カレにはブラジャー。.... 佐久間學

(07/5/14-07/6/2)

Blog Version


6月2日

BACH
Motetten
The Hilliard Ensemble
ECM/476 5776
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2058(国内盤)

このレーベルにおけるヒリヤード・アンサンブルの印象と言えば、例えばアルヴォ・ペルトの作品とか、あるいはヤン・ガルバレクやクリストフ・ポッペンとのコラボレーションといった、ちょっとひねった形での関わりが強烈に残っています。しかし、そんな状況のまっただ中にあった2003年に、こんな彼らの本来のフィールドでの仕事も残していたのはちょっと意外でした。それが今頃になってリリースされたというのは、単にセールス上のイメージを優先させた結果だったのだ、と受け止めるべきでしょう。そういえば、同じ頃に録音されたゴンベールというのもありましたね。カラスが種をほじくるというテキストだったでしょうか(それは「ゴンベー」)。
もちろん、ECMのことですから、バッハのモテットといってもありきたりの演奏で終わるわけはありません。偽作の疑いのあるものまで含めて、全部で7曲のモテットがここには収録されることになりました。そして、ジョシュア・リフキン流にすべてのパートを一人で演奏するというスタイルをとることが、彼ら(あるいはECM)なりのこだわりとなります。ほとんどの曲がとっている4声の二重合唱という編成の場合は8人、BWV227のように5声の合唱では5人ということになります。楽譜に「コラ・パルテ」ということで、合唱のパートを楽器で重ねる指示がある場合でも、同じパートであれば歌手一人以上の参加は認めないという潔さです。ただ、BWV230のように4声の合唱パート以外に独立した通奏低音のパートがある場合には、オルガンが加わっています。そんなときも専門のオルガニストを呼ばずに、手の空いたメンバー(テノールのカヴィ・クランプ)が演奏することで、「合唱のメンバーだけ」というポリシーは貫かれるのです。
基本的に男声だけで歌っているこのアンサンブルですが、ここではソプラノのパートに女声が参加しています。そのことによって、とかく禁欲的になりがちな彼らの響きが、見事に華やかなものに変わっています。その結果、この必要最小限の編成から、何の不足もない実に豊かな色彩とダイナミックスを引き出すことに成功しました。特にそれが効果的に現れているのが、新年のために作られたと思われるBWV225"Singet dem Herrn ein neues Lied"です。第1コーラスのソプラノ、ジョアン・ランが、ファンファーレのような音型を、まるで玉を転がすような音色で歌い出しただけで、そこには輝かしく明るい光が差し込んでくるのです。ほかのそれぞれのメンバーも、一人一人が充実したソノリテを持っていますから、たった8人とは思えないほどのスペクタクルな世界が広がります。終止の三和音も、限りなく短調に近いギリギリの純正和音、この編成でなければ望めない危険技ですが、そこからはゾクゾクするほどの緊張感が伝わってきます。
最も大規模な構成を持つBWV227"Jesu, meine Freude"でも、たった5人で演奏しているとは思えないほどのワイドレンジの音楽が繰り広げられています。ここで彼らが目指したものは、バッハを素材とした新しい音楽の創造であるかのように、新鮮なアイディアに満ちています。そのベースとなっているのは少人数ならではの軽いフットワークに基づく驚異的なリズム感。1曲目の正確にオンビートに乗ったコラールから聴くことの出来るもたつきの全くないドライヴ感からは、強い意志さえも感じられるはずです。それが、3曲目の同じコラールの2節目になると、複雑な内声の動きを強調してあたかも前衛的な和声であるかのような試みを聴かせてくれています。6曲目のフーガも、ことさら曖昧さを前面に押し出したような不思議な味わいを持っています。
ここで我々は、リフキンの主張とは別の次元で、各声部を一人だけで演奏することの必然性を感じるに違いありません。卓越した演奏家が、それぞれ自発的な音楽を繰り広げながらも一つの方向性を目指した時、そこからは大人数の合唱からは決して得られないある意味完璧に近い表現が生まれることを知るのです。輸入盤ではブックレットやケース裏のミスプリントに印刷後に気づき、慌てて外側のケースだけシールを貼って訂正してありました。国内盤では、それも「完璧に」直されていることでしょうし。

5月31日

音楽家カップルおもしろ雑学事典
萩谷由喜子著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-81855-0

サブタイトルは「ひと組5分で読める」、メインタイトルともども、ちょっと軽めのスキャンダラスな読み物のような先入観を持って読み始めると、そのあまりに緻密な筆致に戸惑いをおぼえることでしょう。これは、「雑学」などという上っ面な言葉から連想されるイメージをはるかに超えた、ほとんど学術論文の域に達しているほどの著作です。
クレモナの名工ストラディヴァリから、ミュージカルのヒットメーカー、ロイド・ウェッバーまでという、幅広い時代とジャンルがカバーされているのに、まず驚かされます。そして、もちろんそこで扱われているカップルの物語は、さまざまな様相を示してくれています。一生仲むつまじく暮らしたものがある一方で、つらい別離を味わうものあるというのは、もちろん当たり前の話、音楽家に限らず、男女の仲などというものは、まさに千差万別なのですから。
そんな中で、どうしても別れ話の方につい引きつけられてしまうのは、他人の不幸を眺めて我が身の幸せを噛みしめたいという卑しい根性のあらわれでしょうか。例えば、ショパンとジョルジュ・サンドという、まるで運命の導きであるかのように結びつき、創作意欲の源となった関係でさえも、時が過ぎれば次第に疎ましくなってくるという様を、細かな時系列とまわりの人間との微妙なスタンスの変化を交えつつ丁寧に描かれれば、これもまた男女間の生業と悟ることが出来るはずです。「私の腕の中以外のところでは絶対に死んではだめよ」と言い続けていたサンドが、9年も経った頃にはあっさりこの愛人を捨ててしまうに至る経過は、筆者の豊富なリサーチに基づく刻銘な描写によって、手に取るように理解できるのです。
生涯一度も会うことのなかった庇護者、フォン・メック夫人が、チャイコフスキーに援助打ち切りの手紙を送ってきたくだりも、迫力に満ちたものです。突然の一方的な知らせに、何度問い合わせの手紙を出してもなしのつぶて、これは、今でしたらメールの着信拒否でしょうか。永遠に関係が続いていくと信じていたときのこんな仕打ちがいかに辛いものか、思わず我が身に置き換えて嘆きにくれる読者も、もしかしたらいるかもしれませんね。この場合は、最近の資料による証言によってその真相を知ることが出来ますが、現実には何も知らされないままの方が遙かに多いことでしょうから。
プッチーニと彼の妻エルヴィーラが結婚するまでのいきさつ、そしてその後日談などは、今回初めて知ることが出来ました。夫を捨ててまでして貧乏な作曲家との禁断の恋を選んだというのに、その相手が成功を収めたあとの豹変ぶりはどうでしょう。すっかり金の亡者と成り果てて、何一つプッチーニの創作上の助けなど出来なかっただけでなく、挙げ句の果てには個人的な嫉妬から、何の罪もないメードを自殺にまで追いやってしまうのですからね(冥土のみやげに「私の体を調べてください」と書き残したため、潔白が証明されました)。
こんな感じで、なぜか筆者のスタンスは女性に厳しく、男性が憎めないものとされているのが、心地よく読み通せた原因だったのかもしれません。そのせいで、ちょっと技巧的でくさい構成も、ほとんど気にはなりませんでした。
ボーナス・トラックとして、本編の「49組」以外に、さらに「21組」のごく簡略な紹介があります。それによってアンドレ・プレヴィンとアンネ・ゾフィー・ムターが、2006年にすでに離婚していることを知りました。ほんと、「ずっと一緒よ」などという口約束ほどあてにならないものもありません。

5月29日

BRUCKNER
Motets
Petr Fiala/
Czech Philharmonic Choir Brno
MDG/MDG 322 1422-2


教会のオルガニストであったブルックナーは、折に触れて礼拝のための小さな合唱曲を作っています。「モテット」というカテゴリーで一括して分類されているこれらの曲は、1984年に「小規模教会音楽作品Kleine Kirchenmusikwerke」というタイトルで新全集の第21巻として出版され、その全貌が知られるようになりました(こちらを参照)。それに伴って、これらの曲だけをコンテンツとするCDも数多くリリースされるようになり、交響曲作曲家として広く知られているブルックナー像とはもてっと違った、別の親しみやすい一面にも光が当たるようになってきました。
そんな「モテット集」の最新アルバムです。演奏しているのはチェコのブルノを本拠地としているチェコ・フィルハーモニック合唱団、以前フォーレのレクイエムの録音を聴いたときに、大人数にもかかわらずまとまりのある繊細な演奏をしていたという印象のある団体です。
まず、このブルックナーの録音でも、その時と同じ印象が与えられたのには、嬉しくなってしまいました。正直、この曲は少人数でしっとりと歌っているものを多く聴いてきたものですから、こんな大人数(50人ほどでしょうか)では大味になってしまうことを危惧していたのですが、そんな心配は全く必要ありませんでした。各パートともとても柔らかな音色に包まれていて、響きもとてもピュア、かなり訓練の行き届いた合唱団という印象があったからです。特に女声パートのの無垢な美しさには惹かれるものがあります。その上に、いかにも大人という感じの表現の深さが加わります。極力ブレスを少なめにした長いフレーズからは、よく練られた熟達の味が伝わってきます。
それだけでも嬉しいのに、このアルバムには今まで出ていたほかのアルバムには含まれていなかった曲が多く収録されているのですから、喜びもひとしおです。それは、ブルックナーがまだ20代だった1846年に同じ「Tantum ergo」というテキストに集中的に作曲した5曲のモテットです。もっとも、ここで演奏されているのは、後年、1888年に改訂された「第2稿」によったものです。ジャケットに「1846年」という表記しかないのは、ちょっと不親切、というか不正確です。
交響曲でさんざん自作をいじくりまわすという、彼の改訂癖についてはよく知られていますが、このようなものにまで改訂の手を施すというあたりが、ブルックナーの面目躍如といった気がして、なんだか和みませんか。その中で変ホ長調の曲(新全集Nr.37-3)の第1稿(上)と第2稿(下)を比較してみると、こんな感じになっています。

バスや内声の動きだけでなく、メロディも微妙に異なっています。7小節目のテノールの動きなど、いかにも「晩年のブルックナー」という感じが加わっていますね。
こちらで見ることが出来るように、今まで、CAPRICCIO盤、NAXOS盤、CARUS盤では散発的にニ長調のもの(Nr.38)などが収録されていたことはありましたし、変イ長調(Nr.37-2)とハ長調(Nr.37-4)はORFEO盤だけにはありました。しかし、5曲全部がこのように一堂に会するのは、おそらく今回のCDが初めてのことではないでしょうか。
その他にも、1854年に作られた「Libera me」などという録音に恵まれていない曲も収録されています。トロンボーン3本とオルガンが加わるという大規模な、それでいてシンプルな美しさに満ちた曲が、このようなすばらしい演奏で聴けることになった喜びを、噛みしめているところです。

5月27日

STRAVINSKY
Le Sacre du Printemps, Petrouchka
Evgeny Svetlanov/
Orchestre Symphonique d'État de la Fédération de Russie
Orchestre Philharmonique de Radio France
WARNER/5101 14507-2


フランスのワーナーから、「オフィシャル・エディション」ということで、スヴェトラーノフの録音が、完成すれば全部で100枚の全集となる予定で進行中です。ニーナ未亡人の監修で進められているこのプロジェクト、全部が出揃うのは2010年の秋になるのだとか、 気の長い話ですががんばってほしいものです。というのも、最近のCD業界の変化の早さを見ていると、3年も先のメジャー・レーベルのクラシックに対する姿勢などとうてい予測できないからです。ただ、これからの新録音などはありえませんから、ほとんどがリイシュー、そんなに手間もリスクは多くはないはずですが。
ウェブサイトに連動、サイトのデザインをそのままジャケットに転用したとてもスマートなパッケージからは、このロシアの巨匠の泥臭いイメージを感じなさいと言われてもとても無理なような気さえしてしまいます。オーケストラの名前がフランス語表記なのも、そんな印象を助長するものなのでしょう。もちろん、「ペトルーシュカ」を演奏しているのはれっきとしたフランスのオーケストラですが、「春の祭典」は「ロシア国立交響楽団」をフランス語で書くとこうなるということです。
その「春の祭典」は、1966年の録音ですから、正確には「ソヴィエト国立交響楽団」と表記しなければならないのでしょう(現在の呼称で統一しているのだと思いきや、きちんと「ソヴィエト〜」となっているアイテムもあるそうなので、油断は出来ません)。もちろん、これは以前MELODIYAからリリースされていたものです。今回はマスタリングが新しくなったのでしょうか、そんなソヴィエト時代のちょっと怪しげな音ではなく、ごく最近の録音だといっても通用するようなクリアな音であることに驚かされます。一つ一つの楽器の粒立ちが非常に際だっていて、その分、演奏家の細かい息づかいまでしっかり伝わってくるような気がします。そんな中で感じられるのが、この曲の中にある「ロシア的」な一面です。とかく複雑なオーケストレーションの処理に目が行きがちなものですが、ここでは、例えばピッコロのちょっとしたフレーズや、装飾音の付け方の中にもしっかり「哀愁」のようなものが宿っているのを見つけることが出来ます。オーボエあたりのちょっと不思議な音程の取り方も、ロシアの血のなせる技なのかもしれません。アルトフルートのソロでも、ノンブレスで淡々と吹いている様には何か民族的な楽器のであるかのような雰囲気さえ漂います。それと同時に、打楽器や金管楽器の、まるでロシアの大地を思わせるような、ほとんど暴力的でさえある力強さも感じないわけにはいきません。銅鑼の一発からさえ、何か特別な思い入れが聞こえてくるほどです。
もう1曲の「ペトルーシュカ」は、今回が公式には初出となるはずの、1999年にパリで録音されたフランス国立放送フィルハーモニックとの演奏の放送音源です。これは「春の祭典」とは全く対照的、もう、最初のフルートソロからロシアのオーケストラとは全く異なる滑らかな響きを聴くことが出来ます。曲自体もさまざまなアイロニーが込められた一筋縄ではいかないものですから、このフランスのオーケストラのサウンドは好ましいものです。そんなオーケストラを操るスヴェトラーノフ、無理に自分の趣味を押しつけようとはしないおおらかさの中にも、しっかりと自分の個性だけは反映させているのですから、さすがです。

5月25日

AHO
Contrabasoon & Tuba Concertos
Øystein Baadsvik(Tub)
Mats Rondin/Norrköping SO
Lewis Lipnick(CFg)
Andrew Litton/Bergen PO
BIS/BIS-CD-1574


フィンランド語には日本語と似たような発音の言葉がたくさんあるのだそうです。「スシ」といえば「狼」のことですし、「兎」のことを「カニ」というように、意味の方は微妙に違っているところが面白いですね(全然違ってますって!)。ですから、今やフィンランドを代表する作曲家とされているこの「アホ」さんも、同じ発音の日本語とは全く違う意味を持っているのだと思いたいものです。
1949年生まれのカレヴィ・アホは、最初はシベリウス音楽院で作曲をラウタヴァーラに学びます。卒業してからも、ベルリンで1年間ボリス・ブラッヒャーに師事、正統的な技法を身につけます。彼の作品は、4つのオペラを筆頭に多岐にわたっていますが、中でも12曲の協奏曲が目を引きます。そこで選ばれている独奏楽器は、オーケストラのほとんどの楽器をカバーしています。そのほかに交響曲第9番では、トロンボーンがソリストとして活躍しているように、それらは数多くのソリストたちとのコラボレーションの結果なのでしょう(例えば、その交響曲はクリスティアン・リンドベリ、フルート協奏曲は、シャロン・ベザリーのために作られました)。
そして、このCDでは、なんとチューバとコントラファゴット(ふつうは「コントラバスーン」とは言いません)のための協奏曲です。どんな楽器を扱おうと壮大なパノラマなような世界を築きあげるアホ、ここでの成果も期待できるはずです。オーケストラの最低音を受け持つ金管と木管の代表選手、その名人芸を堪能することにしましょう。
「チューバ協奏曲」は、2001年にラハティ交響楽団のチューバ奏者ハリ・リズルによって初演されました。ここでは、チューバという楽器の持つ幅広いキャラクターが遺憾なく発揮されています。それは、実は想像以上の成果だったのかもしれません。おそらくこのCDでの演奏家、オーケストラに属さずに、フリーのチューバのソリストという非常に珍しいポジションで活躍しているノルウェーの名手オイスタイン・ボーズヴィークの力によるものなのでしょうが、この楽器のほとんど知られることのないリリカルな一面が、実にくっきりと伝わってきたのです。あのどでかい図体からは想像できないような、ソフトでフレキシブルな歌い口、それはとろけるようなビブラートと相まって、誰しもを魅了することでしょう。そして、それとは極端なまでにかけ離れたエネルギッシュな低音の咆哮とのあまりの落差に、やはり誰しもが驚かされるはずです。ほんと、この、まるでチョッパー・ベースのような粒立ちのはっきりした低音は、ほとんど生理的な快感を得られるほどの勢いを持っていました。
「コントラファゴット協奏曲」は、ワシントンのナショナル交響楽団のコントラファゴット奏者ルイス・リプニックの委嘱によって、2005年に作られました。ここでもそのリプニックが演奏しています。まず冒頭に現れる長大なソロによって、この楽器の不思議なサウンドに度肝を抜かれることでしょう。そして、同じ低音でも、この楽器にはチューバとは決定的に異なる何かおどろおどろしい情念のようなものがついてまわっていることに気づかされるはずです。もはや旋律楽器というイメージはほとんど望めない、まるでサウンド・エフェクトのような役割を期待しても、それほど的外れではないことも分かるはずです。アホがそのあたりを意識したのかどうかは分かりませんが、それ以降、オーケストラが入ってくると、この楽器はコンチェルトのソリストというよりは、時折登場して面白いことをやってくれる道化師のような役割を演じさせられているような錯覚に陥ってしまいます。アホのオーケストレーションはとことん華麗さを追求するものですから、他の管楽器たちは手ぐすねを引いて存在感を誇示しようとしているものばかり。そんな中にあって、このソロ楽器はかなり屈辱的な扱いを受けているように感じられてしまうのも、またコントラが持っているキャラクターのなせる技なのかもしれませんね。今度はもっと引き立つような曲を書いて下さいね、アホさん。

5月23日

Denim
竹内まりや
MOON/WPCL-10405/6

2001年に発表されたBon Appétit以来6年ぶりとなる新しいオリジナルアルバムです。2003年に出たLongtime Favoritesはオールディーズのカバー集ですからカウントはされなかったのでしょう。
このアルバムの発売に先だってのプロモーションには、すさまじいものがありました。別にバストが大きいとかそういうことではありませんが(それは「プロポーション」)。それは、最近の音楽シーンではごく当たり前のように行われているものなのでしょうが、実際に贔屓のアーティストがそんな現場で営業活動にいそしんでいる様子を見ていると、ちょっと悲しい思いがよぎります。全国各地の放送局を回って、さも、その土地だけにやってきてファンの皆様のためにラジオに出演しています、みたいな顔をして、2〜3週間は使えるほどのインタビューを収録していくのですから、何とも大変なことです。しかも、話している内容はいかにこの新しいアルバムが素晴らしいかということを微に入り細に入って説明するというもの、有り体に言えば、それはこれから聴こうとするリスナーの想像力までもねじ曲げてしまうほどのお節介な行為なのではないでしょうか。正直、アイドル時代からの長年のファンである私でも、今回の異常とも思えるプロモーションにはいささかげんなりしているところです。
そんなわけで、実はアルバムを実際に聴く前に、あらかたのものはラジオを通じて聴いてしまっているのですから、今度はじっくりCDによって、録音されたままの美しい音で聴くのが何よりの楽しみになってくるはずです。ところが、その音があまり良くないのです。最近のポップスのCDは、マスタリングのレベルがとてつもなく高くなっていることは知っていましたし、実際にそういうものを何枚か聴いたことがあります。もちろん、それは単にボリュームを絞りさえすれば、きちんとクリアな音で聞こえてきたものです。しかし、今回はレベルを下げても音のクオリティが極端に悪いままなのですよ。ヴォーカルは何かざらついていて潤いがありませんし、オケの音場も平板でそれぞれのパートが主張してくることがありません。私のシステムはかなり古いものですが、クラシックに関しては何不自由なく作り手のメッセージを受け止めるだけの力は持っています。今のこういう世界のエンジニアは、音圧を上げることにのみ汲々とした結果、少し前の製品ではまともに再生できないような独りよがりの規格を作り上げてしまっているのではないでしょうか。
と、2つの点でがっかりしてしまったものの、このアルバムは音楽的にはとても味わい深い仕上がりになっています。その最大の要因はセンチメンタル・シティ・ロマンスの起用でしょうか。この名古屋の老舗バンドは、まりやの初期のアルバムには参加していたものの、最近の作品ではとんとご無沙汰でした。2曲収録されているうちの1曲「シンクロニシティ」などは、まるで1981年のアルバム「Portrait」に収録されている「Natalie」そのもののテイストでしたから、嬉しくなってしまいます。そして、おそらくこのアルバムの中心となっている「人生の扉」での、カントリーの王道を行くまったり感はどうでしょう。今のシーンではとんと聴かれることのない告井延隆のペダルスチールとフラットマンドリンのようなのどかなサウンドが、それこそこれだけのプロモーションをかけてヒットチャートの上位を占めるアルバムで聴けることの意味は、小さくはないはずです。
反面、これまでのまりやのアルバムでの最大の楽しみであった山下達郎のコーラスが幾分控えめになったような気がするのが残念です。「みんなひとり」で、松たか子まで交えて挑戦したスリリングなまでのコーラスのバトル、コーラスアレンジャーとしての達郎は健在だというのに。

5月21日

PAISIELLO
Passione di Gesù Cristo
Roberta Invernizzi, Alla Simoni(Sop)
Luca Dordolo(Ten), José Fardilha(Bar)
Diego Fasolis/
Coro della Radio Svizzera
I Barocchisti
CPO/777 257-2


ジョヴァンニ・パイジエッロというRV車みたいな名前(それは「パジェロ」)の作曲家は、かつてはロッシーニより先に「セヴィリアの理髪師」を作った人としてのみ知られていたものです。このお話、ボーマルシエの原作では、アルマヴィーヴァ伯爵がロジーナと結婚してしばらく経ってから、その使用人のフィガロが結婚することになっています。ところが、今あるオペラではモーツァルトがフィガロを結婚させてから、ロッシーニがそのフィガロの尽力で伯爵を結婚させるという逆の順番になっているので、そのことを突っ込んできた人に対して、「それはね、モーツァルトが『フィガロの結婚』を作る前にパイジエッロという人が『セヴィリアの理髪師』を作っていたからなんだよ」と優しく諭すというネタを提供するためだけに、この人は存在していたという時代が、確かにあったことは事実です。
もちろん現在では件の「セヴィリア〜」も実際に上演されて人々の知るところとなり、パイジエッロは18世紀後半の偉大なオペラ作曲家として正当に評価されるようになっています。そして、この「イエス・キリストの受難」というような珍しい曲までも、しっかりCDとして録音されるようになりました。しかも、これが初録音ではなく、以前にもポーランドの団体が演奏したものがARTSから出ていたのですからね。
ところで、常連さんでしたらこのタイトルを聞いて思い当たることがあるはずです。そう、これはピエトロ・メタスタージョが1730年に書いた台本をテキストとして作られた多くの作品の中の一つなのです。以前、そのうちのサリエリミスリヴェチェクのものについてご紹介したことがありますが、これはそのときのシュペリングのプロジェクトとは別の、スイスの団体による演奏です。
曲の構成は、ほぼ同じ時期に作られた先ほどの2曲と同じ、オーケストラをバックにキリストの弟子である4人の独唱者がレシタティーヴォやアリア、重唱を歌うというものです。そのほかに2部からなる曲の最後に合唱のナンバー(1部の中に、もう1曲)が入っています。レシタティーヴォが、単純なセッコではなく、オーケストラの伴奏が入るもの、それも、時折効果音のようなものまで交えたかなり表現力の豊かな作り方になっています。もちろん、これはオペラ作曲家として100曲近いオペラを作ってきたパイジエッロのノウハウがフルに現れたものなのでしょう。そんな伴奏に乗って、歌手たちも見事に深い情感を歌い出しています。特にペトロ役のソプラノ、インヴェルニッツィの鬼気迫る表現は圧巻です。ヨハネ役のテノール、ドルドロがちょっと冴えない分まで、見事にカバーしています。
アリアでは、すべての管楽器がソロ楽器として登場、大活躍しています。中でも重用されているのがクラリネット、大詰めに置かれたペテロのアリアでは、とても技巧的な長い前奏が付いています。ここまで吹かせるということは、パイジエッロの周辺にかなりの名手がいたということなのでしょう。モーツァルトにおけるシュタードラーのように。
そんな、モーツァルトの、例えば「ティートの慈悲」の中のアリアのような連想を抱いたのには、訳があります。この中で聞こえてくるアリアが、メロディといいハーモニーといい、そしてテキストの扱い方といい、モーツァルトその人のものとあまりにも酷似しているのです。これは以前のミスリヴェチェクの時にも感じたことなのですが、今回はその度合いがさらに増して、今までこれこそはモーツァルト固有のもので、他の人には絶対出せない味だな、などと思っていたものが次々に現れてくるのです。当時の状況を考えれば、パイジエッロがモーツァルトの真似をする事などあり得ません。事態はその逆、モーツァルトは何とかしてパイジエッロのようなオペラ作曲家になりたいともがいていたのですから、「真似た」のはモーツァルトのほう。あの時代にモーツァルトと同程度の作曲家などいくらでもいたという、これは一つの傍証です。
そんな、モーツァルトが好きな人なら誰でも好きになれるパイジエッロ、もっと他の曲も聴いてみたいものです。

5月18日

BRUCKNER
Symphony No.4
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/384723 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55947(国内盤)

どんな曲でも録音していそうなラトルですが、ブルックナーに関してはほとんど手つかずの処女地だというのは、ちょっと意外な気がします。現に専属のレーベルであるEMIにはバーミンガム時代の96年に「7番」を録音しただけ、あとは名前も聞いたこともないようなマイナー・レーベルにベルリン・フィルとの「9番」(2002年)とロッテルダム・フィルとの「4番」(2001年)を入れているだけなのですね。ですから、この曲に関しては2度目の録音ということになります。ただし、2001年のものはハース版、今回はノヴァーク版ということになってはいます。
ベルリン・フィルというオーケストラ自体は、いままで数多くの指揮者とこの曲を録音してきました。しかし、今回のラトルとの共演に臨んで、彼らはそれらの体験をリセットし、全く新たな気持ちでこの曲に向かい合ったのではないかと思えるほど、ここには新鮮な息吹が宿っています。ドイツのオーケストラでありながら、例えば最近聴いた例ではヘレヴェッヘの指揮したシャンゼリゼ管弦楽団のような洗練されたピュアな響きがあったのです。
第1楽章で感じられるのは、とても滑らかな肌触りです。ホルン1本で始まった出だしのテーマが次第に楽器を増して盛り上がっていく様子が、まるでオートマチック車、それも最新の無段変速機のように全くギアチェンジが意識されないような趣です。最後に金管楽器が加わって例のブルックナー・リズムで最高潮に達するところでも、そこに移るところでたいがい気づかされるシフトアップが全く感じられないまま、そのクライマックスを迎えるというスマートな仕上がりになっています。よけいな力が加わらないでいつの間にか高いテンションがもたらされている、一見自然な成り行きのように見えて、これはかなり難易度の高いものなのではないでしょうか。ラトルの描いたクレバーな設計図を、ものの見事に実体化出来るほどに、このオーケストラのアンサンブルは高い次元のスキルを獲得していたのでしょう。金管が朗々と雄叫びをあげているときにも、弦楽器は分厚い音の壁を築き上げていて、決して隠れることはありません。
さらに、この楽章の展開部の初めで見せつけられる究極のピアニシモにも、耳をそばだてずにはいられません。音というよりはまるで「気配」のようにほのかに漂う繊細この上ない弦楽器の響き、それはまるで「祈り」のようにさえ聞こえます。
第2楽章では、チェロとヴィオラがそれぞれ奏でるパートソロが聴きどころでしょう。深い音色とたっぷりとした歌い口、もちろんそれはラトルが示したほんのちょっとした表情の仕草を、見事に全員が音にしたものです。提示部の最後の部分で聞こえてくるフルート1本だけの本当の「ソロ」にもご注目、吹いているのは多分パユでしょうが、彼本来の華麗な音色を捨てて、見事にピアニシモでの存在感を聴かせてくれています。ここまで手なずけたラトルの根気も見事です。
第3楽章も、決して粗野にならない洗練された味が堪能できます。ホルンの狩りのテーマが、これほどまでに上品に鳴り渡っている演奏はなかなかあるものではありません。トリオを聴くと、テーマがオーボエとクラリネットで演奏されています。これはもちろんハース版でのかたち、ノヴァーク版を使ってはみたものの、こうしてハース版も取り入れるというのは、指揮者の裁量なのでしょう。
フィナーレは、それまでとはうってかわって、時折荒々しさも交えて進んでいきます。おそらくこれもラトルの緻密な設計のなせる技なのでしょう。生理的にもここまで弾けてくれれば何も言うことはありません。
なんか、非常に楽しめるブルックナーを味わえたという幸せな気持ちになれたのは、このレーベルらしくない抜けのよい録音のせいもあったのかもしれません。

5月16日

MESSIAEN
Quatuor pour la fin du temps
長沼由里子(Vn)
Jean-Louis Sajot(Cl)
Paul Broutin(Vc)
Anne-Lise Gastaldi(Pf)
CALIOPE/CAL 9898


メシアンの「四重奏曲」の新しい録音です。演奏しているのが、日本人の長沼さんも参加されている「フランス八重奏団」のメンバーと、ピアノのガスタルディです。この「八重奏団」は、お察しの通りシューベルトの「八重奏曲」を演奏するのに必要なメンバー、すなわちクラリネット、ファゴット、ホルン、そして弦楽五重奏という編成の常設の団体なのだそうです。もちろん、年中シューベルトばかり演奏しているわけにはいかないでしょうから、このように適宜メンバーをピックアップ、足らないパートは新たに加えてメシアンなども演奏することになります。
一方、メシアンのこの曲を演奏するために結成されたという団体も、かつて存在していたことがあるのもご存じのことでしょう。「タッシ」という名前のそのグループの録音が最近リマスター盤としてリリースされたものをついこの間聴いたばかりですので、いやでもこの演奏と比較することになってしまいますが、それも巡り合わせということなのでしょうか。
しかし、同じ曲でありながら、演奏者によってこれほどの違いが出てくるというのも、なかなか興味深いものです。中でも、クラリネットだけで演奏される第3曲目の「鳥たちの深淵」などは、まるで別の曲かと思われるほど、印象が異なっています。ここでのクラリネット奏者サジョは、楽譜に書いてある音を丁寧に一つ一つ再現することに、最大の関心があるように思えてきます(些事にこだわるんですね)。まるでソルフェージュのようなその淡々とした演奏からは、「タッシ」でストルツマンが見せてくれたような生命の息吹は全く感じることは出来ません。
そんな、ある意味躍動感に乏しい彼らの解釈は、そもそも1曲目の「水晶の礼拝」で現れているものでした。そのような流れのイニシアティブをとっていたのがこのクラリネット奏者であったことが、このソロで明らかになったというわけです。ですから、4人が最初から最後までユニゾンで演奏するという第6曲目の「7つのラッパのための狂乱の踊り」からは、「狂乱」とはほど遠い緩やかな情緒しか伝わってはきませんでした。
従って、彼らの美点はそのような動的なものとは正反対の面で、くっきりと現れてくることになります。それは、まるでヒーリング・ミュージックのような静的な美しさを追求する姿勢です。それに気づかされるのが、2曲目「世の終わりを告げる天使たちのヴォカリーズ」です。ピアノが色彩的な和声を奏でる中、ヴァイオリンとチェロのユニゾンによって流れてくる単旋律は、何ともしっとりと味わい深く響き渡っていたのです。それは、「タッシ」の放っていたクールなテイストとは全く異なる世界を形作るものでした。
その世界は、チェロとピアノのデュエットである第5曲目「イエズスの永遠性に対する頌歌」で、さらにはっきりした形となって現れます。チェロのいつ果てるともしれない旋律は、ピアノとともに徐々に昂揚していき、ついにはエクスタシーを迎えます。その直後の虚脱感の、なんと生々しいことでしょう。
そして、それは最後の「イエズスの不死性に対する頌歌」によって、見事な結末を迎えることになります。ここでのヴァイオリンは、まるですすり泣くようなハスキーな音色から、セクシーこの上ない芳醇な音までを自在に使い分け、メシアンのいうところの「愛」を謳いあげます。すべてを語り終わった最後のピアニッシモの、極上の美しさは、この演奏のある一つの面での卓越した資質を、見事に知らしめています。

5月14日

ORFF
Carmina Burana
Clair Rutter(Sop), Tom Randle(Ten)
Marcus Eiche(Bar)
Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra and Chorus
NAXOS/8.570033


オルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴く時には、やはり華々しくカッコいいサウンドのもののほうが気持ちがいいのではないでしょうか。ほとんどノーテンキ一歩手前の乱痴気騒ぎ、みたいなイメージが、この曲にはしっかりついて回っていますからね。オーディオファイル向けの華やかな録音のものも市場にはあふれていますし。しかし、そんな期待をもって、このオールソップの演奏に向き合うと、ちょっとした失望感がわいてくるのは間違いないはずです。とにかくモッサリとしたこの味わいは、たとえばコマーシャルなどで頻繁にテレビから流れてくるこの曲のスペクタクルな印象とは雲泥の差なのですから。
その最大の原因は、合唱のやる気のなさでしょうか。「O Fortuna」という、しょっぱなの一番カッコいいところからして、まずずっこけずにはいられないほどの、どん臭さ。声にキレはないし、何よりもその暗めの音程はこの曲から期待するものからは遠く隔たったものだったのです。例えば、ある音から下がって又元の音に戻るというメロディラインの場合、下がったままで決して「元の音」にはなっていないというもどかしさがあります。それに加えて、男声などはほとんど「叫び」に近いほどの、音程すらもなくなったような雑な歌い方に終始していますから、そこからカッコ良さを聴き取るのはかなり困難なことになってきます。
オーケストラにしても、何か一本芯が抜けているような気がしんてなりません。合唱の入らない「Tanz」での、変拍子のおもしろさは全く伝わってきませんし、中間部でのフルートソロに絡むティンパニのなんとかったるいことでしょう。
しかし、そんなある意味いい加減な演奏が、しばらく聴き続けていると何ともいえない味を醸し出すように感じられてくるのは、ちょっと不思議な体験でした。なにか、単に機能的な面だけでは説明できないような魅力が、このオールソップの演奏にはあったのです。それは、言ってみればこの作品の題材となった中世の修道院の雰囲気のようなものが直に伝わってくる感覚がここから得られた結果だったのかもしれません。現代の高層ビルの外観のようなつるつるに磨き上げられた滑らかさではなく、石を積み重ねたゴシック建築のような、素朴でざらざらした肌合いが、そこにはありました。もしかしたら彼女は、高性能の大編成オーケストラから、トゥルバドールが奏でるリュートやパイプの味わいを出そうと企んだのではないか、そんな気持ちにもさせられてしまいます。そう思い直して聴いてみると、これは実に和む演奏です。
そんな世界観の中にあって、バリトンのアイヒェはその中心的な役割を担っているように感じられます。第3部でのソロ「Dies, nox et omnia」では、装飾的な高音をファルセットで歌わなければなりませんが、その部分での怪しげな味わいにはゾクゾクさせられるものがあります。これは、本当ならその前のテノールの唯一のソロの部分で味わうべきものだったのでしょうが、それを歌うランドルにはそこまでの色気はありませんでした。
ソプラノのラッター(ジョン・ラッターと、何か関係がある人なのでしょうか)は、リズム感は抜群のものがあるにもかかわらず、音程に問題が多すぎて、有名な「In trutina」やエンディングへ向かって大見得を切るべき「Dulcissime」では、悲惨な結果に終わっています。

おとといのおやぢに会える、か。


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