聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2001.01

>2001.02
<2000.12
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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
20世紀って / Lenine: O Dia Em Que Faremos Contato / Michel Camilo & Tomatito: Spain /
Pat Metheny Group: Imaginary Day / Ivan Lins (1986) /
ブンブンサテライツ『アウト・ラウド』/ スーパーカー『オーイェー!!』 /
Us3: Hand On The Torch


◆思い付き次第思い付いただけ更新しています。
◆日付はその日付のコメント自身への、CDタイトル前のマーク(◆)はそのCDのレビュー自身へのダイレクトリンクになっています。
◆文中のCDタイトルのリンクは、以前のコメントへ遡れるようにしてるつもりですが、かなり気まぐれです。


1/31 うどんde Sky外伝

前回書いたJALの機内食サービスの話、実はもっとすごい話だったと連れ合いから聞いたのである。私は眠かったか何かで見てなかったのだが、通路を挟んだ向こう側でパソコンに向かっていた、年輩の、それなりにステータスありげな米国人学者とおぼしきご夫妻が「何か軽いものはありませんか」と(英語で)乗務員に訊いたのだそうだ。すると「うどんやそばなど如何でしょう」と(英語で)答えるので夫妻はそれを頼んだのだった。暫くたってパーサーが持って来たそのうどんを見て、夫妻は驚愕の色を隠せなかった。何故って、それは普通のカップ麺より一回り小振りの無愛想な発泡スチロールのカップに即席麺が浮かんでいただけだったから...。ああ何て無慈悲な話でしょう。で味はやっぱりカップ麺以下らしいです。

先週末に仕事の飲み会がいきなりなくなってしまったので、これ幸いとCD屋のハシゴをしてきたのである。最初はまず以前から一度行ってみたかった、渋谷宮益坂のエル・スール・レコード。金曜の夜というのにこの人の少なさは大丈夫かいなと思いつつ、ブラジルものの中古がごっそりあるなんてココくらいのもんでしょということで、棚からDaniela Mercury: "Feijao Com Arroz" (Epic,1996)を見つけて購入。次いで...と言ったところでほぼ9時になってしまったので、家の最寄り駅まで来て、遅くまで開いている近所の中古屋を2軒回る。こちらは計6枚。散財か、と一瞬思うが、実はまあ居酒屋2軒ハシゴした程度の出費だったりする。仕事の付き合い酒よりずっと有益ではあるかもなあ。
で買った中からまずはこんなところを:

Us3: "Hand On The Torch" (Blue Note, 1993)☆
ジャズ・ヒップホップの定番、なんでしょう。曲いくつか知ってたし。彼らの別の盤を美容師I氏のところで聴いて面白かったので購入。これが1stなのかな。しかし聴いてて思うのはこれって単にループとブレイクビーツの音源がジャズなだけで(って勿論そこが特徴的だしカッコイイのだけど)、典型的なヒップホップだと思うんだけどなあ。結局ヒップホップにおいては手法の共通性の方がテクスチャの個別性よりも強く感じられるってことなのか。
それにしてもいいサンプル使ってるよなあ、と感心することしきり。まあ、ブルーノート・レーベルの総バックアップ(音源提供)があってのことだから当然だけど。ただそうしてみると、これ要はブルーノートのパブリシティじゃないか、とも思えて来るのだった。ううむ。

ほかに The Chemical Brothers: "Surrender" (Virgin/Freestyle Dust, 1999)☆。やっぱいいわ。いい感じで頭が醒める。珍しくDick Leeモノも拾ったけど感想はまたいずれ。


1/27 うどんde Sky、そばde Sky

連れ合いが食べたがカップ麺以下だったそうです。JALの機内食サービス。いや名前だけ好きなんで。今もあるのかな?
というわけで、では全然ないんですが、何と私がオフ会ですかい。そうですたい。大したことやりませんけど興味がおありの方はこちらの告知をご覧下さい。

雪がすごいんで一日家に居ました。1/8の雪で延期にした、集まる約束って今日に予定してたのにまたもお流れ。...メンバーに誰か雪男(あれ、意味が違うぞ)でも居るのか?
このヒマにまかせて今週の「お勉強モード」CD試聴記録。

ブンブンサテライツ『アウト・ラウド』(Sony, 1998)★
いわゆるビッグビート/デジロック(よーく考えてみるとこの2つの語彙のポジショニングの差は微妙だ)の代表選手とされてて、日本発でもあるしどんなものなのかと借りて来たのだが。しかしこれやProdigyとChemical Bros.とでは何か全く別物だと思うな。やっぱりChemBrosはDJ感覚での構築と編集だなあとつくづく思う。なのでマスダさんの「世界で一番最初にビッグビートを始めたのはB'zだ」という一見強引な指摘は、Prodigyとブンブンに限って言えばちゃんと一続きの地平につながるのだった。ううむ。生々しくないけどロックだなんて、何か個人的には居心地が悪いな。それにブンブンの場合どこかニューエイジ入ってるのがどうも...。作りの緻密さは特筆ものなのだが。

スーパーカー『オーイェー!!』(dohb/Sony, 1999)★
以前、風邪で家にいてぼおっとViewsicか何か見てた時にイースタンユースとかと一緒に掛かってて、おお結構いいじゃんと思ったのだけど。んー何かすごいってのはよくわかるんだけど、肌に合わないとはこのことか。一つは音響的に。ディストーションの感じがどうも芯がなくてとげとげしいと言うか。もう一つは歌の位置づけなんだが、ここまで轟音にかき消されてると、折角一癖も二癖もある歌詞なのに何で? って思えてきて結構フラストレーション溜まる。どちらの点をとっても、これまたマスダさんの推すブラッドサースティ・ブッチャーズの方が好みだなあ、何故か。芯があってほこっとと丸みのあるディストーションと、はっきりした言葉で語るように歌われるひたむきな歌詞と。

その他、Chick Corea: "My Spanish Heart" (Polydor, 1976)★が棚にあったので「コリアのスペインものって'Spain'と'Senor Mouse'くらいしか知らないけど、他はどうかな」と借りたのだが、まあ、これが私の苦手な70年代フュージョンサウンドの典型だったので...1回聴いただけで返します。勘弁。


1/23 怒りを込めて振りかけろ

って特に意味はないのですが。しかし怒りってそんなにいけないもんだろうか。しょっちゅう怒ってる私としては肩身が狭いです。

あーK.Tさん、女性の声が高いものだ(そして、それが良いとか可愛いとか)と思われてるのは日本独特の傾向で、生物学的に見ると女性と男性の声帯でそう極端な音程差はないのだ、という話をどこかで読んだのですが。その「どこ」というのが判らないのが、毎度ながら読書習慣の未熟な私の弱点なんでどなたか教えて頂けると助かります。ということなんで、低い声をラヴリイに感じるという感受性はなかなか良いかも。少なくともこれはまだ日本ではあまりポピュラーな価値判断ではないよなあ。

それはそうと、相変わらずうさみ氏の論考は刺激になる。多忙ゆえか更新にムラはあるものの、読書および映画鑑賞のネタのセレクトと批評における着眼には唸らされること多し。別に長年の知己だからってヨイショしてるんじゃありませんです。

で、今日は昨日CDNOWから到着したばかりのIvan Lins (Som Livre/Gala, 1986/2000)☆を聴きながら職場と家を往復。しかしイヴァンに関してはもう客観的な判断はできないくらい入り込んでるので、どう書いたらいいものか。いっそ両論併記ってのはどうだろう。
客観的批評: いかにも80年代中葉的なデジタルシンセに依存した音作り、バシバシのドラムマシンサウンドをベースに、リズム隊はロックのビートが基本。これではイヴァンのソングライティングの特徴である微妙なコードの変化やメロディの意外性ある跳躍を活かし切っているとは言い難い。当時人気のあったPhil Collinsばりのロック×フェニックス・ホーンズ的なものも、如何にも流行に追随した感じがする。
主観的批評: これはヘンだ。往時のニューヨークのロック系フュージョンシーン丸出しの音なのに、イヴァンのエキセントリックなメロディラインとボーカルスタイルがそれを突き破ってしまってるようなあっけらかんとした開放感。Phil Collinsっぽいホーンも何故かトロンボーン1本でこなすせいで不思議なビート感が、敢えて言えばマーチング・サンバ・バンドのようなノリが紛れ込む。そして全体を覆うロックの8刻みの中にほんの少しだけ顔を出すサンバのリズム・セクションが逆説的にその高揚感を強調しているのも不思議といえば不思議。世界標準的都市風景の中に忽然と現れる祝祭のエクスタシー。そして何よりも'Vitoriosa'という曲の美しいメロディがあるだけでもう十分なのだ。

もう病膏肓(やまいこうこう)ですね。最近我が家では、何かにハマり込んだ発言をする相手を差して「やまいこうこう」と言うのがブームです。呼び掛けるときは「こうこうクン」と君付けになったりしてちょっと可愛いです。という訳で、2月後半にBlue NoteのIvan Lins feat. Leila Pinheiroのライブに行きます。今から楽しみにし過ぎて「芋粥状態」(期待が大きすぎるあまり、いざその場になると嫌気が差してしまうこと)にならないと良いが。


1/21 サウダーヂの射程

身辺雑記を書くことを自分に許してしまうと際限なくどーでもいー些事を書き連ねてしまって、書いた後に後悔することも含め何ともお見苦しいところをお見せしている昨今のただおんでございます。あれ何でデスマス調に? それはともかく、そういうことなんで同時代性をきっちり踏まえるために時事ネタに触れつつ書くのもいいかとふと思ったのだが、例えば18歳の男がネットで知り合った32歳の主婦を刺したとかいう、ニュースにするにはあまりに些末な事件が先日ありましたよね。で何でニュースだってのにこんなどーでもいー事件を大騒ぎするのかと考えてみて気が付いたのだが、ニュースって話題がネット絡みになるとネタ選びや取り上げ方がワイドショー化する傾向があるんじゃなかろうか。まあ日本のマスコミなんてもともと切り口的にはワイドショー体質なんであって、普段のニュースではそれなりに基本的知識のベースがあってやってるから形になってるのに、よくわからないネットの話になると途端にその体質が露わになる、ということか。
やっぱあらたまって時事ネタ取り上げるのは性に合わないようなので、やめます。忘れましょう。忘れてお願い。

で、サウダーヂの射程、なのですが。久々に話が音楽っぽいぞ。ここんところPat Metheny Group: "Imaginary Day" (Warner, 1997)をよく聴いているのだが、この盤に関して以前はこんなコメントしかできなかった。いい部分はあるのだが、何度聴いても「人間の不在」感が気になって素直に入り込めないのだ。
これは、この盤がタイトル設定やビジュアル面まで含め、ほぼ明白に「人間がそこに居なくても存在する(おそらくは北米大陸の)自然の摂理」をイマジナリーになぞることを眼目にしていることによるのだが、そのことがMetheny自身それまで重要視し、中心的に扱ってきた「息の長い旋律線」、あえて強引に言い切ればブラジルの幾人かのミュージシャンに通ずるサウダーヂ感覚を、かなり大胆に切って捨てることと表裏一体を成している。より断片的な旋律線を高度に対位法的に構築することによって生じているのは、だから「人間的なるもの」など取るに足らない、超越的なものとしての「自然」であるのだ。そしてこういったコンセプトは個人的には非常に違和感があるものだった。超越的なものとして自然を認識し、そこを認識と思考のスタート地点とすることは、現に目の前で起きている人間の問題や喜怒哀楽を乱暴に矮小化することになるのではないか、と思うからだ。(池澤夏樹のエコロジー原理主義的スタンスとそれを好む朝日新聞的感受性が常々気に食わないのだけれど、それも大体同じ理由だ。)

ところが最近聴き直してみて、こちらの捉え方が多少変質した気がしている。もちろん、上記の違和感が完全に払拭された訳ではない。だが、自然現象に対して思いのさまざまを投影するということは比較的誰にでも、どんな地域でもあることなんであって、例えば抜けるような空を見上げてしみじみしてみたり、夕日を沈みきるまで飽かずに眺めたり、この盤のT-2 'Follow Me'で何故か燃えるような紅葉との一期一会を思い出してせつなくなってしまう自分なんてのがある訳だ。それが本当に「超越的な」自然のイメージに喚起されたものかというと、それはちょっと違う。こういうことは単に日常のあれこれを矮小化する背景効果ではなく、それをきっちり乗り越えるために、遠くを、ではなく、遠く「まで」の距離そのものを眺める視線ではないかと、そう思うのだ。だから今聴くと、Methenyのこの盤での狙いの定め方のある部分は、非常に射程の長いサウダーヂ、とでも言うべきものかも知れない。だって、サウダーヂは単なる郷愁ではなく、困難な今を生きる力なのだから

ふむ、ちょっと力んでしまいましたか。でも多少の緩急や強弱はあっても、生きてく日々って大体こんなものという気もするなあ。さて明日からまた。


1/13 北国の皆さん申し訳ありません。寒いです。

今日の東京は寒かったー。最高気温6度とかそんなもんだもんなあ。曇ってるし。おかげで洗濯物乾かないかと思うと憂鬱だったが、さっき取り込んだら結構乾いていたのは多分昼頃から風が出たせいだろう。日々埃まみれになって遊ぶ子供を抱える家庭ではこういうことが一喜一憂のタネである。

ところで今週は何で忙しかったのかな? 勤務記録見た限りではそんなに残業も多くないが... あ、何だか長時間睡眠だったな妙に。寒いのと、あとは仕事と並行して慣れない気遣いなんかして神経擦り減らしてるせいか。そう言えば今年のおみくじに「つまらぬところで思い悩んでもムダだからさっぱり切り捨てろ」みたいなことが綿々と書いてあって、こりゃ転職しろってことかと大笑いしたのだが... 本当にした方がいいのか?

Michel Camilo & Tomatito: "Spain" (Lola/Verve, 2000)★
フラメンコ・ギターの中堅トマティートとラテン・ジャズピアノのミシェル・カミーロによるデュオ。話題になっているのは知っていたが、トマティートのギターについては今一つ評価を保留していたので興味を持てずにいた。ところが昨年11月だったかに『ラテン・グラミー・アワード』なるものをTVで見て、そこで彼がブレリアス(速い3拍子の舞曲形式の一種)をワイルドな音色で弾き切るのを聴いて「これは!」と思ったのだ。
この盤もその期待は裏切らなかった。"Guitarra Gitana" (1996)あたりでの「オーソドックスで端正な超絶技巧」から一歩踏み出した、敢えて荒削りになることも辞さないプレイ。いわばガットギターによるストンピング。

だがそれは実は、この盤の魅力の一構成要素でしかなかい。このデュオは一見意表を突く選曲の中で二人それぞれのルーツ、つまりフラメンコとクラベスを交錯させ、いわばステレオタイプ化した「ヒスパニック」イメージの中から生々しい舞踊のドゥエンデ(鬼)を彫り出して見せるのだ。
ネタばらしになるので全部は触れないが、オープニングに何故「アランフェス」かと私などは思ったのだった。クラシックの様式に嵌め込まれた「借りものの」フラメンコでしかないのに。そう思って聴いていると、やがて彼らは旋律と和声の最低限の骨組みだけを借りながら、それを二人それぞれの語り口にのせて奔放にパラフレーズして行く。魂を抜かれたかのような「アランフェス」に改めて生命を吹き込む営み。そして続く表題曲「スペイン」は何とチック・コリアの書いたそれなのだ。特にコリアの演奏を知っている人は度肝を抜かれると思う。必聴。


1/8 新成人には波乱の船出となった関東地方の雪ですが

明日からは完全に日常ペースに戻さなくては、というのに昨夜からの大雪で人と会う予定はキャンセル、朝から雪かきして子供の雪遊びに付き合って、となるといきおい家籠りのったりモードに。なんて言ってる場合ではなく実は年末大掃除のやり残しがあるのだった。エアコンのフィルター掃除して一安心。いやこんなもの一昨日やっておけば良さそうなものだがあの日は宿酔で(以下略)

で宿酔と言えば1/4からこれ↓は繰り返し聴いてるんだけど、酔ってる時は本当に耳が拒絶してたなあ、不思議。というかまあ心に掛かることがあればどんな音楽も素通りするか。

レニーニ『未知との遭遇の日』 Lenine: "O Dia Em Que Faremos Contato" (BMG, 1997)★
『アンダー・プレッシャー Na Pressao』の一つ前、Marcos Suzanoとの『魚眼 Olho de Peixe』の成功を受けてのメジャーソロ第1弾はしかし、敢えて彼の個性の一翼を担うパーカッシブなガットギターを控え目にあしらい、むしろトータルなサウンドクリエイターとしての手腕を大々的にアピールしたかの様相。多彩なサンプル音源を駆使し、ロックなビートに乗せたその音作りは前作や次作よりも確かに「一般受け」(というのは、欧米のポップミュージックのマーケットの中に置いても、という意味で)はしそうなんだけれど、果たしてそういう場所に並んでその個性が際立つかと言えば微妙な線だ。それはMarcos Suzanoのプロデュース・ワークが宮沢和史のソロでは世界標準的ロックフォーマットに埋没寸前に見えた、というのにも似ている。個人的には推したいのだが、その高い評価がむしろ"Olho de Peixe"や"Na Pressao"を経由したが故でないとは、自信を持って言い切れない。

あと、解説の佐藤由美が「男の音楽」とかいうキーワードを「ロック」「ノルデスチ(ブラジル北東部)」と並べて挙げてるんだけど、なあ...いまどき「男の音楽」もあるまい。ヒップホップでさえそのマスキュリニティに対する批判が内部で言われている時に、何も美点として「男」を挙げなくてもよかろう。確かに「男」的なるものを含んだ音楽かも知れないが、それは限定付きの形容であり、アンビバレントな性質として記述する必要があるのではないか。Joyceがかつて「ブラジルで女性であることの難しさ」について書いていたことを思い出す。「最初に私を採り上げたジャーナリストたちは私が『男並みに』曲を書けると表現していた。...この10年、ブラジルの女性作曲家は単なるディーバやセックスシンボルでない地位を築いてきた。でもまだほんの一握りしかいない」("Music Inside", Verve Forecast, 1990. へのライナーノート)。挑発的で混淆的な音楽であることが安易に「男性性」として把握されるならば、その挑発的アピールに実は内在する、より小さな差違/抑圧が見過ごされることになるのではないか。それこそ、ヒップホップにおける黒人/白人という対立項が黒人内部での男女、貧富の差違についての問題性を隠蔽しかねないというのにも似て。


1/6 新世紀の幕開け。淡々と。(タンタンと。それはスノウィー)

ご要望に遅蒔きながらお応えしてだじゃれです>モチさん

昨日は新年会でちょっと飲み過ぎてまだ頭重いです。いや悪酔いしたのはちょっと話題重かったせいもあるんですが内緒です。2次会ではカクテルグラス3個を2人がかりで割りました(他に割らなかった方1名あり)。でも店員さんがサッと来て丁重に「結構ですよ」と声を掛けるや、ササッと片付けてくれました。3度目でさえ。ごめんなさい&有難うございました>OLD NEW@THE PRIME

*

おととい帰省先から戻ったのだが、山手線に乗ってみると車内はバーゲン広告一色。しかも1/3からなんてのもあり、初売りもそこそこに投げ売りという何とも投げ遣りな21世紀の幕開けなのであった。

一方、つい数日前に終了したばかりの20世紀である。年末には「20世紀の10大○○」「21世紀に残したい××ベスト10」なんてのが雑誌でもTVでも目白押しだったが、しかしどれも高々ここ十年二十年の出来事しか挙げてないってのは何か勘違いしてませんか? 100年の歴史を扱うっつうのにせいぜい自分の身の回り半径1.5m程度のことしか挙がらない、しかもそういう自覚がないってのは。何か想像力の貧しい時代に生きてるんだなあと溜め息出てしまう。

そう思いつつ連れ合いの実家で『週刊文春』の新年号(別名「20世紀最終号」)をパラパラめくっていたら、堀井憲一郎「ホリイのずんずん調査」がその憂さを晴らすような好企画。通常の4倍という拡大版(といっても全4ページ)なのだが、前述のような無自覚な輩を一刀両断し、返す刀で20世紀という時代についての向う三軒両隣的な矮小化されたイメージをひっくり返す。例えば1901年元旦に生存していた歴史上の重要人物、1901年には王制だった国の一覧、20世紀になってから実用化された技術、20世紀初頭の未来予想はどれだけ実現したか、などなど。そうやって淡々と描き出された20世紀観は静かな感慨を呼び起こす。

なお、毎年末にはここを読むのだが、ここにも熱にうかされた狂騒から距離を置き、淡々と記述された等身大の現在がある。これもまた20世紀の素顔。



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