聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2000.11

>2000.12
<10.01-31
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
A Love Affair --- The Music of Ivan Lins / Lenine: Na Pressao /
DL Project: Transit Lounge / Toninho Horta: Terra dos Passaros /
Pizzicato Five: 女王陛下のピチカート・ファイヴ / Boston: Don't Look Back /
U2: The Best of 1980-1990 / Miles Davis: Birth of the Cool /
小島麻由美: さよならセシル


◆2000年11月より、思い付き次第思い付いただけ更新、という方式に変更しました。結果として、日頃よく覗いているサイトの様式のいいとこ取りみたいなレイアウトになってしまいましたが、心当たりの方ご容赦下さい。ビジネスモデル特許とか取らないでね(笑)。


11/30 打ち込む姿

「3分間クッキング」のテーマ曲(本名「おもちゃの兵隊マーチ」)を3声の着メロで入れてみたのだが、実はこれ、とっくの昔に配信されてるのね。ちい。じゃあ使うのやめよう(というのと全く同じ発想を既に某氏がしていたと知り驚く。ううむ)。でもネタとしては取っておこう。なにしろ3声なのにエコーのかかり方まで上手く再現できたのだから。ふふふ。

で、ネタ系はこれと山手線発車ベル(新宿駅・旧版)くらいにして、あとは周囲が聞いて感じのいい、これほしいと思わせるものを目指そう。とりあえずDave Brubeck: "Blue Rondo a la Turk"とThe Doobie Brothers: "What a Fool Believes", 更には知名度やや低すぎかと思うIvan Lins: "Setembro"を入れたが、どうしてもPat Metheny Group: "Phase Dance"と比べると落ちる。ううむ。

3声の着メロというのは確かにゲームみたいに安っぽくなりがちで、だからこそ美しい!と思えるレベルのものを作り込むのが面白いと思うのだが。これ、4声アカペラや弦楽四重奏が最高に楽しい、つうのにどこか似てないか。似てないよね打ち込みだもん。すみません。

久々にCDも新着ラッシュ。CDnowからも到着したので。

V. A. "A Love Affair --- The Music of Ivan Lins" (Telarc, 2000)☆
イヴァン・リンスのカヴァー集。基本的には「お洒落でアーバンでセクシーでロマンチックな大人のアダルトコンテンポラリーとしてのIvan Lins」という、個人的には今一つ気に入らない路線での編集なのだが、しかしなかなか良いのだ。そりゃもちろん、Ivanのメロディに仕組まれた生命のほとばしりとも言うべきハイ・テンションを十全に活かしているとは言えないが、その代わりそうしたIvanのある種エキセントリックな個性について行けない人にも、 彼の書く曲の魅力が伝わる落としどころに上手く落ち着いていると思う。
例えば冒頭Stingの(これ、シングルカットされてなかったっけ?)"She Walks This Earth"は抑えた中に爆発寸前のエネルギーを溜め込んだような歌唱が実にそそるし、"You Move Me To This"でのLisa FischerとJames "D Train" Williamsのいわゆるブラック・コンテンポラリーなデュエットは、旋律自体がやや素っ気なさすぎる中から繊細なテクスチャを引き出し、拡大して魅力を伝えてくれる。
それにしてもこの盤のパーソネルはほとんど禁じ手と言える豪華な組合せが目立つ。StingにMichael Brecker、Dianne ReevesにJoe Sample。やり過ぎだが悔しいことに起用は当たっているのだな。あとFreddie Coleってすごく良くて、Nat "King" Coleと似てるなあと思ったら弟だそうな。寡聞にして存ぜず。でも実に渋くて良かったです。

Maria Bethania: "Canto do Paje" (PolyGram/Verve, 1990)☆
Sergio Mendes: "Brasileiro" (Elektra, 1992)☆
この辺は前に図書館で借りたものを改めて購入したのだけど、いやあ欲しかった欲しかった。セルメンのこの盤は構成の良さに改めて感服。Carlinhos Brownを前面に出しつつIvan Lins, Guinga, Hermeto Pascoalらの魅力もバランス良くプレゼンする手さばきの見事さ。それにしてもBethaniaのこの盤、借りた方ではタイトルが"25 Anos"だったのは一体...?


11/27 皆さん、連休の谷間はどう過ごされましたか?

どうも調子が狂ってしまう。連休の谷間は結構休んでいる人とかいて---特に今時分は温泉地の行楽とかに最適な季節だし---、比較的ゆったりと日頃溜まりがちな、まとまった仕事を処理できるはずなのに。何故あんなに賑やかだったんだろうか我が職場は。しかも休暇中の人のハプニングを立場上受けざるを得なくて、結局自分がやろうと思っていたことは中途半端になってしまった。ふう。

で週末は実家詣でなどして過ごす。そうそう、ようやく「聴いた...」の9月分を書いたのだった。スカスカでお恥ずかしいのであるが。

レニーニ『アンダー・プレッシャー』 Lenine: "Na Pressao" (Ariola/BMG, 1999)☆
Marcos Suzano (Percussion) とのデュオ("Olho de Peixe", Velas, 1993)で一躍注目されたブラジル音楽の新世代。で、そのデュオではSuzanoの操るパンデイロ(大型のタンバリンのような打楽器。だがSuzanoはこれをドラムセットのように駆使する)との対等なインタープレイの緊張感が圧巻だったが、自身がリーダーとなったこの盤ではサンプリングと打ち込みを駆使したバックトラックと、彼自身のアグレッシブなまでにパーカッシブなアコースティック・ギター、そして更に粘りを増したボーカルが互いに挑発し合う。

これをDick Leeの最新盤と一緒に買ったのは、偶然とはいえ面白かった。ポップス/ロックの手法的およびテクノロジー的な「世界化」の中で、どうやって「自己の音楽」の刻印を刻んでいくかという戦略の、共通性と差異と。Dickがいわば「世界化されたサブカル商品」としてのポップスの折衷性とか、ある種の節操のなさそのものを「アジアの」と言い切ってしまうことによって突き抜けているのとは対照的に、レニーニは世界標準の音響技術・編集技術を駆使しつつ「でもオマエラにはオレみたいなネタ使いはできないだろう」と言わんばかりにブラジル発のリズムと声とそしてギター---いや、ブラジル発のアコースティック・ギターの音色だから、ヴィオラォンと言うべきかも---の生々しいうねりの独自性を前面に押し出してくる。レニーニは怒っているのではないか、と思うほどに戦慄する。それは、怒りが常に個別具体的な、置き換え不可能なものだということと同義なのかも知れない。


11/23 ちょっと追伸

先日の飲み会をセットして下さったぬれもちさんの褒めちぎり(実質褒め殺しに近いっす)を見て訪ねて来られた方が、こんな(↓11/21とか、11/15なんかも)怒れる青年もといオッサンを目にされたらどう思われるか、ということで予めお詫びです。すんませんぬれもちさんっていい人過ぎるんですよ、初対面だとツッコミ入れないよう気を遣って下さってるんじゃないでしょうか。でもホントいい人です、気配りこまやかで(まつずしさんからの異論は参考意見として併記のみ)。

11/21分があまりにベタな書き流しだったので多少リンクを張りました。でも今更って感じですか。


11/21 このオトコを笑え

と言いたかったんだが(森に)、何だよ加藤派山崎派は議決欠席だと。オマエら茶番だと罵られるのを覚悟の立ち回りなんだろうな? 最後の土壇場で折れたホントの理由を国民に示す義務がオマエらにはあると思うぞ。ファシスト野中に鉄槌を!

実は昨晩某所で飲みながら、午後11時には議決だし国会前に行こうかなどと話していた。出るとき雨がひどくなって来たので取りやめたが、まさかこんな情けない展開になっていると知っていたら、意地でも行っておけばよかった。いや、今日明日行ってもいいんじゃないか。

国民の支持がこれだけない、つうかもう不祥事&おマヌケ丸出しが誰の目にも明らかな内閣に対して、党内から批判が上がったのを執行部は除名を脅しに切り崩し、除名されたら生きていけない情けない連中も最後には折れた。つまり自民党には民主主義を尊重する奴は一人も居ないということ。今後自民党を支持する発言をした奴は徹底批判する。って居ないか私の近辺には。

ふう。昼休みにメモっていた予定稿を一応掲載しようか。

今日の笑い者

というか、毎日だなこのオッサンは。
「今は政治的空白を作っている時期ではない」(森喜朗)
それよりオマエという巨大な政治的空白をどうしてくれるんだ森喜朗!

というわけで長野が面白い。面白すぎる。
反対運動で20数年凍結されてるダム計画について、県土木局長とディベートする康夫チャン。情報は時期を見て段階的に開示する、という局長にすかさず「一体何を隠す必要があるの?」くぅ〜、カッコよすぎ。
この計画、不特定の住民を相手にした説明会すら1回も開いていないそうで、そりゃ即中止を宣った康夫チャンにはケチのつけようがないでしょうこれは。ずっと凍結されてるんだから県内の土木産業に与える損害なんてのも特にない筈だし。(←11/23追記:これ何か事情が違うらしくてどこぞの土木業者が補償を求めているそうな。どうなってるねん)
これが政治だ。国民不在でくだらぬ政争に明け暮れるどこぞの国とは大違いだ、とくとご覧じろ。

DL Project: "Transit Lounge" (Sony, 1999)☆
日曜に上野動物園にお子様サービスに行き、動物園って早仕舞いなので早めの夕食して買物までして帰った、その時の収穫。というか、いつかは買う気でいたのだが、丁度そういう気分になっていた。上質で前向きでヒラメキ(というのはいわば、新しい世界を見せる可能性だ)のあるポップソングが聴きたい。
Dick Leeが様々なボーカリストをフィーチャーして作り上げたこの盤は、そういう欲求に見事応えてくれるし、Dickの才気溢れるというか茶目っ気たっぷりの遊びや細工が好きな向きにも十分楽しめる出来だ。ここではアジアのポップスや民謡への取材は全くないが、Patti Austinの"Say You Love Me"にMinnie Riperton "Loving You"を掛け合わせる手さばきの巧みさ、「恋はみずいろ」をイージーリスニング的イメージから確信犯的に引き離す冷徹なアレンジ、更にはBurt BacharachとJoni Mitchellをないまぜにしたような抑え目で上質なポップソングなど、自由自在な遊びが冴え渡る。
こうしたサウンドにCosa Nostraの鈴木桃子が推薦コメントを寄せ、解説も「こうした無国籍ポップスが今、何と心地よいことか」などと言っているが、こうしたモンド〜ラウンジ〜フリーソウル的価値観での評価には違和感がある。というのは、Dickは決して無国籍であろうとしたことなどないはずなのだ。この盤で自ら解説しているように、Transit Loungeつまり "どこの国でもない場所"は、動き回る日々の合間でふと足を止め、自分のいる場所を見極める瞬間なのだ。それは無国籍を手放しで喜ぶ表層的な享楽とは一線を画す。敢えて踏み込んで言えば、こうして一見無国籍な音楽を、最新の音楽の成果をふんだんに盛り込んで作り上げながら、Dick Leeはこれを「オレの音楽」/「アジアの音楽」であると宣言しようとしているんじゃないか。そう思えてならないのだ。つまり、世界音楽を己の音楽だと名付け直してしまおうという向こう見ずな計画。Dickの音楽にいつも驚きながらも惹き付けられて止まないのは、こうした前向きな無謀さゆえなのかもしれない。


11/18 さすらいの着メロハンター2001

という訳で、人並みに着メロをどうするかで頭を悩ますのである。かねてから試してみたかった、ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』の第1楽章テーマを3声で入れてみたのだが、何これピコピコしたいわゆる「よくあるウルサイ着メロ」じゃん。ネタとして保存はしておくが実用にはちょっと...。これを横で聴いていた連れ合いが「私のは他のにして」と宣う。ううむ、と悩んだ結果、Pat Metheny Group: 'Phase Dance' ("Pat Metheny Group" ECM, 1978)のイントロを入力してみた。これが、予想外に良いのだ。「社会との共生を目指す着メロ」というのがあるとすればこれだ、くらいに。ポイントは: (1)規則的音型の繰り返しなので、歌っぽくなくて十分シグナルに聞こえる、それでいて(2)リズムが適度にシンコペーションしている上、和声も微妙に変化し続けるのでしつこさがない、(3)音程は中域しか使わないのでキンキンせず、耳に優しい。...うわー何でこんな上出来なのを自分のに入れなかったんだろ。入れ直す気力もないし腕が疲れるし。おまぬけ。

今日は午後からセッション。'Waltz For Ruth' は予習不足でガタガタ、個人練習をみっちりしたのちのリベンジを誓う。トランペットにピアノで合わせる'Meditation'の構成をいじってみて、少し良くなった。ボサノバのリズムをピアノで律儀に刻んでも、どうも重くなるし単調だし、ということで、出だしからしばらくはルバートで流し、途中ア・テンポになってからも緩くアルペジオ気味にバッキングを付けてみたところ、トランペットの伸びやかな長音をかなり活かせる感じになってきた。セッション後は恒例の選曲会議。しかし最近はお互い忙しいので、選曲しても年内に取り掛かるのは厳しそう。何かもう気分は年の瀬。


11/16 東京サンバホイッスラーズ2001

ケータイ持って10日ほど。どう持っていいのかよくわからなくて、スーツのスラックスのポケットに突っ込んでいる。が、これが危なくていけない。ちょっとリズムを取ろうと腰をポンポンと叩いたらケータイ、とか、書類キャビネットの重い引出をうっかり腰で押し戻そうとしたらそこに...なんて肝を潰すこと多し。精密機器を肌身につけて暮らすってのは不自由なもんだ。

もう一つ困っているのはストラップ問題。先日LOFTだったかで気に入って買ったのが、おもちゃのサンバホイッスルが付いたストラップなのだが、これが本体より重い(笑)。災害時に瓦礫に埋もれたら役に立つか、とも思ってたが、その前にこれが本体をしたたか打って破損させるおそれがあるため、思案した結果カバンにぶら下げることに。ん、すると災害時対応はどうなる? カバン持ってないときに地震に遭ったらアウトだよなあ。ともかく、ブルーのストラップにちゃっちいサンバホイッスルをぶら下げてカバンにつけてるリーマン(て言葉も旧いが)がいたら、それが私です。多分1/3くらいの確度で。

今日は保育参加ってことで息子の遊びっぷり食べっぷりを見に行ったが、親がいるとつい親を向いちゃうのだねえ、ということでどこまでが普段の彼なのかはよくわからずじまい。午後の懇談の前に一旦家に戻り、家事こなしながらToninho Horta e Orquestra Fantasma: "Terra dos Passaros" (Dubas Musica, 1995)。1976/79年録音。ファンの間では近年の一人オーケストラ的超絶ギターの評価が高いようだし、それももっともなのだけれど、やはりこの盤には彼の原点が全て詰まっていて圧巻という気がする。ソングライターとしての類い希な資質、宙に舞い上がるような伸びやかなエレキギター、心地よくリズムを刻むアコースティック・ギター、更にはWagner Tisoを思わせるダイナミックなオーケストレーションまで。


11/15 言葉が枯れてく、という感触

ここんとこ何を書いても考え方が薄っぺらというか焦点が定まらないというか、これは客観的に見てもそうだと思えるほどそうなんで、掲示板への参加が少ないのはもちろん、自分とこの更新さえ半分ほったらかしの状態が続いている。理由はわかっている。結局、会社での些事に頭と心を悩ます比重が多すぎるのだ。そこでの思考に使われる言葉というのは、人間関係や組織論に偏ったタームである上に社内ジャーゴンてんこ盛りだったりする訳で、そういうチマチマした言葉に占拠された状態の頭が、冴えたことを一つでも言えるハズがないのだ。

この感覚は以前にも一度経験したように思う。それは入社して配属直後、怒濤のような仕事量に忙殺されていた2〜3年の間のことだ。仕事の言葉に押されて、自分の言葉が枯れていく、などとかなり「青い」物言いを備忘録に記したりしていた。それは単に自分を守るための戦いだった。役職者同士の訳のわからぬ縄張り意識や、どう見ても非合理的な表現様式の習慣なんかに直面して、そういうものを自分の表現手段の一部に間違ってでも取り込まないようにと、もがくので精一杯だった。

だが今自分がはまり込んでいるのは、何と他人のための思案なのだ。会社のつまらぬ因習よりはずっと合理的で生産的な思考様式と、前向きなマインドと、そして適度な遊び心も具えた、頼もしくも愛すべき同僚たちが、こんなつまらぬ場所でただイジケてしまわぬようにとの戦い。自分がかつての上司の下で経験させられた辛酸と自暴自棄の日々を他の人が味わわなくて済むように、という気持ちも半ば込めつつ。そして、そんなふうにして結局、絶対にやりたくはなかった「社内政治」(いや、それよりちっぽけな「部内政治」だな)ってやつを、今まさにやってしまってる自分を発見して愕然とする。

そんなことにパワー掛ける価値があるのか? 自分だけ裸足で逃げ出せば...というのが真っ当な反応だという気もするが、当面ここでやって行くほかない人間なのだ、自分は。手に職のない事務総合職だということもさることながら、偶々居合わせている好ましい人たちのために何もできなければ、多分どこに居たって何もできない。

Pizzicato Five: 『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(CBS/Sony, 1989)
この前の週末、久々に聴いた。以前も思ったのだが、クレプスキュール的というか、80年代後半のニッチなユーロピアン・エレクトロ・ポップの感じを彼らは常に保とうとしていて、それはこれ以降の作品にも時々明確に見えたりするのだが、その繊細なテクスチャは決して主流にはならなかったな、と。しかし個人的には世の中のある部分、こういう気弱でちょっと斜めを向いた音は命脈を保っていてほしかったりする。自分が(何も考えないと)書いてしまう曲ともどこか通じる、多分マスダさん的に言えば「80年代的諦念」。繰り返すようだがそれは決して80年代でも主流派ではなかったのだけどね。
しかしこの当時の田島貴男のボーカル、これなら今の私でも出来そうだなーなんて一瞬思うが、アドリブ、というかスキャットのえもいわれぬ艶めかしさはやはりこの人ならでは、と深く嘆息する。しかし、田島の筆になる曲ってこの時期のが一番好きだなあ。「リップ・サービス」最高。それに「夜をぶっ飛ばせ」もOriginal Love 版よりこっちの方が勢いあるし。単にホーンセクションが厚いとかいうことを超えて。

Average White Band: "Shine" (RCA, 1980/Victor)
Chicago: 'Hard to Say I'm Sorry' をやる迄のDavid Fosterの仕事は断固として良い! と思うのだが。ファンキーなAOR、なんて言うとチャラいがどっこいナメたものではない。Cheryl Lynn: 'Got to be Real' など参照のこと。


11/8 ループな毎日・お子様編

困ったぞ、お子様ソングばかりが頭ン中を回る。「オハロック」に『とっとこハム太郎』のテーマ (←これがあられもないユーロビートで、チューブラベルとかガンガン鳴ってて結構いいんだな)。誰か止めてえ〜。

Boston: "Don't Look Back" (Epic, 1978)
いや今更何でこんなものを、というのはあろうが、ロックにどっぷり浸かってきた訳ではない、いわばロック外様の自分にとっては、時々無性に欲しくなる「ロック」のある部分が、この盤にはある。
これは様式的にはリッチー・ブラックモアらによる『レインボー』に代表されるような「泣きのハードロック」という当時の若者演歌に近いのだが、わずかに異なるのはその構築への志向と、音響への徹底したこだわりだろう。リーダーのTom Scholzが技術屋で「音響オタク」で、膨大な時間と金をかけてスタジオを作り音をいじりこの盤(と1つ前の盤)を作ったというのは、半ば彼らのパブとして流れていた逸話だが、今聴いても音響の透明感、というか、一つ一つの音の判別性の高さは驚きだ。これと相俟って独特の対位的なメロディラインとアレンジ、ダイナミックな構成感が冴える。
こうした特徴を並べると、やはりこれはクラシック音楽の美学に近いのかも知れない。塊としての轟音でなく弁別性のある各「声部」。コードではなく「和声」。ちょうど、ブーレーズがペンデレツキのクラスター書法を指して「リゲティとは違って個々の音の弁別性がないからダメ」と批判したような価値観。これを聴いた当時の中学生の(まだまだクラシックなお子様だった)私がスッと入って行けたのは、そのせいなのかも知れないな。しかし今聴けばこれは全然クラシックではないのである。70〜80年代に必死にクラシックの作法をなぞった「進歩的な」ロックたちとは違う。弁別性だけをクラシック音楽から拝借しつつ、やはりこの「力」はロックだと今は思う。


11/6 Pride, ただし in the Name of Love と続く

U2: The Best of 1980-1990 (Island, 1998)で気合いを入れる日々。というのが自分でも妙な感じだ。というのも、昨年末の旅行中にはロックのギターサウンドへの違和感バリバリだったのに、それが今は頭ん中で「インザネーーイムオヴラアアーヴ」とかシャウトしてるんだもの。何が違うのか。音楽は環境の変数なのか。とすると、都市生活のルーチンのプレッシャーに抗する音楽はやはりこのくらい無謀に強くなければいけないのか。そうかも知れない。敢えて「負けるかもしれない」という想像を払拭した叫び、それがU2の歌なのだと思える瞬間は、実は数限りなくある。

本日の判定(まだやってます):
× Owsley (Giant, 1999)


11/5 大事なものを一つ失ったような...

なんつうと大袈裟だが、とうとうケータイ所持者になった今何となくそう思う。仕事柄(今はデスクワーク主体)、特に持つ必然性があった訳ではないのだが、戸外で至急連絡を取りたいときに使える公衆電話が目に見えて減っている。数自体が減るならまだしも、故障の放置が多かったり、端からICカード電話に変わってったり。こういう状況に、ケータイへの乗り換えを促したいNTTグループの意図が働いてないなんてことはないと思うので、抵抗の意思も込めてケータイを拒否してきたのだが...家族で外出して途中別行動する際などの便利さを考え、転んだ。だがもちろんDoCoMoになどするものか。

Miles Davis: "Birth of the Cool" (Blue Note?, 1957)★
クールの誕生、というタイトルに本人は納得してなかったと言う。録音は1949-50。チューバまである分厚いホーンセクションの9重奏団(あれ、8だったかな?)だが決して重みはなく、抑えたブレスと揃ったリズムで軽さと、実際「クールさ」は出ている。確かに、ジャムセッション主体だった当時のビ・バップ・シーンからすれば「革命的」だったのだろうが、アレンジ&アンサンブル指向というのは考えてみればあからさまにクラシックへのベクトルが向いた「改革」だという気がする。それに後年のマイルズの足取りと較べてみても、どことなく「若書き」、つまり正統的な音楽教育の成果をジャズに持ち込むことによってある意味ジャズをgenuineな(何てのかな、適切な日本語わかんない)音楽にしようという背伸びみたいなものが見えないでもない。にもかかわらず、だ。この盤からはその後山ほど出た、端正さをウリにしてるような数多のジャズには感じられない、ある種の上気した息づかいが感じられるのだ、なぜか。

Everything But The Girl: "Idlewild" (Blanco y Negro, 1988)は、1つ前の盤のともすると大仰な、映画的な心情の吐露とは正反対の、流される日々を淡々と見つめるがごとき冷徹さに満ちている(歌詞も含め)。やっぱ好きだな、これ。


11/4 冬支度と就業規則

やっと冬物のスーツを買い足せた。さすがに2着では持たない。しかしスーツって本当は着たくないんだよなー、何か手はないだろうか。そのうち就業規則を隈なく読んで、書かれた規定がないことは確認しようかとも思うんだが、そんなくだらない読み込みのためにガリガリと時間を使うのなんてまっぴらだ。
パソコンデスクも発注。結局、ステレオを置いている台と同じメーカーのカタログを取り寄せて、デパートで頼むことに。

小島麻由美『さよならセシル』(Pony/Canyon, 1998)★
どういう人かはよく知らないのだが、マスダさんがエッセイで女性シンガーとして挙げていた一人だったので気になっていた。ちょっと形容し難いのだが、歌詞に秘められた皮肉な視線が、端正でアコースティックな音で増幅されるような不思議な感じ。単に「不思議な人」というのであればさねよしいさことかいたけど、そういうあからさまに異郷的なおどろおどろしさではなく、ありふれた日常が一瞬、音を立てて崩れる幻影を見せて「うわっ」と思っているとまた何ごともない光景が...といった感じの。一時期の谷山浩子にもそんなのがあったといえば、あったかも。



→インデックスへ
→ただおん目次に戻る

ただおん

(c) 2000 by Hyomi. All Rights Reserved.