ノー・モア・マッサダ!〜Massada
 
ノー・モア・マッサダ!
〜 Massada
 

   死海では病気の治療のために長期間滞在する客が珍しくない。ミネラルを含んだ水が皮膚を刺激するとともに、低地ゆえの濃い空気が心身に良い影響を及ぼすからだ。とはいっても日本の湯治場と違って街はおろか店ひとつ近くにないので、彼らは一日の大半をホテル内で過ごすことになる。しかし退屈を心配する必要はない。ホテルでは昼も夜も何かしらのイベントが開催されている。
 昨夜のショーはロシアン・キャバレーだった。歌あり踊りあり手品あり。最後は客も一体となったユダヤ民謡の大合唱だった。世界各地から集まって来た移民がひとつの歌のもとに民族の記憶を確認し合う。気がつくと僕も一緒になって歌っていた。ヘヴェヌ・シャローム・アレイヘム。郷愁を誘う覚えやすいメロディーが良かった。
 今日はいよいよエルサレムに入る日だ。治安状況が気になる。ベツレヘムにも行く予定にしているが、どうやらまだ封鎖されているらしい。僕たちが浮遊体験にはしゃぎディスコで騒いでいる間にも、何10kmか離れた場所では戦闘が行われているのだ。
 昨日来た湖岸の道を今度は北上する。ほどなく左手に奇妙な形の丘が見えてきた。アラム語で「要塞」を意味するマッサダ。この丘について語るには少し歴史をひもとかなければならない。
 紀元70年、エルサレムが陥落しイスラエルはローマの属国となる。それはバビロン捕囚からの解放後まがりなりにも保ってきたユダヤ独立国家の終焉だった。第二神殿は破壊され、ユダヤ民族は以後、奴隷として過酷な生活を強いられていく。
 だが最後まで抵抗をあきらめない人々もいた。エルサレム陥落を逃げ延びた1000人近い男女が、死海のほとりにそびえるヘロデ王の離宮を占領し立てこもる。ここは四方が絶壁で頂上が平らという、まさに天然の要塞だった。学校の校庭ほどの狭い荒れ地を耕し、雨水を溜めて水源としながら、3年もの長きにわたり彼らはローマの攻撃を耐え忍ぶ。しかし圧倒的な軍事力の差はいかんともし難かった。突入が避けられないと見た彼らは、生きて捕虜となる辱めよりはと集団自決の道を選ぶ。二人一組になり互いに向かい合って剣を突き刺すという壮絶なやり方で。これが20世紀半ばのイスラエル建国に至るまでの、二千年に及ぶ流浪の歴史の始まりだった。
 麓の駐車場からロープウェイに乗る。眼下にはヨルダン渓谷のパノラマが拡がる。山頂は風が強かった。狭いとは聞いていたが、本当にサッカー場くらいの広さしかない。ところどころに遺跡が残っているだけで、ほとんどは草ひとつ生えていない不毛の土地だ。陽射しを遮るものが何もない。1000人もの人間がどうやって暮らしていたのだろう。
 周囲に柵が張り巡らされていた。その先は断崖になっている。この絶壁を攻略するためにローマは長い時間をかけて崖の一辺に盛り土をした。山頂へ向かう登り坂を延々と築いていったのだ。そしてその作業に駆り出されたのは、奴隷となったユダヤの同胞だった。
 死海を見下ろす一角にイスラエル国旗が燦然とはためいていた。白地に青いダビデの星。栄光の第一神殿時代の象徴だ。ここでは毎年イスラエル軍の入隊式が行われる。右手に自動小銃、左手に旧約聖書を授けられた新兵たちは、遠い過去の悲劇を胸に思い浮かべ「ノー・モア・マッサダ」を誓い合うのだ。
 昨夜聞いたユダヤ民謡が頭の中で繰り返し響いていた。ヘヴェヌ・シャローム・アレイヘム。私たちは持ってきた・平和を・あなたがたのところへ。胸の奥から絞り出されるようで、自然と涙が込み上げてきた。
 

   
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永遠のイスラエル
 

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