撮れなかった写真〜Harappa
 
撮れなかった写真
〜 Harappa
 

   インダス文明最古の遺跡とも言われるハラッパ。だが、残念なことに残されているものは数少ない。イギリス植民地時代、遺跡を形作っていた焼成煉瓦をはじめとする多くの遺物が鉄道建設用の資材として持ち去られてしまったからだ。
 それでも僕はここに来てみたかった。四千年以上前の人々と同じ大地に立ち、同じ空気を吸ってみたかった。もっとも、厳密に言えば赤茶けた土も頬を撫でる風も昔とは違うのかもしれない。それでもいい。何かを見たいわけじゃない。ただ感じたかったのだ。
 案の定、見るべきものはほとんどなかった。ガイドがそれなりに説明してくれるのだが、城砦跡にしても住居跡にしてもただ荒れ地が広がるばかりで、ここから往時の姿を想像するのはかなり困難を極める。
 そのせいか、ほぼ唯一残された下水道跡を目にしたときはツアーメンバー全員から感嘆の声が上がった。といっても、蓋として使われた煉瓦が数10m並んでいるだけの代物に過ぎないのだが。
 いつの間にか地元の子供たちが後ろをついて来ていた。外国人である僕たちに興味があるのだろう。歩くにつれ次第に数が増えてくる。お互い言葉がわからないので話しかけるには至らないが、目が合うと人懐こい笑顔を見せる。澄んだ瞳がキラキラと輝いている。
「あれ、この子たち、みんな同じ名札を付けてる」
「近所の小学生たちですよ」
 すぐそばにハラッパ小学校があるのだという。ちょうど下校時間なのだろう。この遺跡は彼らにとって格好の遊び場なのだ。一緒に写真を撮ってもらおうと、ガイドにカメラを渡し妻とともに子供たちの輪の中に入った。なんだかクラスメイトになった気分だ。
 見学を終えバスに戻る道すがらも、彼らはニコニコと笑顔を振りまきながらついて来る。前に横に後ろに、相変わらず言葉は交わさないものの、不思議と心が通じ合っているように感じる。ただ歩いているだけなのに楽しい。遠足に来たみたいだ。
 宵闇が迫っていた。これから再び長い時間バスに揺られることになる。ラホールに着く頃には疲れと眠気でくたくたになっていることだろう。それでも訳もなく幸せな気分がからだ全体に満ち溢れていた。やっぱりハラッパに来て良かった。
 子供たちに別れを告げ、バスのシートに身を沈めた。車窓には収穫を終えた畑が拡がっている。傾いた陽が地面を赤く染める。素朴な土の匂いがする。いつかどこかで見たような、そんな郷愁を呼び起こす風景だ。
「あっ、夕陽」
 誰かが叫んだ。丸々と膨らんだオレンジ色の太陽が地平線すれすれに沈んでいく。それを見た瞬間、胸がキューッと締め付けられるように苦しくなった。なぜだろう。悲しくもないのに涙がこぼれてくる。
 美しかった。切ないほどに美しかった。何の変哲もないのに、これまでに見たどの夕陽と比べても格段に美しかった。そうだ。インダスの昔からきっとこれだけは変わることなく、今と同じように人々を照らし続けてきたのだ。
 ハッと気がついてカメラに手を伸ばした時、太陽はもう木々の影に隠れようとしていた。だから一番美しい瞬間を撮ることはできなかった。でも、後悔はしていない。おかげで心のフィルムには今もその景色が強く焼き付いている。
 

   
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岐路のパキスタン
 

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