日本初のジェット機「橘花」 

中島 「橘花」 (Kikka) 日本海軍

全幅:10,00m 、全長:9.25m、 総重量:3,950kg、 最大速度:693km/h/1,000m、
発動機:ネ20×2、 推力:475kg/11,000rpm×2、
武装:爆弾500kg、乗員:1名
初飛行:1945年8月7日

 1945年8月7日久しぶりに晴れわたった良い天気であったが、木更津基地は極秘の決戦兵器のテストがあるとの噂で、厳戒態勢にあり緊張感がみなぎっていた。そして空襲の合間を縫って、脚を出したままで、たった11分間の飛行では合ったが、この日はわが国のジェット機第1号・橘花が初めて大空を飛んだ日となった。パイロットは海軍横須賀航空隊実験担当の高岡迪少佐であった。ドイツから持ち帰ったMe262を参考に橘花の試作命令が中島の小泉製作所にでたのは前年の11月であった。海軍側は空技廠長 和田操中将をはじめ巌谷英一中佐ら担当となり、中島側では松村健一、大野和男、両技師が協力し、動力艤装は山田為次技師が担当した。

 それから僅か9ヶ月後の初飛行である。巌谷中佐が潜水艦で持ち帰ったMe262の資料を参考にはしたものの、一回り小型化されており、材料も戦時下で多くが代替素材を用いざるを得ず、それでいて生産容易な構造で、また狭い防空壕に格納のため両翼を折り畳み式にするなど、全くの新規設計である。


 

 昭和19年9月海軍空技廠ではドイツから潜水艦で持ちかえったメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機の資料を基に国産ジェット特殊攻撃機を企画し、試作を中島小泉製作所に指定した。これは航空ガソリンを使うレシプロエンジン機と違い、いわゆる灯油のような質の悪い燃料(現在のジェット燃料はケロシンと呼ばれるが、中味は灯油と同じレベルのもの)が使え、しかも高い性能が得られることから、開発の第一優先に上げられた。エンジンは最初、空技廠・種子島時休大佐が独自に試作したネ-12Bを計画したが推力不足のため、急遽BMW-003の図面を参考にしたネ-20エンジンに切り替えた。

 試作機の設計は小泉製作所の本館3階で松村健一技師の統率の元で開始され、機体呼称は機密上から「マルテン」と言われていた。初期は資材不足の時局を反映して鋼製で設計が始まったが、技術データ不足で市販のブリキ板で基礎データを集めねばならず苦労の割に遅々として進まなかった。しかし「完成を一刻も早く」との指示により、慣れた軽合金製に戻って開発を加速した。昭和20年を迎え試作を着手し橘花の形が見え始めていた2月10日太田地区に空襲警報は鳴り渡り、B-29の90機による大空襲となった。標的は陸軍機の主力工場であった太田製作所であったことから、小泉製作所には被害は無く橘花も無事であった。その後も艦載機による空襲は散発的に続いたが、2月25日艦載機60機による小泉製作所の大規模な爆撃が行われた。設計者達は防空豪のなかから、急降下しては機銃掃射を繰り返す敵機に「ちくしょう!」と声をあげる以外に手は無かった。夕刻に空襲警報が解除となり、急いで橘花の組立工場に向かったが、試作工場のスレート屋根はほとんど爆風で吹き飛んでいたが、幸いにも橘花は無事であった。この日は午後から大雪となり午前の空襲による轟音に対し、妙に静寂な中で後始末に追われたという。

 3月に入って設計試作部隊ともに疎開計画が本格化し、彩雲部隊は館林中学校に、連山部隊は熊谷女子校へ、そして橘花部隊は栃木県の佐野の中学校にそれぞれ疎開した。佐野での設計開発は日程的にも大変厳しいもので若い技術者達はこの全く新しい飛行機に賭ける期待から、寝食を忘れ必死に作業を進めていった。一方機体の組み立ても、小泉工場から約10キロほど離れた東武鉄道の木崎駅から徒歩で15分ほど離れた柏川という村の農家の養蚕小屋に疎開していた。床は土間のままでそこに治具を据え付け、一見長閑な田園風景のなかにエアーハンマーのかんだかい音が響き渡っていた。設計者達は佐野から、鉄兜を背にゲートルを巻いて、設計のデータを書きこんだノートを胸ポケットに、20インチ(約50センチ)の計算尺を腰に刺して、空襲警報の合間をぬって通ったという。

 柏川での1号機の組み立ても5月にはいって構造審査が行われる段階となった。和田中将以下18名の関係者が養蚕小屋に集まり、無事終了。6月からは各部の強度試験が始まった。この実験は館林に疎開していた実験部隊によって、主翼、補助翼と順調に進んだ。そして6月29日小泉製作所に戻って待望の完成検査が行われたのである。小泉製作所試作工場は既に何度かの空襲によりスレートの屋根は飛び、壁も多くの弾痕跡により、実に風通しの良い環境での完成検査であった事が関係者にとって印象的だったそうである。先のページの小池さんの橘花のイラストはそんな様子を描いたのかもしれない。

 完成した1号機は木更津基地に運ばれ終戦の1週間前に歴史的な初飛行になったのは前述の通りである。設計部隊はその後も複座機の設計を継続し、小泉では10号機までが、その形を見せ始めていたところで終戦となって橘花に賭けた若い技術者のエネルギーは露と消えたのである。 

 中島飛行機の発祥が大正6年の尾島町の小さな養蚕小屋であったが、その終わりの1ページも養蚕小屋とは皮肉な結末である。橘花の武装は500kg(又は800kg)の爆弾だけであることから分かるように、本土に押し寄せる敵艦船に攻撃をする目的で、用兵上は特攻機であったという。初飛行の1号機は8月11日の2回目のテスト飛行では離陸用補助ロケット(火薬)の使用を試みたが、離陸に失敗し浅瀬に突っ込んで破損してしまった。続く2号機は完成間近で終戦を迎え、その後、アメリカに送られスミソニアン航空宇宙博物館で復元保存されている。ただしエンジンナセル形状は原型と大きく異なっているのは残念である。(現在は倉庫に他の多くの日本機と共に眠っている)

(写真は終戦時、中島飛行機小泉製作所の完成直前の2号機と手前は中翼のみの3号機)

この橘花に賭けたエンジニアたちの志は、戦後13年経った19658年に
戦後初のジェット練習機T-1で果される。

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