明治天皇の大喪が終って間もない1912(大正1)年12月、陸軍の2個師団増設問題によって西園寺内閣が倒れると、都市実業家層や知識人、民衆が「閥族打破・憲政擁護」を叫んで第1次護憲運動を起こし、西園寺内閣のあとを継いだ第3次桂太郎内閣もこの運動の圧力で1913年2月に退陣を余儀なくされた。これを大正政変と呼び、陸海軍、政党、金融界、実業界、市民階層など、新たな時代の到来を思わせる多様な利害対立の複合によってもたらされた。
奇しくも、この事件後の1914(大正3)年、民本主義を掲げた吉野作造が論壇に登場する。
図表2.16(再掲) 大正デモクラシーの時代
明治天皇が崩御(1912年7月末)してまもなく、陸軍は朝鮮に2個師団を増設することを強く要求した。韓国併合(1910年8月)や中国の辛亥革命(1911年10月)による情勢不安やロシアの軍事力強化への対応がその理由だったが、実際には満洲など大陸への進出を想定していた可能性がある。また、同じ時期に海軍が提出した戦艦3隻の建造計画に刺激されたともみられている。
1912年11月22日の閣議に上原陸相が正式に増師案を提出すると、西園寺首相はこれを拒否、上原は辞表を提出した。西園寺首相は陸軍閥総帥である山県有朋を訪問して、後任陸相を出すよう申し入れたが、山県は出さず、12月5日、西園寺内閣は総辞職した。
後継首相を選出する元老会議は難航したが、12月17日、桂太郎が推薦され、21日に第3次桂内閣が成立した。
西園寺内閣が総辞職し、政友会がそのいきさつを発表すると、増師反対・閥族打破の叫びは全国に広がった。第3次桂内閣の成立後、その動きは加速し、2個師団増設を強引に要求して西園寺内閣を倒したのは陸軍と長州閥とみた人々は、各地で増師反対の時局演説会や市民大会などを開き始め、ジャーナリズムは、「閥族打破、憲政擁護」を掲げて藩閥批判を展開した。12月19日に歌舞伎座で開かれた第1回憲政擁護大会には尾崎行雄、犬養毅が出席し、3000人以上が集まった。
桂太郎は、1913(大正2)年1月20日に記者会見して、新党(立憲同志会)を結成することを発表、翌21日に開会予定だった議会を15日間停会とした。桂は野党だった立憲国民党の大半に加えて政友会からも新党に合流する者が出るはずだと思っていたが、参加者は少なく政友会からの入党者はほとんどいなかった。
2月5日に議会が開かれると、政友会と立憲国民党は内閣不信任案を提出、尾崎行雄は次のように演説し、桂が詔勅を利用して優諚工作をする非立憲的態度を追求した。
「彼らは常に口を開けば、直に忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えておりまするが、その為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動をとっている」。
桂は議会を2月9日まで停会とし、この間に大正天皇を通して西園寺に不信任案の撤回を求めた。西園寺は政友会総裁は辞任したが、内閣不信任案は撤回しなかった。
議会が再開された2月10日、護憲派の民衆は議会周辺に押しかけ、白いバラをつけて登院した護憲派代議士を迎える一方、桂に与する代議士は小突き回したという。桂は政友会が不信任案を撤回しなければ、議会を解散するつもりであったが、激高した民衆の様子を見て内閣総辞職を決めた。しかし、それを知らない民衆はやがて暴徒化し、近隣の新聞社などを襲撃、1905年9月の日比谷焼打ち事件と同じような様相を呈した。
1913(大正2)年2月11日、第3次桂内閣は総辞職し、桂太郎自身は10月10日に病没する。次の内閣は海軍の山本権兵衛が受け継ぎ,政友会が協力することになったが、閥族と関係を持つことを嫌った尾崎行雄ら24人は政友会を脱党し、政友倶楽部(のち中正会)を結成した。
山本内閣は、陸海軍大臣現役武官制の廃止と文官任用令の改正を行った。この2つはいずれも、第2次山県内閣(1898/11~1900/10)において、政党勢力が軍や官界に侵入するのを防ぐために制定したものであったが、次のような改革により藩閥勢力を抑制し、政党の行動範囲拡大を図った。
陸海軍現役武官制は、第2次西園寺内閣が、辞任した陸相の代わりを陸軍が出さなかったために倒壊したように、内閣を牽制することができた。これを予後備役の大中将も陸海軍大臣になれるよう改正した。この改正後も陸海軍大臣が予後備役から選ばれることはなかったが、陸海軍が大臣を出さないために内閣が倒れることはなくなった。なお、1936(昭和11)年に現役制が復活している。
文官任用令は、各省次官など大臣の手足になるような高級官僚には所定の資格のある者だけしか任用できなかったものを大臣の裁量で選任できるよう改正した。
山本内閣が成立して1年になろうという頃、1914(大正3)年1月23日の新聞がロイター電として、ベルリン地方裁判所でシーメンス社の東京支店社員が恐喝罪で懲役2年の判決を受けたことを伝えた。その支店社員は、日本海軍の高官に贈賄したことを示す書類をもとに支店長を恐喝していたのである。野党である立憲同志会の議員はこの記事をとりあげ、山本首相と斎藤海相を追求した。海軍は査問委員会を設けて調査を進めた結果、海軍幹部2名が賄賂を受け取ったことが判明し軍法会議にかけられた。
この調査を進めるなかで、軍艦「金剛」の建造に絡んでイギリスのヴィッカース社から三井物産を仲介として収賄した事件も発覚し、海軍関係者と三井物産の重役も検挙された。
同年2月10日、ちょうど第3次桂内閣が倒れた1年後、野党は山本内閣弾劾決議案を提出、同じ日、日比谷公園では内閣を糾弾する国民大会が開かれ、集会後、数万の民衆が議会を取り囲んで、騒動は12日夜まで続いた。弾劾決議案は与党政友会の反対で否決されたが、貴族院は大正3年度予算案から駆逐艦などの建造費をけずったため、山本内閣は苦境に立たされ、3月24日退陣を余儀なくされた。
民本主義という言葉は、新聞記者の茅原崋山(かやはらかざん)が1912年から「萬朝報(よろずちょうほう)」という新聞で使い始めたのが最初だと言われている。民本主義者は茅原以外にもたくさんいるが、その代表的人物が吉野作造である。
吉野作造は大正デモクラシーを代表する人物で、1878年宮城県の商家の長男として生まれ、東京帝国大学を卒業して同大学助教授になった後、1910年から3年間の欧米留学を経て1913年7月に東大に復帰していた。吉野は1914年から普通選挙や議院内閣制に関する論文を発表しており、1916年1月の「中央公論」に発表した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という論文で民本主義を体系的に語っている。
吉野は、主権が天皇にある「大日本帝国憲法」を前提とし、政治の運用によって「人民のための、人民の意向を重視する」政治として民本主義を提唱した。吉野によれば、"デモクラシー”という言葉には2つの意味がある。一つは「国家の主権は法理上、人民にある」とするもので、これは「民主主義」と呼ばれる。もう一つは、(人民に主権はないが)政治の目的を人民の利益・幸福におき、政策は人民の意向によって決定するものとする、これが「民本主義」である、という。
{ 民本主義は、イギリスの議院内閣制・2大政党制を日本に導入せよと主張した福沢諭吉の論に、男子普通選挙の導入を付け加えたものであり、資本主義を前提にした西欧型社会民主主義そのものである。}(坂野潤治「日本政治"失敗"の研究」,P24-P29・P48<要約>)
吉野は、当時の日本社会には「封建時代に多年養われた思想と因習」が残存しており、その具体例として、枢密院や貴族院、藩閥や元老、「超然主義」に基づく内閣を指摘した上で、民本主義を実現するには、国民の政治選択の自由を担保する二大政党制への移行と、国民の平等な政治参加のための普通選挙を導入し、民意に基礎を置かない特権機関が議院や政党内閣の行動を妨害しないようにする改革を行うべきだ、と主張した。
吉野の民本主義は1920年頃をピークに衰退していき、かわってロシア革命などで脚光を浴びた社会主義に引き継がれていくことになる。
今井「大正デモクラシー」,P17-P22・P26-P27 成田「大正デモクラシー」,P20-P21 坂野「日本近代史」,P286-P288
{ 事の発端は、あくまでも陸軍の2個師団増設への固執にあった。そしてこの固執の遠因は…1907年の帝国国防方針にあり、その近因は1910年の韓国併合と翌年の中国での辛亥革命にあった。… 日本は露清両国の報復を恐れていたのではなく、両国の勢力圏や辺境地域への軍事的政治的な膨張をめざしていたと考えれば、帝国国防方針、韓国併合、清国辛亥革命に際しての満蒙独立構想、そして1915年の対中国21カ条要求までの日本陸軍の態度は、見事なまでに一貫している。}(坂野「日本近代史」,P286-P287)
成田「同上」,P21-P25 今井「同上」,P22-P25・P33-P46 坂野「日本近代史」,P288-P289 小林「桂太郎」,P285-P299
今井「同上」,P48-P50 成田「同上」,P24-P25 坂野「日本近代史」,P294
今井「同上」,P60-P64 成田「同上」,P2-P26 坂野「日本近代史」,P294-P298
成田「同上」,P27-P29 今井「同上」,P185-P187 坂野「日本近代史」,P300-P306・P321-P323 坂野「日本政治「失敗」の研究」,P51