九鬼山御前岩から九鬼山

中央本線の下りが藤野駅にさしかかると、左手から低い山並みが始まる。これが東西20キロメートルほどの秋山山稜(前道志山稜とも呼ばれる)の東端である。途中にゴルフ場があって通行不可能のため、縦走路上の東端は上野原駅近くの鶴島御前山あたりとなるが、ここから西走を開始して高柄山矢平山倉岳山高畑山と続いて九鬼山(くきさん・くきやま)に至り、ここで稜線は向きを北方に変えて3キロメートルほど伸張し、馬立山、御前山を起こして大月駅手前の猿橋駅付近で終端する。


かつて菜畑山(なばたけうら)で出会った長野在住のご夫婦に聞いた話だが、九鬼山から高柄山まで幕営で縦走したところ二泊三日かかったという。九鬼山は富士急行の駅から上がったのだろうが、それでも二日で歩くのは難しい距離なのだった。というのも稜線は部分的に細かいアップダウンがあるので、地図上では20キロメートルでも実際にはそれ以上となる。念のために言えばこのあたりは山裾に民宿はあるものの山中に小屋はない。水場は稜線上に全くないのでテントに泊まるたびに流水のある沢まで下らねばならず、これがもっとも大変だったらしい。
九鬼山には4年前に一度登ろうとしたことがある。ところがそのときは3月で、山頂直下北面に至るとそれまで全くなかった雪がどっさりと現れ、これが膝下の深さである。坪足で行かざるを得ず、時刻も遅かったのでそこで引き返し、登らずじまいになった。それからどことなく敬遠する山になり、秋山山稜で最後に残った主稜線上の山になってからは、言うなれば義務感で計画するような存在になってしまった。この手の予定は流れやすく、実際に何度も没にしている。
こういう相手には爆発的行動力が必要のようだ。4月末、もうさすがに雪もないだろうし、これ以上遅くなると暑くなって歩きにくくなるという時期、前日に突如思い立って歩きに行くことにした。


二度目となる今回も前回と同じく猿橋駅から歩き出す。駅近くの山中に桂台と名の付いた住宅地が造成されたため、立派な車道ができあがっており、4年前にたどった畑の中の道はいまや跡形もない。右手、桂川を隔てて伸び上がる百蔵山や扇山が新緑をまとって若々しい。山道に入ってからしばらくは展望がない。だがいまは春、周囲の淡い緑が目に優しく、土の匂いが懐かしさを感じさせる。最近一ヶ月に一度くらいしか山を歩かなくなっているので、最初のところは足腰が重たかったが、じきに慣れてきた。
御前岩から倉岳山(奥)と大桑山
御前岩から倉岳山(中央奥)と大桑山
本日の展望箇所の第一は御前山というコブのてっぺんで、岩場になっており、御前岩とも呼ばれる。南面が切れ落ちていて、秋山山稜が手前の大桑山高畑山倉岳山から奥の高柄山まで見渡せる。右手奥に見える三角の頭が目指す九鬼山だ。それにしても風が強い。今日は軽量化してさっさと歩くつもりで出てきたのでバーナーやコッヘルがザックにないが、あったとしても湯を沸かす気がしないほど寒い。簡単な昼食をとり、山座同定だけして早々にルートに戻った。
そこからすぐ右手が開け、南大菩薩と小金沢連嶺、雁ヶ腹摺山が大きく見える場所があった。馬立山は広いだけの山頂で、荒れた感じの札金峠に下って登り返せば、紺屋休場と呼ばれる平坦地に至る。芝生のようにきれいな草地が踏み跡の右手に広がっていて、上空から降り注ぐ日差しに輝き寝ころびたくなる場所だが、すでに10名近くの女子大生とおぼしきパーティが食事をしていたので遠慮して休まず通り過ぎた。
かつて雪のため前進を阻まれた山頂直下の北側斜面は白一色だった面影などどこにもない。半円形に開けた沢筋を二度ばかり横断して反対側の尾根に移る。ここからの登りはなかなか急で、かつ予想より少し長かった。
山頂には数パーティ、10名以上がくつろいでいた。富士山側は植林が育っていて眺めはなく、御前岩の先でも見渡せた大菩薩と北都留三山(百蔵山、扇山、権現山)に改めてあいさつするくらいだった。一段高く盛り上がった小金沢連嶺を眺めつつ握り飯を食べているうちに、黒岳付近で幕営して雁ガ腹摺山を越える、という計画を早いところ実行したくなってくる。しかし九鬼山再訪でさえ4年かかったくらいだから、これも実現まで何年かかることやら。日の目を見るのを待っている予定は実際のところほかにもたくさんあるのだった。


縦走路側に出ていくと富士急行側に下る道が続けて二度出てくる。最初の下山口脇には展望地がしつらえてあって、ここからは三ツ峠や杓子・鹿留、今倉山に対面できる。山頂よりこちらのほうが眺めもよく、なによりひとが少ない。親子三人連れが食事をしているだけだ。
九鬼山から鈴ヶ音峠までは九鬼山頂周辺に比べれば静かなものだ。花も多いようで、ヒトリシズカやヤマブキがよく目立つ。しかし久しぶりの山で、しかも飛ばして歩いてきたせいですでにあちこちが筋肉痛だ。疲れもしたので途中のコブで座り込み木にもたれてしばらく目を閉じていたところ、反対側から50代くらいのご夫婦が息を切らして登ってくる。「ここは山頂....じゃないね」。「ええ、もう少し先」。先頭を行く男性は「もう少し先、もう少し先」と繰り返しながら立ち止まらず歩いていった。
高畑山(左)から朝日山へと続く稜線
鈴ヶ音峠に向かう途中にて;
高畑山(左)から朝日山に続く稜線
何度もコブを上下して達した峠は車道が越えていて広く、季節が佳いせいか冬に高畑山から大桑山を経て訪れたときと比べて明るい雰囲気だ。本日ここに至り、秋山山稜の歩ける主稜線を全部つなげたことになった。だが無人の舗装道上に立ち止まることはなく、そのまま朝日小沢のバス停に向かって下り始めた。
停留所に着いてみると、あと一時間半も待たなくてはならない。それならば猿橋駅まで歩いていこう。細くなり広くなりする谷間を歩いていくと、二人連れのハイカーに追いつき、しばし道連れとなる。九鬼山から同じコースを歩いてきたが、鈴ヶ音峠からの車道を下りたくなくて右手の尾根に入り、バス停近くまでヤブの中に踏み跡を拾ってきたそうだ。道ばたに背の高い木々があり、紫色した花を咲かせていたが、あれは桐の花だと教えてもらった。
2002/4/28

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