ブラジル音楽で今日も元気にサウダーヂ (1999.3.29)
家人が、ブラジル音楽を苦手にしているのである。私がよくかけるのはボサノヴァではなくて、イヴァン・リンスとかミルトン・ナシメントのような、70年代あたりから活躍しているMPB(ブラジルのポップス)のしかも大御所どころばっかりなのだが、それらを聴くと彼女は、どうにも全てを投げ出したいような気分(それって虚しさか?)に襲われるという。
先日など、私が気合い入れに聴いていた、イヴァンの一番芯の図太いアルバム『アウア・イオ』をかけていたところ、何と「こんなもの聴いてたら、仕事する気が湧かないだろうなあ」と言う。逆だっつーの。バリバリでしたぜ、コレのおかげでこの1週間。
しかし、ブラジル音楽が人に及ぼす作用って、何でこんなに違うんだろうか。生きる糧にも生気を奪うものにもなるなんて。って大袈裟ですね。
ところで、「ブラジル音楽」と聴いて皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか。へヴィリスナーでもない私が聴くのもおこがましいんだが。やっぱり、ボサノヴァって心地よい、とか、サンバのエネルギー、とかだろうか。もう少し音楽を聴く人なら、真っ先に「サウダーヂ」というキーワードを挙げるだろうか。
サウダーヂ。懐かしさ、あるいはやるせなさ、などと近似的に訳すことが多いが、実はかなり射程の広い単語で、日本語には上手く訳せないらしい。むしろ、そういう気分を誘う音楽を例に挙げて説明したほうが早いかも知れない。もちろん、ボサノヴァ第1号とよく言われる「シェガ・ヂ・サウダーヂ(邦題:想いあふれて)」の、胸を締めつけるようなせつなさもいいし、「コルコヴァード」の慈しむようなほの暖かさもいい。いずれにも共通するのは、感情を高らかに歌い上げるのではなく、さりげなく、しみじみと語る感じと言えようか。だから、サウダーヂという単語はそんな、ジーンと心にしみる感じすべてを含んでしまうのかも知れない。
話はいきなり戻るのだが、ブラジル音楽に対する印象の振幅はとどのつまり、このサウダーヂの振幅ではないのかなあ、とふと思ったのである。ふと思っただけなんだけど。
ジーンと心にしみるような気持ちというのは、そこに浸ってしまえば確かに前向きな気持ちを失わせるだろう。やるせない望郷の念とか、せつない片想いとか(おぉ、譬えが若いぜ)。だが、しんどい時辛い時はそういう気持ちが、目の前のいかんともし難いやり切れなさから一瞬、自分を解放してくれる、ということもまた本当だと思うのだ。あるいは、直面しているそういう状況から、一瞬ではあれ距離を置かせてくれる、というか。そんなとき、サウダーヂは逃避ではなく、確実に生きる力だと思うのだ。
音楽は所詮ガス抜きだというような言い方もよく耳にするけれど、ガス抜きしないでどうやって「現実に」生きて行くんだい。現実の問題に四六時中直面しながら生きていけるほど、人間は強くない。そんなとき、音楽は力だと思う。本当に。
(end of memorandum)
ただおん |
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