中島飛行機の想い出

 本編は中島飛行機の創設期に入社され、戦後も引き続き愛知県半田の輸送機工業(中島の半田製作所)に勤務された 斉藤昇氏が、昭和31年から8年に渡り、社内報に寄稿された手記であります。
 草創の苦労の中で、当時の生活や、若い技術者達のエネルギッシュな活躍と悲喜こもごもが昨日のように伝わってきます。大変貴重な記録であることから、広く知って頂くために、輸送機工業をはじめ関係者、及び斉藤昇氏のご子息 斉藤昭氏のご理解を得て掲載させて頂きました。(発足から1939年まで)
 単に歴史の記録というだけでなく、ベンチャービジネスを目指す若者にも共感が得られる物と思います。なお、機体関係の写真や性能などの説明は他の資料を参考に加筆させていただきました。容量は各ブロックがA4出力で8〜10ページ、全編で60ページ程になります。(武)
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      著 者 斉藤 昇   明治31年3月6日生
      出身地 熊本県熊本市   出身校 九州学院
      大正 7年 9月 中島飛行機研究所 入社
             17年間の設計を経て試作製造部門に移り海軍関係を担当
      昭和18年1月 中島飛行機半田製作所 組立工場長
      昭和20年 9月 富士産業 半田工場
      昭和33年 5月 輸送機工業 監査役退任
      平成 2年 8月 逝去(享年92才)

苦難の草創期

初年;呑龍工場時代〜1〜(大正六年1917年)

 中島飛行機の発祥地太田町(現在は群馬県太田市)に旧工場と新工場があったので後年旧工場を呑龍工場と称し、新工場を太田製作所と称する様になった。呑龍という名称は、呑龍様の境内の一部に工場が出来た故に、そのまま工場の名称ともなりその後陸軍爆撃機の名称にも付けられたのだ。然らば呑龍様とは如何なるものかという事から説明せねばならんがその前に、なぜ中島飛行機が関東の奥地、群馬県新田郡太田町という交通不便な僻地に生声を揚げたかというと、此の太田町から約6Kmの地、利根川畔の尾島町が、後に飛行機王といわれた中島知久平氏の生家であったので、此の地で旗揚げするのが何かと便利であったと思われる。

 さて、呑龍様というのは、俗称であって、関東に於ける名刹、正確にいえば『義重山、大光院、新田寺(右写真、背景は金山)』の事で此の寺を開山した名僧呑龍上人の開山堂があって今では主屋の新田寺の本堂よりも、離れの開山堂の方が有名になっている。

 此の寺が出来たのは、徳川家康が天下を治めてから征夷大将軍になる為めに『俺は源氏新田の後裔だ』という事を裏付ける為め、彼は祖先新田義重の菩提寺として呑龍上人をして、此の地に堂宇を建立させたといわれて居る。上人はその後小児の養育に一生を捧げてその徳は関八洲に及んだそうで、世間では『子育て呑龍』といわれて大変有名になったそうだ。此の大光院の他に新田義重公並に義貞公の墓のある金龍寺(左写真)が直ぐその裏にあって、此処から義貞公の居城であった金山が関東平野に忽然と独立して居る。山の高さは約200m余りだからさほど高い山という程でもないが、平野の真中に屹立して居るので眺望は甚だ広く、遷か東方には筑波山が霞み、西方に眼を転ずると赤城、榛名、妙義、の上毛の三名山があり、その奥には浅間の噴煙がうかがえ、背後は遠く奥日光の山々が連綿と連がり、足下には北に渡良瀬、南に大利根の二川が洋々と白銀の様に光り、秩父連峰の肩から晴れた日には、遠く富士山まで望見する事が出来る。実に雄大な景観。又金山城跡には現在義貞公を祭った新田神社があり、その他義貞公旗揚の地、生品神社、当地出身である高山彦九郎先生を祭る高山神社(右下写真)も金山々麓にあって、東京あたりからの日帰りの遠足には手頃な所で、春秋のシーズンには観光地として相当賑やかな所である。

 しかし当時の太田町は人口も一万足らずで之と云う産業も物産も無い。いわば此の町は呑龍様で喰って居る町といった所であろう。かような環境の土地に創立されたのが日本に於ける飛行機のメッカ呑龍工場である。

 中島知久平氏は海軍機関学校を卒えると艦上生活もせられ、後に海軍機関大尉となられたが、当時氏は将来飛行機が必らず戦争に於ても亦平和時に於ても最も重要な役割を持つ様になる事を確信して進んで航空将校となって飛行機の研究に没頭した。更に海軍よりの命を受けて欧米各国の航空機事情調査研究の為め派遣されたが、氏は又操縦士としても海軍部内に於ける有力な経験者(中島知久平は明治43年、巡洋艦「生駒」に乗船勤務しており、日英博覧海外がロンドンで開催され、この親善訪問に参加していた。しかし途中で寄港したマルセーユで艦長に「博覧会より航空視察のほうが国にとって最重要!」と無理矢理懇願し、下船してフランス航空界を急遽視察に切り替えた。また米国出張のおり、業務命令には無かったが独断でカーチス飛行学校で水上機操縦の免許を取得、西海岸サンディエゴで陸上機免許を取得して帰国したため、その後軍で問題となったというが、当時日本で3番目のライセンス取得者であったことから、お目こぼしとなった)として知られて居た。氏は海外出張を終えると、氏の信念は益々強固なものとなって来た。今後航空機の急速なる発展を期待するには、当時の軍部内に於ける窮屈な研究では不充分で時勢に遅れる事を懸念し、何等の制約を受けない民間に於て始めて完成し得るとの確信を抱くに至りて、氏は遂に強硬なる海軍部内の留任勧告を排除して、退官する事になった。

 しかし、氏の才能を惜しみて退官に反対する者や、一方、賛成して援助する者があって、退官するまでには中々問題があったとの事である。(正式に許可されないため、しかたなく当初は病気と偽って太田に帰ってしまった)そこで氏は起業のために知人の斡旋により神戸の豪商石川茂兵衛氏の出資を得て、大正六年十月に研究所を尾島町字前小屋の岡田氏宅の一室を借り受けて生声を揚げたのであったが、その後、石川氏に代って川西氏の援助を受ける事になって、いよいよ創立の基礎を固めたのである。川西清兵衛氏(当時日本毛織社長で関西財閥、後の川西航空社長で清兵衛氏の父)や石川氏等の財政的後援があって初めて此の大事業の基礎を築く事が出来たと云わねばならぬ。

 当時航空機事業といえば非生産的な冒険的事業と見られたものだが、之に対して深い理解を持つという事は、その頃の財界人としては実に珍しい事で、私はその先見に対して誠に感服したのであった。

 かくて同志数人と共に我国に於ける初めての純国産機の設計に着手し記念すべき中島飛行機の第一歩が発足されたのである。知久平氏がかつて海軍に於ける飛行機の工場であった横須賀海軍工廠造機部内で氏の許で共に働いて居た栗原甚吾氏、奥井定次郎氏、佐久間一郎氏や知久平氏令弟の問吉氏等の五、六名と共に国産第一号機の計画に取り掛ったのであった。此の時代に、民間で重要な兵器機の生産計画を為す事等思いもよらぬ事とて、中島氏のかかる野放しの行動は理解せぬ軍部の一部にも甚だ刺激を与えたと見え、之を危険視して常に憲兵の眼が光り実にうるさいものであった。後日は笑い草となる様な事でもその当時としては尤もな事と頷ける。

 知久平氏の退官が大正六年の十二月一日付けで決定(予備役へ編入、当時34歳)されたので、十二月十日に太田町(呑龍工場)に移転する事になり此日を以て創立の日と定められたのである。当時太田町の呑龍様境内の一部に大光院の附属建物があったが、之は以前東京の米穀取引所の建物で東武鉄道社長根津嘉一郎氏が寄付して移築したもので、二階建一部は三階となって居て、約100坪の洋館で田舎では珍らしい立派な物であったが、之の建物を借り受ける事になった。そこで現場作業員も募集し本格的な研究に取り掛った。

2年目;呑龍工場時代〜2〜.(大正七年1918年)

 此の移築に際し家屋の修理改造等に従事した糸井氏や中村氏等もそのまま入職したが、七年の初めには事務所に中島門吉氏が会計で、その他島山三平、新井氏等が居り、設計には奥井定次郎、佐久間一郎、佐々木源蔵、石川輝次、竹内清重、佐藤徳太郎、三戸勝利氏等の陣容で栗原甚吾氏は知久平氏の参謀格として働いて居られた。かくして第一号機は着々進捗して七年七月には試作一号を完成し試飛行の段階となった。

 九月頃には社内の組織も相当整備され、後年基幹となった人達の入社が多くなった。当時の中堅となって居た人々を挙げると、木工に佐々木新治、片両政吉、プロペラの小谷式一二郎、山田安定、組立には糸井勝之助、中村善作、中井某、岡田常次郎、荻野喜太郎、仕上に杉本一郎、坂本栄次、森田某、佐藤佐吉、長門春松、銅工は吉田省三、福田勇、発動機に三堀清太郎、乾浅次郎(旧姓高田)、小川良勝、機械には大山豊三郎、黒川保三郎、塗工には片岡由太郎、倉庫に正田太子郎、鈴木周作(旧姓高橋)、検査に大塚安男、工務に塩原圭次郎、飛行士として佐藤要蔵氏等が居た。又試飛行に際しては陸軍の岡中尉も時々来社された。設計屋は奥井氏が工場長で前述の他その後関口英二、富崎某氏等も加えたが十人足らずの淋しいものであったが、創生期に見られる旺盛なる生気に満ち溢れて居た。私、斉藤昇もこの年九月の入社(20歳)である。

 この頃には栗原氏は金属工場長であった。私の入社した時は丁度第一号機の試運転をやって居た時で、まだ不調の為め飛行するまでにはなって居なかった。私は少年時代から飛行機に大変興味を持って居て中学時代には盛んに模型機を作って飛ばして喜んだものだったが、此んな事から偶然太田へやって来て、入社を申込んだ所「それでは試験をしよう」と云われて試験は学科と実地を受ける事になった。私は実地の方は多少経験もあったが、先ず出されたのがホールスコット150馬力発動機用の分電器の見取りだった。物は小さいが仲々込み入った代物であったが、それは半日で図面を作った。次にはホールスコット発動機の総組立の写図だったが之も手の込んだものであったが大した苦労もせず出来上った。此の試験の成績で給料が決定されるのであった。私は経歴の割には良い給料を得ることになったが、その給料は日給68銭で、別に手当二割五分が付せられて居たので月に28円位の収入となるが、独身者で下宿代三食付8円では先ず楽な生活が出来た。尚、参考の為め当時世間並の相場を示すと、小学校卒業の見習が初任給30銭、中学卒40銭、工業卒45銭、高工卒55銭と云った処であった。

 その時当社では月給者は知久平氏、粟原氏、奥井氏の3名で他は全部日給者であった。その頃のサラリーマンの将来の理想とする処は月給100円の高等官と云う具合で、今から思えば、うたた感慨無量と云わねぱならない。

 かくして私は太田へ来て五丁目の或る未亡人の宅に下宿する事になったが、中島に務める人達の大部分は若い人々で、所帯持ちの人は大変少なかったので自然と花柳界の方も之等の連中で賑合ったものだ。下宿のオバさんも余り裕福でなかった様で私が下宿すると間も無く私に「二両二分許り一寸借して呉れ」といわれたが之には私は全く面喰らったものだ。大前田英五郎や、国定忠次等上州無宿の本場とは云え、文明開化の現代に於て銭勘定が「両」を以って為されて居る事とは夢にも思わなかった。私は一両は一円の事だろうと見当付けたが二分とは幾らの事かと思って色々聞いたら、一分は25銭の事で二分と云えば50銭と解った。又10銭は一貫と云い、1銭は百と云うので、例えば28銭だと二貫八百と云う事まで解った。それで当時では「1銭も無い」とは云わず「百も無い」と云う。この様に上州(群馬県)では今でも言葉は割合い乱暴な方で色々な事に昔のヤクザの姿が残って居る様だ。群馬県新田郡(グン)とは云わずに上州新田ゴオリと必らずゴオリと発音する。

 かくして第一号機が出来上ると、尾島の利根川畔に於て試飛行に取り掛るのだが、太田の工場から約8Kmの道を機体を解体して馬車で運んだものであった。或る日の事、馬が暴れて土手に乗り上げ、機体を転覆して大破損をしたと云う事故が発生したので、そのれ以来馬車を廃して人力に依って運搬するのが通例となり後年まで続けられた。この飛行場は利根川の川原の草原(此の辺で利根川の巾は約1,200m位)を利用するもので巾約300m、長さ約700m位は直ちに使用出来たが、緊急の場合は巾も600m、長さ1,000m位は使用出来るので当時の試飛行には充分の広さであった。

何がさて一機の試作が終ってもその飛行機が果して飛ぷかどうかが問題となる頃の事とて、後の試作も仲々進捗せず、又飛行機が尾島の飛行場へ行けば工場の幹部達は皆んな飛行場の方へ出かけるので、その間の工場は殆んど仕事がなくなり、野球や庭球をしたり、自動車の運転練習さては金山へ登って自然の気を養う者等、皆思い思いのレクリエーションに日を送るのが日課であった。思えば実にのんぴりしたものである。(写真は呑龍工場前でのお祭り!観桜会)

 工場と云っても前述した様に、大光院境内の一部であったので(境内とは云え道路をへだてた一区画を為して居る)中央事務所の建物の周囲は庭園となって居た。門を入ると左右に広場があって玄関に達する手前に左右に広がる瓢箪池があり、その池に掛った橋を渡って玄関に行く様になって居た。左の広場は庭球コートがあって右側の広場は芝生で周囲には桜を始め種々の草木があり、春ともなれば百花繚乱実に見事な庭園であった。此の広場が所員の遊び場である。(右写真:右列中央が本館、左列上が陸軍機組立、下が海軍機組立工場で分かれていた)

 試作機は陸軍の偵察機を目標として作られたもので発動機は米国製ホールスコット125馬力の水冷式直列型で、二座復葉、胴体は檬又は檜の角材四本の縦通材を通し、縦横の支柱は軟銅飯の瓦斯溶接の結合金具にて結合し、此等の間隔には緊張ピアノ線を調整螺で心出し、調整を為して組立てられて居た。発動機架も、木金混合で機械仕上げ部品は非常に少なかった。翼も前後二本の樞(檜材)を使用して、胴体と同様張線にて組立られた。此等の組立作業は凡て木製の馬(台座)を使用し、治具等は一切用いなかった。尾翼、動翼類も皆同じ構造で外皮は麻布張りで塗料を塗った。翼間(上下翼)の支柱も木製であった。車輪は自転車の様なスポークのあるもので脚の緩衝装置として護謨紐(ゴムひも)を巻き付けてあった。又胴体の尾端には滑走用の橇(そり)が使用されて居た。プロペラーはクルミ材製で始動の際は両手で回転したものだ。燃料槽や滑油槽は錻力製(ブリキ)であった。以上の様な構造が一般に此の時代の機体であって、今から思えば実に簡単なもので之等の設計図面といっても総数約40枚位で間に合った。尤も組立図面の空間にはギッシリ部分図や部品図まで出来るだけ書き入れたものである。

 知久平氏は設計関係から現場の事まで実に良く指導された。氏は終日油に汚れた作業衣を纏い、自ら機械作業等されるのも度々であって、その為氏は手の指二本を切断されると云う事故もあった。

 知久平氏の作業服で思い出した事があるが、それは私が入社した時、当時の知久平氏の第一印象を少し述べて置き度い。私が入社の時に最初に面会した人は中島門吉氏で、私が設計に配属されてその翌日設計室に出勤したら幹部は皆飛行場の方へ出掛けて一人も見えず、私がこの室に配置された事を誰も知って居ないので途方に暮れて居たら、間もなく佐久間氏が帰って来られて指図されるので、この人が一番偉い人かと思ったらその内に入室されたのが奥井氏であった。佐久間氏は色々奥井氏から指図を受けられ、奥井氏は傲然と着帽のまま紫煙を吹かして窓外を眺めて居られたので、私はてっきりこの人が所長サンかと思っていた。その後油に汚れスリ切れた作業服の肥大漢が無雑作に入室して直ちに製図員と図面の事で話が始ったが此の様子から私は多分現場の職長かと思ったら、私が所長と思った奥井氏がその肥大漢に言葉を改めてペコペコして居る。私は不思議に思って隣の人にそっと聞いたら、「あれが中島サンだ」との事で初めて知久平氏を知った様な次第で、私は何となく此の時大変親しみの持てる人だと思った。

 かような訳で知久平氏は至って家庭的で又平民的な人柄であったが、一面実に信念の強い人で氏の熱情に接する凡ての人々は、何日の間にか氏の信者となって居たのである。

 飛行場へ通う時にも所長も職員も工員も同車であった。私も知久平氏の車を途中で停めて便乗した事も度々だったが、此んな芸当は一寸他には見られないだろう。知久平氏のかかる民主的な主義が中島飛行機の伝統として長く残ったものである。

 斯くして会社の自動車と云っても実は自動車の様な物と云った方が適当だったかも知れない。それは最も旧式なビュイックで、実に物すごいガタガタ車だったので途中で『エンコ』する事は日常茶飯事であった。しかしこの車が当時群馬県下で唯一無二の自動車だった事も又珍とすべきであろう。故に之を運転するにも無免許だった。それから暫らくして、之れも旧式のハドソンのポロ車を買って二台となった。その内に県でも鑑札並に運転免許証を出す事になったが、太田町から前橋の警察署まで運転して行きさえすれば、それで許可になったものだ。県に於ても自動車の取扱いに関しての知識を持った人が居なかった事と想像される。東京に近い群馬が如何に田舎であったか之に依っても推測されるであろう。

 機体の方は第一号機(一型)は七月完成したが、八月一日の初飛行で破壊し、第二号機(実際は一号機の修理機)は八月二十五日に之も初飛行で利根川堤防に接触して破損。三号機、四号機(以上は一型)も同様な運命を辿ったのであった。(二型は水上機として計画準備されたが、一型が失敗したため中止し部品を修理用に使ってしまった) 三型五号機も年末には完成したが之もまだ満足なものとは云えなかった。

 かくて大正七年は血の滲む様な努力にも拘わらず遂いに芳しからざる結果を残す事になったが、丁度此の年の夏にはあの有名な米暴動が各地に起り、米価も甚だ騰貴した時だったので人々は『上るのは米ばかりで太田の飛行機はサッパリ上らぬ』と悪口を云われたり、又その当時のデカンショ節で『飛行機乗りには娘はやれぬ、落ちた飛行機で芋を掘る』と散々な目に逢ったが、知久平氏以下私達末輩に至るまで之等の非難攻撃の内にあって孜々として完成に努力を続けたのであった。

 当時は本館の二階の広間が設計室に当てられ階下に事務所と木工場があって、知久平氏は二階の小部屋の一室で寝食をされて居た。又本館北側の木造工場は金属工場及ぴ組立工場となって居て栗原氏が工場長であった。かくして四型六号機(胴体は三型を改修、翼は再度新設計した)は大正八年二月完成した。

3年目;呑龍工場時代〜3〜.(大正八年1919年)

 大正八年二月完成した四型六号機に初めてホールスコット150馬力が装着された。(写真が四型、飯沼操縦士と栗原甚吾)本機は帝国飛行協会主催の同年十月二十一日に催された第一回東京、大阪間440Kmの懸賞郵便飛行大会に参加し、往復6時間58分を要したが遂に第1着で優勝した。しかし之を見ても他の参加機が如何に不成績であったかが解るであろう。その頃の飛行機では箱根山の上空を越える事は困難であったので、皆此の場所は海上を迂回して東海道線づたいに大阪へと飛行したもので、鈴鹿を越すのが先づ精一杯の様だった。

この大会に当社からは四型六号機と六型の2機が参加し、四型は佐藤要蔵氏操縦、佐久間一郎氏が同乗し、六型は水田氏であった。水田機は途中進路を間違えて和歌山県下に不時着したが、復航の際には、2時間10分で日本記録を打ち立てて中島機の優秀な事を天下に知らせたのは愉快であった。兎に角、東京大阪間の飛行が長距離といわれた時代だから当時の飛行機としては実に困難な行事であったに違いない。昭和六年に米国人ハーンドン氏の太平洋横断飛行に比すべきものであった。

 即ち此の四型機に至って初めて当社の飛行機としても先ず満足に飛行したものであった。

 その頃当社の立場は、知久平氏が海軍出身だから当然海軍系でなければならなかったろうが、氏の退官の際のトラブル等の為めか、当社に対しては陸軍の方が大変乗り気になって居た。それは知久平氏が海軍在籍当時、陸海軍共通の臨時軍用気球研究会(埼玉県所沢市、現在の航空公園が所沢飛行場であった)で陸軍の井上幾太郎少将はその委員として、又知久平氏は御用掛として出仕して居た関係からの知人であったので、知久平氏が当社創立に際しても井上氏を所沢に訪問して自己の信念を述べて陸軍からの後援を御願いして、その了解を得たが、当時の井上氏は陸軍に於ける航空関係の大御所的存在であった。かような経緯から陸軍としても何とか飛べる飛行機を早く採用したい希望の様であったが、前述の様に米の相場と反対に仲々飛ばないので陸軍でもソロソロ諦めかかって居た様だったが、幸い四型が完成し、又丁度その頃になって海軍の方でも知久平氏の意図を見直して来て、馬越海軍大尉をして試飛行させたが、その試飛行を終えた大尉は「コノ飛行機ハ飛ブヨ」と云われた時は全員がホッとして、之でどうやら希望が持てる様になった。

 そこで海軍の方でも中島に一つ造らせて見ようではないかど云う事になったが、陸軍では今まで尻押しして肩を入れて来たのに今更海軍にお株を取られてはと、早速、水田嘉藤太中尉を予備役に廻して当社の試験飛行士として入社せしめ、尚有川中将は和田陸軍中尉を連れて来られ試飛行を行い、その結果、中尉は『速力も出るし安定も先ず良い、而し翼端が少しガタガタする様だ』と閣下に報告されたのだった。こんな経緯があって之を改造したのが五型で八年の五月に出来上り、水田氏に依って当時の和製機体では珍らしい曲技飛行に成功したのであった。

 水田氏の夫人は大変美しい人で、水田氏の在る処必らず夫人が付き添われ、連れ添った二人の町歩きは太田名物となり町の人々に大きな興味を与えた。何しろその頃の太田では夫婦にしろ男女二人で出歩く等思いもよらぬ田舎の事とて陰口もうるさく、氏が出歩く時には大勢の見物人で大変な騒ぎであった。それにしても氏の振舞いには皆アテラレたものだった。而し太田の人々の因襲を打破し覚醒を促したその功績は見逃す事は出来ないだろう。

 大正八年の五月には当研究所も、合資会社日本飛行機製作所と社名が変更されて、佐々木源蔵氏が一杯機嫌で一気に門標に達筆を振った事を覚えて居る。彼は相当の能筆家であったので、書きものは殆ど彼に依存して居た。日本飛行機となってから川西から阪東俊一氏が支配人として乗り込んで来たし、その他石川茂氏等資本家代表組を迎える事となった。設計室の方にも志村正堆、寺山心一、釜田善次郎、官武幸平、安藤千代松の諸氏を加えて大分賑やかになった。

 飛行機の方は陸海軍共にまだ受注の段階に至らず、相変らず一機又一機と試作を続けたので、設計関係の方は割合多忙であったが工場全体としては大体仕事切れが多く、後年関東に覇をなした雄飛野球部もこの年に誕生した。思えば古いものだ。私は運動は大概一通りやって居たが特に野球は好きであった。社会へ出てはその機会もないだろうと半ば諦めて居た処、阪東、石川、中島門吉、栗原の幹部の方々が大変野球が好きで、野球チームは出来ないものかと相談があった。

 私は所内の同好の連中と毎日キャッチボールだけはやって楽しんで居たが、所内に選手として頭数が揃うかどうか、私は投げる事ではまだ充分自信を持って居たが、他の人達の技量がキャッチボールを見ただけでは見当も付かなかった。それに社内には私の球をとれる捕手が居ない状態だったので、捕手だけは当時太田中学五年生の選手で体格も大きく評判の良い渋沢徳次君を当分試合の時は借りる事にした。遊撃手には関西学院出の選手で運転工をして居る岡本君が一人光って居たが、他に之と云って上手な者は居なかった。而しどうやら顔振れだけは何とか揃える事が出来たので先ず試合の相手は居ないかと思って居たら丁度、足利工業学校から申込があったので初試合に出かける事になった。

 今まで一回の練習もして居らず、又各人が天狗で、俺は一塁だ、俺は三塁だと勝手に自分の位置を定めた事で、さて之で試合になるかと私は心細くなった。ユニフォームがないのでそこで思い出したのが此の春飛行場の開場式をやったときに、各職場毎の対抗800mリレーの競争のときに選手が使用した、赤、青、黄、紫、黒、自等の上着が各二着ずつあったのを倉庫から出して来て、それを使用する事にしたが、実に奇妙な格好で工業学校へ乗り込んだ処、校庭には既に応援団が実に物凄くムシロ旗、ドラ鐘で私達五色のユニフォームを迎えてくれた。又私達の方の応援回も第一回戦だと云うので全社員が出動したので決して彼等に劣るものではなく奇人に属する者が多かったので、その賑やかな事、試合よりも興行価値があった様だ。

 試合は結局13対0で私達の一方的快勝となったので、幹部の人達も大変喜ばれ『之では物になるぞ』という自信が出来て、それから本格的に器具一式を購入したりユニフォームも新調する事になった。チームの名も私は雄飛倶楽部と名付けたのであった。中島門吉氏は当時三塁手をやって居られた事を記して置きたい。

 かくして後年の大雄飛の基礎は出来上ったのであった。此の時代は我が雄飛も相手が田舎チームだったので速球一点張りで相手を押える事が出来て常に一方的の勝利が多かった。

 八月に入って中島式五型(写真)が陸軍の偵察兼練習機として採用される事になり、遂に創立以来約2ケ年の労苦が此処に実を結ぷ事になった。全所員一同が此のニュースを聞いた時の感激は到底私の拙い筆では云い現わす事は出来ない。長い忍苦の月日であった。之からは大手を振って歩けると思えば何物にも勝る出来事と云わねばならない。(当時の価格は1機11,000円)

 大正七年から八年と去えば世間の景気はグングン上昇し物価の騰貴甚だしく、各会社工場共賃上げ争議の勃発で仲々景気が良かった時に、当社だけは指を喰わえて飛行機が売れるまでと我慢して来たのだった。一部の職人達は、『何とか我々の生活の事も考慮して呉れ』と会社へ申し出た事もあったが、知久平氏はその時全員を集めて『諸君よ、御承知の様に創立以来此の2ケ年間当社には一銭の収入もない、而し支出は既に百万円(現在なら数億円)にも達して居る。諸君は良く今まで私と共に辛抱して呉れた。諸君の気持ちはよく解る。飛行機の採用になるのも近づいたので、それまで今暫く待たれよ。若し現在の生活に、之れ以上耐えられない人が居たら、遠慮なくいってもらいたい』と泣いて一同に訴えられた事があった。もちろん何処へ行っても当社より良い待遇が待って居た時であったが、之に対して一人も去る者が居なかった。私達もあくまで知久平氏と苦楽を共にする事を心に深く決心を新たにしたのであった。

 而し現在では所員も150名以上を擁して次から次と試作に日を送って居てはその経費も莫大なものとなって、然も収入は皆無の状態で何日になったら芽が出るか全く予測も出来ないので、資本家の身になって見れば、誰しも我慢が出来なくなったのであろう。資本家としては一日も早く投資に対する利潤を求めるに急であり、又技術家は経営に決して無関心では無いが、良心的な成果を上げねば納得し難いと云う性質は常識であって、之等の喰い違いが、資本家の川西氏と技術の中島との協同事業に破綻を来たしたものと思われる。

(中島知久平は創業当初は、大阪朝日新聞の記者・小山荘一郎氏の紹介で、神戸の肥料問屋・石川茂兵衛の資金援助を得ていたが、石川氏が事業に失敗したため、出資者の一人であった日本毛織会社の社長で当時毛織王と言われていた大富豪・川西清兵衛が肩代わりしていた。川西氏はそれまで航空事業には全く関係なかったが、中島の事業を見て将来性を感じ、袂を分けて自ら川西航空を設立し飛行艇では世界屈指の技術を構築した。)

 遂に年も押し迫った十二月に入ると、川西氏は知久平氏の事業継続を援助する事を拒否して施設及び財産の返還又は買取り方を迫って来たので、知久平氏は当地出身の政友会代議士武藤金吾氏の斡旋にて、三井物産の援助を受けて事業を遂行する事になり、川西との話合いも付いて資産の分割が行われると共に川西側に組した人達は遂に私達と袂を分ち、神戸へ引き揚げる事になった。

 此んな経緯から中島と三井物産とは切っても切れぬ関係を生じたが、その結果、中島は設備並ぴに運転資金等の心配もなく事業を継続出来ると共に信用を高めて無形の財産を得る事となり、三井は売上げに対する口銭が確実に入って来るので御互いに重法であったと思われる。

 設計室からは関口、佐藤、組立の戸川、発動機の島村等を中心に相当数の人達が中島を去って川西に行く事になった。その引き揚げ振りは、今まで資本家の立場だったせいか、仲々派手で威勢が良く、私達残留の中島組は淋しい思いであった。今後一体私達残留組はどうなるのだろうかという事が差し当り大きく浮び上って来たのだ。然し私達残留組は知久平氏を信頼しあくまで氏と行動を共にする決心で『今に川西の連中を見返してやるぞ』と益々希望に燃え立ったのであった。

 大体この太田に集った連中は前にも述べた様に不安定な職業に自ら喜んで飛び込んで来た若い人達が多かったので皆、仲々勇気に満ち溢れていた。之等の人達が後年中島王国の礎石となり捨石となって働いた者であったのだ。而し乍ら顧みてこの初期の2ケ年間お互い苦労し続けて来て正に芽を出さんとする矢先に之等一部の人々と袂を分つ事は誠に人間として淋しいものであった。

 川西の引揚げに依り当然『日本飛行機製作所』の社名は『中島飛行機製作所』と改められ波乱に満ちた大正八年も夢の如く過ぎ去った。私の一生を通じ此の年位印象深い年は再び来ない事であろう。年末の混乱時に中島式七型機が完成したが、本機は帝国飛行協会が在米同胞よりの寄附金に依って造られたもので『在米同胞号』と命名され、当時中島に客員として来て居た飯沼金太郎飛行士に依って試飛行が実施されて後に飛行協会に寄附された。本機にはスターテバンド200馬力の発動機が装備されたが、之れに就いては面白い話がある。それは先にも述べた様に当時の軍用機の発動機でさえ『ノーム』『ダイムラー』『サルムソン』『カーチス』『ホールスコット』等々80馬力から150馬力程度のものであったので200馬力と云えば驚くべき高馬力のものと思われたので、皆『こんな奴を着けて飛んだら眼が廻るだろう、操縦士も一足飛びに乗るのは危険じゃないか』等色々心配したのであった。現在のプロペラ機からジェット機に乗り移る様な危険を感じたのも無理からぬ事である。

 此の年の春には海軍兵曹長だった浜田雄彦氏が倉庫に、購買に佐久間二郎、石田氏、会計に上原、動力仁榎本長吉、天王寺谷未一郎、機械に双田浩等の諸氏の入社があった。

4年目;呑龍工場時代〜4〜.(大正九年1920年)

 大正九年の正月は実に希望に満ちた輝かしい発展の年を迎える事となった。先に陸軍よりの受註が決定し、年初には海軍より横廠式口号甲型水上練習機(写真)の生産を命じられ、此処に陸海軍より中島飛行機の存在が白日の許に浮び上り華々しくスタートを切る事となったが、之れも決して棚からボタ餅の幸運とは云えない。之れ凡て知久平氏の多年の労苦の賜にほかならないのである。

 かくして急に量産態勢に入ったが、量産と云っても現在の様な規模のものとは違い、年産陸海軍各々数十機位のものであったが、その当時の月産6、7機の生産と云えば、それは全く大変なもので、我が国としては空前の事であった。

 木製で布張りの機体だから、機械仕上部品と云っても、ボルト、ナット、調整螺や小物部品位で、プレス作業もなく覆類も凡て手加工に依って整型して居た。又燃料油槽(ガソリンタンク)類も拭力鈑の半田鑞付け一点張りで、皆な手先きの仕事であったので、所謂名人芸を要した時代であって、素人職人では間に合わぬ仕事が大変多かった。それ故職人も優秀な者が多かったが、然し又一面此等の人達は職人カタギのせいか、渡り歩きが多く自然出入りは頻繁であった。現在名古屋市で有名な名物男の矢島工業社長矢島環氏も当時中島の鈑金工として働いて居たが、中島出の職人としては戦前戦後を通じ彼が一番の成功者であろう。

 ロ号甲型の図面は総数約50枚位であった。水上機だから、新たに浮舟を造らねばならないが、之れは中島でも初めてで経験者が居なかったので横須賀海軍工廠から採る事になって渡辺林蔵(旧姓小泉)永野若次氏等がやって来て二階の設計室の隣室を現図場として作業が始った。

 浮舟は樺の合板製で『カゼイン』膠着であった。このロ号甲型はその後改造して大正十三年まで引続いて量産された。工場も急に多忙となって来て、横須賀からも正月から三月頃にかけて森谷金太郎、山本仲次郎、荒木富寿、水主某、池田松之助、岩堀国太郎、川瀬市太郎の諸氏を初め相当数の人々が太田へ続々と集まり、又その頃成田源一郎、黒田熊之助氏等の入社を見た。設計室にも青山重利、高島吉男、増田喜一、倉上軍蔵、川島、水野、大谷、桜井といった人々が来たので、之又急に賑やかになった。此等の中で池田、岩堀君等の野球選手も加ったので野球部の基礎も益々確実なものとなった。桜井君は製図の青写真の方の仕事であったが、当時は現今の様に、自動的に機械が焼くのでなく、鳥ノ子紙に感光材料をスポンジで手塗り乾燥して日光焼付けを行って居たので夏の炎天下での此の作業は実に辛いものであった。

 会社の生産態勢も着々進捗して実験室が出来て各種の試験機が据付けられたが、引張り、圧縮、衝撃が主力をなして居た様だ。この室へ設計室から佐々木源蔵、寺山心一の両氏が専属となって店開きをした。

 陸軍偵察機(中島式五型)の生産に伴い、陸軍より検査官として永淵大尉が着任されたが、海軍からはその年の九月頃になって八島大尉が着任された。会社側にもその前から既に検査制度が出来て居たので生産には支障なく、かくして陸海軍機共に生産は順調な滑り出しを示したとはいえ、量産は初めての事で諸設備、器工具の整備、人員の補充等で大変活気付いて来たし、工場増築の為めに本館前庭の瓢箪池も埋立てられて右側が海軍機、左側が陸軍機の組立工場で各々約400坪位であった。又本館南側に木工場も完成(右写真)して第一期工事が完了した。それで創立当時の工場が金属工場で之を第一工場、木工場を第二工場、陸軍組立を第三、海軍組立を第四工場と称される事になった。

 尚その他に倉庫、火造場、車庫、燃料庫等の附属屋も完成して、先づ小規模ながら工場態勢が出来上った。私達は一棟出来上る毎に将来の発展を夢見て心ワクワクはずませるのであった。

 当時、既に民間の飛行機会社として東京市外の赤羽に岸一太医学博士の工場があってその処では、機体及び発勤機の一貫生産を計画して作業も既にその緒に就いて居たのであるが、商売違いのせいか博士の理想を実現する事が出来ず遂いに中絶したので、今では当社が民間の飛行機工場としては之でも日本一を誇るものであった。

 又操縦訓練生を養成する為めに、水田、佐藤の両氏担当で飛行学校も経営して居たので、工場あり、学校及び飛行場と三拍子揃った便利な処が飛行機研究者達の魅力となって全国各地から、之等の人達が押し寄せて時ならぬ賑合いを呈した。此等の人達は概して熟心の余り奇行に富む人々が多く之等の事は限られたこの紙面では到底書きつくせないので割愛するとしよう。之等を一々挙げたらユーモア全集程にもなり兼ねないから!。中でも小川三郎氏等はその第一人者であった。彼は鹿児島県の産で、当社で不要になった部品や材料を集めて六丁目の空家を借りて自己設計の機体を組立てて居たが、その精進振りは寝食を忘れての熱心さで、私達も見て居れず暇を見ては皆して手伝いに出かけ色々援助したのであったが、彼の努力は遂に報いられてその翌年に完成した。

 又私の友人の川原徳太郎君は当時の民間飛行士石橋勝浪氏所有の『スパッド』単座機3機を持って来て組立を始めたのも此の頃であったが、彼は機体の梱包箱を改造して住居としたその立派な思い付きに感心したものだった。

 その他、飯沼金太郎、後藤勇吉、松尾一男氏等の飛行士連中も滞在して居たし、飛行学校の方の練習生も大部分は飛行機患者!に属する人達が多く、それだけで話題も豊富で民間飛行家の日本に於ける唯一の殿堂となったのである。

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