アメリカが亜成層圏と呼ばれた1万m付近の高空を来寇(攻)する戦略爆撃機ボーイングB−29を開発中という情報に、開戦から1年後の昭和17年(1942年)11月、陸軍は中島および立川に対して、高々度対爆撃機用戦闘機の試作を命じた。
中島はキ-87高々度近距離戦闘機(要撃戦闘機)、立川はキ-94高々度防空戦闘機であり、慌ただしく開発が始められた。中島飛行機では小山悌技師指導のもとに、西村節朗、青木邦弘、加藤博美技師らの協力により、中島飛行機三鷹研究所機体部と太田製作所の共同で、17年11月設計に着手した。
設計のキーポイントは、高空で空気を圧縮してエンジンに送り込む排気夕一ビン週給器(ターボチャージャー)の開発だった。空気が希薄になる亜成層圏では、エンジンの出力が低下して低空では駿馬のように軽快に飛び回る戦闘機も喘ぎ喘ぎの飛行となり、主翼を支える空気力も頼りないものとなっているので、いったん姿勢を崩すと、大きく高度を失い、なかなか回復できなくなってしまうからだ。今日では軽自動車にも使われているターボ・チャージャーだが、キ87に必要なエンジンは、出力2000馬力以上、排気量は50リットルを超えた。高温に耐える超合金の開発も進んでいなかったため、エンジン自体も、排気タービン過給器も、なかなか実用化の目処がたたなかった。
機体設計の面でも、排気タービンや中間冷却器の配置、複雑に絡み合う吸入・排気ダクトの処理、システムの冷却も大きな課題だった。本来なら操縦室の与圧・空調も必要なのだが、気密座席は、実用上の不便さと被弾したときの事故を考慮して中止し、大量の酸素ボンベを携行することで妥協したが、それでも装置に不備な点が多く、完成に手間どった。検討開始から2年半、昭和20年(1945年)2月、試作1号機は三鷹研究所(現在の富士重工業東京事業所)でようやく完成した。すぐさま行われた初飛行では、新しい試みであった後方に回転しながら収納する電動式の主脚が不調であり、脚を出したままの飛行であった。
その当時は戦局は終局段階にあり、中島飛行機の各製作所や工場は、既にボーイングB−29や艦載機(グラマンなど)の猛爆に曝されていた。そのためキ87の試験飛行は5回行っただけで敗戦の日を迎えた。技術の戦いは、関連分野の技術の進歩を予測し、基礎研究を先行して、常に商品開発に備えておかねば勝つことはできない。
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