日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.6 大正デモクラシー / 2.6.1 明治から大正へ

2.6 大正デモクラシー

大正デモクラシーとは、大正時代(1912ー1926年)を中心に展開した政党政治、民衆の政治参加や権利拡大を求める社会運動、自由・民主主義的な思想・文化の広がりを指す。その背景には、憲法に基づく議会政治(立憲制)の導入や教育の普及のほかに、農業主体の経済から商工業の発達によって都市に住む労働者層が増加したこともある。

一方で、軍部や上流層など自由主義的風潮に反発する勢力は、世界恐慌による経済危機などを背景に民主主義的活動を抑え込み、軍国主義体制への転換を推進していくことになる。

図表2.16 大正デモクラシーの時代

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2.6.1 明治から大正へ

日露戦争後の講和条約で賠償金が取れなかったことに反発した民衆による日比谷焼打事件をはじめとする一連の民衆運動は、政党勢力を伸長させた。一方、軍部はさらなる軍備拡張を目指して、満蒙権益の確実化や南方への進出を目指す「国防方針」を設定した。

(1) 桂園時代註261-1

桂園(けいえん)時代とは、陸軍・山県閥に属する桂太郎と立憲政友会総裁の西園寺公望の間で密約が成立し、政権を交互に担当した日露戦争後(1905年)から大正政変(1913年)に至る期間をいう。

1901年6月、第1次桂太郎内閣が山県閥直系として成立したが、桂は伊藤の貿易立国論を支持し、国防重視の山県とはやや距離を置いた。日露戦争が終盤を迎えると、政友会の事実上の指導者だった原敬は、講和後の国民運動が激化することを予想し、それに政友会が加担しないかわりに、政権へ参加することを桂首相に要求していた。また、日露戦争中の特別税などによって投票権を得るための納税額が引き下げられたため有権者が激増し、政党勢力の発言権も強化されていた。桂も講和条約締結を乗り切るために政友会の協力が必要なことは認識しており、1904年12月頃には桂と政友会の間に密約が成立した。

日露戦争の後処理が一段落した1906年1月、約束通り、桂は政友会に政権をゆずり、第1次西園寺内閣が成立した。こうして完成した桂園体制は、1913年初頭に大正政変によって第3次桂内閣が倒壊するまで続くことになる。この間、政友会が政権につけば桂が軍部や官僚層や貴族院を率いて閣外から協力する、反対に桂が政権を担当した時は、西園寺や原敬が政友会を率いて衆議院で桂内閣を支持することにより安定した政治体制が続くことになる。

(2) 日露戦後の国家経営註261-2

日露戦争後の日本をどう経営していくかには、いくつかの考え方があった。伊藤博文、井上馨や政党人たちは立憲国家の確立を目指し、対外的には領土拡張よりも貿易、国内ではインフラの充実を重視したが、山県有朋や彼の配下の軍閥、官僚閥は、政党政治の発展を嫌い、軍備拡張と大陸での利権確保・拡大を目指そうとした。ただ、陸軍内でも児玉源太郎や桂太郎、政治家の小村寿太郎などは、軍拡は抑制して中国本土などとの貿易振興に注力すべきだと考えていた。ここで立憲国家への道を選んでいたら、歴史は大きく変わっただろうが、日本は結局、軍拡・大陸国家※1化への道を選んだのである。

※1 大陸国家; 国土の全部または大部分が大陸にある国。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)

図表2.17 日露戦後の国家経営

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(3) 帝国国防方針

1907(明治40)年4月、陸軍と海軍は共同で、国家戦略・国防方針・軍備や兵力・作戦計画大綱などを定めた「帝国国防方針」を策定した。

※2 ここでいう「国防」は現代日本人がイメージするものとは異なる。{ 国策を実現していくために遭遇する国外からの妨害を排除するのが国防であり…(河辺虎四郎「国防並びに作戦計画論(1925年)を要約)(黒野「日本を滅ぼした国防方針」、P13)

経緯註261-3

ポーツマス講和会議が始まった1905(明治38)年8月、山県有朋は「戦後経営意見書」を桂内閣に提出し、日露戦後もロシア陸軍が復讐戦を仕掛けてくる可能性を指摘、戦時50個師団、平時25個師団の整備を求めた。1906年2月、参謀本部次長(同年4月に参謀総長)だった児玉源太郎は、日本の国力でこのような規模の兵力は過大であり、戦時40個師団、平時20個師団で対応できる、とした。

この二人の意見対立を憂慮した田中義一中佐は、1906年4月に「随感雑録」という長文の意見書をまとめ、日露戦後の国防方針の制定を提案した。山県は田中に国防方針案の作成を依頼し、田中は「随感雑録」を下敷きにして「帝国国防方針」を作成、同年8月31日に寺内陸相を経由して山県に提出した。提出前の同年7月、児玉は急逝していた。

山県は同年10月、田中の案を一部修正して天皇に上奏、天皇は山県の進言に基いて陸軍参謀本部と海軍軍令部に検討を命じた。1907(明治40)年1月29日に陸海軍間の協議が終了し、2月1日、天皇に奉答、天皇は首相西園寺公望に意見を求め、西園寺は過大な軍備に不満があったが黙認、4月4日、「明治40年国防方針」は裁可された。

この経緯をみればわかるように、「帝国国防方針」は軍備ありきで、その正当性を担保するために定められたものであった。

主な内容と課題註261-4

「明治40年帝国国防方針」の主な内容と課題を以下に示す。

①南北併進の遠大な構想

日清戦争後の日本政府が国是としていたのは、北守南進すなわち、朝鮮においてロシアとの勢力均衡を保つ(北守)一方、台湾を拠点として清国南部に利益権を扶植し、さらに南方諸島に発展していく、というものであった。日露戦争に勝利し、遼東半島の租借権などを入手すると、イギリスの利権と対立する南進よりも、足掛かりのできた満洲の利権を拡大しようという北進が注目されるようになり、政府は北進を推進した。日露戦争直後、陸軍首脳の多くは満洲経営に多くを期待していなかったが、南進の主体になる海軍が大規模な軍備を要求するのに対抗するため、陸軍は北進を推進することになる。陸海軍とも納得するためには、南北併進戦略をとるしかなかったのである。それは結果として、陸海軍ともに大規模な軍拡を求めることになった。

②政府の対外政策との齟齬

「帝国国防方針」は、政府の外交政策とは独立して陸軍と海軍のあいだで決められたが、翌年1908(明治41)年9月に政府は「対外政策方針」を閣議決定した。この外交方針は、平和の維持と国力発展を目的に、アメリカと清国を市場とする対外貿易の発達と、東亜方面(朝鮮・満洲・清国・シベリア・南洋)への移民促進を重視していた。政府の外交方針は、日英同盟を基軸とし、ロシア、フランスとの協商推進、アメリカについては対立する可能性を認識しつつ協調姿勢を示し、ドイツは敵対国と認識していた。この外交方針と帝国国防方針との間には、対象とする地域(外交方針:東亜全域、国防方針:東亜の一部)、日英同盟の扱い(外交方針:主軸、国防方針:一国防衛)、敵対国(外交方針:独のみ、国防方針:露・米・仏・独)、といった相違があったが、内閣と軍の間で調整されることはなかった。

③財政能力を超える軍拡

「帝国国防方針」において、陸軍は平時25個師団・戦時50個師団、海軍は八・八艦隊(戦艦8・装甲巡洋艦8)と定められたが、これは日露戦後の財政ひっ迫情況からみて実現不可能なものであった。これを見せられた首相の西園寺公望は、「国力と相俟って軍備整備の緩急を斟酌して欲しい」との奉答文を提出し、元帥府もそれを認めた。
陸軍が平時25個師団に向けて、2個師団増設の要求を出したのは1911年だったが、増設をめぐって紛糾し第2次西園寺内閣が倒れて、桂園体制が終焉するきっかけとなった。また海軍の八八艦隊が帝国議会で裁可されたのは13年後の1920(大正9)年であった。

その後の国防方針註261-5

帝国国防方針はこの後、3回更改されているが、いずれも{陸海軍の国防の主導権をめぐる対立が、両者の都合のいいように国家戦略を引っ張っていく現象}(黒野P237) を解消できないまま、あの戦争に突入していくのである。それは、{日本の国家指導組織に欠陥があったことを示すとともに、国家的見地に立って大局から判断できる指導者を養成するうえでの教育に失敗したことを意味する。}(黒野P238)

・1918(大正7)年; 第1次世界大戦(1914-18)の影響を受けて、米露中を主たる想定敵国とし、開戦初頭に決戦を追求する短期戦の思想に加えて、長期間の総力戦を戦い抜く思想が併存していた。

・1923(大正12)年; ワシントン条約(1922年)や軍部内での考え方の違いから、北進/南進といった具体的な国家戦略には全く触れずに、作戦構想の骨子が盛り込まれただけの内容になった。

・1936(昭和11)年; 日中戦争開戦(1937-)を前にして、陸軍と海軍の対立する中で、海軍主導のもとで策定され、国策は陸海軍の両論併記、軍備は対等、という玉虫色の結論となった。

(4) 市民運動の広がり註261-6

日露戦争の講和条約に反発して日比谷公園で起きた騒擾事件は、都市の中小商工業者や職人、人足、工員、店員などの市民が、新聞記者、弁護士などの知識階層と結びついて起きたもので、こうした市民運動が大正デモクラシーの発火点になった。日比谷事件以後も、借地人の権利保護の請願運動、日露戦争時に定められた塩専売税や通行税の廃止運動、ガス会社・電気会社など公益企業をめぐる運動、などが都市を中心に展開された。

(5) 大逆事件註261-7

市民運動の活発化とともに労働運動も活発化し、1907年には軍工廠、造船所、炭鉱などで60件の労働争議が発生している。労働者をつなぐ媒介となったのが社会主義者で、1906年1月に最初の社会主義政党である日本社会党が結成され、全国各地の社会主義者たちのネットワークが作られていった。

1910(明治43)年5月、長野県の社会主義者宮下太吉らが爆弾を製造したことなどが「明治天皇の暗殺」という容疑に仕立てあげられ、社会主義者が次々と逮捕された。裁判は大審院において12月10日から始まり、29日結審、翌年1月18日、幸徳秋水以下24名に死刑、他2名に懲役刑という判決が下された。死刑判決のうち12名は終身禁固刑に減刑されたが、残り12名はただちに死刑が執行された。事件に直接関係していたのは4人だけで、あとは司法官僚の平沼騏一郎らが作り上げたものではないかと言われている。この事件以降、社会主義は厳しい弾圧を受け、「冬の時代」を迎えることになる。

(6) 明治天皇崩御註261-8

1912(明治45)年7月20日、「官報」は号外で明治天皇の容体が悪化したことを告げた。以後、連日、新盤などを通じて天皇の容体が伝えられたが、7月29日午後10時40分、持病の糖尿病が悪化して亡くなった。満59歳だった。なお、公式には30日零時43分の逝去となっている。

明治天皇の「大喪の礼」は同年9月13~15日に行われたが、その初日の13日、元陸軍大将の乃木希典夫妻は殉死した。


2.6.1項の主要参考文献

2.6.1項の註釈

註261-1 桂内閣成立

今井「大正デモクラシー」,P28-P29 小林「桂太郎」,P140・P195-P197・P214 小林「近代日本と軍部」,P221-P222 坂野「日本近代史」,P274-P278

註261-2 日露戦後の国家経営

小林「桂太郎」,P212-215 黒野「日本を滅ぼした国防方針」,P22-P26

註261-3 帝国国防方針_経緯

黒野「同上」,P27-P29 平野「第1次西園寺内閣の国防政策」,P284-P289 北岡「日本陸軍と大陸政策」,P9

小林道彦氏は、第2次日英同盟の締結が帝国国防方針の制定に影響したという。

{ 1905年8月12日に締結された第2回日英同盟は、… 英露戦争が勃発した場合、日本は自動的に満州でロシア軍を攻撃することになり、同盟の適用範囲も極東から「東亜及び印度」にまで拡大された。…新たなレベルへの同盟深化は、… 国防方針(軍備計画)の調整を必然化する。その結果、策定されたのが、1907年「帝国国防方針」であった。}(小林「近代日本と軍部」,P278)

註261-4 帝国国防方針_主な内容と課題

黒野「同上」,P22-P45 小林「近代日本と軍部」,P188・P274-P281 北岡「同上」,P13-P17 坂野「同上」,P283-P287

{ 明治40(1907)年前後…極東では日本と英仏露が協商してアメリカと対立していく転換期にあり、日本が主として備える敵はアメリカで、ロシアは万が一に備える位置づけだった。そうすると軍備の優先は海軍となってしまうため、陸軍は、地政学的条件を重視し、国際情勢の変化とは関係なく、極東に大陸軍を投入できる唯一の国であるロシアと、大海軍を回航できるアメリカに備える、とする論理にした。ここには国防方針制定の実質的な第一の目的である軍備拡張の論拠という側面が強くにじみ出ていた…}(黒野「同上」,P35<要約>)

{ 日本は露清両国の報復を恐れていたのではなく、両国の勢力圏や辺境地域への軍事的政治的な膨張をめざしていたと考えれば、帝国国防方針、韓国併合、辛亥革命に際しての満蒙独立構想、そして1915年の対中国21カ条要求までの日本陸軍の態度は、見事なまでに一貫している。帝国国防方針における仮想敵とは、日本の対韓対満政策に抵抗するであろうロシアと清国であった…}(坂野「日本近代史」,P287<要約>)

註261-5 帝国国防方針_その後の国防方針

黒野「同上」,P69-P72・P111-P113・P172-P173・P237-P238

註261-6 市民運動の広がり

成田「大正デモクラシー」,P6-P15 坂野「日本近代史」,P272-P273・P281 今井「大正デモクラシー」,P12-P14

註261-7 大逆事件

成田「同上」,P15-17・P34-P35,小林「桂太郎」,P250,今井「同上」、P13

註261-8 明治天皇崩御

成田「同上」,P18-P19