聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2000.12

>2001.01
<2000.11
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
Thelonious Monk plays Duke Ellington / El Flamenco (新宿)/
DL Project: Transit Lounge / Peter Gabriel: Passion /
Joao Gilberto: Brasil / U2: Zooropa / Leila Pinheiro: Coisas do Brasil /
Quarteto Em Cy: Bossa Em Cy / Sylvia Telles: Bossa, Balanco, Balada /
サンタとプレゼントとプレイリスト / Pat Metheny: Bright Size Life /
Pat Metheny and Lyle Mays: As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls /
砂原良徳: Take Off and Landing / The Boom: No Control /
The Chemical Brothers: Surrender


◆2000年11月より、思い付き次第思い付いただけ更新、という方式に変更しました。日付はその日付のコメント自身への、CDタイトル前のマーク(◆)はそのCDのレビュー自身へのダイレクトリンクになっています。なってるはずです(手作業なので...)。


12/29 振り返る間もなく

駆け抜けた一年でした。個人的には。しかもその割に片付かぬこと多し。結局今月は日記以外ほとんど更新しなかったというのもその一つだし、ああ××さんにテープ作るって言ったのに、とか何とか色々。

で昨日は職場の打ち上げ。正午から事務所で酒を酌み交わし、その後一仕事あって席に戻ったら、何だい今年は午後も残ってるの私だけ? まあ、良いことだけど。そして既に蕎麦屋へと繰り出して呑んでいた面々から呼び出される。午後3時にして出来上がってる陽気な大人が約10名。職場的にも色んなことがあってパワーも掛けて取り組んだ一年だったのは確かだけど、パートナーはともかく管理職クラスの面々からこんなに褒められるなんて気色悪い。今年は随分遠慮なく噛みついたのに。上司たるもの、普通酔いが回ったら説教の一つくらい垂れるもんでないかい? こりゃ来年はきっと何かある。何だろう。考えたくないぞ。

Pat Metheny and Lyle Mays: "As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls" (ECM, 1981)
そんな大立ち回りの一年だったから、最近はこれに本気で「癒されたい」と思って聴いたことが何度かあったのだ。自分が決して最適バランスで利害の調整に当たっている訳ではないことは判ってる。感情移入のし過ぎだとか言うなら言えばいい。だが、そうやっている自分を全体の状況の中で見た場合、「全体にとっての」最適バランスを生み出すように動いているとは言えないのか? 判官びいき? 構わないさ。一人一人に完全に公正であることを求めた場合、それが総和としては現状の歪みを温存することだってあるのだ。しかし...見えてないことの方が多いのか。多分そうなんだろうけど。
Metheny-Maysのこの盤のTrack-3 'September Fifteenth (dedicated to Bill Evans)' はその通りEvansの追悼として書かれた曲だが、その後に置かれた'"It's For You"'(タイトルに引用符が予めついている。これが重要)が、まさしく喪失感から再生、あるいは孤独から共生への物語を紡いでいる。言葉などなく、ただ黙々と。

...その他、この年末に聴いたものを書いて締めとします。久々に色々聴いたなあ。しかし職場のデスク上の積み上がり具合見ると、一息ついてる場合じゃないだろって気もするのだが。まあ、人生メリハリってことで。

砂原良徳: "Take Off and Landing" (Ki/oon, 1998)★
前から彼の一連のソロは聴きたいと思っていたのだが、DL Project: "Transit Lounge"の解説で引き合いに出されていたので、それはウソじゃないのと思い、その確認もあって借りる。だが、もう1枚のジェット機モノ "The Sound of 70's"と併せてコメントしたほうがよさそうだ。この盤を聴いた限りでは、あまり焦点が定まっているようには思えなかった。サンプル音源の再生スピードを上げ下げする遊びが多すぎるのも結構耳に障ったし。

The Boom: "No Control" (東芝EMI, 1999)★
一応、宮沢和史の動向には若干の違和感を覚えつつも見届けていきたいという考えがあるので、今年出た"Lovibe"やソロの"Sixteenth Moon"あたりを踏まえて、改めてきちんと書きたい。聴く前に懸念していたのは、シングルカットされた「月に降る雨」のあまりに類型的なJ-POPフォーマットを、彼ら自身が「戻るべき自らのポップス」だと考えるならあまりに安易だ、ということなのだが、結局これ1曲だけだし、エンディング部分とか意外性があって聴かせたので、この点は杞憂だったと言える。だが全曲通して聴いて気になったのはむしろ、癒しへと吸引されるような傾向であり、また固有名詞を羅列した一方的なポエトリー・リーディングであった。でその後現にシングル「いつもと違う場所で」では古今東西の賢人の名が散りばめられ、"Lovibe"は「ほのぼのしている」(プロデュースで参加の鶴来正基の言)と言うし...大丈夫?

The Chemical Brothers: "Surrender" (Virgin/Freestyle Dust, 1999)★
前評判が高かった割にはその後話をあまり聞かないので、これはハズしたのかとも思っていたのだが、何だ結構いいじゃない。というか個人的にはかなり好み。もはやビッグビートでもデジロックでもなく、非常に端正で穏やかに発熱するテクノがあるだけ。世間的にはその分、テクノの海に埋没したように見えるのかも知れないけど。
OasisのNoel Gallagherがゲストボーカルの'Let Forever Be'は前作における'Setting Sun'と同じような位置づけと言えるだろうが(最もギター的な音響、3拍目の裏を叩く「踊りっぽくない」スネア、など)、その突き抜けた高揚感は'Setting Sun'のバイオレントな挑発とは正反対にすら思える。あとBernard Sumnerが歌う'Out of Control'、New Orderまんまって言っちゃえばそうなんだけどカッコイイ。個人的には、前作の狂騒感と極度の歪みからやっと上手いところに着地した、と思う。


12/26 クリスマスグランプリ2000

またはミレニアムステークス? 本当にそういう名前に模様替えしてしまったかのような大騒ぎだった日曜の有馬記念。父が2000円ずつ出資するというので、我々子供らは好き勝手な予想をあれこれしてみたのだった。とはいえ馬券を買うなんて数年振り。以前もそうしたのだが、ここはお祭りと割り切って語呂合わせ買いを300円ほど紛れ込ませる。この1年の重大ニュース絡みというと...おお、ダイワテキサスアメリカンボス。混迷を極めた米大統領選にちなんだ馬名がちゃんとあるではないか。大穴だけど。で結果は3着6着。大穴にしては頑張ったが遠く及ばず。ううむ、何せ小ブッシュ君、史上最弱の大統領とか今から言われてるくらいだから力不足は止むを得ないか。

しかし今週に入ると通勤の行き帰りも近所を歩く人も何だか急に年末モードだなあ。中にはかなりユルユルにほどけちゃった自転車乗りとかいて危なっかしいことこの上ない。などと気を引き締めて歩いていると頬を切る冷たい風。いやあこれぞ年末。空も高いし。

Pat Metheny: "Bright Size Life" (ECM, 1976)
ギターとベースのデュオ、という構成での課題曲を'Waltz For Ruth'以外にも見つけよう、という試みの一環として、ドラムスを加えてのトリオながら引っ張り出して久々に再聴。ベースがジャコパスというのもあって、ちょっとハードル高すぎるかとは思うけど、今の構築的なアプローチのMethenyとは違って、アイディアの骨格と奔放なひらめきだけで押しまくるような勢いの良さ(それでいてリラックスした雰囲気)が魅力的。


12/23 "Yes, Virginia." (あるいは、サンタクロースはいるんだよ)

というフレーズで有名な、確かNew York Sunとやらの昔の社説、親をやってると改めて五臓六腑に沁みわたるのである。サンタは居ないなどとうそぶくのは、高々自分の目に見える範囲のものだけしか、その存在を信じられない人たちだと。自分の知り得ないところに存在するかも知れないものについて想像を巡らせることができることこそが、人にとって大切なのだと。...かなりざっくりとした再解釈ですが。別にクリスチャンでもないので派手なクリスマスはしないけど、サンタクロースの話は好きだ。

という訳で今日は妹夫妻と両親を招いてクリスマス・パーティっぽい忘年会を催し、何故かいつからか恒例となったプレゼント交換など。昨日は仕事の帰りがけに両親にあげる夫婦茶碗を選んだのだが、久々にプレゼントする幸せを味わえた気がする。ふふふ、どうよこれは。と思いながらカードとレシートの戻りを待つ時間のワクワク。もっとも親たちに対してこんな気分でいられるようになったのは働き始めて実家を出たあとのことだ。近くに居すぎては上手く行かない関係もある、という一面、その近すぎた日々があるから距離を置いた日々がそれなりの意味を持ち得るのだ、ということを、そうやって知った気がする。

クリスマス気分のプレイリスト。といっても直接クリスマスに関するのは1点のみ。
V.A. "A Very Special Christmas" (Special Olympics Productions, 1987)
毎度の定番。80年代のクリスマス。といっても"Santa Baby"をベイビートークで唄うMadonnaの怪演や、"Gabriel's Message"を多重コーラスで聴かせるStingのハマり具合など、油断ならない聴きどころ多数。
Dionne Warwick: Love Collection (Fun House, 1991)
セレクションもの。後半ビートルズナンバーとかあってヘタるが、Jim Webbものがそこそこ入っている('MacArthur Park', 'Up, Up and Away')ので良しとしよう。
V.A. "A Love Affair --- The Music of Ivan Lins" (Telarc, 2000)
Liane Foly: "Lumieres!" (Virgin, 1994)
90'sフレンチジャズ。いっとき良かったAnita Bakerがそのまま深化してればこうなったろうなあ、という渋い声色と唄い回しが今聴いても魅力的。
そして両親が早めに帰ったあとのチルアウトに DL Project: "Transit Lounge" (Sony, 1999)。

これらとは別に最近妙に聴きたくてよく手に取るのが、クラナド Clannad のベスト盤 "Past Present" (RCA, 1989)。リードボーカルのモイア Maire Brennan らブレナン兄妹の末妹であるエンヤ Enya が単なるクリスマスの荘厳気分を盛り上げる季節商品にまで成り下がってしまったことに対する、これは当てつけ気分なのかも。


12/22 この一年を振り返る

のにはまだちと早いとは思うのですが。この前の土曜日が今年最後のスタジオ練習でした。'Waltz For Ruth' を、指が真っ赤になって弦を押さえた跡が暫く戻らないくらい真面目に練習しました。そもそもにわかベーシストの私にはCharlie Hadenへの道はまだ緒に付いたばかりであります。でも本当に勉強になる。よかった。自分自身の音楽をより豊かにするためには、とりあえず身に付いた作法や流儀を一旦棚上げにして、しばし達人の技に身を預けてみることも大事だと、これが今年の収穫と言えましょうか。

で、その後は当然ながら忘年会でありまして、持って来て頂いた「銀河高原ビール」のヴァイツェンと、ラベルがアートしてて綺麗なボジョレー・ヌーボーを楽しみ、然る後に'Nightingale'の練習。さらに10小節強、「進んだ」と言って良いのでは。最後の転調の前にある無調のブリッジが、予想以上に成功したので結構気を良くしている私であります。あ、気分が良いのは酔いのせいでもあったか。クリスマス・キャロルのアカペラをやろうという案はメンバー全員が多忙だったため流れてしまったのですが、とりあえず来年へ向けての弾みはついたのでめでたし、めでたしであります。なお「夢と野望」第2回の掲載はちょっと先になりそうです。

最近聴いたブラジルもの3点:
レイラ・ピニェイロ『イパネマの出来事』 Leila Pinheiro: "Coisas do Brasil" (Philips, 1993)★
実力は日本のファンにも高く買われているLeilaが、故Elis Reginaの夫でアレンジャーのセザール・カマルゴ・マリアーノ Cesar Camargo Marianoと組んだ1枚。Cesarのアレンジは弦が綺麗だとは思うのだが、全体的に抑揚のないフュージョンサウンドにまとまってしまってるのは、Leilaの声を活かせているのかどうか。確かに波風立たない湖面を目指すような指向性がボサノヴァ以降の美意識の一典型ではあろうけど、これでは食い足りない。Leilaの声や歌いっぷりは本当にElisを思わせるだけに(解説の中原仁がことさら「似てるけど違う」ことを強調するのはいかがなものか。だって似ててしかも良いんだからそれでいいじゃない)、もっとダイナミクスある作りがいいんじゃないか、と思う。それにしても本当に声というか発声のきれいなシンガー。

クァルテート・エン・シー『ボッサ・エン・シー』 Quarteto Em Cy: "Bossa Em Cy" (BMG, 1992)★
女声4人のベテラン・コーラスグループがボサノヴァナンバーを集めた(といっても新作とか小野リサの曲も入っている)1枚。ああ、これは良いけど私には合わない。少しでもビブラート入ったり、ベルカントがかったコーラスはあまり趣味ではないのだ、とハッキリ自覚したのだった。私の場合はコーラスに求めているのは絶妙な和音そのものであって、そのためにはなるべくプレーンな発声、均質な声質のほうが望ましいのだ。同じブラジルで譬えればBoca Livreのように(男声だけど)。

シルヴィア・テリス『ボッサ・バランソ・バラーダ』 Sylvia Telles: "Bossa, Balanco, Balada" (Elenco, 1963?/MIDI)★
Jobimが彼女のニックネームをタイトルにした「ジンジ Dindi」を書いたりしていて、リアルタイムの「ボサノヴァのミューズ」はこの人だったんだろうなあ、という往年のシンガーが、今ではスタンダードとなっているナンバーの数々を吹き込んだ1枚。これも驚くのだが---というか、ボサノヴァ・ムーブメント以前から活動していたから当たり前なのかも知れないが---、Joao Gilbertoから想像するさりげなさのボサノヴァとは違って、ジャズ・スタンダードの真っ直延長にある、朗々とした、言ってみれば「ボサノヴァ歌謡」。だが多分、Elis Reginaの大輪はこうした水脈もあったからこそ花開いたんだろうな。


12/13 素っ気ないのですが

レビューのみ。年末の日常はあまりにありふれた年末の日常なので。敢えて一つ挙げると、昨日息子を保育園に送っていったらその友達がニコニコと玄関まで見送りしてくれたよ。嬉しいよね。

U2: "Zooropa" (Island, 1993)★
聴こうと思った直接の理由はこの方がヘヴィロにしてたとの話から。この盤が出た頃、私は丁度ポピュラー方面から離れてクラシックの近現代ばっかり聴いてたために、この盤、およびその直前に大成功を収めた彼らの"Zoo TV Tour"については手放しの賛辞(主に従来からの支持者を中心とした)と、正反対にシニカルな突き放し(特にエレクトロ&テクノな人々による)しか聞こえてこなかった。だからdeep into Technoな人からの強い支持というのが気になったのだ。もちろん、もう一つのきっかけとしては90年迄のベスト盤を聴いたことがある。彼らがどう変質したのか、しなかったのかという関心。

で、いきなり認識が間違っていたことが判明。この盤の方向性にはBrian Enoの参加が深く関わっていると考えざるを得ないのだ。それ故、ではあるのだが、単純にテクノな音響に手を出したロックなんていう浅薄な気まぐれでは済まないものには、確かになっていると思う。Enoの関わり方はしかし"Joshua Tree" (1987)あたりとはかなり違う。これでイメージするのはアンビエントのBrian Enoではなく、初期Roxy Musicで意外性のある具体音や電子音でBrian Ferryの愚直な「グラム」を相対化して見せたEnoだ。 個人的には彼は単一のミュージシャンとしてよりも、言うなれば「第3の参照点」として他のアーチストの音世界を立体化/相対化することに向いているような気がしているが、"Zooropa"ではその手法が"Joshua Tree"でのような、靄の中から立ち上がって来てその中へ消え入っていくような距離感---いやむしろ、神話化するような時間感覚か---の演出ではなく、異質なコンポーネントを前景や背景に配して、生真面目になりがちな素材をシニカルにずらして見せることに重心を移している。それは丁度、一時期のThe Boomに対する朝本浩文の機能の仕方のようでもある。そして多分その効果は、「ロックンロールはバカげていて...(中略)でも今の僕らはそのプラスティックのような安っぽさを両手で包み込み、大きなキスを浴びせている。いわば敵と一緒に生きているようなものだ。でも、それが本当の旅というものなんだ」(伊藤なつみによる引用)と語るBonoらU2のメンバーの意図にも適ったものだ。

しかしこの盤(日本盤)、何で4人も解説書いてるんだ? 書かせてくれと頼まれたのでなければ単純にコストアップ要因ではないか。まあそれはいいとして、読み比べが面白い。伊藤なつみ、大伴良則は結構いいのだが、「ロッキン・オン」田中宗一郎と東郷かおる子ひどすぎ。U2に「正義の十字軍」という過重なイメージを背負わせたのはあんたらのような追っかけロックジャーナリズムだろうに、よくもまあ今更「頼まれてもいないのに現代社会が抱えるあらゆる類の負債を背負っていこうとするU2の態度は、どこかトゥー・マッチに映った」(田中)、「それまでのU2には、どこか大袈裟で手前勝手なヒロイズムが匂って」(東郷)などと言えたものだ。U2が迷いつつも、敢えて押しつけイメージと折り合いをつけながら自らの社会的コミットメントを刻んできたことは、'Sunday, Bloody Sunday'を正面から受け止めたリスナーには自明のことであって、今更彼らが大きく舵を切ったとかいう訳ではない。それこそ彼らはあの頃からずっと「おずおずとした肯定」(この表現の出典はこちら)を、おずおずと歩いて来ているのだった。だから、ステレオタイプな音楽ジャーナリズムはU2の音楽そのものから痛烈に皮肉を浴びせられているのだと自覚すべきなんだが...まあそういう感受性のない鈍さゆえ好き勝手書き散らかしているんだろうな。で売るレコード会社もしたたかなもんで、そういう輩が解説で気勢を上げるほど売れるということも織り込み済みな訳だ。そしてそれでもU2は進む。ううむ、以前全く気に入らなかった"Pop"(1997)も再聴が必要かも。

ジョアン・ジルベルト『海の奇跡』 Joao Gilberto: "Brasil" (Philips, 1981)★
これはやはり、なべぞうさんのところで色んな方が絶賛してたから。というか、結局ジョアンというと『〜の伝説』以降何を聴こうか、と思いつつその海図がなかったから、やはり目利きに従おう、ということで。だがこれは素晴らしすぎた。演奏時間30分弱という実に短い時間なのだが、かのAry Barrosoの'Aquarela do Brasil'から始まって、'All of Me'なんてスタンダードをこなしたり。それが一貫したジョアンの冷徹なギターの刻みと、ジョアン自身プラスCaetano Veloso, Gilberto Gilらの寄り添うようなボーカルが繊細なテクスチャを際立たせる。ジョアンの世界が実に独特だと思うのは、揺れのない正確無比なギターとボーカルが極力テクスチャのムラがない状態を目指しながらも、それらが逆説的にそこに生じる微細な揺れを増幅しているように感じられるからだ。最も沈黙に近いものが最も雄弁に語る、かのような。


12/8 悪い奴でもないんだが(ホントさ)

よく眠る、ここんとこ。多分、通常の平均より1時間近く長い。子供に移されないよう風邪撃退モードか?

そうそう、忘れてたけど、責任取るふりなんかやめろよな野中広務。そんなら何故6月に辞めない? 政治は不在だけど、こんなポーズをそのまま報じるメディアも不在同然だ。メディアと言えば、省庁再編したけど政治家用ポストが増えてる人事をただ垂れ流すってのも随分と国民をナメたもんでないかい?
うーん、さりとてアクションを伴わない政治ネタはただのガス抜きである。先日の茶番を教訓に、何か選挙民としての真っ当な働きかけを考えたいと思う。

いきなりですがクウガネタ二つ。

・韓国で11世紀頃の漢字の古文書に、読み下し用のフリガナと思われる記号が見つかったそうな。それをNHKだけはずっと「古代文字」と報じているのだが... ん? 11世紀って「古代」か? クウガの見過ぎやろそれは!

・さすがにクウガは暴力的すぎるっていう声が挙がってる、と聞いたんだけど、何だか昔からある「暴力シーンは子供にいいのか」っていう比較的どうでもいいレベルの話しか見当たりませんね(よってリンクは張りませんが)。グロンギ怪人たちの無差別殺戮がこわい、とかそれ自体は別にどっちでもいいと思う。敢えて踏み込んで言えばそれは「天災」の比喩として書かれていると言っていい。つまり絶対的に人間にとっての脅威。(それが最近の話では「戦争」の比喩にまで発展しているのだが、横道に逸れるので深入りしない。)
ただ、子供にはどうか、と思うのはその描写自体の怖さなのだ。単に流血とか死体とかいうレベルではなく、マジに大人向けホラーSFとして十分通用する「生理的怖さ」で画面を作っている。あまり小さい子が見るとトラウマになるんじゃないかと思うくらいに。こうなると、規制はともかく時間帯ぐらい深夜に移したっていいんじゃない、と言いたくもなる。どうせうちの子など怖がって見ないくらいだし(でもキャラクターは大好きで付録のお面とか被ってる)。

Peter Gabriel: "Passion" : Music for The Last Temptation of Christ --- a film by Martin Scorsese (RealWorld/Geffen, 1989)☆
考えてみるとPeter Gabrielは「遅れて来たワールド・ミュージック」だったのだろうか。彼の中であくまで「観念的に」存在していた西欧外の他者(特にアフリカ)が、彼自身の音楽との関係を具体的に結実させ始めるのがこの盤だと思うが、その時世間は既に脱ワールド化しつつあったのだ。ワールド批判の隆盛も90年前後だったように思うし。ただそのことで逆に、Gabrielは単なる流用とか収奪とか言われたような手法とは別の次元で、他者の音楽との交流の仕方をつくって行けたのかも知れない、とも思う。("US"の項参照)

"Passion"は、中東〜アフリカの民族音楽の音源を織り込みつつ慎重に組み上げられた音で、乾いた何もない大地と空を強烈にイメージさせる。中東を書くなら黛敏郎の『十戒』も悪くないが、この方が迫力はある。但し---ある種、キリスト教的世界観を反映したステレオタイプを(無意識にせよ)前提にして、書き分けがされているという懸念はある。映画そのものを見ていないので断定はできないが、以下その図式をメモ書きで。

・「中東/現世/世俗の表象としての中東音階」×「西洋/天上/聖性の表象としての教会旋法/ディアトニック/三和音」
・事例---教会旋法やディアトニックが用いられているトラックのタイトル(T-12 & 16 "With This Love", T-20 "It Is Accompished", T-21 "Bread and Wine", etc.)
・参考---Peter Gabrielのその他の作品で見られる同様の傾向、あるいはカトリシズムへのイノセンス? ("The Blood of Eden" Us, 1992, etc.)

DL Project: "Transit Lounge" についての補足。
・"Lounge"という単語を使ったのはもちろん掛け言葉だろうが、それは自分の音楽が「ラウンジ」に分類されるという無粋な自己レーベリングではなく、むしろ「世間ではこういうのをラウンジって呼んだりするみたいだけどね。ハハハ」という軽い「いなし」だと見える。
・「自己の」音楽、「アジアの」音楽と言い切ってしまう強さは、その無神経さと紙一重、背中合わせの関係ではある。特にシンガポールという文化的、「地政学的」ポジショニングは微妙だ。華僑パワーが担う東南アジア経済において、階層間の衝突が容易に「華僑vs在来住民」という図式に置き換わり、それがある程度内実あるものとして認知されるのは、インドネシア暴動の際にスハルト・ファミリーに次いで華僑資本が標的になった例でも明らかだ。シンガポールはいやが上にもそのイメージ的中心を成してしまう。
こうした図式がむしろ顕在化したといえる今日にあって、なおDickが取り続ける上記のスタンスは、アジアの内側から見れば「華僑の経済支配に根ざした、華僑によるアジア文化支配」と言われ兼ねない危うさをはらむ。彼は確信犯なのか、それともそうした問題への意識が希薄なのか。自ら実業家でもあり、シンガポールの大使役を自認する彼の活動や発言からは、そのどちらとも読めてしまうのだ。ここまで両義的なままでいいのか、と思うほど同等に。


12/7 フラメンコを観た。久しぶりに。

例によって年2回くらいある職場の懇親会で。別に私がネタを振った訳ではないので皆を巻き込んだという後ろめたさはまるでなし。
新宿『エル・フラメンコ』の9時のステージだったのだが、これは結構お薦め(但し今のグループ、"El Toleo y La Tolea" は2001年3月迄らしい)。ただ、ひたすらドゥエンデ(鬼)の降りたようなワイルドなバイレ(踊り)だけを見ていたいという人にはちょっと退屈かも。というのは、このグループは優れたカンタオール/カンタオーラ(歌い手)を擁していて、踊りの合間にかなりたっぷりと聴かせてくれるのだ。また踊りの曲も、ソレアレスやアレグリアスなどの基本型をベースにしつつもかなり自由に発展させた複雑な構成で作られており(リズムブレイクを入れてみるとか)、踊りも勿論(特にトップの2人は)凄いのだが、それに加えて音楽的にもかなり楽しめたのだった。まあお値段は少々張るが、それだけの価値はあったように思う。


12/5 師走といえば

大掃除、の前哨戦を週末にしてみたが、レシートだのクレジットの請求書だのカタログだの勧誘チラシだのが雑然と何年分も積み重なっているのを何とかしようというのは、さすがにハードルが高すぎたか。結局まだ大掃除本番には差し掛かっていない。大丈夫か年末、来るのか21世紀(そりゃ来るけど)。

今日は息子の看病で休む。たくさん寝てくれてるので、こちらもついくつろいでしまうんだがいいのか師走。

Thelonious Monk: "plays Duke Ellington" (Riverside)
1955年録音。モンクは、"Thelonious Monk Trio" (Prestige, recorded in 1952/1954)がとても好きで、他にもピアノトリオでの録音盤を2-3当たってみたのだが、どうも今一つという感が拭えない。"Trio"で見せているような自由闊達なアドリブ、それこそ「ゲンコで弾く」かの如きパーカッシブなプレイに較べると、このエリントン作品集は非常におとなしい、それこそ原曲の陰に隠れんばかりの地味な音色であり音運びなのだ。"Trio"を聴く限りモンクの筆は、ブルーノートと同価のシステムを平均律上に展開するエリントンの和声法を徹底させたものと思えるのに、この齟齬感はちょっと妙だ。もちろん、そこまでモンク的なものを求めなければ実にしっとりしたいい演奏、ではあるのだが。
ちなみにモンクはトリオではなくサックスを加えたカルテットでの録音も多くて、これは数トラック聴いたが、どうしてもサックスがピアノを食ってしまってどうにも台無しな感じばかりが残った。モンクの良さって、世間的にはどこにあるんだろう。今一つわかんないな。

今頃ですが「アカペラコーラスの夢と野望」、連載開始です。肝腎のプロジェクト自体は当事者たちが忙しくて、遅々として進んでませんが。それから、11月のLenine: "Na Pressao"のコメントを補足しました。あまりにデータ的側面が足りなかったので。



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ただおん

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