中島飛行機の想い出

半田製作所時代 1.(昭和19年 1944年)

 19年を迎へ戦雲は益々我国に不利となり深刻の度合を速めて来たものの、その真相は一般国民には知らされなかったので、皆一縷の望みを捨てるまでにはゆかなかった。 この危局に当って称えられた「国民総武装」とは戦いの現実を直視することによって当然の帰結と云わねばならない。 「国民総武装」とは今更云うまでもないことで既に生活に於ても、心構えに於ても、とつくに武装は出来ている筈だが、然しこの期に及んで更に武装せよとは、要するにその徹底を欠いた面に於て一層、具体的に決戦体制をとれと云う事であろう。

 今日まで私達は此度の戦争には負けると云うことを考えたことは一度もなかったし、又負けるものかとひたすら飛行機の増産に打ち込んで来たのであったが、生産材料の不足は最早如何することも出来ないまでに事態は深
刻となって来た。 生産予定は確守せねばならないが資材の不足から郎品が間に合わず完成予定はずるずると遅延しがちとなって来た。

 艦上攻撃機「天山」の半田製作所への生産移行も三月頃には、どうやら軌道に乗り出したので生産の主力を半田に移し、其後は作業も昼夜二交替制に改めたため、私達も殆ど工場に於て寝食せねばならなかった。

 学徒並びに挺身隊等の動員で半田製作所も膨れ上り、半田山方新田の元東洋紡半田工場の改修、岡田町の各織物工場等、近在の分工場も一斉に部品工場に改められた。

 彩雲(17試艦上偵察機C6N1)は長距離飛行が可能で最も優秀な偵察機として試作されたもので、この種
の飛行機が現在の戦局にも最も必要に迫られており、之を半田で量産することに決定されて、急遽生産態勢に入ることとなった。最早こうなっては唯一途に凡てを生産に打込むより他はなかった。

 

 11月に入って米空軍の空襲は益々繁く、武蔵製作所が当・中島関係工場として初めて空爆されるに至り、いよいよ半田来襲の日も近いのではないかと覚悟を新にせねばならなかった。

  12月7日、震源地が当地の至近距離であった末曽有の大地震は、東海地区の全産業に大打撃を与えることとなった。(東南海地震) 工場建物の破壊、組立治具等の損傷甚だしく、之が修復に1ヶ月以上を要したが、協力工場の損害もまた量産の隘路となって完成機体の搬出に重大な影響を来たし、実に致命的な打撃であった。(「東南海地震」は三重県志摩半島南南東沖約20kmを震源として発生した地震。Mは7.9とされている)

 戦局の危機を思い私も「これで戦争は負けた」と思った程であった。この震災で殉難した当所関係者は一般従業員37人、徴用工17人、挺身隊3人、動員学徒では半田高女 29人、京都三中 13人、半田中 3人、半田工 4人、半田小 6人、亀崎小 2人、乙川小 1人、戌岩小 2人、豊橋高女 23人、福井商 7人、愛知高実習女 3人、東浦片葩小 3人、以上合計153名の多数に達した。 この大地震の報道は戦時中のため禁ぜられたので東海地方以外の人々は全く知る事が出来ず、戦後に至り初めて公表されたのであった。

 19年から20年に亘って米軍機(B29:右写真)の爆撃も頻繁熾烈を加え、各工場の奥地疎開も活発となってきた。
 半田製作所に於ても北陸地区及び信濃地区に大別、疎開工作が進捗し、20年3月頃には移動が始まり、私も北陸地区疎開の中心地小松市の海軍基地に移動することになった。

 19年度は当社の拡張も急速にして1月には陸軍機(主に戦斗機)機体工場として宇都宮に、4月には発動機並びに機体の試作及び研究所として三鷹研究所、7月には海軍関係兵器の三島製作所、11月には陸軍関係発動機工場の浜松製作所等が夫々創立された。

 19年度に於て当社で製造された機体は1式戦(隼)二型〜三型(計249機)、百式二型重爆(301機)、
 2式戦(鍾馗)二型三型、零戦、2式陸偵月光(477機)、彩雲、銀河、天山、疾風(累計3577機)
等が最産された。
 
 試作機としては18試局地戦闘機J5N1天雷(速力600粁) が7月に試飛行された。
又昨年から試作中であつた17試陸上攻撃機G8N1連山(誉2000馬力4基搭裁、速力600粁、航続6500粁、重量26,800粁、翼巾32.54米) は10月に入って完成した。本機はB29爆撃機に匹敵するものと期待されたが4機製作して終戦となったのは誠に残念であった。
 
 
以下に参考として「4式戦闘機・疾風」の貴重な組立作業の写真をご覧にいれる。 写真説明用にセットされたもので、作業者が見えないが、組み立ては簡単な治具と人海戦術である。(この写真は太田製作所のもので、残念ながら半田の写真は全く手に入っていない)
-胴体の組立
 
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-
 
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 下は主翼桁の製作か?
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←これは主翼を裏返しての加重試験の写真

 

半田製作所時代 2. (昭和20年 1945年)

 引続き20年に於ては2式三型戦(1175機)、4式二型戦、零艦戦、天山(1271機累計)、彩雲(398機累計)、
銀河(968機)、連山(4機)、天雷(6機)、 なお「キ113」は「キ84疾風」を鋼製化したものであったが、これは完成しなかった。

 「キ115」剣は特殊攻撃機(小型爆撃機)として三鷹で設計され、太田製作所で3月試作が完成して6月頃から量産に入って太田で82機、岩手で22機生産された。(右の写真はスミソニアン倉庫に保管されている「剣」簡易なレストアがされている) 

 「キ87」局地戦斗機、これは高度戦闘機として設計され4月完成(排気タービン過給器付高度11,000米にて速力738粁上昇限度12,855米)一機完成し吉沢飛行士が5回試飛行を行なって終戦となった。

 特筆すべきは特殊攻撃機の橘花で本機は独逸のMe262を参考として設計された「ジェット機」で(ジェット発動機ネ-202、2基、地上推力450瓩×2、翼巾10米、重量3,500瓩、最大速度490粁、500瓩爆弾搭載)、終戦間際の8月7日、2回試飛行が行なわれた。 本機は海軍関係のもので、陸軍関係では火竜(キ201)戦闘攻撃機が計画されていた。 発動機は 「ネ-203ジェット、推力885瓩2基搭載) これも完成に至らず終戦を迎えたのは残念であった。

 前述の如く我国に於ても、実戦には間に合わなかったが、当時既に 『ジェットエンジン』並びに機体の製造に
成功したことは全く驚異とすべきことがらであった。
(注:これら試作機の諸元は戦後に公になったものを記載されたと思われます)-

 昭和20年に入ってから米空軍(B29)の爆撃は益々熾烈を極めグラマン戦闘機に依る銃撃、果は艦砲に依る沿岸砲撃を受けるに至った。 当社太田製作所も2月10日に被爆した。 

 半田製作所も遂に7月24日被爆、工場並びに所員住宅地に相当の被害を受けたことは既にご存じのことと思う。(社内報故に・・)

 半田製作所から石川県小松地区への疎開も3月頃から本格的となって作業も開始されて、小松製第1号機の彩雲(艦偵C6N1)も完成して、4月30日には小松疎開地区の開所式が勧進帳で有名な安宅の関に於て盛大に挙行され、彩雲の初飛行が実施された。

 尚当社は4月1日を期し軍需省の管轄となって、第一軍需工廠と改名せられ、半田製作所は、第一軍需工廠第三製造廠となった。

 4月7日には小磯内閣に替り、鈴木内閣が誕生したものの、最早此頃は日本の降伏は時期の問題と思われた。 7月26日、ポツダム宣言が公表され日本の降伏条件が示されたのであったが、8月6日の広島市に続き長崎市に原子爆弾が投下せられた。 さらに8月8日には「ソ連」の対日宣戦布告に至ったので、遂に我国も、ポツダム宣言受託に関する聖断が10日に下り、14日終戦の詔書が発布せれて4年余に亘る太平洋戦争に敗退したのであった。

 かくて中島飛行機株式会社も、大正6年末創立以来ここに28年の間、日本一を誇る飛行機会社としての生命は、昭和20年8月末を以て輝かしき歴史を閉じて財閥解体、中島一家は財閥追放となった。

  会社は其後清算会社として富士産業株式会社となった。 中島飛行機時代の債権者である日本興業銀行から野村清臣氏が社長として就任され、「G.H.Q」 の指示に従い、第二会社として、太田、小泉、前橋、宇都宮、半
田、岩手、田沼、荻窪、大宮、三鷹、三島、浜松、四日市、大谷、八戸の製作所は各々独立採算工場として分割
せられた。(其後、八戸は中止となり、武蔵、福島と共に整理することになった。)

 之等の各工場は各々の所在の土地、建物、並に賠償機械を除外した機械及び設備を利用して平和産業生産の会社として発足することになった。尤も諸機械類の中でも良質なものは殆んど賠償の対象となり、又飛行機製作用の専門機械等は凡て破壊せられた。 そして、私達が心血を注ぎ完成した飛行機数10機も自らの手にて、而も無情な破壊作業をせねばならなかった事は一抹の悲哀と云う感傷的なものでほなく、全く憤慨其極に達したものであった。

  下の写真は米国スミソニアン倉庫に分解して保管されている「天山」、レストアの日を待っているが・・?
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 最後に、終戦時に於ける従業員は職員44,792名、工員161,675名、動員学徒及び挺身隊その他54,891名、合計261,358名となっていた。

           ---------- 完 ---------

 後 記
 昭和31年1月以来7年半に亘り拙文を御読み下さ
れた諸氏に対し編者として衷心から厚く御礼の詞を申上
げて私の稿を終ることに致します。
 
  昭和38年6月      斎藤 昇

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【参考追記】
 以上、愛知県半田市にある輸送機工業(富士重工業の子会社)において監査役をされていた斎藤昇氏の中島飛行機の思い出である。
 氏は明治31年(1987年)熊本県熊本市に生まれ、九州学院(旧制中学校)を卒業後、器用で模型飛行機が好きであった氏は、大正7年(1918年)偶然に訪れた群馬県太田町で産声をあげたばかりの「中島飛行機研究所」に入社した。
 それこそ中島飛行機の勃興期には設計室の中でたいへん苦労をされ、その後は機体の製造現場において縁の下を支える業務一筋に歩まれ、昭和16年には太田製作所製造部組立工場副工場長、そして小泉製作所で活躍の後、昭和18年1月に半田製作所に転勤となり製造部組立工場長となられた。
 戦後は平和産業への転換に尽力され、今までと全く異なる鉄道車両や漁船の製造などに取り組まれた。 昭和26年監査役となり、昭和33年に退任された。

 ここに掲載したものは、氏が退任に当たって「輸送機工業の社内報」に投稿されたもので、それまで綴り続けた40余年にわたる日記を元にしているが、半田から小松に疎開する際、その混乱の中で一部が失われた部分は記憶をたどって書かれたとのことです。そのためか、或いは終戦の混乱のためか、終戦の昭和20年の記述は残念ながら薄いものとなっています。

 九州学院 http://www.kyugaku.kumamoto.kumamoto.jp/
 輸送機工業 http://www.yusoki.co.jp/

 最後に書かれているように、終戦とともに各工場では、図面や研究書類の焼却を行うとともに、その後米軍の命令により、完成機体は勿論、飛行機に係る部品、設備の廃棄が徹底的に行われた。関係した技術者や工場で生産に携わっていた人たちは、斎藤昇氏と同じ気持ちで、悔しく、虚しく、複雑な気持であったろうと思われます。 
 ただ米軍は研究価値のある機体は本国に持ち帰っており、その中の一部が今も航空博物館に保存あるいは展示がされている。
 
 米国に現存する中島の機体は:「隼」、「月光」、「天山」、「彩雲」、「橘花」、「剣」である。
                      (私の知る範囲です)
 なお米国に運ばれ調査後廃棄された機体は:「疾風」、「連山」、「天雷」、「キ87」など。
 下の珍しい写真は終戦直後に横須賀港から米軍の空母に載せられて行く「連山」達である。
 
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 左が「USS BOGUE 」という米軍の小型援護空母で、その飛行甲板上に両翼がはみ出すように4機の飛行機が載せられている。
 
 先頭が「長距離輸送機 A26」(上の右側写真)
 最後尾に載せられているのが「連山」である。(上左)
 連山の前にあるのが立川「キ-74」試作長距離爆撃機
 
 機体は防錆処理が施されている。なおこの航海中に暴風雨に遇い、A26はその時、海中投棄されてしまった。
  
  
  
   現存する半田市の中島飛行機 関連施設
 
     通称「半田赤レンガ建物」と呼ばれ、1898年(明治31年)に竣工されたビール嬢造工場を、1944年に、中島飛行機半田製作所の衣料関係の資材倉庫として用いられた。 翌年7月24日、中島飛行機半田製作所を目標にノースアメリカンP51が来襲、機銃掃射で地域の民家などを含め約500人の死傷者が出た。現在もこの建物北側の壁面に銃弾痕が生々しく残っている。
     戦後は、日本食品化工()の倉庫などとして使用されてたが、現在は半田市が所有し、特定日にボランティア活動などに利用されている。
     <半田市ホームページ

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