併合条約が公布されてまもなく、1910年9月に「朝鮮総督府」が設置され、第2次大戦で日本が降伏するまで、総督府による統治が行われた。この間、抗日運動が継続する一方で、鉄道など社会インフラの整備、近代的土地管理制度の導入、商工業の振興、教育制度の刷新、などの近代化策も実施されたが、皇民化政策と呼ばれた朝鮮人の「日本人化」施策には強い反発が起きた。
図表2.15(再掲) 韓国併合
併合後にも大韓帝国が存続しているような印象を残す「韓国」は使用せず、「朝鮮」と呼ばれることになった。朝鮮は古い呼称で「朝日が鮮明な所」に由来すると言われている。また、首都漢城は京城(ソウル)に改名された。
1910年9月、韓国統監府にかわって朝鮮総督府が設置され、総督には統監だった寺内正毅陸軍大将が就任した。朝鮮の統治には、大日本帝国憲法は適用せず、天皇大権に直隷する総督によって治められ、朝鮮の施政は天皇の裁可さえ受ければ、本国の行政府や議会から独立して総督の意思だけで法の制定・改正を行うことができた。
朝鮮総督は陸海軍の大将から選任※1され、朝鮮における陸海両軍を指揮して防衛に当り、軍事警察を受け持つ憲兵が司法・行政警察をも担当する憲兵警察制度によって、総督には強い権限が与えられた。
※1 原敬内閣の1919年に朝鮮総督の武官制は廃止されたが、1929/8~1931/6に海軍大将 斎藤實が就任した以外はすべて陸軍大将が就任している。
3・1独立運動は、日本の植民地支配に対して独立を求める朝鮮人たちが1919年3月1日に決起し、5月頃まで続いた運動である。
1910年8月の併合後、朝鮮内では散発的な独立運動はあったが、朝鮮総督府が「武断政治」によって徹底的に弾圧したため、国内の運動は下火になっていた。1919年1月からパリ郊外ヴェルサイユで第1次世界大戦の講和会議が開催され、アメリカのウィルソン大統領は14カ条の平和原則※2を提示したが、そこに「民族自決」という原則があった。これに韓国や中国は大きな期待を寄せた。
独立運動の口火を切ったのは1919年2月8日、東京西神田で朝鮮人留学生約600名が集まって独立宣言書などを採択した集会だった。朝鮮では天道教※3やキリスト教の団体が独立運動を計画していたが、1月21日に高宗が急死し、その国葬が3月3日に行われることになったことが、運動の導火線に火を付けた。3月1日、ソウルのパゴダ公園に集まった数千名の群衆は、朝鮮の独立を宣言し、夜11時頃まで独立万歳を高唱しながら、ソウル市内をデモ行進した。
運動は地方にも波及し、出動した憲兵・警察などと衝突するケースも少なからず発生した。運動はしだいに過激化して、4月上旬には最高潮に達し、この間だけで死者170名、負傷者346名を出したが、その後は縮小していった。最終的には3月1日から5月末日までに1542回の集会に202万余名が参加し、死者7,509名、負傷者15,961名となっている※4。
3・1運動後、朝鮮総督はそれまでの「武断政治」を改め、暴力だけでなく懐柔も組み合わせた「文化政治」に転換した。なお、4月には上海に「大韓民国臨時政府」が設置され、初代大統領に李承晩が就任している。この臨時政府は、日本が第2次大戦に敗北し、植民地朝鮮が解放されるまで活動を続けることになる。
※2 ウィルソンの14カ条の平和原則は、1917年のロシア革命でレーニンが民族自決などを提唱した「平和に関する布告」に対抗したもので、秘密外交の禁止、軍縮、などと並んで民族自決があったが、対象として想定していたのは東欧諸国などであった。(拙サイト「ヨーロッパが歩んだ道」5.1.1項)
※3 天道教は、李朝末期の東学を継承した宗教。(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕)
※4 この数字は「韓国独立運動之血史」にあるもので、1919年4月に上海で結成された大韓民国臨時政府が、国内からの情報を収集して集計したものだが、日本の警察が集計した「朝鮮騒擾事件道別統計表」では、3月1日から4月11日までの騒擾回数786回、死者357名、負傷者802名となっている。(姜在彦「朝鮮近代史」、P197)
李朝のもとでは、近代的な土地所有制度は存在せず、農民は代々土地を耕作し、貴族や官僚が収穫の一定部分を徴収していたが、所有権をめぐる紛争が絶えなかった。総督府が1910年3月から1918年11月までかけて実施した土地調査事業は、土地の所有権を確定させることにより、地税を確保するとともに、所有権を保護することにあった。所有権を認めてもらうためには申告が必要だったが、文字も読めない多くの農民にとって申告や所有権の立証は極めて難しく、多くの農民が土地を失って、少数の朝鮮人や日本人の地主、または国有地に編入された。国有地となった土地の一部は、後述の東洋拓殖(株)はじめ日本の会社や移民に安く払い下げられた。土地を失った農民は小作農や流民に転落したり、沿海州など海外に移住するものも多かった。
1918年の統計によれば、全農家戸数の3.3%の地主が全耕地面積の50.4%を所有し、全農家戸数の37.6%が小作農、39.3%が自作兼小作農で、自作農はわずか19.6%であった。
現在、韓国で使われている地籍公簿はこの時の調査により作られたものである。
1920年代になると日本政府はコメの増産を目指して灌漑施設の改善や畑から水田への変更、コメの品種改良などに取り組み、その結果、米穀の生産は増加したが、日本人大地主の進出が進むとともに、米を中心とした単作型農業に切り替えられた結果として、米価暴落の影響を受けやすくなり、貧窮にあえぐ農家が増えた。
東洋拓殖(株)(=東拓)は、韓国の農業開拓と植民を目的に1908年8月、日韓両政府が出資して設立した国策会社である。このとき統監だった伊藤博文は出資者や役員に日韓両国の人を入れて、韓国人の自発的な協力を引き出そうとしたが、日本の案は韓国人の参加を限定的にするというもので、伊藤もこれを了承した。日本政府は8年間毎年30万円を補助し、韓国政府は資本金1000万円のうち300万円相当分を田畑によって現物出資することになった。
東拓は、民有地の買収を進めて朝鮮最大の地主となり、小作制大農場の経営のほか、金融・投資分野にも進出して、日本の植民地経営の中核会社となった。
朝鮮総督府は、1910年12月、会社令を公布して、会社設立に関する許可・停止などの権限を朝鮮総督に与えることを定め、これによって朝鮮人資本の成長を抑えながら、他方では日本資本の本格的植民地進出のため、鉄道、道路、港湾、通信網などの整備に努めた。
1920年代に入るとそれまでの「武断政治」から「文化政治」になり、会社設立は許可制から届出制にかわって、日本資本は工業部門にも本格的な進出を始めた。日本資本にとっての魅力は、低賃金だった日本本土以上に低廉な労働力だった。1920年代の工業は食料品工業と紡績工業の軽工業が中心で、この2つで工業生産高の74%を占めていたが、これらの工場の大半は日本人資本によるものであった。
1930年代に入ると日本の戦争需要に対応するため重化学工業が発展したが、原料から製品まで一貫して製造する工場は少なく、日本の工場に部品もしくは半製品を供給するような工場が多かったため、日本資本による支配力が強かった。また、技術の中枢は日本人技術者がおさえ、朝鮮人労働者は主として単純労働を担当した。
それでも、1920-30年代のGDPは年間平均4%ほど上昇し、人口も1910年の1312万人から1944年には2512万人まで2倍近くに増加している。
朝鮮の初等教育は、儒教と漢文を教える「郷校」が各地にあり、科挙を軸とする教育・官吏登用制度を支えていた。近代教育は甲申政変後の1885年から始まり、1895年には日本の小学校令にならって、小学校(官立・公立・私立)の設置が定められたが、義務教育ではなかった。大韓帝国内には5000を超える大小の民族系、宗教系の私立学校があり、統監府は1908年9月「私立学校令」を出して、その教育内容を統制しようとした。
併合後の1911年8月には教育令を出し、教育勅語を用いて「忠良なる国民」を育成するため日本語を「国語」として普及させる方針とし、大学は廃止した。総督府は官公立校を拡大し、私立学校に対する監督と介入を強化した。その結果、私立学校は1912年に1362校、1918年には778校にまで減少した。
1922年の新教育令において、修学年限を普通学校は4年から6年へ、高等普通学校は4年から5年に延長し、内地の小学校、中学校と同じにした。初等教育の義務化は行われず、1936年の就学率は私立校を含めても、25%(男子40%、女子10%)、日本統治時代末期でも男子76%、女子33%に過ぎなかった。朝鮮人の識字率は1910年に6%程度、1943年でも22%である。
3.1運動後、大学設置を求める運動が活発になり、総督府もこれに応じて1926年に京城帝国大学を開設した。
1931年の満州事変以来、日本は15年戦争とよばれる戦争の時代に入った。1937年から日中戦争が始まると、国民が一体となった戦争遂行体制の構築が始まり、朝鮮や台湾の植民地もそこに組み込まれていく。皇民化とは、植民地の人々に天皇の臣民となることを強いることであり、人的資源を労働力や兵力として戦争に動員する政策であった。皇民化政策は内鮮一体化政策とも呼ばれ、次のような施策が実行された。
・日本語教育の徹底; 1938年3月、教育令を改正して正式課目であった朝鮮語を随意科目にすることによって実質的に廃止し、国語(日本語)を強制した。
・天皇崇拝、神社参拝の強要; 各道の中心地には神社、各面(村)には神祠(ほこら)を作って参拝を義務付けた。また、「皇国臣民の誓詞」※5を制定して学校や集会で唱えさせた。
・創氏改名; 朝鮮における「姓」は儒教文化的男系一族の象徴であり、女性は結婚しても生家の「姓」をそのまま名乗っていたが、その「姓」とは別に「氏」を創設し、結婚した女性は嫁ぎ先の「家」の氏に変える日本の家族制度と同じにすることが目的だった。創氏改名は1940年2月から実施されたが、儒教色の強い朝鮮で姓を変えることは不孝の最たるものと考えられており、強い反発を示す人々がいる一方で、抵抗なく応じる人もいた。創氏改名は法的な強制ではなかったが、大々的なキャンペーンが展開され、約80%の人が新たに日本式の「氏」を設定した。届け出なかった残り20%の人たちは従来の朝鮮式の「姓」が「氏」として設定された。
・徴兵、勤労動員; 1938年4月から陸軍特別志願兵制度が導入され、1944年5月からは徴兵制に発展した。1939年7月には国家総動員法に基づいて国民徴用令が公布され、軍需工場などに労働力の動員が行われた。女子挺身隊の工場などへの動員もこのときに始まっている。
※5 「皇国臣民の誓詞(大人用)」は次のようなものである。
一 我等は皇国臣民なり 忠誠以て訓告に報ぜん
二 我等皇国臣民は 互に信愛協力し 以て団結を堅くせん
三 我等皇国臣民は 忍苦鍛錬力を養ひ 以て皇道を宣揚せん
第2次大戦後、1965年6月の「日韓基本条約」によって日韓両国の国交は正常化されたが、1990年代に噴出した慰安婦問題や2018年の元徴用工問題に関する韓国大法院の判決などで、ぎくしゃくした状態が続いている。その原因は日本人の朝鮮人蔑視を含めて様々あるようだが、韓国併合の正当性に関する認識の違いが大きく影響していると思われる。すなわち、韓国側は併合に関する協定や条約はすべて無効と主張するのに対し、日本側は「併合条約は韓国の独立宣言(1948年)のときから無効」としていることである。
韓国側は、大きく次の3点を論拠として、当時の国際法に照らし合せて無効、とするが、日本の法学者や歴史学者はこれらの指摘に対して賛否両論が存在する。
しかし、日本政府は1965年11月に佐藤栄作首相が、韓国併合条約は「対等の立場で、また自由意思でこの条約が締結された、かように思っております」(海野「韓国併合」,P223) と発言しているように、韓国側との認識は大きくずれたままである。
ただ、これまで見てきたように日韓議定書・第1次日韓協約(1904)から第3次日韓協約(1907)そして併合条約(1910)の調印に至る過程で、強制的な行為があったことは史実として確認されており、次のような海野福寿氏の見解を私は支持する。
{ 韓国併合は形式的適法性を有していた。つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である、という平凡な見解である。だが誤解しないでほしい。合法であることは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であることをいささかも意味しない。当時、帝国主義諸国は紛争解決手段としての戦争や他民族支配としての植民地支配を正当視していた。彼らの申し合わせの表現である国際法・国際慣習に照らして、適法であるというにすぎない。日本はその適法の糸をたぐって、国際的干渉を回避しながら韓国を侵略し、朝鮮民族を支配し、「朝鮮の人民の奴隷状態」(カイロ宣言)をつくりだしたのである。
私たちにとって考えるべき問題の本質は、併合にいたる過程の合法性如何ではなく、隣国にたいする日本と日本人の道義性の問題ではないか、と思う。}(海野「韓国併合」,P244-P245)
「当時は合法だった、よって法的責任はない」という主張はもはや通用しなくなっている、特に人道に関する問題については現代の価値観で判断すべきだろう。
歴史学研究会編「講座世界史5 強者の論理-帝国主義の時代」,P171 海野「韓国併合」,P217-P218 姜「朝鮮近代史」,P176-P177 Wikipedia「朝鮮総督府」
姜在彦「新訂 朝鮮近代史」,P188-P198・P202 成田「大正デモクラシー」,P139-P143 今井「大正デモクラシー」,P225-P232
姜在彦「同上」,P177・P208-P210 呉善花「韓国併合への道 完全版」,P227-P231 成田「同上」,P49-P50 今井「同上」,P226-P227
森「韓国併合」,P198 伊藤之雄「伊藤博文」,P595-P597 海野「同上」,P202-P203 姜在彦「同上」,P161-P163 呉善花「同上」,P228 成田「同上」,P50
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姜在彦「同上」,P263-P271 呉善花「同上」,P244-P249
{ 創氏改名は、日本風の氏をつくる「創氏」と、名前を変える「改名」に分けられ、創氏は強制、改名は任意であった。ただし、姓名が消されたり変更されたりしたわけではなく、戸籍には「氏名」と「本貫(ほんがん)・姓」の両方が記載されていたが、これ以降、「氏名」が朝鮮人の公的な名前となり、それまでの「姓名」は通称として扱われることとなった。 なお、ここでいう「氏」は、1947年(昭和22)までの明治民法下でいうところの「家制度」における「家」を表す名称である。朝鮮総督府による同化政策、皇国臣民化政策等の一環として、始祖との血統を重視する朝鮮の家族制度を日本の「家制度」に組替えようとしたのである。}(コトバンク〔日本大百科全書〕)
森「同上」,P219-P245 海野「同上」,P243-P245