煮える。.... 佐久間學

(11/6/18-11/7/6)

Blog Version


7月6日

WHITACRE
Light & Gold
Pavao Quartet
Christopher Glynn(Pf)
Eric Whitacre/
The Eric Whitacer Singers, Laudibus
The King's Singers
DECCA/B0014850-02


つい最近来日して東京で合唱講習会を行っていったエリック・ウィテカーですが、その時におそらく会場では山積みになっていたであろうCDです。去年リリースされていたものなのに、普通にクラシックの検索をしていた時には気づかず、合唱関係のサイトでやっと見つけたものです。というか、このレーベルはDECCAですが、品番の付け方が普通と違います。今は同じユニバーサルになってしまいましたが、これはもしかしたら「アメリカ・デッカ」の流れをくむものなのでしょうか。
いずれにしても、今まではHYPERIONNAXOSといったマイナー・レーベルからしか出ていなかったウィテカーの作品ですが、このたびウィテカー自身が「DECCA」とアーティスト契約を結んだそうなのですね。「メジャー・デビュー」ってやつでしょうか。そこで、彼の作品を演奏するために作られたのが、ここで演奏している「エリック・ウィテカー・シンガーズ」という、イギリスの歌手を集めた合唱団です。なにしろ、ウィテカーは「イギリスの合唱団が最高」と言って賛辞を惜しまない人ですから、これは当然のことでしょう。彼が最初に注目を集めたさっきの「Cloudburst」というアルバムについても、別のところで「私の音楽が、いつの日かイギリスの神髄とも言うべき合唱団によって、これほど美しく巧みに録音されるなど、夢想だにしなかった」と言い切っていますからね。ちなみに、このアルバムは、「ポリフォニー」の指揮者スティーヴン・レイトンから「書いたものを全部送ってもらえないか」というメールが届いたのでその通りにしたら、その1年後に出来上がっていた、というものなのだそうです。レイトンの先見の明、でしょうか。先ほどの「シンガーズ」にも、「ポリフォニー」のメンバーが参加していますし。
もちろん、このアルバムの録音はロンドンで行われましたが、その時には「シンガーズ」の他に「ラウディブス」という、「ザ・シックスティーン」や「モンテヴェルディ合唱団」、さらには「スウィングル・シンガーズ」のメンバーなども輩出した合唱団も加わっています。巨漢の醜女が集まった合唱団なのでしょうか(それは「ラージブス」)。彼らは譜読みに6時間、リハーサルには80分かけただけでこのアルバムを完成させ、ウィテカーにイギリスの合唱団のすごさを再認識させることになりました。
その、まさに彼が理想とした「イギリスの合唱団」は、完璧な演奏を聴かせてくれています。音色とピッチは、まさに彼が望んだものなのでしょう。その上で、彼の指揮は本当に自分が聴いてもらいたい「ウィテカーの魅力」を前面に押し出したものでした。タイトル曲の「Lux Aurumque(Light and Gold)」をポリフォニーの演奏と比べてみると、レイトンのやり方はちょっと厚化粧、しかしウィテカーは、「そんなに力まなくてもぼくの曲の魅力は伝わるんだよ」と言わんばかりに、いともあっさりとその美しさを見せつけてくれていますからね。
この中には、最初から合唱曲として作られたのではなく、別の目的で作ったものを書き直したというものが2曲含まれています。「Five Hebrew Love Songs」というのは、彼の「美人の」奥さんである、ソプラノ歌手のヒラ・プリットマンが、まだ恋人だった頃に作ったヘブライ語の歌詞(彼女はエルサレムで生まれ、育っています)に曲を付けたもので、元々は共通の友人であるヴァイオリニストのフリーデマン・アイヒホルンとの3人の「バンド」で演奏するためのキャッチーなラブソングでした。そして「The Seal Lullaby」は、キプリングの「白アザラシ」のアニメ映画の音楽のオファーがあった時に、デモとして作ったキプリングの詩によるかわいらしい子守唄です。しかし、この企画は制作サイドが方針を変えて「カンフー・パンダ」を作ることになったためにボツ、映画音楽として陽の目を見ることはありませんでしたとさ。

CD Artwork © Decca, a division of Universal Music Operations, Ltd.

7月4日

UNIKO
Kronos Quartet
Kimmo Pohjonen(Accordion, Voice)
Samuli Kosminen(Programming)
ONDINE/ODE 1185-2


とりあえず、タイトルは「UNKO」だと思っていました。ジャケットはいかにもな茶色の汚物という感じでしたし、赤い線は「血○」でしょうか。別にそういう嗜好はありませんが、フィンランドの名門レーベルのことですから、なにか深い考えがあってのことなのだろうな、と、変な好奇心がわいてきます。「うん、これは面白そうだ!」とか。
ジャケットを開くと、一応ブックレットが挟まっています。しかし、そこにはアルバムに関するコメントなどは一切ありません。見開きで霧の立ちこめる海の写真があるだけ、あとはクレジットしか記載されていません。しかし、全く聞いたことのないアーティストの中に「クロノス・カルテット」の名前があったので、ちょっと興味がわきます。その他にも「サンプリング」やら「プログラミング」といったタームが見受けられましたので、おそらく彼らの興味の対象がそのあたりのテクノロジーにまで及んだ成果が聴けるのではないか、という期待もありました。
トラックリストによると、このアルバムは全部で7つの部分に分かれているようです。そのタイトルがフィンランド語というのが、えらくローカルな感じ、訳してみると、それらは「ミスト」、「プラズマ」、「エッジ」、「死」、「恐怖」、「母」、「広大」というものであることが分かります。なんだか、これだけで曲のコンセプトが分かったような気になってしまいます。最初の「ミスト」が、写真と対応しているのでしょうね。あとは様々なヘビーな体験を乗り越えて平安の境地にたどり着く、とか。
というより、こういうジャケット構成やタイトルを見ていると、なんだか1970年代あたりの「プログレッシブ・ロック」のテイストに近いものが感じられてしまいます。「イエス」とか「ピンク・フロイド」ですね。
確かに、聴き始めるとそんな予想は裏切られなかったことに気づきます。最初に聴こえてきたのは、それこそ霧の立ちこめる描写には欠かせないSEでした。何やら思わせぶりな弦楽器のサンプリングなどが登場したりして、そこには「サウンドスケープ」のようなものが広がります。と、いきなり曲調が変わり、「3/3/2」というありがちなビートに乗ったアップテンポの音楽になりましたよ。これはまさに「プログレ」の世界です。ただ、いにしえの「プログレ」と違うのは、テクノロジーの進歩によってもたらされた、けた違いに多様性をもったサウンドです。
曲のコンセプトは、キンモ・ポホヨネンとサムリ・コスミネンというフィンランドのミュージシャンが作ったものなのでしょう。ポホヨネンは自らのアコーディオンや、様々な「声」で演奏に加わります。クロノス・カルテットが演奏するための譜面も、彼が用意したのでしょう。しかし、それらは単に「素材」として提供されたもので、それらをサンプリングし、別の音源とともにプログラミングを行うのは、コスミネンたちの仕事、かくして、うす暗いクラブに大音量で鳴り響くにはもってこいのサウンドが生まれました。
これは、なかなか気持ちの良いものです。時たま聴こえてくる弦楽四重奏は、確かにリリカルな側面を持っていますが、それが腹の底に響き渡るビートの中にあると、全く別のアグレッシブなパーツとして感じられるようになってくるのです。今のようなムシムシする季節のなかでは、ひときわ刺激的な清涼感を味わうことが出来るはずです。
これも予想通りのことでしたが、そんなある意味破壊的な音楽は、最後に向けていとも穏やかに集結していきます。こんな安直さも、確かに「プログレ」の持つ一つの味でした。いや、そもそもそんなコンセプトはベートーヴェンの時代から音楽の中にはあったものなのです。そんな「甘さ」が、「震災後」という今の状況で音楽が「力」になりえない原因の一つとなっているのでは、と考えるのは、決して見当外れのことではありません。

CD Artwork © Ondine Oy

7月2日

キリスト教を知りたい
キリスト教をもっと知りたい
月本昭男監修
学研パブリッシング刊(
GAKKEN MOOK
ISBN978-4-05-604983-0
ISBN978-4-05-606252-6


普段、「宗教曲」というジャンルの音楽を聴いていながら、それが本来演奏されるべきステージである「キリスト教」については、それほど深い知識があるわけではありません。いや、そもそもこれは「勉強」して「知識」を得るというようなものではなく、本当は篤い信仰の心がないことには、真の意味で「宗教曲」を理解することは出来ないものなのかも知れません。とは言っても、バッハやフォーレの曲をより深く味わいたいと思えば、たとえ上っ面だけでも「勉強」することは、決して無駄なことではないはずです。
そんな時に役に立ちそうな「ムック」が見つかりました。世界中から集められた教会や、それらを飾る芸術作品の写真を通してキリスト教を分かりやすく「体験」してもらおうという熱意がビシビシと感じられる2冊です。1冊目は去年発行されたものですが、一部2色刷というちょっとしょぼいところがありました。しかし、今年になった発行された「もっと〜」では全ページフルカラー、とても650円とは思えないような豪華さで迫ります。
実は、手に取って読んでみると、この本はそんなに直接的に音楽を聴く時の参考になるようなものではありませんでした(笑)。例えば、バッハのカンタータには、その曲がどういう機会に演奏されたものか、というようなことが必ず情報として付いてきますが、その「なんたら祭」やら「かんたら節」というのがどういうものであるか、というような「知識」は授けられることはありません。まあ、この辺は別の参考書をあたってくれ、ということなのでしょう。
その代わり、イエス・キリスト本人の生涯や、それこそ最後の「受難」や「復活」に関しては、様々な美術品を総動員してビジュアルに迫っています。これだけ「目に見える」形で説明してもらえれば、かなり役に立つ場面がありそうです。もちろん、そんな「場面」とは、「受難曲」というようなタイトルが付けられた音楽を聴く時ですね。もしかしたら、ロイド・ウェッバーのミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見る時にも、非常に役に立つのかも知れません。例えば、そんなお話の中でもクライマックスとなっているのが「ペテロの否認」の場面ですが、ここだけ聴いたのでは彼はただの保身に走った男、ぐらいにしか思えないものが、実は将来はきちんとえらい人になっている、などということが分かり、一安心することが出来るのですよ。つまり、聖書に関しては、恥ずかしながらその程度の知識しか持ってはいなかった、ということなのですがね。
それと、例えばリストの作品などのモチーフになっている「道行きの14のステーション」についても、今までは概念的なイメージしか持てなかったものが、ここで「実物」を見せてもらえればそれを「実体」として捉えることが出来るようになります。
もちろん、キリストの周辺の人物に関するトリビアも豊富です。例えば、聖母マリアは、「マニフィカート」と重要な関連を持っているのだ、ということは断片的には知っていましたが、それがいったいどのようなものだったのか、という、おそらく「初歩的」な知識も、ここでしっかり仕入れることが出来ましたよ。「処女懐妊」したのは、聖母マリアだけではなかったのですね。
ところで、全く愚かな話ですが、以前は「マリア」という人物は1人しかいないのだ、と思っていました。そのうち「別のマリア」がいるのではないか、とうすうす気が付くようになるのですが、その「マグダラのマリア」についての的確な情報も、ここには掲載されていました。本当のところは良く分からないのですね。なんだか、少し安心できたような気持ちになれました。お友達になれそう(それは、「マブダチのマリア」)。

Mook Artwork © Gakken Publishing Co., Ltd.

6月30日

By the River in Spring
Kenneth Smith(Fl)
Paul Rhodes(Pf)
DIVINE ART/dda25069


世の中にはたくさんのフルーティストがいますが、ケネス・スミスほどセンスの良い演奏を聴かせる人はいないのではないでしょうか。派手さこそないものの、確かなテクニックに裏付けられたパッセージは言いようのない説得力をもち、その音色は澄み切って、ロングトーンだけでも人を魅了する力を持っています。30年近く首席奏者を務めてきたフィルハーモニア管弦楽団の中での演奏は数多くのCDで聴くことが出来ますが、そこからは常に彼にしかなしえないハイレベルのフルートが味わえます。
ソリストとしても、ピアニストのポール・ローズとのコンビで多くのアルバムを出しています。1990年代にはASVから5枚、イギリスの作曲家を中心にした珠玉のようなアルバムを残してくれていましたが、最近になって、今度はDIVINE ARTから、同じ録音スタッフによるアルバムが出るようになりました。先日の「A Song without Words」がその最新のものだったのですが、そのライナーにあった録音リストの中には、まだ入手していないものが1枚ありました。それがこのCD、注文はしてみたものの、国内には在庫がなかったようで何度も何度も「もう入荷する見込みはないので、いい加減キャンセルしてくれ」というメールが送られてきます。そんな脅しにもめげず、根気よく待っていたら、ほら、晴れて手に入ったではありませんか。あなたにもきっといい人が見つかりますって(それは「婚期」)。
このアルバムでは、ASV時代からのスミスのライフワーク、ほとんど知られていない20世紀に活躍したイギリスの作曲家の作品が演奏されています。全部で8人の作曲家が登場しますが、そのうち馴染みがあるのはせいぜいハミルトン・ハーティぐらいのものでしょうか。しかし、曲そのものはいかにもイギリスらしいオーソドックスなスタイルの親しみやすいものばかりです。それらをていねいに歌い上げているスミスの演奏によって、全く知らない曲でも極上の一時を過ごせることは間違いありません。
そのハーティの「In Ireland」という曲では、アイルランドの雰囲気を伝えるメランコリックな部分と軽快な踊りの部分が交代で登場します。いかにリズミックな部分でも、決して羽目を外すことのない上品さは、まさにスミスならではの持ち味でしょう。アルバムのタイトルともなっている「By the River in Spring」という曲を作ったマイケル・ヘッドは、歌曲や合唱曲の作曲家として知られていますが、ここでも「うた」が満載、カデンツァが少し入る程度で、メカニカルな部分はほとんどありません。そこからは、豊かな自然の息吹が伝わってくるよう。
この中でちょっと異色なのが、ウィリアム・オルウィンのフルート・ソナタです。3つの部分が続けて演奏されますが、最初の部分は半音進行が多用される、ちょっと取っつきにくいテイストを持っています。中間部は、アダージョ・トランクイロの静かな音楽ですが、やはり入っていきづらい冷たさがあります。そして最後にはなんとフーガの登場です。まるでエチュードのような跳躍の多い不思議なテーマ、さすがのスミスもちょっと苦しそう、なんと言っても録音が行われたのは2007年で、そろそろ還暦に手が届こうという時ですからね。
ここには少し前の録音も入っています。元々はヴァイオリンのためのソナタだったケネス・レイトンのフルート・ソナタも、1996年に録音されています。さすがにこの頃はまだ勢いがあったことが良く分かります。ちょっとディーリアスっぽいこの曲の最後の楽章のタランテラ風のパッセージでの技術の冴えはさすがです。そして、曲の最後でのとてつもないディミヌエンドは、まるで神業。
しかし、2007年の録音でも、エドワード・ジャーマンの「Gypsy Dance」のような同じような難しい曲を軽くあしらっているのですから、まだまだ衰えてはいません。この先もまだまだ楽しませて欲しいものです。これで、彼のソロアルバムのディスコグラフィーも完成しました。

CD Artwork © Divine Art Record Company

6月28日

MAHLER
Symphony No.2 'Resurrection'
Adriana Kucerova(Sop)
Christianne Stotijn(MS)
Vladimir Jurowski/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0054


あの震災以来、巷には「復旧」や「復興」という言葉が踊っています。被災地にとって、これらの言葉は一つの目標となるものなのでしょうが、その実現の前に立ちはだかる幾重ものハードルは、時として絶望的な気持ちを呼び起こすものでしかありません。私たちが迷いなくこれらの言葉にしたがっていけるような環境を整えることが、実はそれらの言葉を連呼する以前に必要だということに気が付いていない人たちが、あまりにも多すぎるような気がしませんか?
マーラーが「復活」交響曲を作った時には、まさかこのような事態を想定していたなどということは考えられません。しかし、そのタイトルだけに注目してこの曲を「復興」の意味を込めて演奏する、という場面には、これからはさぞ頻繁に出会えることでしょう。確かに、長々と「葬礼」やら「最後の審判」やらの描写が続いた後に、合唱によって歌われる「復活」のコラールは、なんと感動的なものでしょう。少なくともベートーヴェンの「第9」ほどノーテンキではないその深刻さには、もしかしたら涙さえ浮かべる人だっているかもしれません。
そのような「効用」を狙ってのことでは、もちろんないのでしょうが、このところ立て続けに「復活」のアルバムがリリースされています。今回のユロフスキ盤(2009年9月録音)と、OEHMSから出たシュテンツ盤(201010月録音)です。録音されたのはいずれも震災前ですから、これは全くの偶然に違いありませんが、どちらのレーベルも日本での販売元は同じ、そこには何らかの「意思(=思惑)」が働いているのでは、と考えるのもあながち見当外れではないはずです。
はたして、そんな目論見はあたっているのか、実際に聴いてみて検証です。
ユロフスキの「復活」は、なんともマーラーらしくない自信に満ちた表情で始まりました。冒頭の弦楽器のトレモロは、まるでワーグナーの「ワルキューレ」の前奏曲のように聞こえます。それは、確か「嵐」を表現したものだったはず、そのひたすら攻撃的な表現からは、マーラーならば必ず備わっているはずの「はかなさ」は全く感じ取ることは出来ませんでした。これは、あたかも力ずくで全てを奪い去ってしまった「津波」そのものではありませんか。そのあと、トゥッティで現れる「ドッ、シラッ、ソファッ、ミレッ、ド」という下降音型などは、瓦礫を撤去する勇ましい重機の描写のようには聞こえませんか?こんなものを被災者に聴かせるには、勇気が必要。
第2楽章は、うってかわって平穏なたたずまいが広がります。しかし、このユロフスキの仕上げはなんと作為的な滑らかさに満ちていることでしょう。これを聴いて、なぜかブルース・ウィリスが主演した映画「サロゲート」に出てくるとても美しいのだけれどのっぺりしていて味わいに乏しいロボットの顔を思い出していました。あまりの甘美さに少しうとうとしたりすれば、第3楽章のまさにサプライズでしかないティンパニの轟音で、目を覚まさざるを得なくなります。
そんな風に、音自体はとても明瞭で豊かな響きなのに、なにか不自然なところのある演奏は続きます。「原光」で聞こえてくるメゾ・ソプラノの深い声だけが、そんな中での唯一の救いでしょうか。そして、いよいよ「復活」たる所以の合唱が始まります。しかし、いたずらに弱音にこだわり、ピュアと言うにはほど遠い濁った響きの合唱からは、なんの緊張感も味わうことは出来ません。しかも、オルガンも加わって高らかに歌い上げられるはずの最後のクライマックスでは、CDの悲しさ、ピークが一目盛り下がってしまって、せっかくの高揚感が損なわれてしまいました。嘘でもいいから、ここだけは盛り上げて欲しかったのに。
残念ながら、このCDは到底「復興」の役には立ちそうにありません。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

6月26日

Beauty of the Baroque
Danielle de Niese(Sop)
Andreas Scholl(CT)
Harry Bicket/
The English Concert
DECCA/478 2260


今や、世界中のオペラハウスから引っ張り凧となっているダニエル・デ・ニースの、3枚目となるDECCAからのソロアルバムです。これまではヘンデル、モーツァルトときていましたが、ここでは「バロックの美しさ」というタイトルで、ダウランドからバッハまでをカバーしている幅広い選曲となりました。バックを支えるのも、クリスティ、マッケラスのあとは、やはりこの時代の音楽のスペシャリスト、ハリー・ビケット率いるイングリッシュ・コンサートです。イギリスのティータイムには欠かせません(それは「ビスケット」)。
とは言っても、最初はバンドではなくリュート1本の伴奏で、ダウランドのリュート歌曲が始まります。有名な「Come again」など、カークビーあたりのしっとりとした歌い方に慣れてしまっていると、ちょっとした戸惑いを覚えるほど、それはエスプレッシーヴォに満ちたものでした。なによりも、彼女の最大の特徴である豊かな色彩感が、とてもインパクトを持って迫ってきます。歌われている英語も、なんとリアリティを持って届くことでしょう。これは、別に深刻ぶって歌うような曲ではなかったのですね。そう、これはまさに彼女ならではの、個性あふれるダウランド、なんだか目から鱗が落ちるような思いです。
続いて、ヘンデルの定番、「Ombra mai fu」が歌われます。キャスリーン・バトルによってべったりと手垢が付けられてしまったこの曲、デ・ニースは基本的にはそんな路線に沿っているかに見えますが、その歌の中にはもっと直接的に訴えるものが込められていると感じられるのはなぜなのでしょう。それは、おそらくヘンデルの様式感をしっかり踏まえた上での自由な表現がもたらすものなのかも知れません。このアルバムではヘンデルが5曲も歌われていますが、そのどれもがコロラトゥーラのスキルも含めて、しっかりとヘンデルらしさを、情感たっぷりに聴かせてくれるものでした。
パーセルの「ディドの死」なども、彼女が歌うとその悲しみが等身大のものに思えてくるから不思議です。息づかい一つとってみても、そこには間違いなく共感を呼ばずにはおかない心情が表現されています。
今回はゲストとして、カウンター・テノールのアンドレアス・ショルが加わっています。彼とのデュエットが聴かれるのは、まずモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」から「Pur ti miro」。ショルの芸風はそんなに堅苦しいものではないと思っていたのですが、こうしてデ・ニースと一緒に歌っていると、やはり弾け方が違うな、という気になってきます。もう1曲、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」でも、その印象は変わりません。この二人は同じフィールドの歌い手としてとらえるべきなのでしょうが、デ・ニースが時折見せる肉感的な表情には、やはりショルとは違う世界が感じられてしまいます。
最後には、バッハが登場します。「結婚カンタータBWV202」と「狩りのカンタータBWV208」という有名な世俗カンタータから2曲のアリアです。ここで彼女が、同じバッハでも宗教曲や教会カンタータを選ばなかったのは、賢明なことでした。確かに彼女はバロックの様式はしっかり身につけているのですが、それは主にオペラにおける表現様式、オペラとは無縁のバッハの音楽では、ギリギリの所で逸脱しかねない危なさを秘めています。ですから、ここで演奏されているものあたりが、かろうじて彼女の資質で歌える限界のような気がします。ヘンデルとバッハは並んで語られることの多い作曲家同士ですが、実は根本は全く別のものを目指していたことが、デ・ニースの歌を聴くことによってはからずも明らかになっているのではないでしょうか。
SACDを聴き慣れていると、この録音はなにか平板なものに感じられてしまいます。ソプラノ・ソロや、特にトランペット・ソロなどは、SACDであればもっと浮き出して聴こえてくるはずです。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

6月24日

BACH
Passio secundum Johannem
Maria Keohane(Sop), Carlos Mena(Alt)
Hans-Jörg Mammel, Jan Kobow(Ten)
Matthias Vieweg, Stephan MacLeod(Bas)
Philippe Pierlot/
Ricercar Consort
MIRARE/MIR 136


以前「マニフィカート」でなかなか心地よい演奏を聴かせてくれたピエルロとリチェルカール・コンソートが、あの時とほとんど同じ歌手のチームで「ヨハネ」を録音してくれました。ジャケットの絵が、作者は違いますが同じようなタッチのものが選ばれているのも、共通のコンセプトを意識してのことなのでしょうか。「マニフィカート」では聖母マリアがトリミングされていましたが、実際はその眼差しの先には幼子イエスが無邪気に遊んでいたはずです。しかし、今回の「ヨハネ」では、同じ聖母マリアが、埋葬するために十字架から下ろされたイエスの遺体を膝の上に抱えているという「ピエタ」からのカットが使われています。
この曲の場合真っ先にチェックするのは「稿」に関しての情報です。まずライナーを読んでみると「ピエルロが行った1724年の第1稿の録音に、第2稿からの曲を2曲加えた」と書いてあったので、ちょっと期待してみました。なにしろ今まで「第1稿」で録音されたものはフェルトホーフェン盤しかありませんでしたからね。タイトルだって「バッハのヨハネ受難曲(1724/25)」ですよ。2つ目の「第1稿」でしょうか。
しかし、実際に聴いてみると、それは全くのデタラメでした。少し前にアレ盤でも似たようなことがありましたが(こちらは「第2稿」という「偽装」でした)、今回のライナーで「1724年の第1稿」と言われているものはただの新全集版(つまり、1739年の未完のスコアを元に校訂されたもの)でしかなかったのですよ。この両者は、確かに構成されている曲は全く同じですが、それぞれの曲は中身が微妙に異なっています。9番のアリアや38番のレシタティーヴォでは小節数まで違うのですからね(ご参考までに、9番の小節数は第1稿〜第3稿:171小節、第4稿:172小節、1739年稿:164小節。それに対してピエルロ盤もアレ盤も演奏されているのは164小節)。こういう、「稿」の意味をはき違えている(というか、実態を知らない)いい加減なライナーは困ったものです。ですから、これを鵜呑みにして、「レコ芸」7月号にレビューを書いた「ジャーナリスト」は、赤っ恥をかいたことになりますね。楽譜も持たずに「稿」を語ろうとすると、こういう痛い目に遭ってしまいます。
なにしろ、最近ガーディナーブリュッヘンという2人の「巨匠」の録音を聴いたばかりですから、ピエルロのような「中堅」にはちょっと分が悪いのは仕方がありません。なによりも、エヴァンゲリストとイエスを担当しているマンメルとヴィーヴェークは明らかに力不足、マンメルは13番のアリアも歌っていますが、それもなんだか危なっかしいものでしたし。
合唱の部分は、各パート2人ずつで歌うというプランになっています。いわゆる「OVPP」の倍、という形なので、普通はこれでかなり厚みが出てくるものです。さっきのアレ盤なども同じ編成でしたが、迫力という点では圧倒されるものがありました。しかし、こちらは最初から迫力勝負は避けているような潔さがあります。あえてドラマティックな表現はスルーして、もっと音楽的な美しさを追求しようという姿勢なのでしょう。正直、この曲にその様なアプローチがふさわしいかどうかは分かりませんが、確かに「マニフィカート」からの流れだったら、それもありかな、という気にはなります。
その前作でも素晴らしかったアルトのメーナも30番のアリアでは、変に深刻ぶったりせずにとても美しい歌い方を披露してくれています。この曲のガンバのオブリガートは、なんとピエルロ自身が演奏しています。それも、ピュアな音色が美しい名演です。そして、出色はソプラノのケオハネでしょう。なんせ、彼女はフェルトホーフェンが来日してこの曲を演奏した時にも参加していましたから、「本物の」第1稿を歌ったことだってあるのですよ(キングインターが付けた表記が「キーオヘイン」ですって)。

CD Artwork © Mirare

6月22日

EŠENVALDS
Passion and Resurrection
Carolyn Sampson(Sop)
Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA 67796


スティーヴン・レイトンがこのレーベルで紹介してくれる合唱作曲家たちは、常に新鮮な感動を与えてくれていました。先日来日した、今をときめくエリック・ウィテカーにしても、最初に触れたのは彼らの演奏でした。今回は、すでに合唱界ではかなり有名になっていて楽譜も広く出回っている、1977年生まれの俊英、ラトビア出身のエリクス・エシェンヴァルズです。
ラトビアといえばサロンパス味の炭酸飲料(それは「ルートビア」)ではなく、「バルト三国」として、エストニアやリトアニアと一緒に語られることが多くなっています。ですから、エストニアを代表する作曲家、アルヴォ・ペルトの後継者のような言い方も、一部ではされているようですね。だったら、とりあえずそんな先入観を持って聴き始めたって、別に構わないはずです。
確かに、アルバムタイトルである、2005年の作品「受難と復活」では、そんなペルトのエピゴーネンのような面は感じられました。弦楽合奏で合唱を彩るというやり方も、多くのペルトの作品には見られること、そんな、少しモノフォニックなヒーリング・サウンドは、間違いなくペルトを意識したものなのでしょう。しかし、エシェンヴァルズの場合は、そこにちょっとした「ズレ」が加わっているのですね。合唱と弦楽器は、寄り添うようでいてそれぞれが全く別のことをやっています。リズム的にもズレていますし、調も全然関係のないものになっています。一見ヒーリングに見えて、そこにはポリリズムやポリコードが織りなす不思議な緊張感が漂っているのですね。これは間違いなく彼の個性なのでしょう。
ただ、ここでソロを歌っているサンプソンが、そんな緊張感を意識しないであまりにノーテンキな歌い方に終始しているために、全体のテイストがヒーリングっぽくなってしまっているのが残念です。
ですから、彼の魅力が満喫できるのは、その他の無伴奏の曲ということになります。「ポリフォニー」のメンバーは、ここでは、それぞれに興味あふれる手法を見事に表現してくれています。まず「Evening」と「Night Prayer」という2曲は、それこそウィテカーのようなデリケートな和声をふんだんに使った流れるような美しい曲です。たとえば、アマチュアの合唱団がコンクールの自由曲に選んでしっかり練習すれば、その合唱団のスキルが間違いなく向上するのでは、と思えるような、「歌いごたえ」のある曲なのではないでしょうか。もちろん、各声部のバランスといい、音色のまとめかたといい、かなり敷居は高いものですから、ある程度以上の実力のある合唱団でなければ結果は悲惨なものに終わることは目に見えています。
次の「A Drop in the Ocean」は、多くの要素が幾重にも集まったスリリングな曲です。口笛のSEにラテン語のほとんど「語り」のような単旋律が絡み、そこに詩篇や、マザー・テレサの言葉がテキストになった合唱が加わる、という入り組んだ構造を持っています。そこから生まれる混沌と、テキストの持つメッセージ性とが相まって、言いようのない感動を生んでいます。この中で歌われるメンバーによるソプラノ・ソロもとても美しいもの、この合唱団の層の厚さを感じさせます。
Legend of the Walled-in Woman」という曲は、アルバニアの伝説をテキストにして、音楽素材もアルバニアの民族音楽が使われているという、ちょっと他の曲とは異なったテイストを持っています。民族的な素材と、洗練された澄みきったハーモニーとの対比が聴き物でしょう。作曲家の幅広いバックグラウンドがうかがえます。そして、それをこともなげに歌い分けている合唱団のすごさにも、改めて感服です。
最後は2010年に作られた新作「Long Road」です。これもそれまでとはガラリと変わった曲想、まるでジョン・ラッターのようなシンプルでメロディアスな世界です。これだったら、並の合唱団でも手がつけられそう。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

6月20日

REICH
The Dessert Music, Three Movements
Kristjan Järvi/
Chorus Sine Nomine
Tonkünstler-Orchster Niederösterreich
CHANDOS/CHSA 5091(hybrid SACD)


「ミニマル」の立役者として、常に最前線で活動しているスティーヴ・ライヒの作品は、その名の通り「小さな」編成のものばかりだと思いがちですが、しっかりフル・オーケストラのための曲も作っています。それらは、1979年から1987年の間に集中して作られました。その中には、大人数の合唱が加わったいわば「カンタータ」とも言うべき作品もあるのですから、ちょっと意外な気がしませんか?どんなジャンルの作曲家でも、ある程度世の中に認められると、「委嘱」という形でオーケストラのための曲を作る機会も出てくるのですよね。そんな時のために、作曲家たるものはしっかりと「管弦楽法」の勉強もしておかなければいけないのですよ。
しかし、ライヒのことですから、そんなオーソドックスなオーケストレーションにこだわるようなことはしてはいません。1984年に作られた「砂漠の音楽」では、やはり際立って聞こえてくるのは、他の作品同様、ピアノや打楽器による規則的なパルスなのですからね。さらに、合唱や木管楽器には「amplified」という、普通のクラシックの楽譜にはあり得ないような指示がつけられています。つまり、マイクで拾った音をアンプで増幅してバランスをとるという、「PA」の思想ですね。もっとも、こういうことをやったのは別にライヒが初めてではなく、その20年ほど前にすでにルチアーノ・ベリオが「シンフォニア」の中でスウィングル・シンガーズに同じことをやらせていましたがね。
「砂漠の音楽」はケルンの放送局とアメリカの音楽団体との共同委嘱でしたから、まず1984年3月に、ペーテル・エトヴェシュの指揮によるケルン放送交響楽団によって世界初演されたあと(エトヴェシュは1985年7月のイギリス初演の録音も、BBCから出していました)、同じ年の10月にニューヨークでアメリカ初演が行われました。この時の指揮はマイケル・ティルソン・トーマス、打楽器のパートにはライヒ自身の仲間たち(「ネクサス」などのメンバーですね)が加わりました。その直後に同じメンバーでNONESUCHに録音されたものが、この曲のほとんど「定番」になっていましたね。その後、もう少し少人数でも演奏できるような「アンサンブル版」の楽譜も出版され、2001年にはそれによる録音も出ましたが、フルオケ・バージョンの新録音が出るまでには20年以上の歳月が必要でした。
5楽章から成るこの曲では、合唱が大きな役割を果たしています。その前の作品でもお馴染みだった、スキャットによるパルスがアンサンブルとして楽器のように使われる他に、ここではテキストを使ってしっかり具体的なメッセージを伝えるということも行っているのです。真ん中の長大な第3楽章では、まるでサイレンの音のような、ライヒにしては珍しい「連続した」音型まで披露していますからね。
今回の演奏、その合唱がなにか冴えません。そもそも、第1楽章の途中から合唱が入ってきたように聴こえたので、わざわざNONESUCH盤を引っ張り出して聴き直してみたのですが、そこでは確かに楽章の頭からはっきり合唱が聴こえてきました。バランスが全然違っていたのですね。この曲でのライヒの合唱に対する要求はかなり過酷です。NONESUCH盤でも、それに完全には応えられていなかったのですが、今回はそれに輪をかけての情けなさです。高音は出ないし、テンション・コードは決まらないし、アインザッツもざっつ(雑)です。
おそらく、ヤルヴィは、ライヒに対するアプローチが、MTTとは全く違っていたのではないでしょうか。それは、緊密なアンサンブルよりは、なにか暖かさのようなものを求める姿勢だったのかも知れません。それは「砂漠の音楽」ではあまりうまく行かなかったものが、カップリングの「3つの楽章」では見事な成果となって現れています。弦楽器の豊かな響きと表現力からは、ライヒに対する新たな可能性が間違いなく感じられます。

SACD Artwork © Chandos Records Ltd

6月18日

Strid
Håkon Daniel Nystedt/
Oslo Kammerkor
2L/2L-073-SACD(hybrid SACD)


この前ご紹介したKind同様、意味深なタイトルが付けられた無伴奏合唱のアルバムです。いずれも2010年の1月に録音されたものなのですが、今回はさらにハイレゾで迫ります。水着グラビアじゃないですよ(それはハイレグ)。こちらは「32bit」ですって。「24bit」でもDSDの3倍のデータ量だったものが、こちらでは4倍なのだそうです。それでもまだ「アナログ」には及ばないというのですから、普通のCDで聴く「デジタル」なんてお話にならないことになりますね。
それにしても、この2Lというのは、今までに買った多くのアルバムの中には全く「ハズレ」がなかったという、恐ろしいレーベルです。事実上、制作の全てを1人の人間が行っているという、文字通りのマイナー・レーベルですが、だからこそ音にもとことんこだわれますし、企画も好き勝手なことが出来るのでしょう。それにひとたびハマってしまえば、その魅力に惹かれてつぎつぎと新しいアルバムを買い続けることになるのです。今回も、その透き通るような音を聴いただけですでに満足してしまえるほどでした。
タイトルに使われている「Strid」というノルウェー語の単語は、英語では「Struggle」に相当するのだそうですが、国内代理店のインフォのように「戦い」と訳すよりは「対決」といった方がこの内容にはマッチしているのではないでしょうか。なにが「対決」しているのかというと、一義的にはノルウェーの伝承聖歌と、クラシックの作曲家による「聖歌」ということになるのでしょう。ここでは、全く別の文化圏から生まれたこの二つのものを、同時に演奏するというとんでもないことを行っています。言ってみれば、作品同士の「対決」ですね。それだけにはとどまりません。ここにはソリストとして、いわゆる「フォーク・シンガー」、つまり、古くから伝わる伝承歌を専門に歌う人たちが参加しています。その人たちの歌と、クラシックの合唱団という、演奏家同士の「対決」も加わります。さらに、その合唱団も、自らの中でアカデミックな西洋音楽のスキルを発揮させると同時に、伝承歌にも対応できるような民族的な発声やハーモニー感に対するアプローチも見せるという「対決」が迫られているのです。
こんなに複雑に入り組んだ「対決」の諸相、これらを昇華させてさらに高い次元を目指そうと企てたのは、おそらくこのオスロ室内合唱団の音楽監督であるホーコン・ダニエル・ニューステットだったのでしょう。このラストネームを見てピンと来た人もいるでしょうが、彼はノルウェーの合唱界の重鎮である、あのクヌット・ニューステット(今までの「ニシュテッド」という表記を改めました)のお孫さんなのですね。1980年生まれですので、やっと30歳になったばかりですが、彼の指揮と、そして作曲の才能は、もしかしたらお祖父さんを超えるものがあるかも知れませんね。というか、お祖父さん譲りのチャレンジ精神が、ここで見事に開花した、という気もするのですが。
そんなわけで、編成的にとてもバラエティに富んだプログラミングになっていますが、やはりすごいのは「クラシック」の聖歌と伝承歌とのマッシュアップでしょう。そういうものが4曲あって、それぞれラフマニノフとチャイコフスキーの「クリソストム」の聖歌、グリーグの作品39-5の「若き花嫁の棺のそばで」という歌曲の合唱版、そしてブルックナーのモテット「Locus iste」が、様々の形で伝承歌とからみます。全く同時に、異なる歌が歌われたり、お互いの断片が時たま顔を出したりと、その「対決」の様相は一つとして同じものはなく、決して退屈させられることはありません。
素で出てくる「Locus iste」を聴くだけでも、この合唱団の力がハンパでないことは分かります。その上に「民族的」な発声も自在に操れるのですからね。さらに、例えば3曲目や最後の12曲目でのニューステッド自身の編曲の素晴らしいこと。全てに於いて「見事!」としか言いようがありません。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

おとといのおやぢに会える、か。


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