翼よ、あれが永遠の灯だ |
〜 The night view of Jerusalem |
イスラエルの国内線に乗るつもりなら、空港には早目に行った方がいい。セキュリティ・チェックに時間を取られるからだ。荷物はもちろんのこと、搭乗者自身も質問攻めに合う。「いつからいつまでの滞在ですか」「イスラエルに誰か友達はいますか」「ここに来るまでに知らない人から何か預かりませんでしたか」。ハイジャックやテロを警戒してのことだが、その応対が見事なまでに確立している。僕たちに英語があまり通じないと見るや、係官は部屋の奥から分厚い冊子を持ち出してきた。各国語対応マニュアルだ。ページをめくるごとに質問がひとつひとつ日本語で書かれてある。こちらはそれを見て「はい」「いいえ」を指差していくわけだ。といっても、特段にやましい事情がない限り怖れることはない。係官も嫌がらせでやっているわけではない。それが証拠に、質問が終わるとエルサレム到着後の足を心配してくれた。 「空港からセントラルまでのバスがあるけど、どうする? エイラットで予約できるわよ」 「セントラルって、どこまで行くの?」 「セントラル・バス・ステーションよ」 「じゃあ、2枚お願いしようかな」 係官の彼女は微笑みながらノートに僕たちの名前を書き込んだ。セキュリティ・チェックといえどもサービス業なのだ。営業努力が感じられる。 飛行機が離陸したのは日没間近の夕暮れだった。ネゲヴの岩山が残照から夜へと急速に色を変えていく。窓の外が瞬く間に漆黒に包まれる。眼下にはきっと誰もいない荒野が拡がっているはずだ。太古の昔から変わらない大地。人間の歴史よりも、もっとずっと古い原始の闇。吸い込まれていきそうな気がした。今なら時間を超えることができるかもしれない。過去もなく未来もない。思えばこの闇の中から僕たちは生まれてきたのではなかったか。 異国の夜のフライトが好きだった。誰も僕のことを知らない。言葉もわからない。自分が今どこにいるのか知る術もない。絶対的に匿名な存在。その感覚が素敵だった。 しばらくすると眼下にぽつりぽつりと灯かりが見えてきた。頭の中に地図を思い浮かべる。離陸後の時間から飛行距離を計算し、その上に重ねていく。ヘブロンのあたりだろうか。 灯かりは次第に数を増していく。丘の斜面がビーズをちりばめたように輝き始める。山の尾根伝いにどこまでも続いている。 違う。ヘブロンじゃない。この拡がりはそんな小さな街のものじゃない。そう気づいたとき、僕は思わず隣に座る妻の肩に手を掛けていた。 「エルサレムだ。エルサレムの夜景だ」 それはまるで宝石箱を開けたようなきらめきだった。美しかった。ただ純粋に美しかった。受胎告知教会の祝福の絵よりも、展望山から見た岩のドームよりも、仮庵の祭りが行われていた嘆きの壁よりも、僕の目にはこの灯かりこそが何よりも聖なるものに映る。 見てごらん。永遠の灯かりだ。三千年にわたり輝き続けてきた灯かりだ。 身を乗り出して窓の外を眺める妻に、そして自分自身に、心の中でそう呟いた。 空港には予約通りバスが待っていた。すべての窓がカーテンで覆われている。市内までの道中パレスチナ居住区を通るため、投石に備える意味があるのだそうだ。走り出しても開けてはいけない。車内灯も点かない。 真っ暗な中で揺られているうち、旧約聖書の最初の一節が浮かんできた。「光あれ」と神は言った。そして世界が生まれた。僕たちが生きる、この世界が。 |
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永遠のイスラエル |
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