447.海軍艦上攻撃機「天山」(中島十四試艦攻)

Navy Carrier Attack-bomber "TENZAN" [JAPAN Navy]

全幅:14.89m 、全長:10.89m、 総重量:5,200kg、 最大速度:465km/h
発動機:三菱 空冷14気筒「火星」25型 1,850馬力、爆弾:800kg×1または60kg×6
武装:13mm 7.9mm機銃×各1、乗員:3名
初飛行:1942年2月
Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏

 昭和14年(1939年)海軍は97艦攻の後継機として、最大速度と航続力の飛躍的向上を狙いとして、中島1社特命で試作命令を発した。

 中島は松村健一技師を設計主務者として社内符号BKで15年5月から設計に取り掛かった。搭載エンジンは当初の1型は、自社製の「護」が燃料消費率も良いとして進め18年8月制式採用となっていたが、中島のエンジン工場の武蔵製作所が「栄」と「誉」に生産を絞る事となったため、三菱製の「火星」に換装し2型となった。

 97艦攻が3,700kgの全備重量に対し天山は5,200kgと前例のない大重量艦載機であり、母艦の制動索の切断など思いも掛けない事故の連続で開発は困難を極めたという。例えば機体の回頭性癖を修正するために垂直安定板を機軸に対し左に2度20分傾かせたり、ファウラーフラップの改修、魚雷発射装置の修正、燃料タンクの改造などで十試艦攻の時とは比べものにならない難産であった。それらの改修が一応終わって、昭和17年末に完成したばかりの空母「龍鳳」「瑞鶴」で離着艦テストを行っている。なお離艦距離を縮める手段としてロケット促進装置RATOを装備することなったが、これは日本海軍における初めての実用化であった。

 昭和18年8月「天山11型」が制式採用が決定し実施部隊で運用してみると、夜間に上部の単排気管の消焔が不十分で着艦時に操縦者を眩惑させ危険であったこと、主脚強度とくに横方向の不足、雷撃後の急激な退避行動や敵機の追尾からの離脱時の急激な横辷り運動をするとき垂直尾翼が破損すること等があり急遽改修に迫られた。

 そして11型は133機生産された。「12型」は発動機を「火星25型」として、プロペラ直径を小さくして全高の変化をすくなくし、機体重心を極力前方にするためテールが延長された。実績としては太平洋戦争中期のブーゲンビル島海戦、マリアナ海戦ころから九七艦攻に代わって主力艦攻となった。ライバルのグラマンTBFアベンジャーに対し速力航続力ははるかに優れていた。

 しかし防弾装置、不時着水時の安定性が劣り、稼働率はままならなかった。後には電探を装備し夜間攻撃も可能となって活躍が期待されたが、航空母艦の不足と、搭乗員の訓練不足から本来の高性能を十分には発揮できなかった。

 生産機数は中島小泉製作所で296機、半田製作所で970機、試作機を合わせ1,274機が作られたが、既に搭載する航空母艦は壊滅状態にあり下のイラストの用に陸上基地からの運用が中心となり、伝統を誇る海軍3座艦攻の最後もむなしく特攻機となって消えていった。

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