虹を見たかい?〜Lahore
 
虹を見たかい?
〜 Lahore
 

   ムガール帝国を語る上でどうしても欠かせない人物がいる。というか、この人物についてだけは、仮にパキスタンを訪れていなかったとしても特にページを割いて語っておきたい。第5代皇帝シャー・ジャハーンだ。
 一般にはタージ・マハルの建設者として知られる。インド・アーグラの代名詞ともなっている、愛妃ムムターズ・マハルに捧げられたこの白亜の霊廟は、大理石を用いた建築としてはおそらく人類史における最高傑作であり、まさしく世界遺産の名にふさわしい。しかし、彼の神髄は実はそんなところにあるのではない。
「こちらがシャー・ジャハーンの間です。アクバルやジャハーン・ギールと比べると小さめですが、面白いものがありますよ」
 ラホール・フォートで歴代皇帝が建てた部屋を見て回っている時、そう言いながらガイドはポケットからライターを取り出した。部屋の中央に立って火を点けると、ゆらゆらと左右に動かす。
「なんか、壁がキラキラしてるように見えるけど」
「この部屋の壁や天井には一面に鏡細工が貼られていて、炎の灯りが乱反射するようにしているのです」
「何のために?」
「演出効果ですね。今で言うミラーボールのようなものです」
 それを聞いた瞬間、僕は一生かかってもシャー・ジャハーンには敵わないと悟った。彼のマニアックな美的センスにはインドでさんざん触れてきたつもりだったが、まだまだ序の口だったのだ。
 考えてもみてほしい。17世紀、日本で言えば徳川家康とほぼ同じ時代だ。そんな頃に、自分の部屋をミラーボールで演出しようなどという発想がどうやったら出てくるのだ。正気の沙汰とは思えない。
 しかし、最大のサプライズは昼食後に訪れたシャリマール庭園にあった。
 新市街郊外にあるこの公園は、広大な敷地に水路と樹木が計画的に配置され、「Lahore is Lahore」の言葉通りの美しい佇まいを見せている。観光客だけではなく一般の市民にも開放されており、休日には弁当片手の家族連れが多く訪れる。
「ここもシャー・ジャハーンによって造られました。見どころは噴水です。庭園内には池や水路が張り巡らされていて、あちこちに噴水が設けられています」
 説明するそばから水が噴き上がる。水滴が風に乗り、霧のように頬に降り掛かる。太陽の角度によってはプリズムの効果で七色に輝き、幻想的に舞う。
「シャー・ジャハーンにしては珍しくまともなものを造ったんですね」
 いかに奇人とはいえ、さすが皇帝。国民の福祉もちゃんと考えた治世を行っていたのだ。シャー・ジャハーンの時代、ムガール帝国は政治的に最も安定し、インド・イスラム文化は最盛期を迎えた。息子アウラングゼーブの時代には領土的にも最大版図を獲得するに至る。
「そう思いますか。では、彼がこの庭園を造った理由を知っていますか?」
「理由って、国民のためじゃないの? それとも景気対策の公共事業だったとか?」
 ガイドはゆっくりと首を振り、人差し指を立ててニヤリと微笑んだ。
「たったひとつ、『虹が見たかったから』ですよ」
 

   
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岐路のパキスタン
 

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