便秘騒動。.... 佐久間學

(09/12/18-10/1/6)

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1月6日

CHILCOTT
Making Waves
Iain Farrington, Alexander Hawkins(Pf)
Michael Chilcott(Bas), Derek Scurll(Dr)
Bob Chilcott/
The Sirenes
SIGNUM/SIGCD142


ボブ(ロバート)・チルコットといえば、今では多くの合唱団がその作品を演奏会やコンクールのレパートリーに取り入れている合唱作曲者として有名です。しかし、彼は最初から「作曲家」として、そのキャリアをスタートさせたわけではありませんでした。生まれたのは1955年、ケンブリッジのキングズ・カレッジに学んだチルコットは、そこの聖歌隊に所属、まずはボーイ・ソプラノのシンガーとして音楽家としての人生を歩み出すのです。1967年にデイヴィッド・ウィルコックスが自分の聖歌隊でフォーレの「レクイエム」を録音したときには、「Pie Jesu」のソリストとして抜擢もされました(このEMIの録音は今でも簡単に手に入ります)。
さらに、1986年には、あのキングズ・シンガーズに、アラステア・トンプソン、ビル・アイヴスに続く3代目のテノールとして参加することになります(先代のアイヴスも、今では作曲家になっているというのは奇遇ですね)。この時期には、このグループのために多くの編曲を行っています。それから12年間、メンバーとして活躍した後、1997年からは、「作曲家」として独り立ちすることになったのです。
このアルバムでは、チルコットが児童合唱のために作った作品が演奏されています。彼が作曲家として活動を始めたときに最初に委嘱されたのが児童合唱団だったということですが、それ以来この分野の作品を数多く手がけることになったそうです。ここで演奏している「サイレンズ」という合唱団は、この録音のためにわざわざ集められたもので、ライナーには「若い人」を集めたような書き方がされていますが、声を聴く限り、「児童」ではなく、おそらく10代後半ぐらいの「女声」のメンバーのような気がします。トニー谷には関係がありません、念のため(それは「サイザンス」)。
「彼女」たちの歌は、そんな寄せ集めの団体とは思えないほどのまとまりを見せています。声もよく揃っているし、響きに破綻はありません。しかし、そこからは心を揺り動かすような強い訴えかけは、殆ど感じることはできません。それは、演奏者というよりはチルコットの作品の性格に主に責任があるような気になってきます。タイトル曲の「Making Waves」という、マルコニーの無線通信を記念してのイベントに際して委嘱された作品こそは、モールス信号のSEが入ったりしていてちょっと耳をそばだてられるのですが、それ以外のものは単に「美しい」というだけで、何か物足りないものがついて回ります。ほんと、メロディなどはとてもキャッチー、それこそミュージカルなどを作ればさぞかし成功するのでは、と思えるほどの作風なのですがねぇ。
ところが、最後に入っている「ジャズ・ミサ」として良く知られている(最近、生演奏を聴きました)「A Little Jazz Mass」になったとたん、この合唱団のテンションが全く変わってしまっていることに気づかされます。伴奏に本物のジャズのトリオが加わって、なんともかっこいいグルーヴが醸し出される中、彼女たちはそれまでの「お嬢さん」っぽい歌い方を見事に脱ぎ捨てて、まるでゴスペル・コーラスのようなノリのよい演奏を始めたではありませんか。「Benedictus」あたりでは、ちょっと微妙な音程まで駆使して、見事に「ジャズ」っぽい味を出しているのですからね。
もしかしたら、このあたりがチルコットの最も得意としているジャンルなのではないでしょうか。今年、2010年に初演が予定されている「レクイエム」がいったいどういうものになるのか、楽しみになってきました。
正直、キングズ・シンガーズ時代のチルコットは、前任者の透明な声のアイヴスと比べてしまって、あまり好きにはなれませんでした。ですから、彼が「シンガー」を辞めて、「フルタイムの作曲家」に転身したのが、とても嬉しく感じられます

CD Artwork © Signum Records

1月4日

バイオリニストは目が赤い
鶴我裕子著
新潮社刊(新潮文庫)

ISBN978-4-10-129691-3


N響でヴァイオリンを弾いておられた鶴我さんという方、ご存じでしょうか?だいたいファーストの後ろのほうのプルトですから、セカンドの並んでいる列の後ろあたりにいたような気がする、あまり若くない方です。というか、この度定年退職をお迎えになったそうなので、そのぐらいのお年だったのでしょう。もう少し若いかな、とは思っていましたが。
この方のお書きになる文章が、なかなか面白いのは、だいぶ前から知っていました。最初に読んだのは、確か立風書房の「200CD」シリーズの中だったでしょうか。その中で、他のライターたちのありきたりの文章とはちょっと違った、プロの演奏家ならではの実体験に裏打ちされた研ぎ澄まされた感覚がそのまま文章の中に反映されているのが光っていて、強く印象に残っていた覚えがあります。
実は、鶴我さんはかなり広範囲にライター稼業を展開なさっていたようで、それだけを集めて2005年に単行本を1冊出版されていました。それが「バイオリニストは肩が凝る」という本だったのですが、今回タイトルを少し改めて文庫化されました。
集められたものは、かなり長い年月にわたって書きためられていたもののようで、中にはすでに「歴史」としても重みさえ持つような記述があったりしますから、まずそんなさまざまな「証言」を興味深く味わわせてもらうことになります。なによりも、彼女自身が山形のご出身だったというのが驚きでした。ちゃきちゃきの江戸っ子みたいな勝手な印象があったものですから。最初の師匠が○澤氏だなどと聞くと、かなりの親近感が湧いてしまいます。同門の人が身近にいるもので。
そして、N響に入ってからの、もはや現在では現役を去ったか、物故された(あるいはぶっ殺された)指揮者たちの「現場」の姿が生々しく描かれているのが、なんといっても貴重な記録で興味は尽きません。最近では、ブログなどでリアルタイムに団員によるそのようなレポートが簡単に読めるようになっていますが、彼女の記述は彼女が本当に尊敬できる人、というフィルターがかかっている分、そんなあまたのブログとは丁寧さのレベルが違っています。シュタイン、サヴァリッシュといった、最近とみに少なくなった本当の「巨匠」たちの姿を通しての、音楽の作られ方を、彼女の絶妙の筆さばきで堪能することが出来ますよ。もちろん、彼らの知られざる「素顔」も。
もっと最近のことでは、N響としては珍しい体験であるオペラの現場に関する部分が、とても面白いものでした。新国立劇場でのワーグナーの「神々の黄昏」の、最初のリハーサルから本番までのドキュメンタリー、普段のシンフォニー・コンサートとは全く異なる長時間で濃密な体験を、それこそ「譜読み」から「本番」までドキドキしながら味わえますよ。それにしても、ダブルキャストなのでゲネプロも2回やらなければならないなんて、大変ですね。あの長い曲を。
そんな特殊な日常を、彼女はいとも軽やかな文体で綴ってくれています。そう、この本のなによりの魅力は、そんな、まるで少年(いや「少女」ですが)のように好奇心旺盛な彼女の、ちょっと斜に構えた、それでいて暖かい文体に触れられることではないでしょうか。そこからは、まさに彼女の全人格がにじみ出てくるような気さえしてくるほど、心に直接伝わるものがあります。
後半の「裕子の音楽用語事典」も秀逸。微妙にハズしたその解説からは、読み手の知識が豊富なほど、著者が込めた笑いがツボにはまることでしょう。
読んでいて心が豊かになるエッセイからは、必ず書き手自身の人間性が漂ってくると感じられるものです。そういう意味で、これはまさに極上のエッセイです。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Company Ltd.

2010年1月1日

The Minimalists
Geoffrey Douglas Madge(Pf)
Jussi Jaatinen/
Orkest De Volharding
MODE/MODE 214/15


オランダのバンド「Orkest De Volharding」による、タイトル通り、「ミニマル・ミュージック」という範疇で語られる作曲家の作品を集めた2枚組のアルバムです。「ミニマル」の代名詞、テリー・ライリーとスティーヴ・ライヒは欠かせませんが、その他にルイス・アンドリーセン、ジョン・アダムス、カイル・ガン、デイヴィッド・ラングといった有名無名の作曲家が名を連ねています。
このバンド、変わった名前ですが、そもそもは1972年に作られた、アンドリーセンの「De Volharding」(「忍耐」でしょうか。いかにもミニマルらしい退屈そうなタイトルですね)という曲を演奏するために結成されたグループです。その曲の編成に合わせて、サックス、トランペット、トロンボーンがそれぞれ3人、それにフルート、ホルン、ピアノ、ベースが加わるというちょっと変則的なビッグバンドになっています。それに指揮者を加えた14人が、このグループのメンバーということになります。ここでは、曲によって適宜プレイヤーを追加して演奏しています。
1枚目のCDは、ライヒの「City Life」で始まります。1995年に、木管楽器や打楽器に弦楽四重奏を加えた編成のアンサンブルのために作られた作品ですが、ここでは、このグループの音楽監督、アンソニー・フィウラマによって、ビッグバンド用に編曲された版が用いられています(どちらのバージョンも、Boosey & Hawksから出版されています)。それだけではなく、どちらにも使われてこの作品を特徴づけているのが「サンプラー」の存在です。タイの醤油(それは「ナンプラー」)ではなく、自然音を録音(サンプリング)してそれを音楽の中に素材として挿入する「楽器」ですね。ここでは街の騒音やスピーチなどが使われています。これは、ライヒの昔からの得意技、雑然とした都会の喧噪が目の前に広がります。それとともに、彼の方法論の限界も。
ガンの曲は「Sunken City(In Memoriam New Orleans)」という2005年の作品です。タイトル(沈んだ都市)といい、作られた時期といい、これはあのハリケーンによる大惨事がモチーフになっているのは明らかです。「Before」と「After」という2つの曲から出来ているのも、そんな惨事の「前後」ということなのでしょう。なんの屈託もないディキシーランド・ジャズが、次の瞬間にはなんとも陰湿な音楽に変わってしまう、というあたりがショッキングです。
続くアンドリーセンの「Workers Union」という、まさにこのグループのために作られた曲は、この編成が産み出す力強いエネルギーをストレートに感じさせてくれるものです。ハーモナイズされた単調なモチーフを、ひたすら全力でアインザッツを揃えるさまは、愚直なまでの「労働組合」のシュプレヒコールの模倣なのでしょうか。ここには、「ミニマル」と言われて感じがちな、まるで突き放したような冷たさはさらさらなく、熱い魂のほとばしりのようなものに満ちています。プレイヤーのシンパシーとともに、おそらくこのアルバムの中では最も完成度の高い演奏になっているのではないでしょうか。
2枚目は、ライリーの古典、「in C」でほぼ1枚が占められています。そもそも演奏する楽器の指定もない作品ですから、他の演奏との比較は無意味ですが、ライリー自身の録音のおよそ2割り増しの「遅さ」からくる、ある種粘っこさが、この曲から確かに新鮮な魅力を引き出しています。
ラングの「Street」は、アルバム中唯一のヒーリング・ピース。ミニマルの持つアーバンな属性が強調されたものなのでしょう。
最後のアダムスの「Short Ride in a Fast Machine」も、フィウラマによるフル・オーケストラのためのスコアからの、この編成のためのリダクション。「パシフィック231」的なアイディアは、20世紀末でも「ミニマル」と名を変えて健在でした。

CD Artwork © Mode Records

12月30日

GERSHWIN
Porgy & Bess
Jonathan Lemalu(Porgy), Isabele Kabatu(Bess)
Bibiana Nwobilo(Clara), Gregg Baker(Crown)
Nkolaus Harnoncourt/
Arnold Schoenberg Chor
Chamber Orchestra of Europe
RCA/88697591762


ガーシュウィンの「ポーギーとベス」ははたして「オペラ」なのか、あるいは「ミュージカル」なのか、という議論は、その時々でなにかしらの解答めいたものが提案されつつ、おそらく永遠に結論が出ないままにこれからも続けられていくことでしょう。
1975年に録音されたロリン・マゼールの「全曲盤」(DECCA)は、まさに「オペラ」としての存在を強く主張した最初のものだったのではないでしょうか。これは、それまでは仮に「オペラ」として上演されるときでも多くの部分がカットされていた慣習を改め、初めてガーシュウィンのスコア通りの演奏を行ったものとして評価されてきました。

それに対して、最近のジョン・マウチェリによる「初演版」の蘇演盤あたりは、まさに「ミュージカル」寄りの提案だったはずです。ここでは、初演に際してガーシュウィンが、あまりに長すぎるオリジナル・スコアから、さまざまなカットを施した版を用いたという史実に基づき、その時の楽譜を再構築することによって、この作品があくまで商業的な「娯楽」を目指していた事実を明らかにしていたのです。
そんな具合に、この作品に対しては常に相対するアプローチが存在してきたなかで、今回のアーノンクールの演奏は、基本的には「オペラ」指向ではあるものの、そこにはやはり彼なりのこだわり(?)がふんだんに盛り込まれたものとなっていました。マゼールと同じく「全曲演奏」を目指すとともに、彼の場合は「スコアに書かれてはいないが、作曲者が求めたはずのもの」まできちんと音として再現しようとしていたのですからね。
それは、第3幕第3場(対訳では「第4場」というミスプリント)、第2場から数日が経過したキャットフィッシュ・ロウの朝をあらわす音楽です。まずオーケストラによる「序奏」が演奏されますが、それはマゼール盤とは異なり、途中で終わってしまいます。そして、そのあとに続くのが、「シンフォニー・オブ・ノイズ」と呼ばれる打楽器だけのインプロヴィゼーションなのです。最初に鳥の声のようなものが聞こえてきたので、SEでも挿入したのかな、と思っていると、それはどうやら打楽器奏者が演奏しているもののようでした。次第に奏者の人数も増えていき(きちんと4人のパーソネルがクレジットされています)、そこにはまるでヴァレーズとかチャベスを思わせるような「前衛的」なパーカッションのセッションが登場するのです。
もちろん、「全曲盤」を謳っていたマゼール盤にも、その後のラトル盤にも、こんなものは登場しません。書かれたスコア以外に、そのようなガーシュウィン自身のアイディアがあったはずだ、という、これはアーノンクールの「主張」に基づくものだったようですね。いやあ、こんな全く彼の守備範囲外だと思われていたところでもこれだけのものを見つけてくるなんて、まさにアーノンクールの面目躍如といった感じですね。
彼が「オペラ」を目指していたのは、合唱にアーノルド・シェーンベルク合唱団を起用したことでも分かります。もちろん、その洗練された声は明らかに「黒人音楽を用いたミュージカル」とは一線を画すものです。同じように、第1幕の「序奏」の中でピアノによって演奏される「ジャスボ・ブラウン・ブルース」にも、「ホンキートンク・ピアノ」(わざと調律を狂わせたピアノ。マゼールやラトルもこれを使っています)ではなくきちんと調律された「ピアノ」を使ったのも、同じ信念に基づくものなのでしょう。ただ、その「ブルース」は、延々と続くはずのソロが見事にカットされています。スコアになかったものまで取り入れて「完全」を目指したはずのアーノンクールがこんなことをするなんて。やはり、彼はいつもの通り、ただの気紛れじじいに過ぎなかったのでしょうか。あんみつ好きの(それは「寒天」)。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

12月28日

BACH
Flute Sonatas
有田正広(Fl)
有田千代子(Cem)
DENON/COGQ-40(hybrid SACD)


世界で最初にデジタル録音を実用化したDENONレーベルですが、SACDはほんのわずかしか出してはいません。この、有田さんのモダン・フルートによるバッハがたまたまそんな貴重なSACDだったのには、幸せを感じてしまいます。実際に同じトラックでSACDレイヤーとCDレイヤーを比較してみると、その違いは歴然としていますからね。
フラウト・トラヴェルソの名手として世界的に知られている有田さんがバッハのソナタをこのレーベルに録音したのはこれが1989年、2000年に続いて3度目のことなのだそうです。これまでの2回は当然トラヴェルソで演奏しているのですが、今回はなんと「モダン・フルート」で演奏しているということで、各方面に多くの話題を提供しています。「モダン」といっても、別に焼きそばが入っているわけではなく(それは「モダン焼き」)、テオバルト・ベームによって19世紀半ばに大幅な「改良」が施された楽器のことを指し示します。最初は木製でしたが、次第に金属製の管体が主流になっていきますね。それと同時に歌口のデザインなども細かいところで変化が加えられ、トラヴェルソとは同じ楽器とは思えないほどの音色を持つものに変わってしまっています。ここで有田さんが使っているのは、ヘルムート・ハンミッヒというドイツの名工が1968年に作った銀製の楽器です。「モダン」とは言っても、決して華やかではない、渋さを持った楽器として知られています。ちなみに、同じレーベルの高木綾子さんも、同じ人が作った楽器を吹いています。
有田さんという方は、いかにもオリジナル楽器のエキスパートのようなイメージが強いのですが、実は、トラヴェルソを吹くようになる前には、「普通の」フルート奏者でした。なにしろ、国内のコンクールでは最も権威があるとされる「日本音楽コンクール」で優勝しているのですからね。つまり、彼が目指しているのは、「すべての時代のフルートに通じる」ということだったのですね。近年はそんなフルートの歴史を実際の演奏を通して体験できるようなコンサートも企画されていますが、そこではドビュッシーのような「新しい」作品は、きちんと「モダン楽器」で演奏していますし。
そんな有田さんだからこそ、トラヴェルソでバッハを演奏するときの限界のようなものにも気づかれたのでしょう。それは、楽器や演奏様式はバロック時代を再現できたとしても、それを演奏する場所が必ずしもバッハ時代と同じものではない、ということなのではないでしょうか。多くの観客を前にして大ホールで演奏する時には、せいぜい数十人を前にして演奏するために作られた楽器では本来の味を伝えることは非常に困難になってくるのは、容易に分かることですからね。「現代の聴衆」に対しては「現代の楽器」が必要なのです。
そんな、一見矛盾を含んだかに見える試みを、有田さんはいとも淡々とやってのけています。なんのことはない、いままでトラヴェルソで極めてきたバッハの音楽を、そのままベーム管でも貫いている、というだけのことだったのです。そこからは、いつもと変わらない、ただほんの少し輝きのある音色の「有田さんのバッハ」が、ほんの少し高いピッチと、格段に正確な音程で聞こえてきましたよ。
1枚組ということで、偽作の可能性の高い変ホ長調のソナタは「シチリアーナ」だけがアンコールのように演奏されています。そこでの装飾は、例えば間奏のあとの23-24小節目のあたりは1989年の録音と全く同じものでした。しかし、その時には装飾を入れていなかった25小節目で、明らかにミスをしたと思われる箇所がそのままになっているのは、編集を担当していたプロデューサーの国崎裕さんの責任でしょう。「画竜点睛を欠く」とは、こういうことなのでしょうね。

SACD Artwork © Columbia Music Entertainment

12月26日

SHOSTAKOVICH
Symphonies Nos. 5 and 9
Vasily Petrenko/
Royal Liverpool Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572167

1976年にサンクトペテルブルクに生まれた指揮者、ワシリー・ペトレンコは、現在はイギリスのロイヤル・リヴァプール・フィルの首席指揮者を務めているという、若手のホープです。すでに何枚かのCDを出していますが、日本での知名度はイマイチなのでしょう、参考のためにチェックしてみた例の最新のオーケストラや指揮者の「名鑑」でも、正確な経歴は記載されてはいませんでした。「オーケストラ」のRLPの項目担当の齋藤弘美さんによれば、首席指揮者は「ジェラード・シュウォーツ」でしたし、「指揮者」でのペトレンコ担当の福本健さんは「RLPの首席客演指揮者」と書かれていますからね。こんな、ネットを調べればすぐ分かるようなことすら把握していないライターさんがこういう「名鑑」に執筆しているなんて、なんだかがっかりですね。ニューヨーク・フィルの新しい音楽監督を「ケント・ギルバート」と書いていた山田治生さんみたいな人もいましたし。
しかし、このような無名のアーティストを聴くときには、なにか手がかりのようなものが欲しくなるものですから、そんななんちゃってライターが書いたものでも頼らざるを得ません。さらに、そんなリスナーの心を見透かしたかのように、最近では輸入盤でも日本の代理店がわざわざ「タスキ」を用意して、プロフィールなどを紹介してくれています。ただ、それだけにはとどまらないで、おそらく親切心からなのでしょうが、その演奏の「批評」までも書いているのは、正直ジャマ、というか、はっきり言ってそんな個人的な感想など読みたくもないような気がします。たまたまそれが的確なものであれば(そんなことはまずありませんが)許せますが、なんとも見当違いのことが書いてあったりすると腹が立ってきますよね。このショスタコでは「スタイリッシュな演奏」ですって。音楽が「スタイリッシュ」って、いったいどういうことなのでしょう。なんか、適当に耳あたりの良い言葉を使ってみました、みたいにしか思えないのですがねぇ。街でよく配ってますが(それは「ポケットティッシュ」)。
そんなまやかしにとらわれずにまっさらな心でこのCDを聴いてみると、ペトレンコという指揮者はなかなかの逸材であることが分かるのではないでしょうか。まず、問題作の「5番」に対しては、小細工を避けた直球勝負、さんざん手垢の付いたこの曲でこれほど真摯なアプローチをやられると、その新鮮さだけで惹かれるものがあります。なんせ、ムラヴィンスキーによる初演以来「伝統」として出来上がった「型」が、この曲にはついてまわっています。特に最後の楽章を盛大に盛り上げて「歓喜」だか「開放」だかを歌い上げるというのは、もはや誰しもが望むパターンと化しています。この部分を、ペトレンコくんはそんな晴れがましさには背を向けて、徹底して泥臭い演奏に終始しているのですよ。練習番号119番の悲しげなヴァイオリンの旋律(ここの歌わせ方が絶品です)のあとは、次第にテンポを上げて一気にフィナーレになだれ込む、というのが「型」なのですが、彼はそのままのテンポで最後まで踏ん張っています。ですから、エンディングのあたりはちょっと他では聴けないほどの「遅さ」になっていて、そのテンポがもたらす重苦しさといったら、ハンパではありません。そうなってくると、最後から3小節目から加わるバスドラムには、まるで「恐怖」のようなものが宿っているようには思えてきませんか?これは、もしかしたらこの作品の本質に迫るほどの「重い」演奏だったのかもしれません。それを「スタイリッシュ」などという「軽い」言葉で片づけられてしまっては、あまりにもペトレンコくんがかわいそう。
「9番」の方だって、一見爽やかそうでいて、2楽章あたりにはかなり粘っこいものが潜んでいるような印象を受けましたが、どうでしょうか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

12月24日

WAGNER
Der Ring des Nibelungen
Georg Solti/
Wiener Philharmoniker
ESOTERIC/ESSD-90021/34(hybrid SACD)


DECCAのレコーディング・プロデューサー、ジョン・カルショーのチームが1958年から1965年にかけてセッション録音を行ったワーグナーの「ニーベルンクの指環」全曲は、まさに録音芸術の一つの頂点を極めたものです。作られてから半世紀近く経った現在でもその高い評価は変わってはいません。
しかし、それを支えた天才エンジニアのゴードン・パリーが作り上げたアナログ・データの豊穣さは、到底CDごときに収まりきるものではありませんでした。CDよりはるかに微細にわたっての再生が可能なSACD化は誰しもが望んでいたところですが、あいにくDECCAをレーベルとして保有しているUNIVERSALは、今ではSACDに対しては極めて冷ややかなスタンスを取っています。
そんなレーベルとしての使命感を放棄してしまった巨大レコード産業に代わって、この大切な仕事を成し遂げたのが、日本のオーディオ・メーカー「エソテリック」でした。その全曲のパッケージは、さながら40年前にキングレコードから発売されたLPによる超豪華ボックスセットを思わせるものです。DVDサイズのデジパックに二枚ずつ収められたSACDの他に、同じ装丁で有名なハンフリー・バートンの「神々の黄昏」のメイキング映像「The Golden Ring」とブックレットが付いています。さらに、歌詞対訳と、カルショーの「Ring Resounding」の新訳が同梱されているという豪華な陣容です。「キング」ボックスにも、黒田恭一の旧訳が付いていましたね。しかし、その時にあった日本語のナレーションの入ったライトモチーフの音源集は、ここにはありません。

音については、なにも言うことはありません。杉本一家さんによるマスタリングは、今まで聴いてきた多くのXRCDで味わえたのと全く同質の、マスターテープに収められていたであろう全ての音が、生々しく迫ってくるという驚くべきものでした。
例えば「ワルキューレ」第一幕の前奏曲を、今までのCDと聞き比べてみると、その違いは歴然としています。なによりも、そこからはショルティに煽られて(この模様は、DVDでつぶさに見ることが出来ます)ウィーン・フィルがいつになくハイテンションの演奏を繰り広げているのが、手に取るように伝わってきます。アタックやクレッシェンドに込められた弦楽器奏者の「思い」までが、そこからは聴き取れたのです。こんなこと、DECCAのマスタリングによるCDからは決して味わうことは出来ませんでした。
この作品の中で最も美しいジークムントのアリア、「Winterstürme wichen dem Wonnemond」では、ジェームズ・キングの声がとても立体的に聞こえてきます。前奏でのヴァイオリンやチェロの高音のふくよかさも感動的です。ただ、このあたりはハイ・サンプリングの恩恵が顕著に現れるところですから、いかに杉本さんとはいえ、CDレイヤーではさすがにSACDと同等、というわけにはいかなかったようです。
SACD(もちろん、2チャンネルステレオのみ)が14枚とDVDが1枚で58,000円という価格設定については、なんとも微妙な思いです。これだけの良心的な仕事の代償としては決して高いものだとは感じられませんが、その他の「付録」があまりにお粗末なものですから。カルショーの本は普通に書店で売られているものと全く同じですから、わざわざ付けた意味が分かりません。それよりも、こんな美しくない訳文のものよりも、今では手に入らない旧訳を復刻してくれたら、どれだけありがたかったことでしょう。音友版をそのまま使った対訳については、手抜きとしか言いようがありません。なんせ、本文にはSACDのトラックナンバーは入っていないのですからね。さらに、ブックレットにある曲目解説も、1965年に出版された渡辺護の著作の引き写し(ライトモチーフの譜例までも)というお粗末さです。
そんな、せっかくのSACD化に泥を塗るような扱いを含めての、これは貴重なボックスです。なんせ1,000セット限定商品ですからね。こんな宝物を入手できた幸福感に、今しみじみと浸っているところです。暇を作って、せっせと聴くことにしましょう。

SACD Artwork © Esoteric Company

12月22日

世界の指揮者名鑑866
音楽之友社刊(音友ムック)
ISBN978-4-276-96193-7

世界のオーケストラの中での国境を越えた人事異動は、今では日常茶飯事、今までオランダのオーケストラの指揮者だったイタリア人が突然ドイツのオケに「転勤」することなどは珍しくもなんともありません。指揮者に限らず、腕の立つ首席奏者なども各地で引っ張りだこ、アメリカの2つのメジャー・オーケストラで同時に首席フルーティストを務めている、などというフランス人まで現れています。
そんな激動の時代ですから、指揮者やオーケストラのデータなどはすぐに古くなってしまいます。今まであったものは2002年に発行されたものですから、もはや使い物にはならなくなってしまった頃に、やっと先日のオーケストラ編に続いて新しい指揮者編が登場しました。
オーケストラ同様、紹介されている指揮者の人数が2002年版の「500」から「866」と大幅に増えているのが、まず嬉しいところです。1ページを割いて紹介されている「グループ1」から、8人で1ページという「グループ4」まで、実力というよりは人気というか、CDの売り上げというか、そんなお金に換算できるような評価でランキングされているというあたりが、シビアな世界です。ですから、逆に「グループ4」に入っているようなマイナーな指揮者の名前を知っているだけで、あなたは「通」と崇められることでしょう。なんせ、ギルバート・キャプランまで載っているのですからね(だれそれ?)。
もちろん、「グループ1」ともなれば、泣く子も黙る「大指揮者」です。前回は下から2番目の「グループ」だった(ちなみに、その時には5段階評価)ファビオ・ルイージなども含めて、その59人をしっかり頭にたたき込んでおくことは、クラシック・ファンとしての最低のスキルとなってきます。ただ、そんなとても大切な人たちを扱っているというのに、その紹介文が執筆者によって大きく書式が異なっている、というのは、重大な問題です。これは、前の「オーケストラ編」でも痛感したのですが、こういう、いわば「事典」に必要なデータの提示の仕方がまちまちで統一されていないものですから、読んでいて非常に腹立たしくなってくるのですよ。年代順の経歴を同じ部分にまとめるというようなことは出来なかったのでしょうか。これはひとえに編集者の怠慢、というか、基本的な実力やセンスの不足が原因なのでしょう。字数だけ決めて、あとはライターさんにお任せという、このような編集者不在の書籍が横行しているのは、とても悲しいことです。なんせ、エッシェンバッハ(「グループ2」)がフィラデルフィア管の音楽監督をとうの昔に解任されたことすらもチェックできていないのですからね。
一方の日本人指揮者はというと、こちらは全部で100人と前回とほとんど変わっていません。その分、10数人の人が「入れ替わって」いますよ。外国人の場合は前回の人はほぼ全員載せた上での増員ですが、なぜか日本人には厳しい音友ムックです。「消えた」人では、大谷研二さんは大怪我の影響でしょうし、宮川彬良さんはあまりにもテレビに出すぎということで納得ですが(そうなると、佐渡裕はどうなるのか、という話はさどおいて)、ロスアンジェルス・フィルの定期を振ったほどの篠崎靖男さんがなくなっているのが意外です。やはり、国内で活躍していないことには、音友的(というか、奥田佳道さん的)には扱いが軽いのでしょうかね。残念なことです。
反対に新しく「入った」のが、なぜ今までなかったのか不思議な山田一雄と渡邉暁雄という大御所です。こういう方々をないがしろにしていてはいけません。山田和樹さんが入ったのは、もちろん「ブザンソン効果」でしょうね。
お馴染み、末廣誠さんは、今回も安泰でした。しかし、紹介文の最初に「お茶ペン」とか、「トークや曲目解説執筆も巧み」というのは、ちょっと違くないですか?奥田さん。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

12月20日

VOGLER
Symphonies, Overtures, Ballets
Matthias Bamert/
London Mozart Players
CHANDOS/CHAN 10504


「レクイエム」を聴いてすっかりハマってしまい、別の演奏家による2種類のCDを2回連続で「おやぢ」に登場させるという暴挙に出てしまったというフォーグラーですが、今回は交響曲などのインストもののアルバムを、いそいそとご紹介です。「私の好きな人に、どうか会って下さい、お父さん」みたいな。
音楽理論家や教育者としての実績は認められてはいても、作曲家としてのフォーグラーはほぼ完璧に音楽史からは抹殺されているのは、あのモーツァルトが彼のことを糞味噌にけなしまくったことが大きな原因になっているのではないでしょうか。有名な「手紙」の中で、モーツァルトは実際にフォーグラーを「糞」呼ばわりしているのですからね。
ご存じのように、モーツァルトは17771030日から1778年3月14日までの間にマンハイムに滞在して、当時最も高いレベルを誇っていた宮廷楽団への就活に励むことになるのですが(もちろん、「内定」が出ることはありませんでした)、その時にはフォーグラーはイタリアでの修行を終えて副楽長に就任したばかりだったのですね。何度か彼のことが話題に上ったあと、1778年の1月17日の手紙では、自宅にフォーグラーがやって来て、ピアノを弾いたときのことが書かれます。
彼はぼくの協奏曲を、初見で、ひきまくりました。第1楽章はまるでプレスティッシモ、アンダンテはアレグロ、ロンドときたら文字通りプレスティッシモです。低音は大概、譜面にあるのとは変えてひき、時には和声も別、旋律さえも変えていました。こう早くては、そうするより仕方がないでしょう。譜面を見ることもできないし、手だってひきこなせません。ですが、それがどうだっていうのでしょう?−初見といったって、こんなひき方はぼくには糞をするのと違わない(吉田秀和訳)。
もし仮に、ピーター・シェーファーの戯曲をミロス・フォアマンが映画化した「アマデウス」という作品が史実に正しく基づいていたのだとすれば、その数年後にウィーンの宮廷でモーツァルトがアントニオ・サリエリに対して行ったことは、このときのフォーグラーの演奏と全く同じ意味を持つものだったのではないでしょうか。フォーグラーがこれらの手紙を読んだとしたら、「おまえにだけは言われたくない」と叫んでいたことでしょう。というか、そもそもこれはとんでもない名誉毀損ですし。「2ちゃん」みたいな。
「レクイエム」でもうっすらと感じられていたフォーグラーの時代様式を超えた作風、それは、このアルバムの曲を聴くことでさらにはっきり分かるようになりました。いろいろな要素が絡まり合ってそんな印象が生まれるのでしょうが、最大の特徴は、彼の作るメロディには、殆ど「倚音(いおん)」が使われていないということです。倚音というのは空気を爽やかにするもの(それは「マイナスイオン」)ではなく、拍の頭によく使われるその部分のコードの構成音からは半音か一音ずれた音のことです。実例がこちらのタミーノのアリア。25.4秒と29.6秒付近に出てきます。その音が出た瞬間には「不協和音」だったものが、次の瞬間にはコードに収まる音に変わって「協和音」に「解決」するというのがミソ。これさえあれば、いかにも「モーツァルト」と、その時代の音楽のように聞こえます。
逆に言えば、この手法は「その時代」でなければ通用しなかった「味」ということにはなりませんか?現代の作曲家がこれをやったら「なんとロマンチック」と失笑を買うのがオチです。フォーグラーの作品が今でも勢いを失っていないと感じられるのは、もしかしたら「倚音」を使わなかったせいなのでは、と思うのですが、どうでしょう。
ですから、このアルバムの中での「バレエ組曲第2番」の最後のメヌエットなどは、逆に「倚音」が多用されているために違和感があったりします。

CD Artwork © Chandos Records Ltd

12月18日

HAYDN
Die Schöpfung
Annette Dasch(Sop), Christoph Strehl(Ten)
Thomas Quasthoff(Bar)
Adam Fischer/
Wiener Kammerchor
Österreichisch-Ungarische Haydn Philharmonie
EUROARTS/2057468(DVD)


今年はヨーゼフ・ハイドンの没後200年という「アニヴァーサリー」でしたね。モーツァルトが生誕250年であれほど騒がれたというのに、それに比べるとなんの盛り上がりもなかったな、と感じるのは、そもそもハイドンに対してはあまり興味がないせいなのでしょうか。「ハイドンの新しい魅力を発見」とか言っている人がたくさんいることは知っていますが、何か馴染めなくて。せめてもの罪滅ぼしに、そのハイドンの命日に行われた記念演奏会のDVDのご紹介でも。
これは、その5月31日に、ハイドンゆかりの地、エステルハージ宮殿ハイドン・ザールで行われた「天地創造」全曲のコンサートのライブ映像です。おそらくあちらではORF(オーストリア放送協会)によってリアルタイムに放送されたものなのでしょう。つい最近NHKBS2でも放送されていたので、日本の「お茶の間」でも見ることが出来たはずです。
まず目を奪われるのが、そのホール内の装飾でしょう。まるで今作られたばかりのような(修復したのでしょうか)真っ白い壁や天井に描かれた絵画の色の鮮やかなこと。まさに「シューボックス」そのものの細長い形をしたホールの奥には、2階席も見えますね。カメラは、この2階席からのアングルで、ホール全体の中でのオーケストラや合唱という映像に執拗にこだわっているようです。ただ、それが、固定のカメラではなくクレーンで移動しているカメラだったことが、映像全体をなんともムダなものにしてしまっています。意味もなくただ上下左右にさまようカメラ、このカットが出てくるたびに、「もっと音楽を聴かせてくれ!」と叫びたくなる人は少なくはないはずです。
オーケストラは、アダム・フィッシャーがハイドンの交響曲をNIMBUSに全曲録音する際に創設したオーストリア・ハイドン・フィルです。このプロジェクトは、NIMBUSの倒産という事態で頓挫するかに見えたものが、その後BRILLIANTによって引き継がれ、ついに33枚組の全集が格安の値段で手にはいるようになりましたね。このオーケストラの実体がイマイチ分からなかったのですが、映像を見るとあちこちにウィーン・フィルのメンバーが。しかも、オーボエやホルンはそのウィーン・フィル御用達のウィンナ・タイプ、かなり由緒正しいメンバーで構成されていることが分かります。このオケを、フィッシャーはかなりオーセンティック指向を意識して指揮をしているようでした。弦楽器のビブラートはあくまで少なめ、そして、トロンボーンにはベルの小さな素朴な楽器が使われていましたね。
動くフィッシャーを見たのは久しぶり、以前N響に客演したときには髪もふさふさでしたし、スタイルも細め、動きもとても機敏で、日本の指揮者の末廣誠さんのような感じでしたが、今回は容貌もぐっと渋くなっていてちょっと別人のようでした。動きもかなり穏やかなものに変わっていましたね。ただ、2時間以上かかるこの曲を全曲暗譜、しかも休みなしで演奏していたのには、「さすが」と思ってしまいました。暗譜はともかく、2時間立ちっぱなしは末廣さんには辛いかも。
ソリストはダッシュ、シュトレール、クヴァストホフという豪華メンバーです。かつてはやんちゃ娘みたいだったダッシュも、すっかり落ち着きが出てきて大人の風格、これだったら「フィガロ」の伯爵夫人を歌ってもなんの違和感もないでしょう。
合唱も安定していて、演奏的にはなんの問題もありません。しかし、これだけの素晴らしいメンバーで演奏されたというのに、ハイドンの音楽には、やはり魅力を感じることは出来ませんでした。あまりにも穏やかすぎるその作風が、常に刺激を求めている耳には物足りなく聞こえてしまうのでしょうか。はいどんな人にも苦手なものはあるものです(前に使ったな)。

DVD Artwork © Euroarts

おとといのおやぢに会える、か。


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