常連さんと定位置
松尾 敏彦周辺の居住者が集う小ぢんまりとした居酒屋とか小料理屋、寿司屋、喫茶店などは、不思議なくらいほとんどといって常連さんの定位置がありますよね。しかも、同じ定位置を使う常連さんでも時間差で入れ替わるんです。以前は私にも数軒あって、決まった曜日の決まった時間に決まった位置に座って、コーヒーの香りを楽しんだり、酒と季節料理に舌鼓を打ったものでした。
私の好きだった喫茶店は特別におしゃれでも静かでもない店だったのですが、マスターの何気ない気配りと、そこに集まる常連さんたちが作り出すほんのりと暖かい雰囲気が気に入っていました。
定位置は出入口に近い南の窓を背にしたテーブル席の窓側です。私のように1人だけの時間をコーヒーの香りで楽しむ物、常連さん同志で会話を楽しむ物、マスターとの会話を楽しむ物などがいて、それぞれが互いに観照しないという暗黙の了解がいつのまにかできているのは、どんなに疲れているときでも足を運ばせる心地よさがありました。
職業柄多くの人は私を良く知っています。私もかなりの人を知っているのですが、この場では誰も話しかけてくることはありませんでした。そっと休ませて置いてくれたのでしょうね。
定位置に座るとお決まりの水とおしぼりが運ばれてくるので、「いつものね」と伝えて一息つきながら水を一口飲んで喉を潤していると、コーヒーが運ばれてきます。私のコーヒーにはミルクもスプーンも付属しません。そう、ミルクも砂糖も使わないので視力の少ない私には邪魔なだけであることを、いつのまにか知っていてくれたのでした。
灰皿やシュガーポットなどのように通常ならテーブルにセットされている小物もさっと片付けられているので、とっても気が楽になれるのです。
コーヒーを2杯飲むときの私は1杯目を飲み干すのが早いという癖も知られたようで、2杯目の注文を取りにくるタイミングもなかなかの物でした。突然閉店してしまったことが今でも残念でなりません。
小料理屋もお気に入りが一軒あります。10人が座れるくらいのカウンター席と、4人掛けテーブルが二つという小さな店ですが、元、寿司職人だった大将の料理と日本酒を選ぶセンスの良さに加えて、姉さん女房でもある女将さんの愛想の良さが際立っていてついつい足を運んでしまうのでした。
とは言え、やっぱり素材の良さと料理の美味しさ、それに酒の良さがやっぱり一番ですね。
私の定位置はカウンターの左隅という店の一番奥なので、込んでいるときは到達するまでがたいへんなのですが、トイレに近いことと、のれんやレジに近い右側では客の出入り時に通路を開けるために立ったり座ったりしなければならないのがたいへんだという理由があったのです。
それと、もうひとつ、この小料理屋をなんとなく訪ねたときに空いていた席がそこだけだったということですね。私が通うのは土曜日の21時過ぎか日曜日の16時で、その時間帯に常連さんが使っていない席だったのです。
最初は、あまりにも秋刀魚を焼く煙の良い香りに誘われて恐る恐る藍色の暖簾を潜り、白木の綺麗なドアを開けました。ずっと憧れてはいたのですが当時24歳の私にはひとりで入ることなど考えられない閾の高い小料理屋への第一歩でした。
喫茶店や寿司屋くらいは経験していたのですが、このように大人だけを相手とする料理屋ではどのような所作をなすべきかなんてことも心配しながら、「あの、匂いに誘われてきたのですけどどこに座れば良いですか?」なんて、今思えば若かりし頃の恥ずかしさが思い出されます。
「いらっしゃい、空いてるこっちに座って」と生きの良い大将の声が聞こえたのですが、ぼんやりとしか見えない私が戸惑う間もない早さで、「こっち、こっち」と傍に来た女将さんが背中を押しながらカウンターの左隅まで案内してくださいました。
「目が悪いんでしょ」。「みなさんもお願いしますね」と明るく元気な声が狭い店内に響くとカウンターのお客さんや大将が、「あいよっ」と応えたのです。その絶妙なタイミングが醸し出す店の暖かな雰囲気がなんとも言えず快くさせてくれ、先ほどまでの心配がすっかり払拭されていました。
「秋刀魚の塩焼きと冷酒があったらグラスでください」
「グラスってどのくらいのが良いの」
「一合とか二合の冷酒が全部入るやつが飲みやすくて良いんだけど」
「ビールのマグカップか小ジョッキならあるけど」
「二合入る方に冷酒を入れてください」
「あいよっ、でも、すっごい飲み方だなっ。おすすめの冷酒は8種類ほどしかないけどどれにする?」
と言われても見えないから困ったなと口にしようとする前に隣のお客さんが「種類はね・・・・・」と銘柄と特徴を読んでくださったのです。これも絶妙のタイミングで、こころから安心できることを実感しました。
突き出しの衣被をつまんでいるとジョッキの冷酒が運ばれてきたので、ぐいっと一合ほど飲み、何も不安感を感じることなく飲み食いしました。
遠火の強火で焼かれた秋刀魚はいつにも増して美味しかった記憶があります。32歳頃まで通い続けていましたが、同じ曜日の同じ時間帯には同じ常連さんがカウンターの定位置にいるというのは、とっても心地よいもので、ときどき跛抜けになっていたり、知らない人がいたりすると、定位置の常連さんを心配したり、なんとなく気になったりしてしまうのです。だからといって、特別に親しい訳でもないので、それだけのことなのです。
互いに適度な距離感があって、それを踏み越えないのが暗黙の約束なのでしょうね。
今思えば、誰も愚痴を言う人がいなかったと思います。人生を前向きにとらえている人たちの会話には、それを聞いているだけの人にも幸せを与えてくれる力があります。勿論、女の話はたっくさんありましたね。
大将が病気で入院したのを切っ掛けに、しばらくは雇われ板さんが来ていました。それから、娘さんが婿養子として板前さんを迎え店を継いでいましたが、雇われ板さんのころから味つけや魚の焼きぐあい、煮込みぐあいが変わって常連さんの数も少なくなってしまい、とても淋しい店になると、私も足が遠のいてしまいました。
「この店でうまいのは酒と冷や奴だけだなっ」なんて冗談混じりに女将さんに言う口の悪い常連さんが、たぶん最後まで通っていたんじゃないでしょうか。それか、まだ通っているかもしれませんね。
長く通い続けられる小料理屋とか寿司屋があるだけでも、大げさでなく、人生が楽しく感じられるように思いますが、そういう店に出会えるのは偶然でしかないのでしょうか。
美味しい店とかおしゃれな店とはちょっと違いますよね。フランス、イタリア、中華料理店などでも常連さんの集まる店があるのでしょうか?
ワインと料理、どれも好きなのに、私の間隔に馴染まないのはフォークとナイフが壁なのでしょうか!!
「ちょっと小粋で、女将の愛想がよく、酒と料理のうまい店」に出会いたいです。