独身の午後。.... 佐久間學

(11/8/17-11/9/4)

Blog Version


9月4日

LEIGHTON
Organ Works
Greg Morris(Org)
NAXOS/8.572601


新譜CDをあさっていたら、帯に「メシアンのような官能性はないけれど、もっともっと硬質で、高揚感に満ちたオルガン作品集」と書いてあるものを見つけました。メシアンも、オルガンも好きなリスナーがこれを読んだら、いったいどのように思うことでしょう。というか、これではメシアンのオルガン作品は「官能性があって、硬質ではなく、高揚感に満ちていない」ということになりますが、そうでしょうかね。少なくとも、「高揚感」にかけては、メシアンのオルガン曲を超えるものなど、殆どないのでは、と思っているのですが。となると、このケネス・レイトンという人の作ったオルガン曲はとてつもないものなのでしょう。これはぜひ実物を聴いてみなければ。と、つい、相変わらず間抜けな帯原稿のコピーにだまされてしまうことになるのです。
このイギリスの作曲家に関する知識は全く乏しいものでした。1929年に生まれ、1988年には亡くなっていますから、当然メシアンの作品にも接していた世代なのでしょう。かつては「セリエル」などにも手を染めたそうですが、このアルバムを聴く限りでは、もはやそのような技法には見切りをつけたように感じられます。
演奏している楽器は、イングランド北西部の都市ブラックバーンにあるブラックバーン大聖堂のオルガンです。1969年に作られたものですが、2002年に大幅に改修されています。

写真を見ると、なんとも「現代的」な外観に驚かされます。普通はファサードで覆われて見えなくなっているパイプを、惜しげもなく晒しだした、まるでモダン・アートのようなデザインですね。実は、これはオルガン本体のほんの一部、これとほぼ左右対称の姿をしたもう一つのオルガンが、祭壇をはさんで反対側に設置されています。そして、その2つのオルガンを同時に操作できる可動式のコンソールが、別に用意されています。ですから、当然アクションはメカニカルではなく、電気によってソレノイド(それ、何だ?)を制御するものになっています。
そんなユニークな楽器、同じ鍵盤でも、ストップによって右と左のオルガンにパイプが振り分けられているのでしょう、一つのパートでも、その音の成分がそれぞれ右と左から出てきて、それがこの教会の豊かな響きの中で巧みに混ざり合って、えもいわれぬ壮大な音場が形成されているのが体験できます。これはかなりスリリングですよ。
そんな音響で、最後に入っている「ダブリン祝祭ミサ」という、12世紀頃の聖歌をモチーフにした作品を聴いてみると、この作曲家の目指したものが見事に「音」として鳴り響いていることが感じられることでしょう。神秘的な始まり方をしたミサは、聖歌の変奏や、対位法的な処理と言った、あくまで「知的」な姿勢を保ったまま、次第に盛り上がっていきます。その「高揚感」は、明らかにメシアンあたりとは異質な、醒めた肌触りをもったものです。おそらく彼の最大の魅力は、その様な盛り上がりとは対極にある、まるで深い闇の中でうごめいているような静謐感なのではないでしょうか。それを助けるのが、このオルガンで多用されている「スウェル」という鍵盤です。写真ではいくつもの扉に囲まれた部分になりますが、そこから聴こえてくる、鳴っているのがかろうじて感知出来るほどのささやかなパイプの音は、まるで深い祈りのような説得力にあふれたものでした。それは、トラック11、「Agnus Dei」の後半、おそらく「Dona nobis pacem」に相当する部分で、はっきり感じ取ることが出来ます。
「帯」に誘われて、「高揚感」を期待したものの、実際に味わえたのは「静謐感」の方でした。ま、こんなだまされ方だったら、そんなに悪いものではありません。いや、もしかしたらそれが奴の魂胆だったのかも。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

9月2日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
André Cluytens/
Orchestre de la Société des Concerts du Concervatoire
ALTUS/ALTSA003(single layer SACD)


1964年に、アンドレ・クリュイタンスに率いられたパリ音楽院管弦楽団が来日しました。大阪国際フェスティバルという、当時はこんな大物をどんどん招聘していたところが呼んだもので、大阪と東京でそれぞれ5回、全く異なるプログラムでコンサートを開催していました。その詳細は、こちらで知ることが出来ます。フランスものだけではなく、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーの作品まで披露していたのですからすごいものです。確か、ベルリン・フィルと最初にベートーヴェンの交響曲ツィクルスのレコードを完成させたのはクリュイタンスだったはず、クリュイタンスは、ドイツものの演奏にも定評があったのですね。
東京でのコンサートは、一部NHKによって録音、録画され、ラジオやテレビを通じて全国のお茶の間に届けられました。実は、このオンエアを、当時実際に見ているのですよ。もちろん、モニターは14インチぐらいのブラウン管、スピーカーも内蔵の安物でしたが、結構興奮したことはおぼろげに記憶に残っています。何よりも、その3年前に出来たばかりの東京文化会館のステージの反響板のデザインが、とても印象的でしたね(ジャケットの写真は大阪のフェスティバルホールです)。聴いたのは「幻想」のはずですが、言いようのない迫力を感じていたような気がします。
その録音は、以前CDで出ていましたが、今回新たにシングル・レイヤーのSACDとしてリリースされました。ワンランク上がった音で、50年近く前の記憶は、蘇ることはあるのでしょうか。
まずは、派手なヒス・ノイズの応酬です。第3楽章あたりではさらに「ボコボコ」という低周波のノイズも加わりますがこれは、仕方のないことでしょう。しかし、そんなノイズにもかかわらず、オーケストラは定位のはっきりしたとても瑞々しい響きを聴かせてくれているのは、間違いなくSACDのおかげです。ほんと、ノイズさえなければ、これは充分過ぎるほどのクオリティを持った音ですよ。ですから、3楽章の頭では、本来「遠くで」吹いているはずのオーボエが、コール・アングレのすぐ隣にいることも分かってしまいます。テレビ向けで、わざわざステージで吹いていたのでしょうか。当時はそんなことは全く気がつきませんでしたね。
さらに、なんだか聴き慣れないフレーズがはっきり聞こえてくるのでなにかと思ったら、それは派手にビブラートをかけたホルンだったのですね。1番も3番も同じようにビブラートをかけていますから、個人芸ではなく、これこそが、当時の「おフランス流」だったのでしょう。同じようにコン・ビブラートのクラリネットや、甘い音色のバッソンと、今では絶滅しまった響きが、SACDから蘇ります。
そんな感傷に浸っているうちに、なんだか音楽はただならぬものになっていきますよ。第4楽章でのティンパニの強打なんて、オーディオ・チェックにも使えそうな迫力、確か、テレビでは聞こえていなかったはずのトロンボーンのペダル・トーンもはっきり聴こえてきます。そしてなだれ込む第5楽章。いやあ、噂には聞いていましたが、これがライブでのクリュイタンスだったのですね。まるで「狂いタンス」といわんばかりのテンションの高さ、それに煽られたオーケストラのすさまじいこと、エンディングなどは完全に崩壊しているじゃないですか。もしかしたら、この「凄さ」を、幼心にも感じ取っていたのかもしれませんね。
アンコールも2曲入っています。1曲目が「展覧会の絵」の「古城」ですって。アルト・サックスが、これでもかという熱演を聴かせてくれていますが、この日のコンサートの前半はベートーヴェンの「エロイカ」でしたから、彼はこのアンコールのためだけに「出勤」してきたのでしょうね。
それにしても、こんなすごい録音が、当時はご家庭で聴くことは絶対に出来なかったはずです。NHKのスタッフは、未来の聴衆に向けて仕事をしていたのですね。

SACD Artwork © Tomei Electronics "Altus Music"

8月31日

DVOŘÁK
Symphonies Nos.7 & 8
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.277


シュトゥットガルト放送交響楽団は、1998年に首席指揮者に就任したノリントンによってまさに画期的に変貌させられてしまいました。彼は、それまで過ごしていたピリオド楽器のフィールドでのノウハウを、そのままこのモダン・オーケストラに植え付けようとしたのです。一部のものをピリオド楽器に置き換えたり、フレージングやテンポもピリオド楽器からの視点で考えるといったようなことですが、なかでも「ノン・ビブラート」による弦楽器セクションというコンセプトは、大きな反響を呼ぶことになります。放送局のオーケストラですから、録音ソースには事欠きません。物珍しさも手伝って、このチームによる録音は大量にリリースされました。
そんな「スーパースター」も、すでにこのポストを去り、2011/12年のシーズンからはステファン・ドネーヴという、はっきり言って知名度の低い若い指揮者がこのオーケストラの首席指揮者となりました。これからは、今までのように何でもかんでもCDになるというようなことはなくなるのでしょうね。
このドヴォルジャークは、2010年の4月(7番)と9月(8番)に行われたコンサートのライブ録音、8番はまさにノリントンの最後のシーズンでの演奏ということになります。実は、ドヴォルジャークに関しては、すでに「9番」のCDがリリースされています。録音されたのは2008年7月のこと、それを聴くと、他の作曲家の曲と同じように、弦楽器は徹底してノン・ビブラートで演奏されているのが分かります。いくらなんでも、ドヴォルジャークでこれはないだろう、とその時は思ったものでした。
しかし、今回の「7番」と「8番」では、そんな違和感が全くありません。「8番」冒頭のチェロのたっぷりとした響きなどは、「普通の」オーケストラと何ら変わらない味わいです。そう、ノリントンは、今までこのオーケストラに対して課してきた「ノン・ビブラート」の掟を、あっさりと解いてしまっているのですよ。「9番」では、確かに「ピュア」には違いないものの、なんとも素っ気ない肌触りだった弦楽器のトゥッティが、ここでは見事にふくよかで暖かみのある響きに変わっているのです。
これは、いったいどういうことなのでしょう。10年以上に渡っていろいろやってはみたけれど、結局モダン・オーケストラに「ノン・ビブラート」を強いることは無意味なのだ、という結論に達したのでしょうか。もしそうだとしたら、マーラーなどであれほどこだわっていた「ピュア・トーン」というのは、いったい何だったのでしょう。世の中には、あんなストイックなマーラーを本気になって崇めていた「信者」だっていたはずです。その人たちは、「教祖」がこんなことになってしまって、さぞや戸惑っていることでしょう。
そんな「前科」を気にせずに聴いてみれば、これはとても「元気をもらえる」ドヴォルジャークです。何よりも、弦楽器奏者たちが「ノン・ビブラート」の呪縛から放たれてのびのびと演奏しているのが、最大の聴きどころです。ノリントンはそこに、「7番」のようなそもそも一筋縄ではいかない屈折した作られ方をしている音楽でも、彼の本質である楽天性をしっかり注ぎ込んでいますし、「8番」ではそれに輪をかけた躍動感を与えています。第4楽章冒頭のトランペットのファンファーレなどは、信じられないほどのテンポと軽やかさ。そのあとはごく普通のテンポに落ち着くかに見せて、そのファンファーレの再現である練習記号の「L」に向けて徐々にテンポを上げていくという設計には興奮させられます。確かにSUPRAPHON版の楽譜では冒頭と「L」のテンポは同じですからね(ノリントンはBREITKOPF版を使ったそうですが)。
いっそのこと、253小節目のチェロも、自筆稿の形にして欲しかったのに。これは、アーノンクールとは違うのだぞ、という意志の現れだったのでしょうか(奴のやり方には乗れんとん)。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

8月29日

Past Future
Magnus Rosén(Bass)
Hvila Quartet
David Björkman/
Göteborgs Symfoniker
NAXOS/8.572650


このジャケ写だけ見ると、まるで映画「スクール・オブ・ロック」に出てきたジャック・ブラックみたいですが、実際はもっとおっさんっぽい顔をしているのが、2007年までスウェーデンのヘビメタ・バンド「ハンマーフォール」のメンバーだったベーシスト、マグヌス・ローゼンです。当然、ここで抱えているのはブラックの楽器のギターではなく、エレキ・ベースです。
ジャケットには、「エレキ・ベースがシンフォニー・オーケストラと初めてソロ楽器として共演したレコード」とありますよ。確かに、今までロックバンドがオーケストラと共演したことはありましたが、エレキ・ベースだけ、というのはこれが初めてかもしれません。もっとも、ソロではなく、オケの中の楽器としてだったら、ペンデレツキの作品などではお馴染みのことです。
とは言っても、そんな、さも全曲オーケストラと共演しているような煽り方をしている割には、実際にそういう形は全12曲のうちのたった4曲だけしかないじゃないか、と、だまされたような気分になっても、それはいつもながらのこのレーベルの虚言癖とあきらめましょう。
しかし、その4曲の中でヤン・アルムという人が曲を書いてオーケストレーションまでやっている2曲は、こういうクラシック+ロックみたいなイベントでは必ずお目にかかれるような陳腐な音楽だったのには、「やっぱり」と思ってしまいます。いかにもベースの見せ場を設けているようでも、曲自体がとても散漫でつまらないのですね。同じアレンジャーでもローゼン自身が曲を書いている他の2曲は、それぞれきちんとブルース・コードに乗ったロック・ン・ロールだったり(「Blues man」)、オーケストラとのアンサンブルの必然性が感じられるメロディアスな曲だったり(「Gate to Heaven」)しているというのに。「Gate〜」では、サステインをかけながらボリューム操作で頭のアタックを消すというギターではお馴染みの技法で、ベースからまるでオルガンのような響きを出して「歌って」いますしね。
ですから、はじめは「手抜きじゃないか」と思えた、このオケのメンバーによる弦楽四重奏との共演による残りの7曲の方が、さまざまにこの楽器の可能性が感じられて聴き応えがありました。「Sonata G minor」などは、バロック風の曲調に乗せて、なにか物語が綴られているような気さえします。ここではストリングスは清純さの象徴(全員女子です)、ベースはそれに対して邪悪の象徴なんです。ベースは最初のパートでは弦に合わせて殊勝に低音を入れようとしていますが、なにしろそんなんですから(どんなん?)合うわけがありません。とうとういやになって、1人で暴れ始めます。しかし、思い切り「毒」を放出したあとにまた最初のパートが帰ってくると、どうでしょう、そこではベースは見事にアンサンブルが出来るようになっているではありませんか。なんてね。
Badinerie」というのは、「J.S.バッハ作曲」とあったので、まさかとは思ったのですが、やはりあの「組曲第2番」の中のエンディングで聴ける、とっても技巧的な曲でした。キーは同じですから、弦はそのままの楽譜を弾いているのでしょう。そこに、オリジナルのフルートの4オクターブ下の音域で、ベースが「ほぼ」楽譜通りに演奏するというのですから、すごいものです。
足し算が合わないのでは、とお思いでしょう。最後の「Romance between East and West」というローゼンの曲は、ベースの全くの「ソロ」なのですよ。ここでは、さっきの「オルガン風」の音もまじえつつ、とても安らぎを感じられる音楽が流れていきます。タイトルにあるように、「東洋風」なスケールをモチーフとした「ミニマルなヒーリング」でしょうか。エレキ・ベース1本でも、こんなことが出来たのですね。「コミカルなフィーリング」だと、やっぱりジャック・ブラックになってしまいますが。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

8月27日

FAURÉ
Requiem
岡村知由紀(Sop)
David Wilson-Johnson(Bar)
Rolf Beck/
Schleswig-Holstein Festival Choir Lübeck
Ensemble orchestral de Paris
HÄNSSLER/CD 98.628


これは、2010年の「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭」でのライブ録音です。その名の通り、ドイツの北部のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州を中心に毎年夏に開催されている音楽祭で、期間中は世界中から集まったアーティストによる多くのコンサートが開催されます。その中では、オーディションで集められた若いメンバーによって作られたオーケストラが、高名な指揮者によって指導されるという教育プログラムも行われているはずです。だいぶ前に、確かショルティがそのオーケストラのリハーサルをしている映像を見たことがありましたが、それによって、この、いかにもドイツっぽい地名が記憶に残っていたのでした。そんな指揮者がいましたよね(それは「ホルスト・シュタイン」)。
そもそもこの音楽祭は、1986年に、あのバーンスタインによって創設されたものなのだそうです。その4年後に札幌で始まったされた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」と全く同じパターン、最晩年のバーンスタインは、ところ構わず自らの情熱を形にしていたのですね。「偉大」、だったのでしょう。
オーケストラに続いて、合唱部門で「アカデミー」が始まったのは2002年と、割と最近のことです。それを始めたのが、ここで指揮をしているロルフ・ベックです。彼の現在のポストはバンベルク交響楽団の合唱団の指揮者、この音楽祭と酷似した名前の指揮者、さっきのホルスト・シュタインの時代からその職を務めているのは、なにかの因縁なのでしょうか。
そういう合唱団ですから、世界中から集まってきたメンバーは、夏の間だけ音楽祭で活動、あとはその流れで世界ツアーなどもこなしているのでしょう。そのメンバーも、年によって当然入れ替わっているのでしょうね。とりあえず年齢制限はありますから、若いぴちぴちとした声を集めることは困難ではないはずです。
第3稿による「レクイエム」、フランスのオケ(そんなに人数は多くないはず)の、ちょっと意外な深い響きのDのユニゾンに続いて聴こえてきた合唱は、確かに「若い」感じはしましたが、それは「ぴちぴち」というよりは、もっと渋い、充分に「大人」でも鑑賞に耐えうる節度を持ったものでした。とてもそんな寄せ集めとは思えないような確かなアンサンブルは、ベックの力量をうかがわせるものです。演奏自体は、かなり遅めのテンポをとってたっぷり歌いこむ、といった芸風、合唱はもちろんそれにしっかりついて行って落ち着いた音楽を提供していますし、オケの方も細かいフレージングが実によく歌えています。このあたりは、オーケストラ指揮者としてのキャリアも豊富なベックの持ち味なのでしょう。
2曲目の「Offertoire」になると、合唱はまるで人数が半分に減ってしまったかのような、とてつもないpで歌い始めました。この合唱団は、ダイナミックスの幅がとてつもなく広いのですね。その分表現の幅も大きく、とても余裕のある音楽が楽しめます。ハーモニー感が試される鬼門、5曲目の「Agnus Dei」の後半でソプラノがCを伸ばしている間にハ長調から変イ長調に転調するところなども、完璧でした。
ソリストは、日本人の岡村さんはなかなか清楚な声ではあるのですが、東洋人であることがバレバレの発音の悪さは致命的です。ウィルソン・ジョンソンは、ビブラートの幅が広く、高めにシフトしているので、この合唱と一緒だとかなり不安定。
後半には、別の会場で録音された「ラシーヌ賛歌」などが、オルガンだけの伴奏で歌われています。「レクイエム」の録音会場とは桁違いに豊かな残響で、まるで別の合唱団のような印象を受けてしまいますが、そのクオリティの高さは変わりません。
なぜか、このところフォーレの「レクイエム」のリリースが目白押し、いつもこんな合唱だといいのですが、どうなることでしょう。

CD Artwork © Hänssler Classic im SCM-Verlag GmbH & Co. KG

8月25日

2 Cellos
Luka Sulic, Stjepan Hauser(Vc)
MASTERWORKS/88697 91011 2


いつものようにラジオを付けっぱなしにしてドライブしていたら、なんだかチェロのアンサンブルによって演奏されているような、マイケル・ジャクソンの「Smooth Criminal」が聞こえてきました。もうすぐ秋ですね(それは「栗実る」)。それこそ「ベルリン・フィルの12人のチェリスト」あたりの最近の録音なのかもしれませんね。それにしても、この演奏、リズム感もいいし何よりもアレンジのセンスが今までの彼らのものとはずいぶん違っています。昔はウェルナー・ミュラーなどが、なんともかったるい「イエスタデイ」のアレンジを提供していましたが、こんな斬新なアイディアを持つアレンジャーを見つけたのでしょうか。
家へ帰って調べてみたら、これはそんなおじさんたちの演奏ではありませんでした。もっと若いチェリストたち、しかも、たった二人のユニットだというのですよ。これは意外でした。多重録音であの厚いサウンドを作っていたのですね。
それは、ルカ・スリックとステファン・ハウザーという、ともにクロアチアで生まれたまだ20代のチェリストたちでした。それぞれロンドンやマンチェスターの音楽大学を卒業したばかり、ステファンなどは、ロストロポーヴィチの最後の弟子というのですから、すごいものです。すでに数々のコンクールでの優勝歴があり、ロンドンのウィグモア・ホールや、アムステルダムのコンセルトヘボウなどで演奏したこともあるという、ものすごいキャリアの持ち主たちです。
そんな彼らが、自分たちで編曲した「Smooth Criminal」をザグレブのスタジオで録音、そのPVYouTubeにアップしたところ、とてつもないアクセスがあって、まさに「一夜にして」世界中の人が知るところとなってしまったというのです。まさに「シンデレラ・ストーリー」ですね。そこで、同じようなコンセプトで「ロックの名曲」を彼らが編曲、演奏したものを集めた、こんなアルバムがリリースされてしまいました。2500円もする国内盤は9月末に発売予定だそうですが、アマゾンでは輸入盤を税込み991円で売ってましたよ。HMVあたりは1000円を超えていますから、これはお買い得。
きちんと聴いてみると、「Smooth Criminal」などでは頭に風の音のようなSEが入っていますが、これはチェロのハーモニクスなのですね。ところどころにパーカッションのようなものも聞こえますが、それらも全てチェロ、アルバム全体を通して、チェロ以外の音は全く使っていないようです。ほんと、いくらふんだんにエフェクターがかかっているとは言え、まるでヘビメタのギターのような音が出てくるのには、驚いてしまいます。しかし、なんと言ってもすごいのは、まさにロックのグルーヴそのものを産み出している強烈なビートです。PVを見れば分かりますが、彼らがリズムを刻んでいる時には、まるでドラマーのような形相で、力強くチェロを「叩いて」いますよ。
そんなギンギンのサウンドの中から、ヴォーカルのメロディラインが聞こえてきた時には、誰しもが幸せな気持ちになれるはずです。それは、例えば「Welcome to the Jungle」などでは、アクセル・ローズのシャウトまでも忠実に再現したものなのですが、そこからは、純粋にメロディの美しさを感じることが出来るのですよ。思わず「ロックって、こんなにメロディアスだったの」と叫んでしまいます。スティングの「Fragile」はもとより、コールドプレイの「Viva la Vida」やニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」でさえ、なんと美しいことでしょう。
これは、この二人のチェリストが小さい頃から親しんでいたロックに心から共感して、その思いを自らの楽器に託したものに違いありません。彼らの中では、最初からロックとクラシックとの間には、なんの隔たりもなかったのでしょう。そんな才能を羨ましがって眺めているのが、中途半端な「ライトクラシック」しか作り得ない貧しい音楽土壌に育つ、この国の音楽関係者です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

8月23日

SCHUBERT
Winterreise
Natasa Mirkovic-De Ro(Voice)
Matthias Loibner(Hurdy-Gurdy)
RAUMKLANG/RK 3003


シューベルトの「冬の旅」は、いわゆる「ドイツ・リート」の中では最も有名なものかもしれません。最近では、この曲集を丸ごと合唱でカバーしたものなども作られています。
「リート」として歌われる時でも、オリジナルのピアノではなく、ギターなど他の楽器によって伴奏されることもよくあります。さらに、オーケストラを使って、ほとんど「再構築」といった趣のバージョンを作ってしまった人もいましたね。なにしろ、そのハンス・ツェンダーの編曲では、普通のオーケストラではあまり使われることのないアコーディオンのような楽器まで入っているのですからね。
しかし、今回登場した「ハーディ・ガーディ」は、インパクトから言ったらそんな過去の「変わり種」などは一蹴してしまうほどのものをもっていました。ミントとかじゃないですよ(それは「ハーブ・ガーデン」)。そもそも、そんな楽器の名前さえ、まっとうに暮らしているクラシック・ファンだったら、運がよければ一生聞く機会のないものなのですからね。とりあえず「運の悪い」あなたは、こちらで大まかな知識を仕入れておいて下さいな。
しかし、リンク先にもあるように、この楽器と「冬の旅」とは、因縁浅からぬものがあるのです。最後を飾る曲「Der Leiermann」は、普通は「辻音楽師」などと訳されますが、本来は「ハーディ・ガーディを弾く男」という意味なのですからね。つまり、この曲ではピアノ伴奏がこのハーディ・ガーディの音を模倣しているのですね。確かに、シューベルトの時代には、この楽器は街中でよく目にすることが出来たはずですから、シューベルトも当然それ聴いたことがあって、ミュラーの詩からあのような具体的な音を連想したのでしょう。だったら、いっそのこと、全曲をハーディ・ガーディに伴奏させてしまおう、と考える人がいてもおかしくはありません。
この楽器をきちんと聴いたことなどありませんし、そもそも、常に同じ音を出し続ける「ドローン」なども付随していますから、音楽的にはそれほど自由度の高い楽器だとは思っていませんでした。それこそ、同じような機会に使われそうな「バグパイプ」程度のものだろう、と。しかし、ここで聞こえてきたのは、演奏しているマティアス・ロイブナーの卓越した技術に負うところも大きいのでしょうが、決してピアノに負けないほどの表現力を持った楽器の姿でした。鍵盤の音がうるさいことさえ我慢すれば、かなり細かい音符のパッセージも何不自由なく演奏できていますし、どうやっているのかは分かりませんが、正確なベースラインをピチカートで弾くなどという、もしかしたらこの楽器の能力を超えるようなことまでやっています。そして、必要な時には「ドローン」を存分に使って、いかにも素朴な味を出すことに成功しています。その最大の見せ場は「春の夢」でしょう。
歌っているナターシャ・ミルコヴィッチ・デ・ローは、ボスニア出身の歌手。スタートはジャズやロックだったのですが、やがてクラシカルな唱法も学び、今ではオペラも歌っているという人です。バロック・オペラなども得意にしているのだとか。そんな、歌うことに対して幅広い間口を持っている彼女は、ここでは「ヴォイス」というクレジットの通り、「シューベルトのリート」には全くこだわっていない自由な「声」で、見事にハーディ・ガーディと対峙しています。「凍った涙」では、最初は地声で、まるで語るように歌っていたものが、2番からは見事なベル・カントに変わる、といった具合です。どんな時にも、言葉を立ててピュアな音色で歌われているのを聴いていると、もしかしたら、普通に「ドイツ・リート」と言われているあの大げさな歌い方は、本当はシューベルトにはふさわしくないのでは、とさえ思わせられてしまいます。これは、とても素敵な体験でした。

CD Artwork © Raumklang

8月21日

WAGNER
Der Fliegende Holländer
Albert Dohmen(Der Holländer), Ricarda Merbeth(Senta)
Robert Dean Smith(Erik), Matti Salminen(Daland)
Rundfunkchor Berlin(by Eberhard Friedrich)
Marek Janowski/
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 400(hybrid SACD)


ワーグナーの「指環」全曲を世界で最初にステレオでスタジオ録音したのは、1950年代の終わりから1960年代にかけての、ご存じジョン・カルショーのひきいるDECCAのチームでした(指揮はショルティ)。1980年代に入ると、レコードは「デジタル録音」で作られるのが普通になってきます。そこで最初にデジタル録音の「指環」全曲を作ったのが、ヤノフスキでした。これは、東ドイツ、西ドイツ、そして日本のレーベルが共同制作したものでしたね。
そんなワーグナー録音の歴史の中でエポック・メイキングな仕事を残しているヤノフスキが、今回は、なんと2013年のワーグナー生誕200年を見据えて、今年から3年計画でワーグナーの「オランダ人」以降の全10作品を、PENTATONEからハイレゾ録音によるSACDでリリースするというプロジェクトを開始しました。もちろん、それは世界最初のSACDによるワーグナー・ツィクルスとなるはずです。またもや、ヤノフスキは「歴史」を作ることになります。
その最初を飾るのが、この「オランダ人」です。今の世の中、スペックはSACDになったとしても、もはやスタジオ録音は望めませんから、コンサート形式による全曲演奏のライブ録音なのは、仕方のないことでしょう。そんな贅沢は言いませんから、きちんと計画通りにリリースが運ぶように、各方面には頑張ってほしいところです。なにしろ、最後となる「神々の黄昏」は、2013年の11月にリリースするのだ、と言いきっていますからね。それで、その前の9曲のSACDに同梱されているヴァウチャー券を全部集めると、その「黄昏」が半額で買えるのだそうです。ちょっとせこいですね。日本のユニバーサルでさえ、SACDを4枚買えば、1枚タダでもらえたというのに。
このコンサートが行われたのは、ベルリンのフィルハーモニーです。この、非常に音場のくっきりしているSACDでは、ソリストや合唱はステージの後で、左右に別れて歌っているように聴こえます。ですから、まずオーケストラの楽器が非常に明晰に聴こえてきます。そして、ヤノフスキは、あたかも主役はオーケストラだ、と言わんばかりに、序曲からとてつもなく早いテンポでイケイケの音楽を作ってきます。その勢いは、最後まで止まることなく続き、もうあっという間に全曲が終わってしまうという感じです。トータルの演奏時間は2時間6分ですって。別にカットも行っていないようなので、これはものすごい速さであることが分かります。
特に盛り上がるのは、第3幕(幕間は開けずに、続けて演奏される形、もちろん、慣用版です)に入ってから、ノルウェーの水夫たちの合唱からゼンタの救済まで、もう息つく暇もありません。それを支えるのが、2000年からノルベルト・バラッチュの後任としてバイロイトの合唱指揮を任されているエーベルハルト・フリードリッヒに率いられたベルリン放送合唱団です。言葉がとても明瞭な上に、1音たりとも手を抜いていない完璧な歌唱、こんなすごい合唱はまずオペラハウスで聴くことはできません。オランダ船の水夫たちの合唱が出てくるところの表情などは、まさにショッキング。これを聴くだけで、買いたくなることでしょう(それは「ショッピング」)。
それに比べると、メインのキャストは、高音系はなんかピリッとしたところがありません。ゼンタのメルベスは、ヤンソンスのマーラーの2番の時にもあまり心地よい音程ではなかったのですが、ここではさらにひどい音程になっています。エリックのスミスも、ドイツ語のディクションの悪さもあって、声に酔うというまでにはいきません。そこへ行くと、オランダ人のドーメンは、真にコントロールの行き届いた、細やかな表情を聴かせてくれていたのではないでしょうか。ダーラントのサルミネンも、まさに至芸です。
この先、はたして何枚のヴァウチャー券が手に入ることでしょう、次回の「パルジファル」は、このテンションでやられるのはちょっときついので、パスしたっていいかも。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

8月19日

NARBUTAITE
Tres Dei Matris Symphoniae
Robertas Servenikas/
Kaunas State Choir, Aidija Chamber Choir
Lithuanian National Symphony Orchestra
NAXOS/8.572295


オヌーテ・ナルブタイテなどというMっぽい作曲家の名前(それは、「ブッタタイテ」)は、おそらく一生耳にすることはなかったはずですが、何の因果かこんなCDを聴く羽目になってしまいました。「オヌーテ」というファースト・ネームで分かるとおり(分かるか?!)、この方は女性の作曲家です。1956年にリトアニアで生まれ、リトアニアで音楽教育を受けています。
彼女の作品は、ヨーロッパやアメリカなど、世界中で演奏されているのだそうですが、今回の作品はフランクフルトの「ブランデンブルク州立管弦楽団」という、かなり知名度の低いオーケストラからの委嘱によって、2002年から2003年の間に作曲されたものです。このCDは、2008年にリトアニアの首都ビリニュスで行われたコンサートのライブ録音です。
タイトルは、「3つの聖母の交響曲」という意味ですが、それぞれ20分ほどの合唱を伴うオーケストラによる3つの作品が集められたものです。テキストに「Ave Maria」、「Gloria」、「Stabat Mater」を用いて、「黙示」、「イエスの生誕」、「磔刑」を描くという趣向なのでしょう。さらに、オープニングとエンディングにア・カペラの合唱によって「ソロモンの雅歌」と、ヒルデガルト・フォン・ビンデンによる聖歌をテキストにしたものが歌われます。
もちろん、全く予備知識のない作曲家ですから、いったいどんな音楽が聴けるのか、楽しみでもあり、不安でもあるところ、ジャケットには「ネオ・ロマンティック」などという言葉が踊っていますので、とりあえず同じバルト3国の作曲家、ペルトあたりの作風に近いのかな、と、見当をつけてみます。
ところが、バルト3国の合唱にしてはずいぶんアバウトな1曲目のア・カペラに続いて聞こえてきた「第1の交響曲」は、そんな先入観を見事に裏切ってくれるようなサウンドを披露してくれました。それは、最近の作曲業界ではほとんど耳にすることがなくなった、ある種懐かしさも伴う「現代音楽」の響きだったのですね。そこには「ロマンティック」のかけらもありません。
しかし、そのうち、これが懐かしいのも当然なのではないか、と思うようになってきます。これは、ほとんど武満徹のパクリではありませんか。モーダルなテーマをもってきたり、打楽器をメロディアスに多用したり、そして極めつけは武満を武満たらしめているあの和声感。何も知らない人に、これは武満の「新発見の遺作」だと言って聴かせたら、間違いなく信用してしまうほど、それはツボを押さえたパクリです。
さすがに、「第2」と「第3」では、そんなミエミエの「武満」は陰を潜めます。「第2」あたりでは、逆にこれ見よがしに「ロマンティック」なフレーズをチェロなどに弾かせて、それこそペルトにも似たテイストを出そうとしていますし、「第3」ではもはや映画音楽と言っても構わないようなドラマティックなサウンドを聴かせてくれます。と、「ロマンティック」に開き直るのかと思っていると、合唱はペンデレツキ(もちろん、きちんと「現代音楽」をやっていた昔のカレ)のパクリを始めましたよ。
リトアニア国立交響楽団は、そんな「難曲」を、見事に演奏しています。繊細さもダイナミックさも持ち合わせた、立派なオーケストラなのでしょうね。このオーケストラで本物の武満を聴いてみたいな、などと思ってしまうほどです。
ただ、合唱はかなり大人数のせいなのでしょうか、細かいニュアンス(それが、この作品に必要なのかはさておいて)が見事になくなっています。しかも、あまり練習できていないのが、このライブでははっきり分かってしまいます。

ジャケットには、作曲家の写真が載っています。眼鏡をかけた、ちょっと意地悪そうな「おばさん」、それが、なんだか図々しい「猫」に見えてしょうがありません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

8月17日

DEBUSSY
La mer
Yevgeny Svetlanov/
The Philharmonia
COLLINS/CLN0002-2


COLLINSというイギリスのレーベル、最近はバジェット・レーベルのライセンス元ぐらいでしかお目にかかれないと思っていたら、すでに1998年には活動を停止していたのですね。今では、権利はPhoenix Music Internationalというところが所有しているのだそうです。ここに、そのCOLLINSのカタログの復刻を働きかけたのは、日本の東武ランドシステムでした。なんでも「粘り強い交渉」の結果、「全てのタイトルを復活」させる契約を結んだのだそうです。そんなわけで、長らく入手不能だったこんなスヴェトラーノフがフィルハーモニアと行ったセッションなども、めでたくリイシューされることになりました。
これは、1992年にロンドンの教会で録音されたもの、この頃から、オーケストラの録音といえばコンサートをそのまま収録して編集するという「ライブ録音」が主流になりかけていたはずですから、こんなお金のかかる「セッション録音」などをやっていたために倒産の憂き目に遭ってしまったのでしょうね。
このアルバムには、ドビュッシーの「名曲」が3曲入っています。「海」、「ノクチュルン」、そして「牧神の午後への前奏曲」です。実は、友人から「牧神」で、首席フルート奏者のケネス・スミスがソロを吹いていると教えてもらい、聴いてみたくなったのが、入手した最大の理由です。
ですから、まず最初に、一番最後に入っている「牧神」を聴いてみたくなるのは、彼のファンであればごく自然のことでしょう。しかし、期待を持って聴き始めたところ、彼のソロがなんとも重っ苦しいのには、ちょっと戸惑いを感じてしまいました。ビブラートもなんだかものすごく深め、こんなの、ケネス・スミスじゃないやい!と、途中で聴くのをやめてしまいましたよ。ほんとに、あの澄んだ音色のスミスは、いったいどこに行ってしまったのでしょう(ちゃんとフルート・ソロのクレジットがありますから、他の人ではありません)。
しばらくしてそんなショックも癒え、せっかく買ったのだから最初からきちんと聴いてみようと思いました。もしかしたら、スミスはあんな不本意な吹き方をスヴェトラーノフに強いられていたのかもしれませんからね。
「海」は、最初のうちは確かにちょっと重心が低すぎるかな、という感じはあったものの、別にそれほどの違和感はありませんでした。しかし、聴き進んで「風と海との対話」あたりに来ると、なんだかオーケストレーションのバランスがちょっとドビュッシーではないような思いに駆られるようになりました。そう、このあたり、オーケストラは、まさにリムスキー・コルサコフのような音を出しているのですよ。やはり、スヴェトラーノフとしてみたら、ドビュッシーの「不安定」なオーケストレーションは、何としてもきっちりとメリハリのあるものに整えたい、と考えたのかもしれませんね。
それに気がつくと、いたるところでドビュッシーならではの危ういバランスが失われていることが分かってきます。「ノクチュルン」でも「雲」のパステル・カラーの音色が聴きたいところは、全て塗りたくった油絵のようになっています。最悪なのは「シレーヌ」の合唱。このレーベルに多くの録音を残していた「ザ・シックスティーン」が歌っているのですが、「絶叫」はしていないまでも、音色があまりに生々し過ぎるのですね。ドビュッシーにロシア民謡は絶対に合いません。
ですから、やはり「牧神」でのスミスは、彼本来のフルートではなかったのでしょうね。彼だったら、頭のフレーズを軽々とノンブレスで吹けるはずなのに、途中でブレスを入れざるを得なかったのも、そのあたりが影響していたのでしょう。今まで全く気づかなかったのですが、この半音階のテーマは、リムスキー・コルサコフが作った「サトコ」というオペラの中の「インドの歌」とそっくりですね。もちろん、そんなつまらないことを気づかせてくれたのは、「巨匠」スヴェトラーノフです。最近ママになった人ではありません(それは「さとこ」)。

CD Artwork © Tobu Land System Co., Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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