海軍は1942年(昭17)後半時点での戦局から判断して、今後は大型長距離機による基地攻撃の応酬が熾烈化するとと予測し、1式陸攻に代わって陸上攻撃兵力の充実に向け、既に開発に入っている双発の「銀河」に加え、更に高性能な大型攻撃機として、最高速度600Km/h以上、航続11,000Km、緩降下爆撃可能で最大爆弾搭載量4トンのものを開発して、合わせて兵力の中核とすることを決めた。
1943年、日本海軍は既に「深山」で4発機の経験を持つ中島飛行機に1社特命の形で試作命令を出した。中島では松村健一[1932入社:以下同]を設計主任として、仲正男[
? ]、長谷川尊蔵[1940]、山田為治[1936]、内藤子生[1937]、長島昭次[1938]ら各技師でチームを結成し、当時の日本の最高の知識と技術を結集して、大型機としては異例のスピードで設計を進め、1944年(昭和19年)10月には試作1号機を完成させた。当初は海軍航空本部の要請による試作開発であったが後に陸軍も関与し陸海共同試作機であった。
米軍のB-17よりひとまわり大きく、無駄なく引き締まった機体に、強力な排気タービン付き「誉」二四型ルを4基に当時で日本最大のVDM式定速四翅プロペラを装備し、二重スロッテッド・フラップを採用するなど多くの新機軸を織り込んだ戦前の日本航空工業の最後の大作であった。
1号機は終戦の1年前1944年10月に完成し、同23日に初飛行をしている。 しかし1号機が試験飛行を始めた頃には軽金属材料が既に逼迫しており、鋼製連山の検討もされたようであるが、以降の量産計画の見通しは困難な状況になっていた。
また戦局は風雲急をつげ、局地戦闘機の生産を優先せざるを得なくなったため、1945年(昭和20年)6月に機体完成4機、胴体組立4機の時点で施策計画が打ち切られた。 完成した1号機、2号機は海軍に領収され、青森県三沢で試験飛行はされていたようだが、要の排気タービンは十分な性能が発揮できず、目標性能は確認されていない。
この1号機及び2号機は三沢で爆撃にあって破壊され、未領収であった3号機も中島の小泉飛行場で空襲に合い破壊されたが、かろうじて生き残った4号機は、戦後米軍が本国に持ち帰り簡単な調査の後に廃棄された。(日本航空機総集・中島編による)
先日(2009.9.12追記)、富士重工業名機カレンダー解説執筆者の鳥養さんにいただいた資料で、海軍飛行実験部で大型機を担当されていた大平吉郎・元少佐のメモによると、「連山を三沢まで空輸したとき、その空路にある地上の防空隊は日本の4発大型機は飛行艇以外に見たこともなく、米軍機と思って対空砲火を受けるのではないか!」と本気で心配したそうです。 また終戦後に米軍GHQより、生き残った連山を横須賀に浮かぶ米軍航空母艦まで運ぶよう指令を受けたが、陸上運搬の手段はないことから空輸を決心し、何とか飛べるようにと、被災した他の連山から部品取り等をして整備し、12月に「おっかなびっくりで小泉飛行場から追浜飛行場まで飛んだ」という。 また、その手記の中で4号機は小泉飛行場で被爆破壊しており、空輸されたのは試作3号機であると書かれている。
上のイラストは富士重工業の名機カレンダー初年度の掲載作品で、試作開発機のカラーリングを施している。 一方、下の小池氏のイラストの機体は迷彩塗装を施した小池さん独自の想定であるが「未完の大器」の片鱗を感じさせる雰囲気がある。 |