1904(明治37)年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告後、日本軍は仁川から京城に進攻するとともに、旅順港にいたロシア軍艦を砲撃した。この時点で日本軍の当面の目標は朝鮮半島と制海権の確保であった。陸軍の次の戦略は朝鮮半島を北上して遼陽を目指す第1軍と、遼東半島に上陸して同様に遼寧を目指す第2軍の2方向から攻めあがるというもので、海軍は旅順港のロシア太平洋艦隊を壊滅させることであった。
この項では旅順港閉塞作戦から、鴨緑江渡河、遼東半島上陸とそれに付随する得利寺の戦闘等から、遼陽会戦・沙河作戦までについて述べる。
図表2.11 日露戦争の主要な戦闘
開戦直後の2月8日、日本海軍は旅順港にいたロシアの艦隊を攻撃した(2.4.3項(3))が、大した打撃は与えられなかった。旅順港は出入口が狭く、大型艦が出入りできるところは幅90m強、水深10mほどしかない。ここに廃船を沈めて出入りできないようにしてしまおう、というのが閉塞作戦である。秋山真之参謀らが東郷長官に提案したが、長官は廃船を沈めた後の乗員の収容策が不十分、として賛同しなかった。第2次大戦時には「特攻」が行われたが、この当時はまだこうした人命重視の感覚が残っていたのである。
秋山参謀らは収容策を追加し、東郷長官も許可して、閉塞作戦が始まった。2月24日、3月27日、5月3日の3回行われ、全部で21隻を沈めようとしたが、湾岸からの激しい砲撃もあり、湾口付近に沈めることができたのは14隻、戦死/行方不明者は100名を超えたが、封鎖することはできなかった。なお、2回目の作戦時に広瀬武夫少佐(戦死後中佐)が行方不明になった部下を探す中で敵弾を受けて戦死、軍神として称えられた。
閉塞作戦と並行して軍艦からの砲撃や水雷や機雷などによる攻撃も行われ、4月13日旅順艦隊司令長官マカロフ中将が艦隊を率いて港外ヘ出撃してきたが、日本軍が設置した機雷にふれて爆沈、マカロフ長官をはじめとして乗組員600名が戦死している。
しかし、5月半ばには日本の戦艦「初瀬」と「八島」がロシア側が仕掛けた機雷に触れて沈没し、来るべき大海戦を控えて戦艦を2隻も失ったのは大きな打撃であった。
また、6月下旬と7月下旬には、ウラジオストクにあったロシアの小艦隊が日本の沿岸で貨物船を襲い、数隻を撃沈したが、2回とも海軍は迎撃することができなかった。6月下旬の攻撃では遼東半島へ向かう兵員輸送船が攻撃され、約2千人が犠牲になった。
大本営は2月29日、第1軍(黒木為楨(ためもと)司令官)を朝鮮北部(平壌の西)の鎮南浦に上陸させて朝鮮半島北部から南満州に向かわせ、第2軍(奥保鞏(やすかた)司令官)を遼東半島に上陸させることを決定した。
3月14日、第1軍の近衛師団と第2師団が鎮南浦に上陸、2月に仁川から上陸して京城にいた第12師団が陸路を北上してこれに合流した。第1軍は北の鴨緑江に向かって快調に進撃を続け、4月21日までに鴨緑江左岸(朝鮮側)の義州付近に達した。
4月30日攻撃開始、日本軍42.5千人、迎え撃つロシア軍は20千人と言われている。ロシア側の司令官ザスーリッチが受けた命令は「貴官は敵を阻止せよ。かつ退却に当たりては兵力を損せざるを要す」という両立しがたいものであった。こうしたロシア側の腰の引けた姿勢もあって、日本軍は翌5月1日には鴨緑江を渡河して近くの九連城に入った。ここまでの日本軍の死傷者約930、ロシア軍は約2,200と報告されている。
図表2.12 日露戦争関連地図
出典) 原田敬一「日清・日露戦争」,P211などをもとに筆者作成
遼東半島に第2軍を上陸させることは2月末に決まっていたが、海軍の旅順封鎖が失敗を繰り返していたこともあって、決行日と上陸場所がなかなか決まらなかった。陸・海軍の間で調整した結果、4月末に、5月5日上陸、場所は大連湾の塩大澳(えんだいおう)に決定した。
5月4日早朝、大輸送船団は鎮南浦より出撃、5日午前8時、ロシア兵が退散したあとの塩大澳に到着し、無事上陸した。
この時点でロシア陸軍の兵力は、遼陽周辺に3万人、営口から蓋平(遼東半島西の付け根)に2万3千人、旅順に3万人、鴨緑江に2万人という配置で、ウラジオストクの3万人を加えて、合計13万余だった。これに対して、日本軍は朝鮮半島には第1軍の3個師団(鴨緑江渡河作戦に参加したのは4万2500人)、塩大澳に上陸した第2軍は4個師団(1回目の輸送人員だけで4万8800人)、とトータルでは少ないが、双方が衝突した地点では圧倒的に大きな兵力を持っていた。
日本軍は5月26日夜明けから南山要塞への総攻撃を開始した。南山要塞は大連の北20kmほどの所にある堅固な要塞で、攻略にてこずり「肉弾攻撃」をくり返して4387人もの死傷者を出した上で、当日深夜陥落させた。なお、日本軍はこの戦いから何も学習しなかったが、ロシア軍はここで学んだことを次の旅順要塞攻防戦に活かし、再び日本軍を苦しめることになる。詳しくは註244-4を参照。
開戦後、ロシアは極東太守府の総督であるアレクセーエフを陸海を統括する総司令官、前陸相のクロパトキンを陸軍を統括する満洲軍司令官に任命していた。開戦以来の連戦連敗のニュースが世界に流れるのに業を煮やしたアレクセーエフはクロパトキンに遼東半島に上陸した日本軍を攻撃するように主張し、クロパトキンもやむなくこれに応じて4万人ほどの部隊に遼東半島を南下させた。
日本軍は約3.3万人の第2軍が遼東半島中部の得利寺に急造の陣地を作り、6月14日両軍は激突した。ロシア軍の士気は上がらず、消極的な防禦戦を行うだけで、翌15日、撤退していった。日本軍も情報収集や大規模部隊の指揮・監理に不慣れであり、様々な問題を残す戦闘であった。
{ クロパトキンの戦略は、潰走ではなく整然と退却しつつ、次の拠点で抗戦に出る。それを反復しながら日本軍に多大の出血を強要し、大陸の奥へ奥へと引っ張り込んでいく。日露の人的損害がほぼ同じならば、むしろロシアの勝利とみる。ロシアにはヨーロッパに大予備軍があるが、日本の予備兵力は小さく損害補充力は問題にならないからである。そして日本軍の兵站が延びきったところで、すなわち攻勢の限界点に達したところで一気に大軍による決戦に出て殲滅する。}(半藤「日露戦争史2」、P58)
確かに、日本海海戦でバルチック艦隊があれだけの完敗を喫することなく継戦能力を保持していたならば、クロパトキンのシナリオ通り、日本軍は資源不足で息切れしていた可能性は高かっただろう。
開戦後まもない3月から、参謀本部の児玉源太郎次長は大本営の機能のうち、指揮や作戦策定のみならず人事、経理、後方業務なども戦地に移して「陸軍大総督府」を設置し、そのトップに皇太子(のちの大正天皇)を据えることを検討するよう指示し、5月には大山巌参謀本部長がそれを天皇に上奏した。目的は「外征の諸軍が相呼応して活動するに際し、時機を誤らず作戦を計画し、共同一致の動作をなさしめる」ためである。
これができると、大本営に参加している陸軍省側の役割が大幅に減るため、桂首相や寺内陸相は反対した。この対立に直面して天皇は山県有朋元帥に設立の可否について下問し、山県は大本営と満州各派遣軍の間に児玉らの案より権限を大幅に縮小した「高等司令部」を置くことを回答、天皇はこの案を採用するよう命じた。
「高等司令部」はその後、「満州軍総司令部」に名称を改められ、6月20日に発足した。参謀総長だった大山元帥が総司令官、次長の児玉は6月10日に大将に昇進した上で満州軍総参謀長に任命され、7月15日満州軍総司令部が置かれた大連に入った。参謀総長の後任には山県有朋が就任した。
遼陽は南満州で道路・水路・鉄路が集合する交通の要所でロシア軍はここに防御陣地を築いており、日本軍とロシア軍はここで開戦以来初の総力戦を繰り広げた。
日本軍は5月末、旅順要塞の攻略を任務とする第3軍(司令官は乃木希典大将)を編成、遼陽攻略は、朝鮮から北上した第1軍と遼東半島に上陸した第2軍に加えて6月末に編制された第4軍の総勢13.5万人である。迎え撃つロシア軍は22.5万の大軍であった。註244-7
第1軍は、5月初旬に鴨緑江を越えて満州に入ったが、その先は険しい山道となるため、鳳凰城周辺で休養を兼ねて弾薬などの集積のため、1カ月ほど「滞陣」した後、6月下旬から進撃を再開、勇猛・果敢な戦いでロシア軍を圧倒し、7月下旬には遼陽の東側に到達した。
第2軍と第4軍は、5月初旬に大連付近に上陸後、遼東半島西側から北上したが、上述のように南山要塞や得利寺でロシア軍と戦い、その後もいくつかの戦闘を経て7月下旬に遼陽南部で第1軍と合流した。
遼陽への攻撃は第3軍が旅順を攻略後、遼陽に向って北進を始めるのを待って開始する予定だったが、旅順攻略に手間取ったため、第3軍の合流をあきらめ、8月25日深夜から26日黎明にかけて第1軍が遼陽北部の奉天との連絡路を遮断する攻撃を、第2軍と第4軍が南から支援するというかたちで開始された。この夜襲は成功し、ロシア軍は遼陽市内に撤退した。
勢いに乗る日本軍は28日以降、遼陽に対する総攻撃に入り、遼陽近郊の高地から市内に向けて砲撃を行い、第2軍と第4軍は南側から遼陽に迫ったが、ロシア軍の抵抗が激しく攻めあぐねた。30日深夜、第1軍は遼陽東部を流れる太子河を渡河、東側から遼陽市内に突入した。31日、クロパトキンは慌てて、南部にいた軍から大兵力を引き抜き、東部に移動させたがただでさえ疲れている将兵の労苦を倍増させ、士気は低下した。この移動により、第1軍が敵の大軍を受けることになったが、9月1日、後方にいた後備兵※1で構成された部隊が援軍にかけつけ、大軍を相手に奮戦した。
9月3日、クロパトキンは全軍に遼陽からの撤退命令を発した。日本軍は翌4日遼陽市内に入ったが、ロシア軍を追撃する余裕は残っていなかった。
遼陽の会戦は日露双方の軍に多大な犠牲をもたらした。死傷者は日本軍23,500余人、ロシア軍約20,000人(16,000人との説もある)。
日本軍の指導部の予測によれば、極東ロシア軍の兵力は8月末には日本式に数えて約20個師団に達するのに対し、同じ時点の日本軍の兵力は13個師団しかなかった。この不足を補うため、内地に待機する2個師団の活用のみならず、後備兵※1の服役年限の延長、追加の徴兵による人員増強、などが行われることになった。
※1 後備兵 徴兵検査合格後、全日勤務に服するが、これを「現役」と呼ぶ。所定の年限を経由した後、平時は勤務せず有事に召集される「予備役」となり、予備役を終えると「後備役」となる。この呼称は時期によって異なるが、内容はほぼ変わらない。徴兵令が施行された1873年は、現役3年→予備1年→後備3年だったが、1883年に現役3年→予備4年→後備5年、1905年に後備役を10年とし、1907年に現役勤務は2年在営+1年帰休となった。戦時などで召集されて服役する場合、後備役より予備役の方が召集の優先度が高く、後備兵は後方配置が多かったという。(コトバンク〔世界大百科事典〕、Yahoo AIなど)
問題は兵力だけでなく、武器や弾薬も不足し始めていた。軍指導部は内地の製弾工場の生産力増強や外国からの購入を行ったが、生産が消費に追いつかない状況はこれからも続くことになる。
奉天に戻ったクロパトキンはそれまでの受け身の姿勢から攻勢に転じた。その理由は、日本軍が敗走するロシア軍を追撃できず、補充も十分にできていないこと、満州軍総司令官だったアレキセーエフが解任され、代わりに自分が総司令官になることを知ったこと、などとみられている。
沙河(さ(しゃ)か)は、奉天と遼陽の間を流れる小さな河である。この河をはさんで、1904年10月上旬、日露両軍による大規模な戦闘が繰り広げられた。戦闘総員は日本軍約12万人、ロシア軍約22万である。
日本軍の方針が攻勢か防禦か不鮮明のまま、戦闘は10月8日夜10時ごろ、ロシア軍が日本軍の最右翼(東側)にいた第1軍の梅沢旅団を攻撃して始まった。ロシア軍はここを突き破って日本軍の背後に回ろうとしたのである。梅沢旅団は後備兵の旅団ではあるが、遼陽の開戦では包囲された第1軍の助っ人に駆け付けて奮戦している。今回も救援の部隊が12日に到着するまで持ち場を守り切り、これがこの会戦の日本軍勝利に大きく貢献した。
日本軍は9日夜になって攻勢に転ずることを決め、10日から各地で本格的な戦いが始まった。12日になるとロシア側の西部軍が後退し始め、14日になると東部軍も後退していったが、日本軍にはそれを追撃する余裕はなかった。クロパトキンは14日夜、「退却にあらず、戦線を縮小すべし」との命令を下し、15日から戦闘は下火になっていった。17日までに日本軍が沙河左岸(南側…日本軍側)近くまで進出した状態で、戦闘は収束した。
こうして沙河の会戦は終り、ロシア軍の攻勢を食い止めた日本軍の勝利ではあったが、追撃する兵力も弾薬もなく、ただ攻めてくる敵を跳ね返したというだけであった。この戦闘による戦死傷者※2は、日本軍20,497人、ロシア軍は40,769人であった。
※2 上記数字は、横手「日露戦争史」による。半藤「日露戦争史2」では、日本軍20,571人、ロシア軍35,478人となっている。
日本軍には将兵や弾薬の不足を充足するための時間が必要であり、翌年3月の雪解け後の奉天会戦まで約4か月間、陣地構築、補充兵の鍛錬などで過ごすしかなかった。
半藤「日露戦争史1」,P323-P342 半藤「日露戦争史2」,P61-P67・P105-P115 横手「日露戦争史」,P137-P139 山室「日露戦争の世紀」,P119
横手「同上」,P116・P120-P121 半藤「日露戦争史1」,P333、P364-P369 谷寿夫「機密 日露戦史」,P146-P148
横手「同上」,P116-P121 半藤「日露戦争史1」,P374-P3750
{ …4月末になってもロシア軍の用兵に変化は見られず、ウラジヴォストーク3万人、遼陽周辺に3万人、営口から蓋平*に2万3千人、旅順に3万人、鴨緑江に2万人という配置であった。 これに対して、日本軍は朝鮮半島には第1軍の3個師団…鴨緑江渡河作戦に参加したのは4万2500人、…塩大澳に上陸した第2軍は4個師団… 1回目の輸送人員だけで4万8800人を数えた…}(横手「同上」P120)
→ つまり日本軍が行動する範囲で兵力的には圧倒的に日本軍が有利だったのである。
*営口、蓋平はいずれも遼東半島西の付け根にある
半藤「日露戦争史2」,P37-P48 横手「同上」,P121 谷「同上」,P165
{ 突撃に次ぐ突撃をもってしても堅牢な要塞や陣地を抜くことは容易なことではない。巨砲の火力そして横なぎに斉射する機関銃の殺傷力のすさまじさがものを言う近代戦の実相も、骨身にしみて知ったはずである。しかし、わが日本陸軍はその戦訓を次の旅順要塞攻略戦に活かそうとはしなかった。… ロシア軍は違った。この1日で敗北した南山戦から重要な戦訓を引き出している。露天の砲兵陣地は簡単に敵砲火で潰される。この教訓を活かして旅順要塞を手直しして、無数の大砲を掩蓋の下に入れ、日本陸軍の主力たる15センチ臼砲や12センチ榴弾砲ぐらいではどうにもならぬほど、要塞を強化した。散兵壕を深く掘り、飛び散る榴弾の破片を防ぐべく、掩蓋も数多く設備する。日本軍はその事実に気づこうともしなかった。}(半藤「日露戦争史2」,P47)
横手「同上」,P121 半藤「日露戦争史2」,P58-P60 谷「同上」,P168-P180
谷「同上」,P181-P194 伊藤「山県有朋」,P345ーP347 半藤「日露戦争史2」,P33-P36・P55-P56
横手「同上」,P126-P131 半藤「日露戦争史2」,P201・P226 谷「同上」,P454-P464
横手「同上」,P127-P129 半藤「日露戦争史2」,P116-P118 谷「同上」,P454-P464
横手「同上」,P126-P131 半藤「日露戦争史2」,P201-P224 谷「同上」,P465-P481
ロシアの大軍を引き受けることになった第1軍司令官の黒木為楨(ためもと)大将は、
{ 故意に仮眠を装い特に処置する所なかりしを以て現状維持のことに決す。此報告を得て仮眠中なりし黒木大将の心事は、軍参謀長の其言を借りて云えば、次の如し
「一兵の予備なし。敵は3,4倍なり。砲弾もなし。もう軍司令官は眠るより外にすることは無いではないか」}(谷「同上」,P480)
横手「同上」,P131-P134 半藤「日露戦争史2」,P279-P295 谷「同上」,P491-P507
横手「同上」,P116・P120-P121 半藤「日露戦争史2」,P333,P364-P369 谷「同上」,P146-P148