お酢にかけるダシ。.... 佐久間學

(11/9/6-11/9/24)

Blog Version


9月24日

Sing Freedom
Craig Hella Johnson/
Conspirare
HARMONIA MUNDI/HMU 807525(hybrid SACD)


アメリカのプロの合唱団「コンスピラーレ」の最新アルバムです。サブタイトルには「African American Spirituals」とありますが、これは、かつては「Negro Spirituals」と呼ばれていたカテゴリーのことです。「ニグロ」というのは、もはや使ってはいけない言葉なのでしょうね。サンマもダメですか?(それは「メグロ」)。ということは、日本語の「黒人霊歌」という訳語も、今では「アフリカ系アメリカ人霊歌」みたいに変わってしまっているのでしょうか。しかし、この「黒人霊歌」という言葉は日本人の中にはしっかり定着していて、この字面を見ただけでその音楽が表現している「アフリカ系アメリカ人」の祖先たちの悲惨な思いをイメージできてしまうほどのものになっているはずです。言葉とは、そういうものです。嬉しいことに、「アフリカ系アメリカ人霊歌」でネット検索してみても、この言葉自体は全く引っかかりませんでしたから、まだこんな変な日本語は広まってはいないようですね。まずは一安心、この美しい言葉が、むりやり「ロマ音楽」に変えられてしまった「ジプシー音楽」の二の舞にならないことを祈るのみです。
2、3のオリジナル曲も入っていますが、ここに集められたものは、そんな「黒人霊歌」の定番とも言える懐かしいものが多くなっています。しかも、ウィリアム・ドーソンやロバート・ショーのような、まさに「古典」と言っても構わない編曲がそのまま歌われているのには、さらに懐かしさも募ります。もちろん、それだけではなく、指揮者のクレイグ・ヘラ・ジョンソンや、最近の作曲家による編曲もあって、これが単なる回顧趣味には終わっていないことも明らかです。
さらに、「昔」の編曲でも、大胆な解釈で全く違う顔を見せているのですから、驚かされます。それは、ドーソンが編曲した「Soon Ah Will Be Done」。Aメロである「もうすぐ、世の中の辛いことは終わる」という歌詞の部分は、たとえば古のロジェ・ワーグナー合唱団の「模範的」な演奏では(ちなみに、1992年にリイシューされた国内盤では、タイトルは堂々と「黒人霊歌集」となっていました)、極めて緊張感のあるリズミカルな歌い方(ドーソンの編曲に手を入れて、さらにリズムを強調しています)で、あたかも「勇気」が与えられるかのようなメッセージを伝えていたものでした。ところが、このアルバムでのコンスピラーレときたら、同じ部分がなんとも悲しげで弱々しい歌い方になっています。それは、あたかも「辛いことが終わるなんて、未来永劫あり得ない」というやりきれなさのように聴こえてきます。ですから、Bメロの「私のイエスに会いたい!」という叫びは、とてつもない現実感(捨て鉢とも言う)を持つことになります。
そんな、ある意味「醒めた」表現は、例えばデイヴィッド・ラングが編曲した、まるで点描画のような「Oh Graveyard」や、タリク・オレガンが編曲したクラスターずくめの「Swing Low, Sweet Chariot」のような、いかにもミニマル風の仕上がりを持った作品で威力を発揮することになります。
ところが、そんな、ちょっと「ひねった」扱いは、どうも彼らの本来の姿ではなかったようですね。大半の曲では、昔ながらの朗々と思いの丈を歌い上げるといった「正統的」な演奏に終始しているのは、予想されたこととは言えあまりにもベタで、好きになれません。まあ、それが彼らの「地」なのだ、と言われればそれまでなのですが。
そんな、過剰な思い入れをさらに鬱陶しいものにしているのが、ここでの録音です。確か、前のアルバムでもSACDにもかかわらず、その雑な録音にはちょっと嫌悪感を持ったものですが、今回は別のエンジニアなのに全く同じ傾向の録音になっています。プロデューサーは同じなので、おそらく彼の趣味が反映しているのでしょうね。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

9月22日

A CAPELLA
The Singers Unlimited
MPS/UCCU-6087


「シンガーズ・アンリミテッド」1971年のセカンド・アルバム「ア・カペラ」は、ことあるごとにCD化されていますが、その最新盤が、素材にこだわったSHM-CD、さらにルビジウム・クロック・カッティングという最新技術が駆使されているという謳い文句でリリースされました。最近のマスタリングはまさに日進月歩ですから、昔買ったCDと比べるとどの程度「進歩」しているのか確かめるために、これは聴いてみなければ。なんたって、このアルバムはLPで出たものは耳にタコが出来るほど聴いているという、ある意味「標準サンプル」ですから、聴き比べにはもってこいです。
昔の話ですが、CDが最初に発売された1982年に、たしかポリグラムからの輸入盤の第1回目のラインナップに入っていたのが、このアルバムだったはずです。それだけ、オーディオ的に評価されていたのですね。というか、その頃はまだCDが広まるかどうかなど全く分からない状態だったのですが、このアルバムがCDになるのなら、将来は明るいな、と思った記憶があります。そこで、まだまわりでは誰も持っていなかったCDプレーヤーを、いち早く「のだや」で買ったのだ。その足で「ヤマハ」に行って、最初に買ったCDがこれでした。確か、値段は3800円だったような気がします。同じ輸入盤でも、クラシックは4200円だったんですよね。
(815 671-2)
ジャケットも、CD独自のデザインを模索していたのでしょう、LPのジャケットを忠実に縮小した今回のユニバーサル盤とは微妙に異なっていますね。
実はその後、1997年に、オリジナル・アルバムのプロデューサー、ハンス・ゲオルク・ブルンナー・シュヴェアのマスタリングによって、「クリスマス」というタイトルを除く彼らのアルバム全14枚を7枚のCDに収めたボックスがリリースされています。
(539 130-2)
豪華ブックレットには、LPのジャケットが全て掲載されています。
そして、今回のユニバーサル盤となるわけです。ただ、ここにはマスタリングに関するクレジットはなにもありません。いくらなんでも、最初のポリグラムのマスターと同じものではなく、ある時期にそれなりのテクノロジーを使って新しくマスタリングされたものなのでしょう。
というわけで、お待ちかね、この3種類のCDの聴き比べです。予想通り、これらは全く異なる音でした。ポリグラム盤は、まずレベル(「音圧」ですね)がかなり低めなのは、まだ創生期でマスタリングのノウハウが確立されていない時期だったせいなのでしょう。とにかく単にA/D変換を行っただけという感じで、かなり鋭い音、本当は溶け合っていて欲しい実際の声と残響成分が完全に分離して聴こえてしまいます。買った当時は「さすがCD」という気がしたものですが、今聴き直すとかなり雑な音に感じられます。
ボックスは、今のCDと同じ程度のレベルなのですが、悪い意味でのマスタリングの弊害がもろに出ています。おそらくリミッターをかけているのでしょう、1曲目「Both Sides Now」の途中で編成が大きくなるところで、急にレベルが下がっています。音も全体的に平板で、なんとも「守り」に走ってしまっているという感じがしてなりません(言ってみれば、杉本一家さんあたりのマスタリングが「攻め」なのでしょう)。
結果的には、今回のユニバーサル盤が、3つの中では最も成功したマスタリングなのではないでしょうか。かなりLPに近い瑞々しさが再現されていますし、何よりもメンバー一人一人が立体的に浮き上がって聴こえてくるのは見事です。5曲目の「Michelle」は、LPではA面の最後だったので、後半に出てくるドン・シェルトンのソロが内周歪みでひどい音だった記憶があるのですが、このCDを聴いて初めて彼の声の素晴らしさを体験できました。
とは言っても、やはりLPの最外周の音に比べると、まだまだ不満は残ります。それはCDの限界、全15枚のアルバムがSACD化される日を、首を長くして待ちたいところです。ESOTERICあたりで、やりませんか?

CD Artwork © Universal Classics & Jazz Germany

9月20日

MOZART
Requiem
Elizabeth Watts(Sop), Phyllis Pancella(MS)
Andrew Kennedy(Ten), Eric Owens(Bas)
Harry Christophers/
Handel and Haydn Society
CORO/COR16093


200年近くの歴史を誇るアメリカの演奏団体「ヘンデル・ハイドン協会」は、その名の通り、バロックや古典派の宗教作品のアメリカ初演を数多く手がけてきたそうです。「メサイア」や「天地創造」、そしてバッハの「ロ短調」や「マタイ」はもとより、なんとヴェルディの「レクイエム」でさえここが初演しているというのですから、その由緒の正しさといったらハンパではありません。おそらく、200年の間には、その時々に「オーセンティック」と考えられていた演奏法を採用していたのでしょうから、そんな演奏様式に関しても一つの団体でありながら多くの変遷を経てきた歴史があるのでしょうね。
そして、「現代」に於いては、当然「HIP」が追求されていることでしょう。いや、別に「おしり」を追いかけるといったような怪しい行動ではありませんし、決して「ヒップ・ホップ」でもあり得ません。これは「Historically Informed Performance」を略したもの、最近の「オーセンティック」業界の合い言葉です。つまり、歴史的な情報の裏付けのある演奏、そのためには楽器も楽譜も、そして演奏法も「歴史」から学ばなければなりません。
そう思って、このCDのブックレットにある写真を見てみると、チェロにはエンドピンがありますし、ヴァイオリンの指板も「歴史的」に見たらずいぶん長目の楽器を使っているようですが、まあ、その辺は色々と事情があるのでしょう。とりあえずピッチは「歴史的」ですし、フレージングなども「歴史的」っぽいので、いいんじゃないですか。ただ、声楽陣は、どうも「歴史的」にはほど遠い、ちょっと頑張りすぎた歌い方なのは、気に入りません。ま、趣味の問題でしょうが。
「頑張る」といえば、この演奏がボストンのシンフォニー・ホールで行われたのが2011年の4月29日と5月1日というのが、ちょっと気になるところです。もちろんまだおぼえているでしょうが、この1ヶ月半ほど前に、日本では多くの人がとんでもない惨事に巻き込まれていました。おそらく、国内ではまともなコンサートなどはほとんど開かれてはいなかったのではないでしょうか。開かれたとしても、それは「復興支援」とか「チャリティ」といった「枕詞」が必ずついたものだったはずです。
これはもう、世界中の人にショックを与えた出来事だったような記憶があります。とりあえず「支援」を表明したり、力強い言葉で「励まし」てくれた人も多かったことでしょう。しばらくすると、今度は放射能汚染を嫌がって日本には来たがらなくなった人が現れたりもしましたが(特にオペラ関係)、良きにつけ悪しきにつけ、人間の心は正直なことを実感することになるのです。
そんな「正直」な人のたくさんいるアメリカのことですから、そこで「レクイエム」を演奏したとしたら、当然何らかの思いが込められるのだろう、と、だれしもが思うはずです。そんなことは、このCDでは一言も触れられてはいませんが、この「頑張った」歌い方は、間違いなくそんな熱い思いを演奏に込めたものだという気がしてたまりません。あなたたちが立ち直るために、私たちも、せめて音楽を通して、頑張ることを伝えたい、そんなメッセージがやかましいほど伝わってくるのですね。「Lacrimosa」あたりが、その極致でしょうか、ひっそりと穏やかに始まるかに見せて、最後にはこれでもかという「絶叫」で思いの丈を届けた気になっているのですから、たまりません。そういう「真心」は、「偽善」と紙一重と思われても仕方がありません。
そのあとに演奏されているのが、モーツァルトのコントラバスのオブリガート付きという珍しいバスのアリアです。決してヘタな奏者ではないのでしょうが、楽器の限界を超えたところへの挑戦は、笑いを誘うものでしかありません。あれだけ熱く「鎮魂」を語ったあとでの、この落差、やはり、彼らは「ニホンの震災」のことなどは、なにも考えていなかったのかもしれません。

CD Artwork © The Sixteen Productions

9月18日

Works for Pedal Piano
Olivier Latry(Pedal Piano)
NAÏVE/V 5278


「ペダル・ピアノ」という楽器をご存じでしょうか。1位になった時にもらえるピアノじゃないですよ(それは「メダル・ピアノ」)。その名の通り、「足鍵盤(ペダル)」がついたピアノのことです。オルガンと同じように、右手と左手、そして足によってそれぞれ鍵盤を操作して音楽を奏でるという楽器ですね。バッハの時代あたりでも「ペダル・チェンバロ」とか「ペダル・クラヴィコード」という、やはりペダルを付け足した鍵盤楽器はあったそうです。さらに、モーツァルトの時代でも、ピアノのアクションを用いた同じような「ペダル付き」は存在していたそうなのです。ただ、これらの楽器は、あくまでオルガンの練習用としての用途がメインだったようですね。確かに、教会にしかない大きなオルガンはそうそう練習に使うわけにはいきませんから、その様な「代用品」は必要だったのでしょう。
しかし、19世紀の中頃に、この楽器を特定して作曲を行った作曲家が現れます。同時に、ピアノ制作者も、きちんとした楽器を製造するようになりました。しかし、そんな「ブーム」は長続きすることはなく、いつしかこの楽器は忘れ去られて博物館の棚の中に眠ってしまうことになります。そんなペダル・ピアノの一つ、1853年にエラールによって作られ、作曲家のアルカンが愛用したシリアル・ナンバーが24598という楽器が2009年に修復されて、この録音に使われました。

ご覧のように、ペダル専用の弦が入ったユニットが取りつけられた楽器ですが、オルガンのペダルのように手鍵盤の1オクターブ下の音が出せるわけではなく、最低音は普通のピアノの最低音と同じです。そこから2オクターブ半の音域をカバーしています。
この楽器のための曲を、積極的に作ろうとした最初の人が、アレクサンドル・ピエール・フランソワ・ボエリという、フランスの作曲家です。全く聞いたことのない作曲家ですが、ここで演奏されている5曲の中では、「ファンタジーとフーガ」が、まさにこの楽器ならではの対位法の扱いで、新鮮な驚きを与えてくれます。ただ、その他の曲は、曲そのものが凡庸で、特に魅力は感じられません。
ブラームスの若いころの作品、ト短調の「プレリュードとフーガ」は、この作曲家のバッハへの思いがまざまざと感じられる、とてもロマン派とは思えないような曲です。というか、もはや殆どバッハのパクリにしか聴こえません。フーガの最後もピカルディ終止になってますし。ただ、そのフーガのテーマが、途中で「2音3連」になっているあたりが、いかにもブラームスらしい個性の表れでしょうか。
シューマンの「4つのスケッチ」という曲も、ペダル・ピアノのためのオリジナルの作品です。特にペダルを強調したという使い方ではなく、同時に広い音域を使うという、いわば「連弾」を一人でやっているようなメリットが感じられます。
この楽器の持ち主だったアルカンの曲は、もっとペダルの効果を派手に見せつけるものでした。カプラーのようなものが付いているのか、手鍵盤の左手の音域とのユニゾンが、とてつもない迫力で、まさにこの楽器のアイデンティティを主張しているものでした。
リストの2つの作品は、それぞれ対照的なアプローチで、この楽器の魅力を引き出しています。「システィナ礼拝堂の祈り」というしっとりとした曲では、この場所にゆかりのアレグリの「ミセレレ」がサンプリングされているそうなのですが、それは言われなければ分からないほどの使い方でした。もう1曲の引用、この場所でその曲を「聴音」してしまったというモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、恥かしいほどそのまんまですが。そして、オルガン曲としてはさんざん聴いたことのある「B-A-C-Hによるプレリュードとフーガ」は、ピアノならではの激しいアタックで、決してオルガンでは表現できないような世界を見せてくれています。きっと、リストがラトリーに憑依して、この曲の本来の魅力を伝えてくれたのでしょう。

CD Artwork c Naïve

9月16日

ROTA
Opere per flauto
Roberto Fabbriciani, Luisella Botteon(Fl)
Massimiliano Damerini(Pf)
TACTUS/TC 911801


映画音楽で知られるイタリアの作曲家ニーノ・ロータについては、最近では「20世紀のクラシック作曲者」という言い方が定着しつつあります。それまで彼の本業のように思われていた「映画音楽」は、あくまでサイド・ビジネスだった、というようなスタンスですね。ロータ自身がそう言っているのですから実際にそうなのでしょうが、彼の場合は、そもそも「クラシック」と「映画音楽」を分けて考えることには、なんの意味もないような気がします。
以前の「ピアノ協奏曲」と同じように、このフルート・アルバムでも、そんな、至ってキャッチーな音楽が聴かれます。「5つのやさしい小品」は、まさにタイトルのまんま、まるで民謡のような素朴なメロディが紡がれています。フルート2本のための「3つの小品」も、素朴さという点では負けてはいません。「古いカリヨン」、「古いロマンス」、「古い糸車」という、それぞれに1分足らずの曲が、2本のフルートの掛け合いで楽しめます。
唯一「大きな」曲である「ソナタ」は、3楽章形式の、それこそ18世紀のイタリアの協奏曲のようなテイストを持っています。それは、とても20世紀に作られたとは思えないほどの、懐かしさを持ったものです。
そして、最後には彼の「ヒット曲」が7曲も。「ゴッドファーザーの愛のテーマ」、「山猫」、「8 1/2」と、これこそは映画を通して耳に親しんだメロディのオンパレードです。
ジャケットの表示によれば、これらの曲は全て「世界初録音」なのだそうです。確かに、ここで演奏されているフルートとピアノのための「ソナタ」というのは、初めて聴きました。同じ「ソナタ」でも、フルートとハープのためのものは録音もいくらかありますが、これは間違いなく「世界初録音」でしょう。なんせ、この曲は元々はヴァイオリンとピアノのためのソナタ、それを、作曲家自身が、ここで演奏しているフルーティスト、ロベルト・ファブリッチアーニのために編曲を許した、というものなのですからね。彼が録音しなければ、そもそも音にはならないものでした。
その他にも、やはりファブリッチアーニに託された自筆稿しか存在せず、まだ出版はされていない「Allegro veloce」も、他の人が演奏するのは不可能だったでしょうから、同じく「初録音」のはずです。
もっとも、最後に収録されている「映画音楽集」などは、「初録音」というのはちょっと無理があるような気がしますがね。ただ、特に変わった編曲ではありませんが、もしかしたらこの楽譜できちんと録音されたのはこれが初めてだったのかも。
いずれにしても、これらの曲はファブリッチアーニだからこそ録音できたものなのでしょう。それだけ、作曲家からの信頼も得ていた、ということになりますね。しかし、ここで聴かれる彼のフルートの音は、なんともひどいものでした。以前チアルディの協奏曲を聴いた時には、録音のせいなのかな、と思っていたのですが、今回もその時と全く同じ、低音はそこそこ鳴っているのに、中音や高音がとても無理をして出しているのがありありとうかがえて、聴いていて辛くなってしまうほどなのですよ。こんな「プロ」の演奏家に対してあまりにも不遜なのは重々承知の上で言わせてもらえば、彼のフルートは「基本が全く出来ていない」のですね。それは、まるでこの楽器を習い始めたばかりの初心者のようにしか聞こえません。これでは「クラシック」を演奏することは出来ません。
「現代音楽」のスペシャリストとして有名な、ハンガリーのイシュトヴァン・マトゥスも、こんな音だったことを思い出しました。ロータの音楽は「クラシック」ではあっても決して「現代音楽」ではないことが、こんなことからも分かります。

もしかしたら、ファブリッチアーニは、こんな曲がった楽器を使っているから、ヘンな音なのかも。修正なんかしてませんよ。消臭はしてますが(それは「ファブリーズ」)。

CD Artwork © Tactus s.a.s. di Serafino Rossi & C.

9月14日

MOZART
Sämtliche Messen
Soloists
Christoph Lehmann(Org)
Peter Neumann/
Kölner Kammerchor
Collegium Cartusianum
EMI/0 28458 2


今や、CD業界はBOXセットの叩き売り状態がおおはやり。以前は専門の廉価レーベルの得意技だったものが、メジャー・レーベルの世界にまで押し寄せてしまっています。いや、本当はメジャー・レーベルだから、というべきなのでしょうか。なにしろもはやクラシックの新録音などはほとんど手を付けなくなってしまったこれらの大レーベルは、減価償却の終わった膨大なカタログをまとめて安売りする以外に、利益を上げる方策をなくしてしまったのですからね。あるいは、これはCDというパッケージ・メディアがなくなってしまう前兆なのかもしれませんよ。実際にそうなる前に、売れるものならなんでも安く売ってしまおうというのが、実はメジャー・レーベルの本音だったりしますからね。もはや船は沈みかけています。それを察知して逃げ出すネズミたちが、このBOXたちなのですよ。ですから「消費者」としては、いくら安いからといって、有頂天になっていてはいけません。
と言いつつも、前から欲しかったものが安く手にはいるとあれば、これは買ってしまおうと思ってしまうのが、「消費者」の弱いところです。こんな、ペーター・ノイマンのドイツEMI(かつてのElectrolaですね)での録音がまとめて出てしまえば、つい手が伸びてしまいます。
これは、「没後200年」に向けて、1988年から1991年にかけて録音された、モーツァルトが作った「ミサ曲」が全部+アルファという全集です。オーケストラはピリオド楽器による団体ですね。「アルファ」の中には、もちろん「レクイエム」も含まれますし、「Exsultate, jubilate」や「Ave verum corpus」といったモテットも入っています。さらに嬉しいのは、オーケストラとオルガンのための「教会ソナタ」が、ミサの間に演奏されていることです。これは全く予想していなかっただけに、喜びもひとしお。ノイマンという人は、指揮者であると同時にオルガニストですから(ガストン・リテーズに師事しています)、こういうアイディアが自然に出てきたのでしょう。
まさに、実際の礼拝を再現したかのように、「Gloria」と「Credo」の間で演奏される「教会ソナタ」、ここでのオルガンはごくごく控えめに演奏されています。というより、楽器自体が教会備え付けの「大オルガン」ではなく、ポジティーフのような小さなものなのでしょう、かわいらしいストップによって、この曲は今まで抱いていたイメージとはちょっと違った姿を見せています。こちらの方が、「大オルガン」より数段魅力的。
お目当ての「レクイエム」は、ジュスマイヤー版で演奏されていますが、「ところどころに、ノイマンによる訂正がある」という注釈がついています。同じように、「ハ短調ミサ」では、「ランドン版に、ところどころノイマンによる訂正」ですから、彼には確固たるこだわりがあったのでしょう。もっとも、聴いただけではどこを「訂正」したのかは分かりませんでしたが。そういえばバッハの「ヨハネ受難曲」の第2稿を、最初に全曲録音したのはノイマンでしたね。
ノイマンはチェリビダッケに私淑していたといいますが、確かにそれも頷けるような、遅めのテンポから繰り出す雄大な音楽は、なにか深いところで共感を呼ぶようなしっかりとした主張を持ったものでした。合唱は特別うまいというわけではないのですが、あくまで音楽に奉仕するという謙虚な姿勢が、心地よく感じられます。
ソリストたちは、有名、無名のそれぞれ力のある人ばかりです。中でも声自体にインパクトがあって思わず惹かれてしまったのは、「ハ短調」の「Laudamus te」や「Exsultate~」を歌っていたモニカ・フリンマーです。ちょっと暗めの声がとても存在感があり、それでメリスマを軽々と決めるのですから、見事としか言いようがありません。身持ちの悪さは、勘弁してやりましょう(「不倫っ!まあ!」)。

CD Artwork © EMI Music Germany GmbH & Co. KG

9月12日

Fantasiestücke
岩間丈正(Fl)
長尾洋史
(Pf)
ALM/ALCD-3092


1963年生まれ、現在は演奏活動とともに精力的に後進の指導にあたっているフルーティストの岩間さんは、11歳でフルートを始め、15歳の時には、あの日本フルート界の先駆者、吉田雅夫氏の教えを受けています。その後、武蔵野音大を経てドイツに留学、ミュンヘン国立大学でパウル・マイゼンの指導を受けたという、華麗な経歴の持ち主です。
アルバムタイトルは「幻想小曲集」、そんな名前の作品は、フルートのレパートリーにはありませんから、一瞬不審に感じられるかもしれませんが、これはシューマンが作ったクラリネットとピアノのための曲のタイトルなのです。本来クラリネットで演奏されるパートを、ここではフルートで演奏しているのですね。このアルバムには、その他にもシューマンの曲が取り上げられていますが、それらはやはりフルート以外の楽器のために作られたものでした。というか、シューマンは「フルート・ソナタ」や「フルート四重奏」、ましてや「フルート協奏曲」といった、フルートのための作品は1曲も作ってはくれなかったのですよ。
これは、シューマンに限らず、この時代の作曲家にはよく見られる傾向です。彼の「仲間」であるブラームスも、やはりフルート曲は作ってはいません。なんといっても、この頃のフルートという楽器は、こういうロマン派の情感をたっぷりと歌わせるには、ちょっと荷が重い楽器だと思われも仕方がないようなものでした。
しかし、現在使われている楽器はシューマンの時代とは大きく変わっています。それは、いかにも鄙びた繊細な音色を捨てた代わりに、近代オーケストラをバックにしても充分に主張できるだけの音量と、表現力を手に入れた、同じ「フルート」とは言ってもほとんど別の楽器といっても構わないほどの変貌を遂げたものでした。ですから、クラリネットのために作られた「幻想小曲集」にしても、オーボエのために作られた「3つのロマンス」にしても、ホルンのために作られた「アダージョとアレグロ」にしても、さらにはチェロのための「民謡風の小品」だって、現代のフルートによってなんの遜色もなく作曲家の意図を表現することが出来るようになったのです。
あとは、聴き手の問題でしょうか。クラリネットやオーボエの独特の音色にこだわって、決して他の楽器は認めないという潔癖感の持ち主はどこにでもいます。しかし、そんな人も、おそらくこの岩間さんのフルートを聴けば、少しは歩み寄ってはくれるのではないでしょうか。彼のフルートは、師匠マイゼン譲りのとても幅広い豊かな音色を持っています。特に低音には、普通のフルーティストではあまり感じられない独特の「甘さ」が漂っています。もしかしたら、岩間さんはこの「武器」があるから、あえてシューマンのトランスクリプションに挑戦したのではないかと思えるほどに、それは魅力にあふれた音色です。
同じような試みを、彼はモーツァルトに対しても行っています。ホ短調のヴァイオリン・ソナタK304をフルートで演奏しようというのです。確かに短調の曲ですから、彼のフルートにはもってこいなのでしょうが、あまりにロマン派的なアプローチは、最近のモーツァルト事情からすると、ちょっと違和感が残ります。
もちろん、最初からフルートのために作られた「ロマンティック」な曲も、忘れてはいませんよ。それは、クーラウの長大な「ディヴェルティメントop68-6」と、ロマン派ではほとんど唯一のフルートのためのソナタ、ライネッケの「ウンディーヌ」です。やはりオリジナルならではのフルートっぽさは、編曲ものの比ではありません(雲泥の差)。それぞれに、ピアノの長尾さんのサポートが光る熱演ですが、すでに多くの名演がある中では、ちょっと影が薄くなってしまいそう。

CD Artwork © Kojima Recordings, Inc.

9月10日

MOZART
Requiem
加藤綾子(Sop), 木村宏子(Alt)
金谷良三
(Ten), 大橋国一(Bas)
若杉弘
/
モーツァルト祭混声合唱団
読売日本交響楽団
TOWER RECORDS/NKCD 6568

東京カテドラルで196512月に行われた、「モーツァルト175回目の命日」のためのミサの模様を完全収録したKINGLPが、タワーレコードによってCDに復刻されました。聖マリア大聖堂の写真をあしらったジャケットは、その建物自体のインパクトによってしっかり記憶に残るものとなっていましたから、迷わず入手しましたよ。たったの1000円ですし。
モーツァルトの「没後200年」が1991年に祝われた(ちょっと変ですが)ことはまだ記憶に新しいはずですが、このミサが「没後175年」ではなかったことは、注意すべきです。正確には「没後174年」というハンパな年ですが、日本人にお馴染みの数え方をすれば「175回忌」ということで、見事にきっちりした数字に変わります。
カトリックの教会がなぜこんな仏教的な数え方をとったのかはさておいて、この1965年というのは、色々な意味で新しさを感じられる年だったのではないでしょうか。まず、丹下健三の設計による建物自体がその1年前に完成しています。東京オリンピックがらみで作られた体育館と同じような、当時としては前衛的な建物だったのでしょう。そして、指揮者の若杉弘はデビュー2年目、彼が常任指揮者を務めていた読売日本交響楽団も、創立されてやっと3年目だったのですからね。
さらに、この頃は日本でのステレオ録音がやっと始まった頃、このようなスタジオ以外の場所でのステレオ録音などは、まだほとんど「実験」と言っていい状態だったはずです。そんな、外部でのライブ録音には経験の浅いスタッフが、いきなりこんな残響の多い会場での録音を任されたのですから、ちょっと同情してしまいます。まず、聞こえてくるのが「ゴー」という低音のノイズ、最初は観客のどよめきかと思ったのですが、それは演奏が始まっても止むことはなく、ずっと続いています。もしかしたら、暖房のための空調の音だったのかもしれませんね。おそらく、LPの時代にはあまり気にならなかったのでしょうが、CDになってしまうともろにやかましい雑音として聞こえてしまいます。
演奏が始まると、これはもうひどいものでした。あまりにも残響が多いので、音が完全に混ざり合ってしまって、いったい何がなんだか分からない、まさに「混沌」状態に陥ってしまいます。ですから、もはやこれは「音楽」として味わうことは不可能です。ひたすら「ドキュメンタリー」と割り切って、モーツァルトが作ったものとは全く無関係な「音響」がひたすら続いていることに耐えなければならないのですよ。
実は、これ以前にも同じように、実際の「ミサ」の現場でこの曲が演奏された時のライブ録音がありました。それは、この録音よりほぼ2年前、1964年の1月にRCAのクルーが行った「ケネディ追悼ミサ」の録音です。条件としてはさほど変わらないのに、その音ときたら、まさに雲泥の差です。これはもはや、当時の日本の録音技術が、いかに世界から後れをとっていたかを知る資料としての価値しかありません。
そんな劣悪な録音でも、大橋国一の立派な声はきちんと聞こえてきます。当時世界のオペラハウスで活躍していたほぼ「唯一」の日本人歌手、今聴いてみると、声だけではなく、音楽性には確かに世界レベルのものがあることが分かります。テノールの金谷良三も、決してひけをとりません。この二人によって歌われる「Tuba mirum」の冒頭は、ちょっとすごいものがあります。
ところが、ここでは合唱が最悪でした。名前からも分かるように、おそらくこの催しのためのプロジェクト団体なのでしょうが、ソプラノなどはもしかしたら、自分の立派な声を録音に残そうとしていたのではないか、と思えるほどの張り切りようで、そもそも合唱としての体をなしていません。よっぽど鈍感な人でない限り、これを最後まで聴き通すことは出来ないはずです。

CD Artwork © King Record Co., Ltd.

9月8日

黄金のフルートをもつ男
ジェームズ・ゴールウェイ & リンダ・ブリッジズ著
高岡園子訳
時事通信社刊
ISBN978-4-7887-1165-5

今年も、もう少しするとゴールウェイが来日して、コンサートやマスタークラスを開催します。それに合わせて、彼が70歳になった2009年に出版された「自叙伝」の日本語版が発売になりました。これは実は「2度目」の「自叙伝」、今から30年以上前、1978年にも、「1度目」を出しているのですよ(日本語版の出版は1989年)。

前の自叙伝を書いたのは、彼がバイクにぶつけられて両足と腕を骨折するという大事故に遭った直後でした。一時は再起不能か、とも言われた大怪我から奇跡的に復帰、そこには、なにか期するものがあったに違いありません。その最後の部分では、「これからは、あらゆる演奏会において、この演奏がこの世での私の最後の演奏になるかもしれない、という気持ちで務めよう」と、切実な思いが語られています。
今回は、著者にはゴールウェイ本人の他にもう一人のクレジットがあります。おそらく、多忙なゴールウェイに代わって、彼の語ったこと、あるいはメールでのやりとりなどを元に、実際に執筆にあたったのが、このリンダ・ブリッジズなのでしょう。ふつうは、決して表に名前が出ることはない「ゴースト・ライター」のブリッジズさんは、そんな扱いに値するようないい仕事をやってのけています。ここには、ゴールウェイが今までの人生で出会ったかけがえのない人たちが、まさに感謝の心があふれた筆致で見事に描かれているのですからね。そして、そこには彼ならではのウィットに富んだ言い回しがふんだんにちりばめられていますから、読んでいて楽しいのなんの。
当然のことながら、今回の自叙伝の前半は、前回のものの完全な焼き直しです。登場する人たちはもちろん同じ、そして、そこで語られる「オチ」も全く同じというのは、ある意味仕方のないことなのでしょうね。もちろん、真のゴールウェイ・ファンであれば、そんな「二番煎じ」の中からも、新しい意味を見いだすはずです。
今回面白かったのは、彼のレコーディングについての記述です。初期の録音でのスタッフの話は、なかなか生々しくて、興味が尽きません。不完全ながら、ディスコグラフィーもついていますしね。
ただ、ちょっと事実関係が曖昧になっているのが気になります。RCAへの最初の録音は1975年5月にロンドンのキングズウェイ・ホールで行われたのですが、CDの録音データによるとアルゲリッチとプロコフィエフなどを録音したのが20日と21日、チャールズ・ゲルハルトの指揮で後にこの本のタイトルと同じ「Man with the Golden Flute」となる「フルート名曲集」の録音が行われたのは22日から24日となっています。しかし、この本の中では「(名曲集に)引き続き、マルタ・アルゲリッチとのフルートとピアノのためのソナタだ」と、そなたりの日時が逆になっていますよ。さらに、ゴールウェイはこの時のプロデューサーがチャールズ・ゲルハルト、エンジニアが大御所のケネス・ウィルキンソンと書いていますが、クレジットは、「アルゲリッチ」のプロデューサーは確かにゲルハルトでも、「名曲集」はジョージ・コルンゴルト(オペラ「死の都」や、数多くの映画音楽を作ったエーリッヒの次男)、そしてエンジニアはともにDECCAでのウィルキンソンのアシスタント、コリン・ムーアフットなのです。実際にウィルキンソンが手がけた1978年の「Songs for Annie」と比較してみると、音のポリシーがまるで違います。まあ、昔のことですから、記憶が曖昧になっているのでしょう。
レーベルに関しては、DGへの移籍などにも触れて欲しかったと思いますが、逆にこれは新しすぎて、まだ回顧の対象にはなっていないのでしょうか。
前の自叙伝で、労働者階級から世界最高のフルーティストに躍り出たゴールウェイ、ここではなんと、日本の皇后陛下のデュエットの相手にまで上り詰めてしまいました。この本が爵位を授与された場面から始まるというのは、あまりに象徴的です。

Book Artwork © Jiji Press Ltd.

9月6日

明日に架ける橋
ハルモニア・アンサンブル
BRAIN/OSBR-28003

昨年の合唱コンクール全国大会に彗星のように現れ、初出場でシード付きの金賞をかっさらってしまったのが、この「ハルモニア・アンサンブル」です。ちょっと匂います(それは「アンモニア」)。メンバーはそれぞれがかなりの実力の持ち主、中には現役の音大生もいるそうです。そして、20人以上の規模ながら指揮者を置かないで演奏しています。彼らは日本のコンクールには飽き足らず、今年の5月にフランスで行われた「フロリレージュ国際合唱コンクール」という由緒あるところにも参戦、そこでも堂々のグランプリを獲得しています。このCDはその直後、6月25日に東京で行われた「凱旋コンサート」のライブ録音です。
「音大生が作った合唱団」というと、なにかソリストになり損ねた人が集まったような印象がありますが、そんな先入観を持って聴き始めると、それは完璧に裏切られるはずです。彼らの声はあくまでも合唱をやるために精進を重ねたものだったのですね。ですから、女声は完全にノン・ビブラートで歌っていて、どこぞの合唱団のように自分が目立ちたいために大声を張り上げるような人は誰もいません。男声は、そもそもそんな主張とは無縁な「草食系」、ひたすら自我を殺してハーモニーに奉仕するのが生きがい、といった感じの人が集まっていますから(違ってたりして)、そんな合唱団が美しくないはずがありません。なんでも、彼らは「発声指導」を、あの波多野睦美さんにお願いしているのだそうですね。それだけでも、どういう合唱団を目指しているのかが分かろうというものです。
ここでは、全部で20曲、正味の演奏時間が70分ちょっとですから、おそらく演奏会のほぼ全部の曲目をカバーしているのでしょう。この曲順が、コンサートをそのまま反映しているかはあいにく分かりませんが、それは、普通の「合唱団」のプラグラミングとは大きく異なったものです。「普通」は、組曲だったり関連のある曲をまとめた複数の「ステージ」が設けられるものなのですが、ここではそんなことにはこだわらず、ひたすら関連性のない曲をつなげています。ウィテカーの後に間宮の「コンポジション」をやったと思えば、そのすぐ後にまたウィテカーといったように、まさに予測不能の自由さに支配されたプログラミングです。余談ですが、先日そのウィテカーの講習会が行われた時にこの合唱団も演奏で参加していたのですが、それを聴いていたやはり金賞を獲得した別の合唱団の団員が、自身のブログで「とても同じ土俵では勝負できない」と、舌を巻いていましたね。
CDで聴いても、彼らの演奏はすごいものでした。とてもライブとは思えないほどの完璧なハーモニー、そして、指揮者がいないとは思えないほどの豊かな表現力です。コスティアイネンの「Sanctus」のような複雑な曲を指揮者なしで歌えるなんて、まさに奇跡です。
特に素晴らしいのは、さっきの「コンポジション」や、松下耕の「狩股ぬくいちゃ」のような、伝統的な素材を使った作品です。技術的なことを克服するのは当たり前という前提の上で、さらに高い次元の表現を実現、「狩股」では沖縄の発声やピッチ感までしっかり再現していますし。田中利光の「春」での津軽弁のイントネーションも、完璧です。
それに比べると、プーランクやデュリュフレでは、ちょっと表現が硬すぎるような気もしますが、それはこれからの課題なのかもしれません。彼らだったら、おそらくフランス人以上にフランス風のプーランクだっていずれは出来てしまうことでしょう。なんたって、最後の2曲はまさにジャズ・コーラスとゴスペルそのものに仕上がっていますからね。
このCDの最大の欠点は、これを聴いてしまうと、もう合唱をやめたくなってしまうことです。もしあなたが、今いる合唱団でそこそこ満足しているのであれば、決してこのCDを聴いてはいけません。

CD Artwork © Brain Company, Limited

おとといのおやぢに会える、か。


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