限に生かして、マクミランの過酷な要求に応えているようです。それこそ騒音に近いシュプレッヒ・シュティンメから、ルネッサンス的な三和音の世界まで、合唱のあらゆる表現をここでは試されている感があります。各曲の最後には、そんな合唱が主役になった、ここだけはラテン語の歌詞によるかなり長いまとまった音楽が用意されています。多少荒々しい、殺風景な流れの中にあって、この部分だけは時間が止まったような体験が与えられます。バッハの曲でのコラールやアリアの役割を、おそらくここが担っているのでしょう。なかでも、「イエスと母親」の最後に置かれた「Stabat Mater」は非常に美しいものでした。同じようにこの曲が一つのハイライトとなっているペンデレツキの名曲「ルカ受難曲」との相似性も、そこからは感じることは出来ないでしょうか。
この年に80歳を迎えたコリン・デイヴィスは、自分に捧げられたこの曲を渾身の力を振り絞って演奏しているように思えます。正直、この老紳士のどこにこんなエネルギーが潜んでいたのかと驚かされる、それは力に満ちたものでした。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra, Hänssler Verlag

おとといのおやぢに会える、か。


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