餃子、海苔弁当。.... 佐久間學

(07/12/4-07/12/22)

Blog Version


12月22日

ORFF
Carmina Burana
B. Fournier(Sop), M. Brodard(Bar), P. Sigrist(Ten)
亀田真弓,Jean-Jacque Balet(Pf)
Ensemble a percussion de Geneve
Bernard Heritier/
Choeur novantiqua de Sion
CASCAVELLE/VEL 3114


オルフの「カルミナ・ブラーナ」ほど、よく知られた作品もありません。ウサギのキャラはこどもにも人気(それは「ブルーナ」)。この曲が作られたのは1936年のことですが、1956年には作曲者自身の手によって、2台ピアノと打楽器のために編曲された版が出版されています。ご存じのようにこの曲は大編成のオーケストラを必要とするものですから、普通の合唱団などがそうそう簡単に演奏することは出来ません。そこでオルフは、オーケストラを準備できないような小規模なグループでも演奏できるようにと、こういうものを用意したということです。
その編成で選ばれた楽器というのは、実は元の編成の要となっているものでした。そもそも、この曲のオーケストレーションでもっとも印象的に聞こえてくるのは2台のピアノと、多くの打楽器群なのですし、曲の中にはこれらの楽器だけで演奏されている部分すらあるのですからね。したがって、例えば本来はオーケストラには含まれていなかった楽器であるピアノ2台のために「編曲」されたブラームスの「ドイツレクイエム」などとは、ちょっと事情が異なっていることは、十分に念頭に置いておく必要があるはずです。事実、この編成での録音で今までに何種類か出ていたものを聴いてみると殆どオリジナルの印象がそのまま保たれているように感じられます。
ただ、テノールのソロが入った、「Olim lacus colueram」というナンバーの場合は、比較的オーケストラ版との違いがはっきり出てくるのかもしれません。冒頭のファゴットのとんでもない高音(アマチュア奏者では演奏不能)では、まるで絞め殺されるような白鳥の悲痛な思いを与えられるものですが、ピアノ版でそれを表現するのはかなり難しいことでしょう。今回の演奏では、ことさらさりげなく、最初からファゴットの模倣はあきらめているように聞こえます。続くフルートによるフラッター・タンギングは、白鳥の嗚咽でしょうか。これも、ピアノによるトリルではちょっと健康的すぎる響きです。
逆に、コンパクトな編成になったことで、元の曲のスリムな姿がはっきりしてくる場面も見られます。声楽の入らないオーケストラのみのナンバー「Tanz」では、メタボ気味の元のオーケストレーションからは聞こえて来にくい9の和音の響きがはっきり現れてきて、オルフの和声に対する感覚の意外な一面に気づかされたりもするのです。
今回のアルバムは、1990年頃の録音が、ミドプライスでリイシューされたものです。ピアニストのうちの1人は亀田さんという日本人でもありますし、取り上げてみました。
もっとも、指揮者や合唱団、そしてソリストたちは全く聞いたことのない名前ですし、正直それほど高いレベルでもないようです。演奏のスタイルも、ぐいぐい引っ張られるようなドライブ感のあるものではなく、きっちり手堅く曲をまとめようというものですから、そんなに緊張感のあるものではありません。第1部の最後の曲「Were diu werlt alle min」のイントロのトランペットで演奏されるかっこいい十六分音符のフレーズも、ピアノの打鍵の問題でしょうか、かなり遅めのテンポになってしまってちょっと盛り上がりに欠けてしまっています。最悪なのは、先ほどの白鳥のアリアを歌っていたテノール。あまりに素直に歌っているためになんのおもしろみも感じることは出来ません。
ただ、合唱はそこそこ破綻のないものですし、男声のア・カペラなどはなかなかのものでした。そして、バリトンソロにこの曲に必要な遊び心が十分に備わっていたために、全体としては満足のいく仕上がりになっています。何よりも、普段聴き慣れているオーケストラ・バージョンでは他の楽器に隠れてしまっていたような打楽器がストレートに聞こえてくることによって、この曲の荒々しいサウンドが再確認できたのは、得難い体験でした。

12月20日

REICH
Sextet etc.
Kevin Griffiths/
The London Steve Reich Ensemble
CPO/777 337-2


最近の作品はちょっと低調なスティーヴ・ライヒ、彼の昔の曲の、新しいアルバムです。演奏しているのは、ロンドンの王立音楽アカデミーの学生だったピアニストのヴィンセント・コーヴァーと、指揮者のケヴィン・グリフィスがこの作曲家の名前を冠して2005年に創設した「ロンドン・スティーヴ・ライヒ・アンサンブル」という、おそらく全員が20代の非常に若いメンバーが集まった団体です。しかし、考えてみれば、1948年生まれのライヒが、このアルバムでも演奏されている彼の初期の代表作「ピアノ・フェイズ」を作ったのが1967年なのですから、その時にはまだはたち前だったのですね。
その「ピアノ・フェイズ」、今では殆ど「ミニマル・ミュージック」の代名詞のように扱われている曲ですね。12の音からなるパターンを、2人のピアニストが同時に弾き始め、片方がほんの少しテンポを上げる事によって音の「ズレ」を生じさせ、えもいわれぬ効果を産み出すというものです。もちろん、そのような「効果」を十分に発揮させるには、演奏者にとってはとてつもない集中力が要求されることでしょう。その集中力とは、もしかしたら音楽を演奏することとは全く無関係なものであるのかもしれません。実際、この曲にそのような「音楽的」な要素を求めること自体が、間違っているのかもしれないと、かつての演奏では思わされたものでした。
しかし、ここでのコーヴァーたちの演奏からは、ある意味「実験的」な事象を超えた暖かいものを感じることは出来ないでしょうか。作曲者の目論見としては、二人の間の「ズレ」は連続的なものなのでしょうから、「揃って」いる時間はほんの一瞬になるはずです。しかし、ここでは彼らはその「揃った」状態をまるで楽しんでいるかのように長く引き延ばし、その間で「表情」を付けているのです。ひとしきり楽しんだ後は場面転換の「ズレ」のモードに入り、その後に来る別の音型になった状態を再度楽しむ、そこには、人間同士の魂の通い合いが確かに存在していました。
1984年の作品「セクステット」には、完成直後に作曲家とその仲間(パーカッション・グループ「NEXUS」のメンバーなど)によって録音されたNONESUCH盤があります。4人の打楽器奏者と2人のピアニストのために作られた曲ですが、ここでのピアニストは同時にシンセサイザーも担当することになっています。その時のライナーノーツで作曲者は、第2部(この曲は5つの部分に分かれています)ではピアノで伴奏を受け持っていた同じフレーズが、第4部ではシンセサイザーでメロディとして繰りかえされることの意味を述べていますが、確かにその「メロディ」となったパートはいかにもそれと分かる他と遊離した音色が選ばれていました。今回の演奏では、そんなはっきりとした処置はなされておらず、そこでのシンセは殆どピアノのサンプリング程度の、違和感のないものに変わっていたのです。そんな小細工を労することもないほど、この演奏ではそれぞれのパートの役割がきちんと分かるような、もしかしたら「歌って」いるほどの存在感を与えられるものであることが、おそらくその理由なのでしょう。たぶん、きちんと指揮者を立てたせいなのでしょう、ここでも「表情」に関しては昔日の録音をはるかに超えるものが感じられます。
もう一つの収録曲「エイト・ラインズ」は、2つの弦楽四重奏、ピアノ、フルート、クラリネット、ビブラフォン、マリンバがそれぞれ2人ずつという、総勢18人の大アンサンブルです。ここでも、「冷たさ」や「機械的」といった概念とは全く無縁のいかにも人間が呼吸をしている感覚を味わうことが出来ます。中でも、ピッコロを持ち替えているフルート奏者の息づかいには、今までのライヒ作品の中で聴いてきたこの楽器のイメージとは全く異なる暖かさを感じ取ることが出来るはずです。きっと炊きたてだったのでしょう(それは「ライス」)。

12月18日

Kindred Spirits
Ronald Corp/
Kindred Spirits
EMI/509747 2


「キンドレッド・スピリッツ」というのは、ロンドンにある「ニュー・ロンドン・チルドレンズ・クワイア」という児童合唱団のメンバーから選抜された25人の少年少女からなるユニットです。ロンドン、というか、イギリスには、こんな感じでしっかりコマーシャル・ベースに乗ってしまう児童合唱がよくありましたね。オクスフォード・ニューカレッジ聖歌隊とか、リベラなどは以前に取り上げたこともありましたっけ。それらのものは、その母体となった合唱団の通常のレパートリーを延長させたような、どちらかというとヒーリングっぽいテイストを前面に押し出したものでしたが、この「キンドレッド」はそういうものとはちょっと違うところをウリにしているようです。それは、このジャケットの、ちょっとストリートっぽい、それでいてかなりおしゃれなファッションセンスが端的に物語っているようです。
アルバムの冒頭に、イギリスのロックバンド「コールドプレイ」のヒット曲「Fix You」を持ってきたことでも分かるように、彼らはまずクラシックとは少し離れたフィールドのレパートリーを探っているかのように見えます。そこで注目されるのが、ソロをとっているメンバーのちょっとこまっしゃくれたノリの良さです。いやあ、そのちょっとした音程の崩し方といい、フレーズのいかにもなフェイクの具合といい、これはまさに大人のロックシンガーの完全なコピーではありませんか。キャロル・キングの「You've got a Friend」で代わる代わるソロをとっている子どもたちなどは、完璧、自らの感覚で自由な歌い方を楽しんでいるように見えるほどです。
そんな中で、いきなりジョン・ラッターの「Shepherd's Pipe Carol」が聞こえてきたのにはびっくりしてしまいました。最近ではクリスマス・キャロルの定番として多くのアーティストが取り上げているこの小粋な曲は、彼らの抜群のリズムの良さで、新たな魅力を持つようになりました。ちょっと面白いのは、中間部でシンコペーションの連続が終わったあとに最初のテーマが出てくる部分で、第三音を半音下げて、ちょっとブルーな味を出していることです。1回目と2回目はその形、しかし、3回目以降は楽譜通りのナチュラルに戻しているのは、誰のアイディアだったのでしょう。
この曲のシンコペーションの構造は、そのしばらくあとに登場するジョージ・ハリスンの「Here Comes the Sun」のなかにあるのと全く同じもの、そんなところにもプロデューサーの慧眼がうかがえてしまいます。ロック・ナンバーとはいっても、殆どはバラードのタッチ、そこにトラディショナルなども織り込んでまとめ上げられたこのアルバムは、ソリストの小生意気な歌い方にもかかわらず、全体としては非常に安らかな思いに満ちたものになっています。評判になったフランス映画「コーラス」で歌われていた「海への想い」なども入っていますし。もしかしたら、こんな、ちょっとしたワイルドっぽい味を含ませていくのも、ヒーリングの新しい道なのかもしれませんね。
それにしても気になるのは、プロデュースと、そしてアレンジを担当しているジェイムズ・マクミランという人物です。彼は、自身のトラディショナルの編曲も提供していますが、それを聴けばあのイギリスで今もっとも活躍している同名の現代作曲家の姿を感じることも出来なくはありません。しかし、このマクミランは、あのマクミランとは別人、彼は根っからのジャズやソウルの世界の人のはずです。本当のところはマッタクワカラン

12月16日

PENDERECKI
Te Deum
Izabela Klosinska(Sop), Agnieszka Rehlis(MS)
Adam Zdunikowski(Ten), Piotr Nowacki(Bas)
Antoni Wit/
Warsaw National Philharmonic Choir
Warsaw National Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.557980


ペンデレツキが、それまでのアヴァン・ギャルドのスタイルから、ネオ・ロマンティックなものへと作風をシフトさせたのは、おそらく1977年前後のことでしょう。その年に作られた「ヴァイオリン協奏曲第1番」が、献呈者であるアイザック・スターンのソロによって初めて録音されたSONY盤を聴いた人は、一様にそのあまりの変貌ぶりに驚きを隠すことは出来なかったはずです。トーン・クラスターや微分音を多用した衝撃的な作品で、まさにある時代の寵児であった作曲家の新作は、およそそれまでのものとはかけ離れた、西洋音楽の伝統をそのまま受け継いだような甘美なメロディとハーモニーを持ったものだったのですから。
その少し後に作られた大規模な宗教曲「テ・デウム」をメインに据えたこのアルバムでは、そのカップリングの妙によって、そんな昔日の戸惑いを見事なまでに追体験できてしまいます。まず、作曲家が華々しくデビューした頃、あの有名な「ヒロシマ」の少し後、1961年に作られた「ポリモルフィア」を聴いてみましょう。ご存じのことでしょうが、この曲は映画のサントラとして用いられたことで非常に有名になったものです。それは「エクソシスト」や「シャイニング」といった、異常な現象を扱った作品なのですが、この曲のおどろおどろしいクラスターやグリッサンドが、まさにその異常さに恐ろしいほど合致しているのです。それは、この曲を初めて聴いた人の素直な反応を的確に現したものには違いありません。表層的な美しさではなく、破壊的なサウンドで直接人の心に訴えかけるなにかをに持っているこの曲は、同じ頃のリゲティや、そしてクセナキスといった才能の作品と確かに同じ次元で論じられるだけの価値を持っていたものでした。この曲の最後がハ長調というノーテンキな響きで終わっていることも、ある種のアンチテーゼとして受け止められていたことでしょう。
しかし、このアルバムで次のトラックの最新作「シャコンヌ」を聴くとき、その長三和音こそは、作曲家の本来の願望であったことを知るはずです。この、まるでラブロマンス映画の主題歌のような屈託のない「美しい」メロディこそは、彼がずっと書きたいと思っていたものだったのではないか、と。そうなってくると、あのクラスター満載のアヴァン・ギャルドに涙しつつ暮らすた私たちの日々とは、一体何だったのでしょうか。
「テ・デウム」と、それに引き続き聞こえてくる「聖ダニエル賛歌」との間に横たわる溝は、それほど大きなものではありません。今から思えば、「テ・デウム」を作った時代は、すでに作曲家にとってはアヴァン・ギャルドというものはネオ・ロマンティシズムを引き立てる単なるパーツでしかありませんでした。もっとも、1983年に作曲家が自ら指揮をしたEMIへの録音を聴くと、そこまでは開き直れないもどかしさのようなものも感じることは可能です。ことさら難解を装った音列などに対する思い入れが、尋常ではないのです。まるでそれらのものは確固とした意志のもとに作られたものであるかのように、深刻ぶった指揮者(=作曲家)の姿が見えるものでした。しかし、それから20年以上の時代の波にもまれて、そんな心遣いは全く無用なものとなる日が来ます。アントニ・ヴィットの明快な演奏によって、「ダニエル」の、まるでラフマニノフのようなおおらかさは、すでに「テ・デウム」の中には存在していたことがはっきり聴き取れてしまうのです。
さりげなく時代を超えて作品を並べただけに見えるこのアルバムからは、ペンデレツキという現代に生きる作曲家の苦悩の跡までが透けて見えるほどです。もっとも、それは結局は単に時代に対する迎合でしかなかったことも、注意深い聴き手であれば容易に感じることが出来るほどの、鋭い切り口さえここには潜んでいるのです。

12月14日

Pie Jesu
Sacred Arias
森麻季(Sop)
金聖響/
オーケストラ・アンサンブル金沢
AVEX/AVCL-25182(hybrid SACD)


いつもお美しい森麻季さんの最新アルバムです。今回は「宗教曲」という範疇に入る曲を集めたもの、金沢の音楽堂という美しい響きのホールでの録音によるSACDというのも、聴く前から期待が高まるところです。データを良く見ると、現場での録音機材はDSDではなくハイビットのPCMのようですが、マスタリングはあの杉本さんですから、なんの遜色もない音が聴けるはずです。
1曲目、モーツァルトの「Exsultate, Jubilate」で解像度の高い、その分、ちょっと固さの残るのがはっきり分かる演奏のオーケストラの序奏に続いて聞こえてきた森さんの声は、そんな録音の特性が十分に生かされた透明そのものの響きを持っていました。極力ビブラートの抑えられた歌い方は、この時代の音楽にはとてもマッチして、モーツァルトのメッセージが過不足なく伝わってくるものです。それは、まるでオリジナル楽器であるバロック・ヴァイオリンのような澄みきった音とともに、無理にアタックを付けようとしない滑らかな肌触りの感じられるものでした。さらに、最後の「Alleluja」での煌めくようなコロラトゥーラでのテクニックにも、なんの破綻もありません。
モーツァルトの作品はもう一つ、「ハ短調ミサ」からのソプラノのためのアリアが2曲歌われています。「Gloria」の中の「Laudamus te」での超絶技巧の中に秘められた可憐さと、「Credo」の中の「Et incarnatus est」でのしっとりとした味わい、いずれも森さんの魅力が最大限に発揮されているものでした。特に後者での、木管楽器のソロとの間のアンサンブルは見事です。ソプラノには難しい低音も軽々とこなしているのも、さすがです。
ハイドンの「天地創造」からのレシタティーヴォとアリアを挟んで、後半にはバッハの登場です。「マタイ受難曲」の中の、フルートの長大なオブリガートを伴う「Aus Liebe will mein Heiland sterben」では、まずそのフルートソロを担当されている、オーケストラ・アンサンブル金沢の首席奏者、岡本えり子さんの清潔な演奏に惹かれるものがあります。「愛のために、救い主は亡くなられた」という崇高な歌詞を、森さんはしっかり噛みしめているように聞こえます。もう1曲、「ヨハネ受難曲」からの「Zerfliesse, mein Herze」も、素敵です。
そして、アルバムタイトルであるフォーレのレクイエムからの「Pie Jesu」が始まります。間奏の部分で木管が聞こえてこないので、これは第2稿で演奏しているのかと思い、もっかん聴いてみましたが、確かに管楽器は入っていないものの、ファースト・ヴィオラのパートもなくなっているという不思議な版によるものでした。これはおそらく、ソリストのメロディをなぞっているそのパートをカットして、森さんの声をよりクリアに聴かせようという配慮なのでしょう。この手のソロアルバムでは、逆に分厚いオケで飾り立てようとすることが多いはずですから、スタッフはよほどソリストの声に自信があったのでしょう。
そこまでして前面に押し出されている森さんの歌声ですが、この頃になってくるとちょっとした不快な「癖」が耳に付くようになってきます。先ほど例に挙げたバロック・ヴァイオリンのように、彼女の歌い方は音を出してしばらくしてから異様なふくらみが出てくるのです。このフォーレの場合だと3小節目からの「dona eis」の部分の八分音符が、そういう歌い方のせいでまるでそれぞれ二つの十六分音符のように聞こえてきて、なにかゴツゴツとしたみっともないものになってしまっているのです。
最後の「天使の糧」(フランク)は、逆にセンスの悪い極彩色のフル・オーケストラ・バージョンにちょっとたじろいでしまいます。これこそ、どこにでもあるライト・クラシック用のケバケバしたアレンジではありませんか。宗教曲の名曲をオリジナルの形で集めたものだとばかり思っていたら、実はその程度のものだったとは。

12月12月

French Delights
Sharon Bezaly(Fl)
Love Derwinger(Pf)
Barbara Hendricks(Sop)
BIS/BIS-SACD-1639(hybrid SACD)


このタイトルに輸入代理店が付けた「邦題」が「仏蘭西の喜び」ですって。ありがちな「フランス音楽名曲集」みたいなものよりはずっとおしゃれなセンスですね。
現代曲とか、委嘱作品とか、ちょっと親しみにくい曲ばかりを録音しているというイメージの強いベザリーですが、これはちょっと傾向の違う、フルート愛好家にとっては馴染みの深い曲を集めた、まさに「名曲集」です。彼女の美しいポートレイトで飾られることの多いジャケットも、ここではガラリとおもむきを変えて、とてもおいしそうなものになりました。テーブルの上に、彼女の分身の村松の24金がさりげなく置いてあるというあたりも、粋なセンス。なんたって、ピアニストの方のお名前が「Love」ですもんね(北欧の人ですから「ルーヴェ」と発音するのだそうですが)。
曲は、フルーティストのリサイタルには頻繁に登場するものばかりです。サンカンのソナチネ、ヴィドールの組曲、ルーセルの「笛吹きたち」、ミヨーのソナチネ、そしてゴダールの「3つの小品」、どうです、なんともベタな選曲ではありませんか。しかし、さすがはベザリー、サプライジングなゲストを迎えてくれました。それはアメリカ出身のソプラノ歌手、バーバラ・ヘンドリックスです。今ではオペラだけではなくジャズにも挑戦している彼女は、なんと自らのレーベルまで立ち上げたそうですね。しかし、なぜベザリーと共演? と不思議に思ってしまいますが、彼女は今はスウェーデンに住えんでんだそうなのです。だったら、このスウェーデンのレーベルに登場するのも納得です。
ヘンドリックスが参加しているのは、ルーセルの「ロンサールの2つの詩」です。フルートとソプラノだけのデュエット、というよりはまるで2人の会話のような素敵な曲です。ヘンドリックスとベザリーの輝かしい音と煌めくほどに装飾的なフレーズたちが、とても美しく絡み合っていますよ。まず最初にフルートだけで長〜い長〜いソロが歌われるのですが、その間にベザリーは全くブレスをとっていないのには、びっくりさせられてしまいます。もちろん、彼女はしっかり「呼吸」はしているのですが、その間にもフルートからは音が出続けているという、これは彼女の得意技、「循環呼吸」の、まさに大プレゼンテーションが、そこでは披露されていたのです。
ラブ、ではなくてルーヴェさんとのデュエットでは、他のコンチェルトのアルバムを聴いたときのような、ピアノばかりが大きくてフルートがちょっと引っ込んでいるような音場設定です。以前CDで聴いたときには確かにフルートがあまりよく聞こえてこなかったのですが、今回きちんとSACDで聴いてみると、これがバランス的にはなんの問題も感じられないのです。おそらくこれは、ソロ楽器がしっかり立って聞こえてくるというSACDの解像度を前提としたマイクアレンジだったのでしょう。
そんな卓越したエンジニアの手によって、ベザリーのとても密度の高い芯のある音は見事にとらえられています。それとともに、循環呼吸の際の息を吸う音も情け容赦なく収録されてしまいました。口から息を吸う分には息音を極力少なくすることは可能ですが、この場合は鼻から吸っているので、その音は余計に目立ってしまいます。そうなってくると、なにか、「歌っている」というのではなく、プログラミングされた音を正確に再現しているシンセのような感じがしてくるから不思議です。もちろん、それぞれの音には、彼女のもう一つの得意技である「あとから音を膨らます」という「表情」が付けられていますから、シンセのような無機的なものではありませんがね。
でも、ヴィドールの最後の曲など、ほんと、人間が演奏しているとは思えないほどの精密さ、これには感服せざるを得ません。

12月10日

Héroïnes Fantaisie
Armande Altaï(Voc)
O+/OP 131 HM 87


フワフワのレースの中に埋もれた金髪の美女、この人こそが、この「ヒロイン・ファンタジー」というアルバムの主人公、フランスのシンガー・ソングライター、アルマンド・アルタイ嬢です。いや、「嬢」というにはちょっと年齢を重ね過ぎているような気がしますが(妙なお色気もあるたい)、まあそんなものは芸能界にはありがちなことですからあまり気にしないようにしませんか? 収録されている曲目は全部で14曲、オリジナル曲に混じってクラシックの曲が6曲入っていますから、どのように料理されているのかも、興味が湧くじゃないですか。
彼女の作風は、まるで19世紀末のパリのような、異国情緒あふれるものです。もちろん、東洋的な雰囲気も満載、何しろ1曲目からしてタイトルは「キミコ」、おしとやかな日本女性のイメージかと思いきや、ドラは鳴るは5音階は炸裂するはで、見事なまでの中国趣味、日本も中国も一緒くたになったありがちな世界観が広がっているものだったのですからね。いえ、そんな、コンピュータの打ち込みによるオケなどはどうでも良いのですよ。胡弓のイントロに続いて聞こえてきたヴォーカルは、なんともインパクトのあるものでした。吐息混じりのその不思議なビブラートを伴う声は、紛れもない「オトコ」のものだったのですよ。そう、アルタイ嬢とは、実は「オカマ」だったのです。そう思ってジャケットの写真を見直してみると、うん、これは確かに「オトコ」ですね。そういえば、プログラミングにクレジットされているクリストフ・フーサンという人がコーラスなども担当しているのですが、こちらも立派な「オカマ」声、このアルバムは、そんなお友達同士によるコラボレーションの成果だったのですね。
そんな、ジェンダーを超えた営みは、次の「ソルヴェーグ」で見事に花開きます。もちろんこれはグリーグの「ペール・ギュント」からの有名なナンバー、これをアルタイ嬢(と言っておきましょう)はそのなんとも言えない不思議な声で、朗々と歌い上げてくれたのです。それは、殆どお笑いでの「オカマの物真似」と言っても良い次元のもの、こんなものを堂々とCDにしてしまってもいいのだろうか、と思いつつも(正直、最初聴いたときには笑い転げてしまいました)彼女の、自らの嗜好を信じ切ったパフォーマンスには圧倒されずにはいられませんでした。それは、生オケを忠実に再現したオケの力だったのかもしれません。とは言っても、やっぱり長調に変わって「あ〜、ああっ、ああっ、ああ〜」と歌われるヴォカリーズの部分では笑いをこらえることは出来ませんでしたがね。
さらに、心ならずも大爆笑せざるを得なかったのが、オルフの「O Fortuna」です。「カルミナ・ブラーナ」の最初を飾る迫力満点の合唱曲、これを、彼女はフーサンの力も借りてしっかり多重録音の「混声」合唱に仕上げてくれたのですよ。想像してみて下さい。何十人ものオカマが一斉に「お〜、ふぉるとぅっなっ」と歌っている様子を。そこからは、間違いなく原曲以上の卑猥さを聞き取れるはずです。でもなぁ、この脱力感は・・・。
マーラーの「亡き子をしのぶ歌」からの「おまえのお母さんが」という暗〜いナンバーに挑戦するときには、逆になんか余計な力が込められているように思えてなりません。オカマが深刻ぶって悲壮感を出そうとしてみても、そこからは「笑い」しか生まれてはこないのですから、これほど辛いことはありません。そういう意味での「悲しさ」を、この曲からは受け止めるべきなのでしょうか。
ただ、ヘンデルやパーセルの曲では、それほどのおかしさは味わえず、妙な居心地の良さを感じたのは、この時代の音楽にはそもそもジェンダーレスの要素が潜んでいたせいなのかもしれません。パーセルの「アーサー王」からの「寒い歌」での「あたしをキンキンに凍らせてちょうだい。死ぬんだから」という訴えは、悲痛そのものです。

12月8日

BRUCKNER
Symphony No.7
Klaus Tennstedt/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0030


このところ躍進著しいオーケストラの自主レーベルの一つ、ロンドン・フィルによる「LPO」からりリースされたこの正規CD、今までは「RARE MOTH」という海賊盤のレーベルからCD−Rで出ていたものです。しかし、実際に聴いてみると、「正規盤」とは言ってもなんだか怪しげな録音であることに変わりはありませんでした。1984年5月10日のロイヤル・フェスティバル・ホールでのコンサートをBBCが録音したものなのですが、マスターテープはアナログのようです。84年と言えば、レコード業界では殆どデジタル録音に切り替わっていましたが、放送の現場ではまだアナログ録音は残っていたはずですから、それ自体は別におかしなことではありません。しかし、この録音、とても84年に放送局が録音したものとは思えないほど、恐ろしく音が悪いのです。その要因はテープの回転ムラ、まるで安物のカセットテープで録音したような感じで、管楽器の高音などでは完全に音がひずんでいます。さらに、金管のコラールなども、大昔のモノラル録音のような情けない音になってしまっています。極めつけは、第4楽章のちょうど真ん中辺で聞こえてくる、まるで雨が降っているようなノイズです。これは、コンサート会場で聞こえたとは思えない唐突なもので、まるでラジオのチューニングがちょっとずれたときのホワイトノイズに酷似しています。ですから、もしかしたらこれは放送局のテープではなく、それが放送されたものを録音した、「エア・チェック」のテープが使われているのでは、という疑問が湧いてきます。そうでないとすれば、信じられないほど杜撰な保存状態に置かれていた放送局のテープだということになります。クレジットには「修復エンジニア」の名前がありますから、それは「修復」出来ないほどのものだったのでしょう。まあ、言ってみれば、「正規盤」であるか否かというのは単に権利の問題だけなのですから、どんなテープを使おうが全く咎められることはありません。このレーベルには音に関する期待はしない方が良さそうです。
「7番」の場合、「ハース版」であるか「ノヴァーク版」であるかという見極めは、非常に困難になっています。多くの指揮者は、自分で使っている楽譜に他の版の「いいとこ」を取り入れて、ただ聴いただけではどちらの版なのか別が付かないような状況になっているからです。このCDの場合も、ジャケットには「ハース版」という表記がありますからそれが指揮者による指定だと信じたいものです。実際に聴いてみると、確かにベースはハース版であることは間違いありませんが、ノヴァーク版からの流用があまりに多いので、果たしてこれを堂々と「ハース版」と呼んでも良いものか、かなりの逡巡が伴います。実際、すべての音源を版別に網羅したこのサイトではしっかり「ノヴァーク版」として分類されています。
将来、そんな不本意な扱いを受けることなどは知るよしもなく、テンシュテットの率いるロンドン・フィルは、ここでは極めてテンションの高い、息詰まるような演奏を繰り広げています。それは、なにかにとりつかれたような、ちょっと恐ろしいほどの迫力を持ったものでした。中でも、第2楽章こそは、この演奏の白眉に違いありません。後半に現れる長い長いクレッシェンドの息詰まるような高揚感などは、まさにエクスタシーへと向かう長い道のりそのものではありませんか。もちろん、それはノヴァーク版からの引用であるティンパニと打楽器による強打の瞬間に達成されます。その後の果て具合の、またなんと味わい深いことでしょう。もちろん、この楽章の最後は、ホルンが「ワーグナーのテーマ」を吹き終わってから弦楽器がピチカートに変わるという、「ハース版」の形になっています。

12月6日

Electric Vivaldi
The Four Seasons
Gregory T.S. Walker(Elc Vn)
Eric Bertoluzzi/
Boulder Philharmonic Orchesra
NEWPORT/NPD 85569


ヴィヴァルディの「四季」といえば、ひところはさまざまの楽器で演奏されるのが流行ったものですね。お琴(正式には「箏」と呼ばれます・・・そうですか)や三味線で演奏した和ものとか、もちろんシンセサイザーのものもありました。確か、1977年頃に、フランク・ベッカーという日本在住の作曲家が、モーグの向こうを張ってローランドが開発したモジュール型のシンセサイザーSystem100を使って作ったものが、世界で最初のものだったのではないでしょうか。今でこそ、そんなものは簡単に作れてしまうようになりましたが、当時はもちろん単音しか出ないアナログシンセ、シークエンサーもせいぜい10音ぐらいしかセットできないという原始的な代物でしたから、それで「四季」全曲を作るのは大変だったことでしょう。
21世紀になっても、ユニークな「四季」は作られ続けています。この、グレゴリー・ウォーカーによる、エレクトロニック・ヴァイオリンのものなどは、久々に爽快な刺激を味わうことの出来る傑作でした。タイトルには「エレクトリック」・ヴィヴァルディとありますが、彼の楽器は「エレクトロニック」とクレジットされているので、これはちょっとした勘違いでしょうか。もちろん、その2つの言葉の違いは重要です。「エレクトリック」と言えば、単に電気的に増幅しただけという意味合いが強くなりますが、「エレクトロニック」となると、それこそシンセサイザーのように音色から、場合によってはピッチまで変えてしまえるようになるのですからね。
と、言葉にこだわったのは、ここでのウォーカーのヴァイオリンが、まさにそのような、完全にヴァイオリンの音色を捨て去った、殆どシンセサイザーのような音色とエンヴェロープで迫っていたからです。しかも、それは刻一刻変化して、ひとつのフレーズの中でも最初と最後では全く別の音になっているというぐらい、「エレクトロニック」なものだったからです。ただ、バックのオーケストラが基本的に生音で、かなりきっちり演奏しているというのが、安心できるところです。楽譜もかなりまとも、「春」や「冬」のゆっくりした楽章でのソリストの装飾も、言ってみればオーセンティックそのものの演奏になっていますから、骨組みはきっちり保たれ、その上で、殆どヴァイオリンとは判別できないような音色のソロ楽器の活躍が際だって聞こえてくることになるのです。そこに、オーバーダビングでウォーカーの奥さん、ロリ・ウォーカーのシンセサイザーが加わります。
それぞれの曲に先だって、ソネットの英訳が朗読されているのも面白い試みです。ただし、これがくせ者、その「朗読」は「ボコーダー」を使って行われているのです。つまり、言葉がそのままメロディやハーモニーになって、それだけですでに音楽になってしまっています。こちらの方が「四季」本体よりよっぽど面白かったりしますから、ちょっと微妙なところですが。
いえ、実はそれよりももっと面白いものが、ボーナス・トラックとして控えていたのです。ひとつは、「Bad Rap」という、タイトルだけ見るとまるでヒップ・ホップではないかと思わされるような曲ですが、これがまさにウォーカーの本領発揮といった趣の、きっちり作り込まれた音楽なのです。ちょっと「現代音楽」っぽい音列なども使いつつ、しっかりエンターテインメントとしてのツボは押さえているという、ある意味痛快な仕上がりになっています。
そして、最後に「Winter Remix」という、「冬」のリミックス・バージョンが収められています。リミックスというのは言ってみればコラージュ、さっき演奏したばかりの「冬」の素材を縦横に切り刻んで、そこに新たな要素も加えたパッチワークの世界が広がります。ですから、これを聴いてしまうとそれまでのまともな演奏がいかにも影が薄く感じられてしまいます。いっそのこと、最初から最後までこのスタイルでやって欲しかったと。

12月4日

MOZART
Symphonies Nos.1,25,41
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.211


昨年、シュトゥットガルトで行われた音楽祭での、ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲シリーズのライブ録音が、6枚のCDとなって順次リリースされます。もちろん、この枚数ですから全曲ではなく「選集」ということになります。いえ、録音されたのは去年ですが(「先週」ではありません)。それぞれ3曲ずつ収録されていますので、全部で18曲、必要なものは一応押さえた、というところでしょうか。面白いのはそのカップリングで、それぞれに初期、中期、後期のものが1曲ずつ入っているという、味なことをやってくれています。これはその1枚目、1番、25番、41番という、なんともツボな組み合わせです。
実は、ノリントンはこの録音の少し後に来日して、NHK交響楽団とモーツァルトの変ホ長調交響曲を演奏していました。その模様はテレビで放送されたのですが、その時のN響のメンバーは弦楽器がファースト・ヴァイオリンが12人という大人数なだけではなく、なんと木管楽器が指定の人数の倍、つまり「倍管」という編成だったのです。ピリオド・アプローチ全盛のこの時代にモーツァルトを倍管で演奏するなどとはなんと奇妙なこと、と思ったら、そこにはしっかりノリントンなりの主張が込められていたのでした。つまり、これはダイナミックスの幅を大きくするための措置で、ピアノの部分では少人数、つまり管楽器は各パート一人ずつ、弦楽器は前のプルトだけで演奏し、フォルテの部分だけで全員が一斉に演奏するというものだというのです。実際にそういうことを、モーツァルトがやっていた形跡がある、と。これは、それなりになかなか興味深い試みでした。中でも、ピアノの時に後ろのプルトの弦楽器奏者が休んでいるというのは、常に全員で弾くことを見慣れているものには非常に新鮮な光景でした。
このCDでの演奏には、曲ごとに弦楽器の人数が表記されています。それによると「1番」ではファースト4人、「25番」ではファースト6人という殆ど室内楽の編成(チェンバロも入っています)ですが、「41番」ではファースト12人という、先ほどのN響ぐらいの規模、表記にはありませんが、おそらく倍管になっているのでしょう。
モーツァルトが8才の時の作品「1番」は、「ドミソミド」という、なんともベタなテーマで始まります。ちょっと大人が演奏するのは恥ずかしくなるような部分もあるのですが、ここでノリントンはその陳腐極まりないテーマに表情たっぷりのクレッシェンドを与えることによって、70才を超えた人間が演奏することに対する正当性を与えようとしているように見えます。
25番」は、それこそ「アマデウス」ですっかり有名になってしまった「もう一つのト短調」ですが、あの映画のサントラでマリナーが見せていた大げさなまでの感情表現は、さすがに現代の指揮者が取り入れるはずもありません。ノリントンのようなその道の達人が取ったのは、もっとあっさりしたやり方、ことさら感情を込めなくとも、音楽そのものが語ってくれる「短調」の世界を、ほんの少しのクレッシェンドで味付けをするという賢い技でした。
41番」では、しかし、編成が大きくなったときにアンサンブルが乱れてしまうという、ライブならではの困ったことが起きてしまっています。彼らが標榜している「ピュア・トーン」とやらはどこへ行ったのか、ナチュラル・トランペットのだらしのない無表情さだけが耳についてしまいます。それは、もしかしたらフィナーレのフーガの直前の真にピュアな部分を引き立てるための演出ではなかったかと思えるほどの、無秩序な混沌でした。もちろん、そこからはノリントンのようなフィールドの人が最も大切にしていたはずのメンバー同士の自発的なやりとりなどは感じられるわけもありません。

おとといのおやぢに会える、か。


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