遼東半島の先端にある旅順はロシア太平洋艦隊の母港であり、ロシアはここに極めて強固な要塞を築いて一大軍事拠点としていた。ここの攻略を担ったのが第3軍(司令官:乃木希典大将)である。目的は旅順要塞を制覇することと、来るべきバルチック艦隊に備えて、旅順港にいたロシア艦隊を撃滅することであった。6月に遼東半島に上陸した第3軍は、7月下旬から攻撃を開始し、3回にわたる総攻撃を経て翌1905年1月1日、ロシア軍を降伏させることに成功したが、参加した将兵約13万人に対して半数近い5万9千人が戦死傷するという、極めて大きな損害を出した戦いであった。
図表2.11(再掲) 日露戦争の主要な戦闘
乃木希典(まれすけ)大将率いる第3軍は、7月26日から旅順要塞の前衛陣地への攻撃を開始し、30日までに要塞全体を包囲することに成功したが、自然の地形を生かした堅固な陣地で防戦するロシア軍にてこずり、多数の死傷者を出すことになった。
これに先立つ7月12日、海軍の伊東軍令部長が大本営・陸軍部を訪ね、連合艦隊司令長官東郷平八郎からの電報を提示した。そこに書かれていた主旨は、「わが艦船は開戦以来の戦闘により艦艇の損傷が激しく、修理には1.5カ月ほどかかる。このままもし、バルチック艦隊が旅順の艦隊と合流すれば、きわめて危険な状態になる。ついては旅順をできるだけ早く攻略し、旅順艦隊を撃破して艦艇修理のための時間を稼ぐ必要がある」。大本営はこれを満州軍総司令部に通知し、満州軍も敵陸軍主力との決戦に第3軍を活用するため、旅順攻略を8月末までに終わらせることを決定した。
東郷長官が上記陸軍への要望を伝える際、海軍としても射程距離が長く破壊力もある海軍砲を備えた陸戦重砲隊を派遣したい旨を申し出ていた。
8月7日、第3軍が旅順要塞の攻囲に成功すると、陸戦重砲隊は旅順北方の夾子(きょうし)山南麓の歩兵陣地※1に砲列を設け、射程10キロ、口径12センチのカノン砲2門を据え付け、砲撃を開始した。着弾点は見えないから軍港の方向めがけてあてずっぽうに撃ち出す。それでも、7日、戦艦ツェゼザレウィッテに2発命中、9日に戦艦レトウィザンにも7発の至近弾で大破口がぱっくりあいた。
※1 Wikipedia「黄海海戦(日露戦争)」などでは、大孤山に設けた観測所で照準を制御した、とあるが、ここでは半藤一利氏の著書(原典は佐世保海軍勲功表彰会「日露海戦記」か?)によった。
海軍陸戦隊の攻撃に危機感を感じたウィトゲフト提督(マカロフ司令官戦死後の代理)は、危険を冒してでも艦隊をウラジオストクに回航することを決意し、8月10日早朝に出撃することを命じた。
日本の連合艦隊はこのロシア旅順艦隊の出撃を午前7時半頃に発見したが、ロシア艦の動きを見誤って取り逃がしてしまった。それでも連合艦隊は猛スピードでロシア艦隊を追いかけ、夕方から黄海沖で海戦となった。午後6時半頃、連合艦隊は旗艦三笠の艦橋付近に敵弾を受け、航海士ら11名が戦死、東郷長官や島村参謀長らも戦死者の血を浴びるほど近くだったが、運良く難を免れた。その直後、今度は日本側の砲弾がロシア艦隊の旗艦に命中し、指揮官ウィトゲフト少将と副官や艦長などが戦死し、参謀たちも重傷を負った。これによりロシア艦隊の指揮系統は完全に失われ、各艦はバラバラになって逃走するしかなかった。
翌日、旅順港に帰港できたのは、戦艦5隻、装甲巡洋艦1隻、駆逐艦3隻などだけで、残りは上海、サイゴン、膠州湾などに逃げ込んだり、逃走中に自沈を余儀なくされたりで、ウラジオストクにたどり着けた艦は1隻もなかった。間一髪、もし三笠への一弾がちょっとずれていたら、歴史は大きく変わったかもしれない。
8月12日早朝、ウラジオストクの巡洋艦3隻は、黄海海戦のことを知らずに旅順艦隊の出迎えのため日本海を南に向かっていたが、14日早朝、朝鮮半島南部の蔚山(うるさん)沖で待ち構えていた日本の上村艦隊と出会い、海戦となった。ロシア側の1隻は撃沈され、2隻は大破、ウラジオ艦隊はこれをもって事実上消滅した。なお、このとき、日本海軍はロシア兵626名を救助している。
8月19日から24日にかけて第3軍は旅順要塞に総攻撃をかけたが、強靭な要塞の前に多数の犠牲を払わされて敗退した。総攻撃開始にあたって、第3軍は明治天皇の指示により非戦闘員の退去をロシア軍に求めたが、ロシア軍は拒否している。
要塞は山や谷が重なる自然の地形を生かして作られている。ベトン(コンクリート)で固めた要塞の壁の厚さは1.3m、その前面は深さ3~5mの深い壕に囲まれ、鉄条網が張りめぐらされた防禦帯が幾重にもあり、ここを通らないと要塞本体には入れない。しかし、この壕に入ったら、まわりの銃眼から機関銃で掃射される。日本軍は第3軍司令部はもちろん、満州軍総司令部も大本営もこうした要塞の実情をまったく把握していなかった。
8月19日朝6時、攻城砲兵部隊による総砲撃が始まったが、「敵砲台の上で砂煙をあげるだけで、砲台は痛くもかゆくもない」状態だった。まもなく歩兵部隊の突撃が開始されたが、「敵の機関砲の猛火中におちいり、多大の損害受け」、一部の陣地を占領したのみで撃退されてしまった。砲弾は最初の2日間で使い尽くし、21,22日と惨烈きわまる夜襲を繰り返したが、24日夕刻、乃木司令官は攻撃中断を命じた。
参加した戦闘総員約50,700人、うち戦死5,039人、戦傷10,823人という大損害を出して総攻撃は大失敗をもって終った。当初計画では、ここで旅順要塞を落とした後、第3軍は遼陽会戦に参加する予定だったが、遼陽に向かうことは不可能になった。
図表2.13 旅順攻囲戦地図
出典) 谷「機密日露戦史」附図、及び半藤「日露戦争史2」,P171をもとに筆者作成
第1回総攻撃に失敗した第3軍は、「正攻戦法」すなわち工兵隊が坑道を掘り進めて敵陣にできるかぎり接近した上で一気に攻撃をしかける方法を採用することにし、その攻撃目標に旅順港を一望のもとに見渡せる203高地を加えた。一方、大本営は、要塞攻撃のために東京湾などに設置されていた巨砲28センチ榴弾砲を送ることを決め、ひとまず6門、最終的には18門を送った。巨砲は9月14日に第3軍に届き、設置工事を始めた。(10月1日試射)
第3軍はこの巨砲の設置を待たずに9月19日から攻撃を開始、20日には水師営堡塁などの拠点とともに203高地の一部を奪取したが、203高地は翌21日にロシア軍の猛反撃に会い、22日には放棄せざるをえなくなった。ロシア軍はこの戦闘で203高地の重要性を知り、その要塞化に全力を注ぐが、第3軍はその工事完成を待ってから攻撃を再開するという愚を犯すことになる。
10月26日から再開した総攻撃では、旅順要塞の東北正面の松樹山から東鶏冠山が対象となり、203高地ははずされた。大本営はこれを不満として、「203高地を攻略すべし」との電報を打ったが、第3軍は「同高地を占領しても旅順要塞は陥落せず、わが軍は要塞陥落に努力せんとす」と、返電した。
この攻撃は前回と同様、坑道を掘り進めてから突撃する方法だったが、加えて10月1日に試射した28センチ砲による砲撃を10月26日から開始した。この巨砲の威力はすさまじく、分厚いコンクリート壁や銃砲や資材、ロシア兵も吹き飛ばした…と見えたが、実は命中率は低く、不発弾も多かったので、結果として要塞の損害はさして大きくなかった。10月30日から歩兵の突撃が開始されたが、ロシア軍の抵抗は強力で前回同様の悪戦苦闘が続き、10月31日、一部の堡塁を攻略できただけで、作戦は中止された。
9月27日、海軍は203高地の北にあり、旅順港の大半が見える海鼠(なまこ)山(標高174m)上に巨大な望遠鏡を備えた望楼を設けた。そして翌28日から付近の陸戦重砲隊と28センチ巨砲が旅順港に碇泊していたロシア艦隊に向けて砲撃を始めた。海鼠山の望楼からの指示で着弾点を調整しながらの砲撃は10月18日まで続けられ、残存していた戦艦5隻すべてが複数の命中弾を受けて大破した。203高地からの攻撃の前に、ロシア艦隊は壊滅的な打撃を受けていたのである。
大本営海軍部は11月初頭、バルチック艦隊は翌年1月上旬には台湾海峡付近に達するであろう、と予想し、艦艇修理のため到着の2カ月前には旅順の海上封鎖を止めねばならない、とした。海軍陸戦隊による砲撃は十分な成果をあげていない、という報告を受けていた大本営は、海鼠山より眺望のきく203高地を早急に占拠しなければならない、と考えたが、満州軍側は旅順要塞本体の攻略に拘った。
そこで、大本営は11月14日御前会議を開いて、203高地攻略を最優先にすることを決めたが、それでも満州軍は「203高地を攻略しても観測点に利用できるだけで、山上に砲を備えて敵艦を撃破するには長大の月日を要せざるをえない…」、と要塞本体の攻略方針を変えなかった。なお。この一連のやり取りの中で、満州軍側が内地に唯一残っていた第7師団を第3軍に加えることを要求し、それが認められている。
203高地(2001年筆者撮影)
11月26日、第3軍は旅順要塞の東部で攻撃を開始した。午後になってもたらされる報告はすべて味方の不利を伝えるものばかり。攻撃正面への砲撃→白兵突撃→大反撃を受けて屍山血河というワン・パターンの繰り返しである。乃木は特別夜襲部隊を編成した。暗闇での敵味方識別のために白たすきをかけ、文字通りの白兵突撃を試みたが、探照灯を利用したロシア軍の集中攻撃を受けて大打撃を被って中止せざるを得なくなった。
11月27日午前10時、乃木は攻略先を203高地に変更する命令を発し、同日夜から攻撃が開始された。しかしロシア側も防備を固めており、どうにか高地の一角にたどりついてもすぐに奪回される、という状況が続いた。29日、たまりかねた満州軍の大山総司令官は、総参謀長の児玉源太郎を作戦指導者として派遣することを決めた。児玉は12月1日に乃木と面会し、乃木から指揮権を「借用」して参謀を集め、28センチ砲による砲撃などを指示した。12月2日、3日は要塞東部で戦死した日本軍兵士の収容作業が行われたため、2日間休戦となった。
12月4日戦闘再開、5日午前10時過ぎ山頂を確保、その後の敵の抵抗も排除して占領を確実にし、ここを観測所として午後2時からは28センチ巨砲が港内にいるロシア軍艦めがけて砲撃を開始した。このときまでにロシア軍艦は海軍陸戦隊の攻撃により相当な痛手を負っていたが、ダメを押すような攻撃により、8日までにほとんどの戦艦、巡洋艦が沈没又は大破した。残ったものは水雷艇が港内に突入して沈め、ロシア旅順艦隊は全滅した。
旅順要塞の存在意義は、旅順港とそこを母港とするロシア軍艦にあった。203高地陥落によりそれが失われると、日露両国国民に与えるシンボル的な意味だけが残ったが、ロシア将兵の士気は失われた。加えて、彼らは長期にわたる戦闘と食糧不足から疲弊していた。
日本軍は、東鶏冠山など旅順要塞の中心的存在である東部で攻勢をかけ、12月18日には東鶏冠山北堡塁、28日には二龍山堡塁を占拠した。要塞司令官ステッセルは、12月29日、幹部を集めて会議を開いたが戦闘継続と決まった。しかし、31日に松樹山堡塁が攻略されると、1905年1月1日、ステッセルはもはや勝敗は決したとみなして、日本軍に降伏を申し入れる使者を送った。
翌2日、日露両軍の全権代表が水師営で会談し、降伏文書の調印がなされた。なお、ロシア軍将兵は捕虜となったが、「日本軍の利益に反する行為をしないことを筆記宣誓する者は、ロシア本国への帰還を許可する」との条項があり、ステッセルを含めて将校441人、下士官兵229人が本国に送還されている。
旅順攻囲戦で日本軍は、後方部隊も含めて約13万人が参加し、戦死15,390人、戦傷43,914人、戦病約3万人、合計9万人弱で参加者の7割近くにもなった。ロシア軍側は、1904年2月の開戦以来の旅順攻防戦での人的損害が、戦死、戦傷、行方不明、病死を含めて34,000人以上としている。
以下は、第11師団大隊長として旅順攻囲戦に従軍した志岐守治中将(当時は少佐?)の感想である。
{…高等司令部が第一線部隊の突撃実施を或いは援助し、或は容易ならしめる何等の工夫をも廻らさなかったのである。203高地の攻撃に28珊榴弾砲を集中した以外に、3月を費した3回の総攻撃の実施に何等の手段を見なかった。唯第一線部隊の自力で一歩一歩敵と接近しただけで、したがって3回とも到る所同様に皆撃退されたのである。…}(谷「機密 日露戦史」、P243)
横手「日露戦争史」,P139-P140 半藤「日露戦争史2」,P96-P101・P120-P121
半藤「同上」,P124-P126
半藤「同上」,P126-P144 横手「同上」,P140-P141
横手「同上」,P1415
半藤「同上」,P168-P190 横手「同上」,P145-P147 谷「機密 日露戦史」,P204
半藤「同上」,P267-P272・P310 横手「同上」,P146-P147 谷「機密 日露戦史」,P205
半藤「同上」,P305-P327 横手「同上」,P148 谷「機密 日露戦史」,P204・P208-P210
半藤「同上」,P327-P330 半藤他「徹底検証 日清・日露戦争」,P162-P163
半藤「同上」,P334-P352 横手「同上」,P148-P149・P154-P155 谷「機密 日露戦史」,P214-P225
半藤「同上」,P353-P380 横手「同上」,P155-P156 谷「機密 日露戦史」,P227-P238
{ (乃木)将軍の2愛児は遂に親父大将の配下に名誉の戦死を遂げられた。即ち次児は南山に、又長児は203高地の攻撃に斃れたるものにして…}(谷「同上」、P227)
半藤「同上」,P389-P396 半藤「日露戦争史3」,P10-P14 横手「同上」,P157-P158 谷「機密 日露戦史」,P204
横手「同上」,P158-P159 原田「日清・日露戦争」,P211-P212